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    帰る虹

    高2の夏、友永捷(ともながしょう)は幼馴染の鏑木(つみき)みりかを亡くした。一番近くに居て彼女の気持ちを分かっていると思っていた捷は、一言も悩みを相談してくれなかったことが悔しかった。彼女は悩みを漏らすどころか、ろくな遺書すら残さず投身自殺したのだ。一年経ってもまだ立ち直れない捷は彼女を忘れて前に進むために、みりかが身を投げたビルの屋上へと向かう。そこで思いがけず、彼女にそっくりな少女と出逢った……。
    キーワード : 高校生、投身自殺、片想い、甦り、中編、完結、R15

    第1話 高3の夏、高2の夏。

     まるで生きているかのような入道雲が、青い空を侵食している。
     夏なんて嫌いだ。
     もう二度と夏なんて来なくてよかったのに、時間というのは残酷に過ぎて、また季節を繰り返す。
     誰もいない教室でぼんやり空を眺めていた僕は、廊下から聞こえてくる足音に人の気配を感じた。
    「友永~」
     元気に僕を呼んだ声の主は、向居。活発で明るい女子。こいつがいると少しだけ救われる。
    「夏休みにごめんねー」
    「いーよ」
     彼女は僕が座っていた席の前の机を寄せて、そこに座った。そしてノートとペンケースを出してブツブツ言いながら考え出した。
    「1年の時は喫茶店で、2年の時は演劇で、3年目は映画かあ。ハードル高すぎだと思わない? 割り振りに悩むよお。助けてよ友永捷(ともながしょう)サマ」
     文化祭実行委員の向居が僕に助けを求める眼差しを向ける。
    「まあ。できるだけ手伝うけど」
     そう言うと、彼女は唇を尖らせた。
    「ええー、その低いモチベーション辛いー。去年の実行委員の意見が聞きたくて呼んだんだよ。もうちょっとちゃんと考えてよ!」
    「わかるけどさ。どうせみんな受験のことでいっぱいで、誰かが脚本書いて、誰かが演じて、誰かが撮って、誰かが編集するって思ってんだよ。かっこいいもの創ろうなんて無理だって。クレイアニメとか提案したバカがいるけど、全部そいつにさせればいいんだ」
     あまりにも捨て鉢な物言いをしたので、向居は溜息をついた。
    「わかったよ。とりあえず一人で考える。あんたはそこにいてくれたらいいから」
     彼女は目の前で、ノートに向かってペンを握ったまま考えていた。
     たまらないな、と思いながら僕はその様子を見ていた。
     去年と同じ構図。
     僕の前に座った、もう一人の文化祭実行委員、摘木(つみき)みりかも同じような姿勢でノートを広げていた。
    『ね、捷。喜劇って難しいけど、私挑戦してみたいんだよねー』
     そう言って笑った、僕の幼馴染。


     1年前のあの日も夏休みに教室で会う約束をした。
     三度目の、2人きりの実行委員会。
     やたら天気が良く、暑くてたまらない教室でずっと待っていたのに、いつまでたっても彼女は現れなかった。
     そしてその二日後、どしゃ降りの雨の中、通夜に参列する大勢の生徒たちは泣きじゃくっていた。当たり前だ。彼女はそんな素振りなんて微塵も見せなかったから。
     実行委員会があるとわかっている日に、どうして自殺なんてしたんだ。
     学校からすぐ近くにある雑居ビルの屋上から、みりかは飛び降りて亡くなった。委員会用のノートに、震える文字で、『ごめん』とだけ書いてあった。

     保育所時代からずっと一緒にいたせいで、僕もみりかも名前で呼び合うことに違和感がなかった。保育所で『摘木さん』『友永くん』なんて呼ぶわけない。特に親しくなくても、名前で呼ぶんだ。
     でも地元民ばかりじゃない高校に入ると、周囲からやけに親しげだと冷やかされた。僕もできるだけ名前は呼ばないで済ませるようにした。おまえとか、あんたとか、キミとか、ごまかしながらの1年と4か月。
     みりかはあまり気にすることもなく、僕のことを名前で呼んでいた。
     僕はいつか、また堂々と名前で呼び合えるようになりたいと思っていた。
     彼女のことが、ずっと好きだったから。

     どうして。
     その思いがずっと消えないまま、また夏を迎えた。
     亡くなる前、僕にはずっと笑顔だった。何も言わなかったのは、僕が相談するには値しない人間だったからかな。
     でもそれはご両親だって同じ思いを抱えているんだよ。僕なんかよりはるかに重い罪の意識を感じながら、この1年生きて来たんだろうと思う。罪だよ、みりか。何も言わずに行ってしまうのは、本当に酷いことだ。


