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    迷宮プリンセス

    恋も知らないお嬢様と負けず嫌い男子の、ちょっとコミカルなすれ違いラブストーリ―。
    同期入社の吹田佳波(すいたかなみ)と江坂蹴(えさかしゅう)。佳波は、蹴が辛抱強く誘い続けても、気持ちに気付いてくれない、恋愛初級者のお嬢様。社長令嬢なのだけれど、高飛車な所は無く、どちらかと言えば自信の無い劣等意識の強い女子社員。蹴はそんな佳波が気になって、なんとか振り向かせたいと思うのだけど……。
    キーワード : 20代、職場、お嬢様、世間知らず、純情、変化、完結、R15

    第1話 お嬢様は劣等生

     朝日を浴びて銀色に輝くこの大きな建物に、吹田佳波(すいたかなみ)が形ばかりの面接を受けに来たのは二年と少し前のこと。
     彼女の父がこの会社の社長と面識があるという、完全なる”コネ”入社だ。

     ここは、大手の家具メーカー”KOTORIE”本社。
     佳波は冷たい12月の風に吹かれて、自分が今から出社する建物を見上げ、大きなため息をついた。
    「神様、どうか、今日はミスしませんように……」
     大したスキルも競争心もない彼女は、毎日が失敗の連続だった。


     彼女の父は”老舗和菓子屋しらいし”の現社長で、彼女自身は社長令嬢という身分。
     特に何が何でも就職しなければならないという経済的事情はないし、親の経営する”しらいし”に入社すれば苦労しないのに、と他人(ひと)は思う。

     しかし佳波は、短大を出た後は”しらいし”以外ならどこでもいいので就職したかった。
     社会人として自由に働きたかったのだ。

     二十歳を過ぎても、彼女には自由が無さすぎた。
     両親の目の届く範囲でしか行動を許されない。
     つまり”コネ”という表現よりも、父親の選んだ会社に入社させられた、と言った方が相応しい。


     今日こそはトラブル無く過ごせますように、という切実な佳波の祈りを吹き飛ばすような、明るい声が背後から聞こえてきた。
    「おはよう、吹田さん」
     思わず振り