     青い空が急に暗くなったと思うと。雨がザァーッという音と共に地面を叩き始めた。
    「あ、雨?」
     向居が席を立って、窓から外を覗いていた。
    「涼しくなるかなー?」
     そんな向居の言葉にも、僕は何も言わなかった。
     夏の雨は、今でもあの通夜の時の雨と同じにおいがする。

    第2話 吐き出した想い。

     向居に大したアドバイスもできないまま、教室から出た。
     雨は嘘のようにあがり、夕日が強い光を放っていた。昼に教室を出ていたら、虹が見れたかもしれない。
     足元の水たまりを見つめた。
     空は青く映っているのに、自分の顔や体は黒っぽく、色が無い。影になっているせいだが、自分の心の中が表れているようで気が滅入った。
     三度目の最後の委員会で、彼女に気持ちを伝えようと思っていた。伝えた結果がどうであってもかまわなかった。もう黙っているのが苦しかったんだ。
     それなのに、何も言わず、何も言わせてくれず、一人で行ってしまうなんてそんなのないよ。  僕は、実はもう限界だった。
     涙が出ない分、胸に何か重いものが溜まっていった。1年経ち、みんながみりかを忘れかけている今、この心にある水槽は割れてしまいそうだった。
     記憶がいつまでも鮮明で、もう会えないとは思えないから、際限なく待ち続ける。
     そんなこと、もう、これ以上耐えられないと思った。
     忘れなくちゃいけないの?
     僕はみりかが命を捨てた雑居ビルの階段を上っていた。


     カビかコケかよくわからないものが生えたような湿ったコンクリが敷き詰められた屋上。近くの高いビルのせいで日陰になっているのだ。ところどころ水たまりが残っている。
     みりかはどうしてこんな場所を選んだんだろう。
     彼女が亡くなって以来、初めてここへ来た。今まで来ることはできなかった。
     ここへ来れば、重い記憶を、重い罪を、何か違うものに変えられるかもしれない。それが何かはわからないけれど、漠然とこの場所に助けを求めた。
     いくら想っても、もうみりかは帰って来ないんだよ、と自分で感じたかったのだと思う。僕はこれからも生きていかなくちゃいけない、その現実から少しだけ逃げ、みりかに会いに行ってサヨナラと言って帰ろう。そう思っていた。
     でも、こんな殺風景な屋上に、何が残っているわけでもない。彼女が飛び降りたであろう場所にはしっかりとフェンスができていてもう同じ景色は見られない。
     僕はフェンスの前で腰を下ろし、両手で脚を抱えた。教師の話を体育館で聞いているように、ふ抜けた顔つきのまま風に耳をすました。
    「みりか」
     久しぶりに彼女の名を口にした。
    「戻って来いよ。じゃなきゃ、オレ、おまえのこと忘れるぞ、いいのか」
     忘れるなんて、無理なくせに。
    「でも、忘れなきゃ、もう苦しいんだよ」
     抱えた脚の間に顔を押し付け、涙が出そうになるのを必死でこらえた。
     忘れないでよ。
     そんなみりかの声が聞こえた気がした。
    「みりか……み……」
     僕は彼女の笑顔を脳裏に描き、「捷」と呼んでくれる姿を思い続けた。好きだった。大好きだった。せめて気持ちくらい伝えておけばよかった。彼女の悩みに近づけるくらいの距離にいたかった。
     そんな背中を丸めた僕の頭に、ふと触れる人がいた。
    「忘れないで」
     その人の声がした。
     みりかの声だ。
     そうか。会いに来てくれたのか。
     僕が顔を上げたら、きっと消えてしまうんだろうな。こうして君のことを感じている間だけ、慰めに来てくれたのかな。それとも、情けないと思って声をかけたのかな。
    「みりか……」
     抱えた脚の間に顔を押し付けたまま、大声で彼女の名を呼んだ。
     きっと、ずっとそうしたかったんだ。
    「好きだから。好きだからさ、お願いだよ、帰ってきて……」
     堰き止めていたものは、とうの昔に溢れ出して、僕を壊そうとしていた。言葉に出さないでいるより、言葉にした後の方が苦しかった。ただ、自分のかすれた声は足元のコンクリに吸い取られるだけだった。
    「もう、泣かないで」
     優しいみりかの声が、背中で響いた。
    「苦しめて、ごめんね、捷……」
    「ごめんねじゃない!」
     激しく顔を振った。謝ってほしくない。謝られても、苦しさは消えないんだぞ。
    「私も、苦しかったよ。捷に会えなくて……」
     いつの間にか肩が震えるほどに号泣していた僕は、その声に少しだけ救われた。たとえ、その声が、僕自身の作り出した幻でも、きっとどこかでみりかの精神と繋がっているんだと、信じたかった。
    「捷、顔上げて」
    「やだよ」
     消えないでほしいから。ずっとこのままでいたいんだ。みりかの声が聞こえるなら、ここで夜が来ても、朝が来ても、ずっと眠らずに聞いていたい。その顔を見る事はできなくてもいいから。
     風が僕の肩を抱くように、優しく撫でた。

    第3話 戻ってきた幼馴染。

     しばらくしてゆっくりと顔を上げた。
     もう、みりかの声は聞こえず、風の音だけになったからだ。
     涙を流して、大声で叫んで、少しだけ荷物を下ろすことができた。彼女はもういないんだという事実が、ようやく理解できたみたいだ。
     ぼんやりして目の前の低い空を見ていた。涙で汚れた顔をタオルで拭いたが、全身の脱力感でまだ歩き出せそうになかった。
     すると、座っている僕の前に回り込む人影があった。
     うちの高校の制服だ。チェックのスカートがひらりと風で揺れる。
     やばい、泣いてるとこ、見られた。
     僕はとっさに俯いた。
     その相手の足元だけが見える。紺のソックスと黒の靴、白く細い女子の脚。
     俯くこの頭を、その子はつんつんと指でつついた。
     なんだよ、人がマジ泣きしてんの見て面白かったのかよ。性格悪いなコイツ。どっか行け。
    「捷」
     みりかの声に似てる。まさか、さっきもコイツだったのか?
     そう思うと、僕は怒りがこみあげて来て、低い声で言った。
    「なにからかってくれてんだよ」
     顔をあげて、その子を睨んだ。
    「捷?」
     相手は心配そうな顔で僕を見た。
     咄嗟に立ち上がろうとしたのに、それが出来ずにそのまま尻もちをつくような形でまたコンクリに腰を打ち付けた。
    「み、みりか……」
    「よかった!」
     わけがわからないまま、みりかに似た人に僕は正面からギュッと抱きしめられた。
    「捷、どうしてずっと一緒にいたのに、私に気付いてくれなかったのー」
     今度はその子がわんわんと泣き出した。
     抱きしめられている感触も、肩や背中に落ちる涙の水分も、髪の香りも、体温も、確かに普通の女子だ。そうだ、みりかはこんな香りのシャンプーを使っていた。近くに行くと甘い花の香がしたのを覚えている。
     泣き続けるその子の髪をそっと撫でた。
    「みりかみたい」
     思わずつぶやいていた。
    「でも、みりかは死んだんだ。お願いだから、冗談はやめてほしい」
     塞がったはずの傷口が開くように、再び胸に痛みが走る。
     みりかとの違いがわからないほどそっくりなその子は、泣き止むとそっと僕から離れた。
    「捷、ちゃんと聞いてほしいの。私、捷にお願いがあるんだ」
     僕はその子をじっと見ていた。
     何のつもりでみりかのフリをしてるんだろう。どうして僕のことを捷って呼ぶんだろう。幻覚だろうか。それとも僕が何か事故にでもあって、みりかのいる世界へと来てしまったのかな。
    「あのね。私、自殺したんじゃないの」
    「え?」
    「事故なの」
     僕は何度か瞬きして、相手の顔を見た。
    「え、な、何言ってんの? 何の話? みりかのことは、警察も出て来て遺書もあって、ちゃんと自殺で片付いてんだよ。今更……」
     相手は首を横に振った。
    「私、自殺なんてしないよ。楽しかったもん。捷と文化祭実行委員になって、喜劇やるなんて張り切っててさ。それなのに、実行委員会の当日に自殺するわけないじゃん」
     僕はごくりと唾を呑み込んだ。
     なんでこの子、あの日の詳細知ってんの?
    「それに自殺する理由が無いもん。文化祭にワクワクしてた。告白するには絶好のチャンスでしょ?」
    「好きなヤツがいたの?」
     僕はいつのまにか、相手のことがみりかだとしか思えなくなっていた。
    「捷だよ。ずっと捷が好きだったんだよ。保育所のりす組の時から!」
     そんな。その顔でそんなこと言うなんて、酷いよ。
     自殺はしてないけど、事故だったって。でも結局死んでるだろう? なのにどうして目の前にいるんだよ。そんな、生きてるみりかの口調で、僕を好きだったなんて言うなよ。
    「捷、さっき、私のこと好きって言ってくれたよね。戻ってきてって行ってくれたよね」
    「みりかに言ったんだよ。でもそんなの無理だってわかってる……」
     相手は、視線を落として溜息をついた。でも気を取り直した様子で顔を上げた。
    「お願いきいてほしい。私のことをわかるのは、捷だけだから。捷にしかお願いできないの」
     僕はそう言われて考えていた。
     これは嘘か、罠か、妄想か、それとも霊か。
     どれでもいいや。僕は、もう一度みりかに会いたかった。彼女に戻ってきてほしかった。声だけでも聞いていたかった。だから、もう疑うよりこの状態が現実へと帰ってしまうまで、楽しんでもいいんじゃないか。
     結果的に、彼女をもっと忘れられなくなるかもしれないけれど。
    「お願いって、何?」
     訊くと、みりかは言った。
    「助けてあげて欲しい人がいるの」

    第4話 君の願いと僕の願い。

     僕たちが小さい頃家族と初詣に来ていた、近所の氏神様が目の前にあった。
    「うわ、久しぶりに来た」
     僕が言うと、隣にいたみりかは小首をかしげて微笑んだ。
    「毎年、初詣に来てないの?」
    「めんどくさくて、中学でやめた。神様とかいないし」
    「そっかー。誘っても来なかったもんね」
     いつも見ていたみりかのままだった。まるで昨日まで一緒にいたような気さえする。
    「でも、なんでここに用事があるの?」
     尋ねると、みりかはちがうちがうと笑って否定した。
    「ちょっと思い出して来たくなっちゃった。すこしだけ、ダメ?」
     ダメじゃないけど、そういうのは将来を願うことだろう。今のみりかに将来ってあるのか?
     彼女は慣れた手つきで手を洗い口を漱ぎ、僕より先に神殿に向かった。
     黙って彼女についてゆき大きな鈴のついた太い縄が降りる賽銭箱の前まで来た。
    「えっと、サイフ……」
     カバンの中を探している間、みりかは縄を揺らして鈴を鳴らしていた。二礼二拍手してから目を閉じて手を合わせ、何かお願いをしていた。
     綺麗な横顔に見惚れた。
     亡霊でもなければ、夢でもない。生きたみりかがここにいる気がする。
     彼女の拍手の音はちゃんと聞こえたし、掴んだ縄も揺れ、鈴も鳴った。本当に存在しているとしか思えない。
     僕は財布から200円出して賽銭箱に入れた。僕の分とみりかの分。100円なんかでお願いするようなことじゃないけど、もしもそこにいるなら、神様、きいてください。僕に……いや、ご両親にみりかを返してください。
     お願いが終わったみりかは、とても嬉しそうに僕の顔を見た。
    「じゃあ、行こう!」
    「みりか……」
     思わず訊いた。
    「何を真剣にお願いしてたの?」
     みりかは少し困った顔をして言った。
    「そういうのバラすと御利益無くなりそうじゃない?」
    「そうかな」
    「じゃあ、ヒントだけ。大好きな捷のこと、お願いしたの」
     彼女は照れたように笑いながら、さっと先を歩いて行った。
     僕のこと? 僕の何について?
     どうしてそんなに大好きとかサラッと言えるの。いまだに僕は言えない。面と向かって好きだなんて。
     言わなかったことをあれほど後悔したのに、いざとなると言葉が出ない。大切に想ってきた気持ちが軽く風に流れそうな気がして、怖かった。


     気づくと隣町にいた。
     見知らぬ公園の陰のベンチで寝ていた。
    「捷、起きてよ」
     僕は隣に座っていたみりかに肩を叩かれて、我に返ったように体を起こした。
    「あれ、オレ、寝てた??」
     僕は戸惑いながらみりかの顔を見た。
    「疲れたんだよ。ちょっと歩いたから」
     歩いた? 記憶は神社を出てから、飛んでいる。あれは夢? これは……夢? どこから何が夢で、何が現実?
    「さっき話した通り、お願いね」
     戸惑う僕のことなど置いてきぼりで、みりかは言う。僕はなんとなく頷いた。話をした覚えはないのだが、なぜか僕がすべきことは理解できていた。
     彼女は公園の向いのレストランとコンビニの間の狭い路地を指さした。
    「ほら、あの子たち」
     みりかが指さす場所に、2人の男子がいた。彼らは中学1年生なんだと彼女が教えてくれた。
     立ち上がり、2人のいる場所へと歩き出す。
     そこは、薄暗く、嫌な臭いがした。ゴミが散乱し、虫やネズミがいる不衛生な場所だった。
     2人の少年は、そこでしゃがんでいる。彼らの周りには数匹の猫がいた。
    「なあ」
     僕が声をかけると、2人は反射的に立ち上がり警戒するように数歩下がった。
     猫たちが驚いて逃げていく。
    「君たち、ここで猫にエサやってんの?」
     彼らはわずかに首を横に振った。
    「いや、そんな怖がんないでよ。別に怒りに来たわけじゃないし」
     それでも彼らは僕から目をそらさずにじっと身構えている。
    「実はオレんちで飼ってた猫がいなくなって、探してるんだ。君たちが知ってたらなって思っただけ。ごめんね」
     すると、背の高い方の少年がおずおずとした態度で尋ねてきた。

    第5話 少年の告白。

    「えっとね、キジネコ。オスで、青いリボンがついてるんだけど」
     2人の少年は顔を見合わせていた。
    「見かけないよな」
    「うん。キジはいっぱいいるけど……リボンとれたのかも」
     僕は2人の足元に置かれた煮干しのようなものやミルクを見ながら言った。
    「君たち、優しいね。そうやって毎日エサをあげてるの?」
    「怒られるから、毎日は来れない」
    「そうか」
     僕は頷いた。
    「オレの友達もね、猫が好きで。こっそり高校の近くのビルの陰で飼ってたんだよ」
    「そう、ですか」
     2人の表情が急に硬くなったのが分かった。
    「その子さ、どういうわけかそのビルの屋上から落ちて……多分猫と遊んでたのかな……それで……」
     話していると2人はギラギラと光る眼で僕を睨みつけてきた。
    「それでね、記憶失くしちゃったみたいで。今はもう引っ越して遠くに行っちゃったけどね。あいつもホント、猫好きだったなあ……」
     少年はしばらく黙っていたが、警戒しながらもやっと口を開いた。
    「あの……、その人、ビルから落ちて無事だったんですか?」
    「うん。あ、そうだ、新聞とかには自殺とかって出ちゃって、みんなびっくりしたんだけど、全然元気だったよ。体もどこも悪くなかったし、ちょっと記憶があやふやなとこはあるみたいだったけど、普通の生活してる」
     2人はまた黙って顔を見合わせていた。
    「なんで落ちたのか、わからないんですか?」
    「うん、本人も全然覚えてないって」
     僕が言うと、2人の目線が交錯し、少しだけ安堵の色が窺えた。
    「その人に……会いたいな」
     一人が言うと、もう一人が体を叩いた。
    「バカ、何言ってんだよ」
    「だってさ……」
     重苦しい空気が流れ、僕は言った。
    「彼女はもう遠くに行っていないから、話したいことがあったらオレでよければ聞くよ。絶対に誰にも話さないし」
    「マジで絶対話しませんか?」
     会いたいと言った方の少年が思わず訊き返す。
    「だから、おまえ、そういうこと言うなって!」
    「大丈夫だよ。誰にも言わないから。あのね……君たちまだ中学生くらいだろ? もう少したてばわかるかもしれないけど、言わなくちゃいけない時に言わないでいると、後できっと後悔するよ。オレはいっぱい後悔してる。責められたりバカにされたりするのが怖くて、何も言えなかった。でも、その時言ってしまった方が、一生悔やむよりずっとマシだったって思うよ」
    「一生……?」
    「そうだよ。忘れられることと、忘れられないことがあるだろ? 人間の頭は忘れたくても簡単に上書きできないんだよ。しっかりと記憶に目印がついてて、ふとした時に蘇ってくる。思い出したくないのに、勝手にね」
     僕は必死になって彼らに訴えた。
     どうか、その事を口にしてほしい。
     君たちが強く自分を責めることを、みりかは望んでないんだ……。
    「あなたは誰ですか」
     警戒を解きかけたかのように見えたが、彼らはまだ真相には触れようとしなかった。
    「あの人の……摘木さんの、家族とか……」
    「違うよ。ただの友達だって言ったろ」
     そう、君たちの知ってる鏑木みりかのあの事件について、全部話してくれ。もう一押しかな。
     原付免許を出して見せた。そんなことくらいしか自分を信じてもらう方法を思い付かなかったからだ。
     2人は黙り込んだ。
     もう視線すら合わせようとしなかった。
    「オレたち、……あの時、あの人の猫とは知らずに、ビルから落とそうと思ったんだ」
     一人が口を開いた。
    「うん」
     僕は小さく頷いた。
    「猫ってどんな高さから落ちても平気だって言うから、試してみたくて。野良猫だと思ったから、いいかなって……」
    「そか」
    「そしたら、摘木さんがちょうど見かけたらしくて、屋上までやってきたんだ。カバンを放り投げて、やめてって叫んで。オレたちびっくりして、すぐ手を引っ込めたんだけど、猫をめがけて来たあの人は走ってきたまま、止まれなくて……落ち……」
     少年は、それ以上言えずに俯いた。
    「そうなんだ……。ノートにごめんって書いたのは、……君たちなんだね」
     2人は泣きながら頷いた。
    「下を覗いたら倒れている鏑木さんと血が見えた。コイツがカバンとカバンから飛び出したノートを持ってて、迷ってた。……警察かな? 救急車かな? オレたちのせいなんだろって。すぐに下に人が集まってきてるのがわかって、オレたちやっぱり怖くて、ごめんって書いて、ビルの裏の階段から逃げたんだ」
     僕は思わず目を閉じて、それからにこやかに言ってみせた。
    「大丈夫だよ。あいつ、ピンピンしてるから。落ちても大丈夫だったなんて、あいつも猫の生まれ変わりだったんじゃない? きっと君たちがそれから心を入れ替えて猫を大切にしてると知ったら、喜ぶと思うよ」
     2人は、涙を隠そうともせずにこちらを見た。
    「君たち、自分のせいだって苦しんだんだろ? じゃあ、もう苦しまなくていいから。反省したんなら、これからは誰かを不幸にしないようにしっかり考えて行動するコト。オレが偉そうに言うことじゃないけどさ」
     ずっと顔が強張っているのは自分でもわかっていた。でもここはなんとか笑顔を見せるしかなかった。
     少年たちは、そこでやっと「はい」と頷いた。
     少しだけ安らいだ、解放されたような微笑みが浮かんでいたように見えたのは、僕の都合のいい解釈かな。

    第6話 戻っていった彼女。

     僕は少年たちのいた場所を後にし、みりかが待っているベンチへと戻った。
     彼女は本当にうれしそうに僕を迎えてくれた。そして、どこから見ていたのか、さっきの大嘘を褒めてくれた。
    「バッチリだよ、捷! さすが小学校の時から主役張ってただけあるよね。この、演技派俳優!」  みりかに褒められ、照れながら笑う。
     そうだな、僕はいつだってみりかに褒められていた。どんなことでも「すごいね」って、彼女だけが僕を見て拍手してくれていた。
     僕は彼女に何かしてあげられたかな。
     思っていても何も言えず、与えてもらった分は返せず、伝えたいことが溜まっていって、結局後悔に変わった。
     じっとみりかを見つめた。
    「みりか」
     彼女は微笑んで僕の視線を受け止めていた。
    「オレ、みりかが誰よりも大切で、誰よりも味方になりたくて、溜めてた言葉が山ほどあって、……苦しかったよ」
    「捷……」
    「あの子たちは嘘に救われたかもしれないけど、真実を知ってるオレはどうしたら救われるの? オレも、全部言えば楽になれるの?」
     みりかは悲しそうな顔になり、こちらから目を逸らし前を向いた。
    「こっち向いて、みりか」
     僕は彼女の肩を掴んで、無理やり自分の方を向かせた。
    「告白する勇気がなかったけど、オレだって小さい時からずっとみりかのことばかり考えて毎日過ごしてた。そんなに大きなものを失くした時の気持ち、わかる?」
     この悲痛な訴えに、彼女はただ苦しそうな表情で僕を見つめるだけだった。
    「好きなんだよ。好きなんだ。だから、いつまでもこのまま、オレと一緒にいてよ。だめなら、みりかの行く場所について行かせてくれよ」
    「そんなの無理だよ……」
     どうして無理なんだ。今日はこうして会いに来てくれたのに。
     ああそう言えば、明日は彼女の命日だ。だから、会いに来てくれたの?
     また近々、強い雨が降るのかな。

     帰り道、みりかがそっとこの手を取り、僕らは恋人たちがするように手をつないで歩いた。
    「私、捷と手つなぎできてうれしいな。まさか死んでから夢がかなうとは。驚きだ」
     お互いの気持ちはわかっていても、恋人にはなれない。
     いつか、何時間先か、何分先か、何秒先か、永遠に別れるんだろうから。
     彼女が消えてしまう時が来るまで、ずっと一緒にいたいと思っていた。でも、それは彼女が許さなかった。
    「消えるとこ見せるなんて、裸見られるより恥ずかしい」
     そんなわけのわからないことを、彼女は笑って呟いた。

     僕の家と彼女の家とに分かれる道で、僕らは立ち止まった。
    「私、家に帰って、お父さんとお母さんの顔見てくる。捷とはここでお別れだね」
    「家の前まで行かせてよ。中には入らないから」
    「もう、男のクセに往生際が悪い。捷の悪いとこ、そこだよ?」
     みりかに叱られて、思わず溜息をついた。
     彼女は満足して帰ってゆくんだろうな。
     自殺ではなかったと伝えることができた。これから先ずっと後悔し続ける少年たちの人生を救えた。
     君はそのために来ただけなのか。
     僕に会いに来てくれたわけじゃなかったのか。
    「私ね」
     彼女は自分の家の方を向いて言った。僕には彼女の背中しか見えない。
    「神様に、捷とまた会わせてくださいってお願いしたよ。いつか、会えるかな」
     みりかは軽い足取りで家に向かって歩いて行った。一緒にいた時、その後ろ姿は何度も見た。見慣れた姿だったのに、もう二度と見られないと思うと、とても愛おしかった。


     そして、彼女のいない日常がまた戻ってきた。もう、みりかのことをなんとかうまく消化してゆく努力をするしかない。
     好きだと言えたし、恨みごとだって言ってやった。彼女は満足して帰ったのだから、もっとカッコよくしてればよかったかなと思うけれど、でも会えただけ良かったと思っている。
     大学生になった今年もまた夏はやってきて、強い日差しと青と白のコントラストが目に痛い。
     でももう夏が嫌いだとは思わなくなった。
     3回目の命日を迎え、僕は去年見た夢をゆっくりと思い出していた。それにしてもそんな夢、自分に都合よすぎて笑ってしまう。
     僕はそんな夢を見させてくれた神様にお礼を言うべきだなと思い、彼女と夢の中で行った氏神様へお参りに行った。
     あまり作法には詳しくない僕は、彼女がしていたことを思い出し、手を洗い、口を漱ぎ、そして鈴を鳴らして、二礼二拍手、手を合わせた。
    ≪神様、今まで信じなくてごめんなさい。お礼を言いに来ました。彼女との楽しい時間をどうもありがとうございました。あれは夢だったんですよね?≫
     答えがあるはずのない問いかけを残して、そっと目を開けた。
     すると、遠くから神主が不思議そうに僕を見ていた。よくわからないまま、視線が合ったので頭を下げた。
     すると神主はこちらに近付いてくると、笑顔で言った。
    「あなたは去年もこの時期にいらっしゃいましたね」

    第7話 雨と虹と君と。

    「あ、はい。よく覚えてらっしゃいますね」
     神主は僕の不思議そうな言葉にも、変わらず微笑んでいた。
    「確か、あの時は同じくらいの年の女性と一緒でしたねえ」
     そう言われて僕はハッとした。去年、僕がここに参拝に来たということは、あれは夢ではなかったのか。しかもみりかの姿をこの人は見ている。夢なんだと信じていたけど、僕以外の人にも彼女の姿が見えていたってことは……。どういうこと? あれが夢でないなら、霊か、僕の妄想のはず。
    「彼女は亡くなりました。もし彼女に会えるなら、また会いたいです」
     訳が分からなくなって、神主との会話を無理矢理終わらせようとして頭を下げかけた。
     年配の神主は、普通の世間話でもするように言った。
    「そうでしたね。彼女のお通夜には、ああ、……雨が降っていましたね」
    「え、彼女のこと、知ってたんですか?」
     亡くなったことを知ってるということは、待ってくれよ、この人『霊が見える』とかなのか?
    「ええ、存じ上げていますよ。生前何度も参拝に来てくださいましたから。……彼女の願いは届くんじゃないでしょうかね」
     願い……。
     僕は鼓動が高まるのを感じた。
     あの時、みりかは言った。
    『捷とまた会わせてくださいってお願いした』
     もしかするとまた会えるのかな。……まさかな。神主さんは、みりかの信心深さを褒めただけだよな。
    「この街の虹は、人が渡ってくるんですよ。帰るための橋とでも言ったほうがいいでしょうか」
    「え?」
     神主は微笑んでいた。
     そう言えばみりかが現れた日、確か雨が振った。昼過ぎに降ったので、やんだ後には虹が出ていた可能性がある。僕は雨がやんですぐ教室を出たわけではなかったから、虹を見ることはなかったけれど。
     別れ際、神主はこう言い残した。
    「神様がおっしゃってました。もしも会いたいのなら、雨を降らせてごらんと」
    「あ……」
     もしも、会いたいのなら?  この人は、知っているのか。
     近所だから、あの事件のことは知っていて当たり前か。いや、それなら、なんでそんな非常識な慰めを口にするんだろう。

     雨を降らせる?

     それは何かのたとえ?

     わからない。本気に取っていいの? どうすれば……いい?


     アニメの主人公なら天気くらい簡単に操作できるんだろうけれど、僕にできるわけがない。
     部屋で寝転がっては考え、検索しては情けなくなり、そのうちまともに考えるのが馬鹿らしくなってきた。
     雨の日を待ってみよう。
     しかし、数日後、真昼に雨が降ったのにもかかわらず、何の変化もなかった。
     虹も見れなかった。ただ神主は虹を作れと言ったわけではなく、雨を降らせろと言っただけだ。
     みりかは知っているんだろうか。
     どうすれば、僕は君に会えるのか。
     雨を降らすなんて、どうすればいいのか。教えてくれよ。
     いつしか、彼女に会うことが現実になると、強く信じ始めていた。

     ベッドに横たわり、目を閉じた。
     眠れない。眠れないままあの日彼女が虹を歩いてやってきたという画を想像した。
     僕が雨を降らせることができたなら、彼女は帰ってくる。僕が降らせなきゃ、きっと意味が無いんだ。

     雨、雨か。
     雨と言えば、彼女の通夜を思い出さずにいられない。
     彼女が亡くなる前まで数日晴天が続いていたから、通夜の夜にだけあんなに酷い雨が降ったことが強く記憶に残った。みりかが泣いているのかなと思ったからだ。

     みりかは委員会のために学校へやってくる途中で事故に巻き込まれた。
     どちらかというと、自分から飛び込んでいったと言った方が正しいのかな。猫のために死んでしまうなんて彼女らしいけど悔しい。あの時もし雨でも降っていたら、彼女は、そして少年たちは、猫に関わらずにいたと思う。
     どしゃ降りの雨は、小学生だった少年たちがイタズラ心を起こす前に、彼らを家に帰していただろう。
     みりかは、猫にエサをやってすぐ教室に来ただろう。もしくは、雨だから委員会を延期していたかもしれない。
     僕は頭の中であの日の記憶を雨で塗り替えた。
     あの時もしも雨が降っていたら、彼女は今頃……。


     ふと目を開けると、僕はあの氏神様の境内でぼんやりと立っていた。
     雨が降った後の草と土の匂いが辺りを覆っていた。
     僕は自分が高校の制服を着ていることに驚いていた。階段の下から、閉じた傘を振りながらうちの高校の女子が走ってくる。
    「捷ー」
     叫びながら、階段を駆け上がってくる。
    「みりか……」
    「探したよー!」
     彼女は僕の目の前にやってきて、僕に飛びついた。
    「会えたね! どこにいるのかと思ったよ」
     僕は狐につままれたというのは、このことかと言わんばかりにぼけっとした顔でみりかを、高校生のみりかを眺めていた。
    「みりか、おまえ、どこから……」
     みりかは目をパチパチさせて笑った。
    「ねえ、見てよ捷。ほら、虹が出てる!」
     真っ青な空には大きな虹がかかっていた。
     みりかは帰ってきたのか?

     その時、境内のどこにいたのか、神主がやってきてニコニコしながら言った。
    「今日はいい虹がでてますねえ。あなた、雨を降らせることができたんですねえ」
     僕はまだ呆然としていて、神主の温かい目から視線を逸らした。
     見るとみりかはまた神様に手を合わせていた。
     戻ってきたみりかに僕は「何をお願いしたの」と訊いてみた。
     彼女は笑って言った。
    「最初に神様にお礼を言ったの。それとお願いは、バラすと御利益無くなりそうじゃない?」
    「あ、そうかな……」
     その後の言葉も想像がつく。
    「じゃあ、ヒントだけ。大好きな人のこと、お願いしたの」
    「大好きな……人?」
    「ふふ。ナイショだもん」

     僕は、それが誰か知ってるよ。



    帰る虹
    全7話 終  (修正・改稿:2017年11月7日)

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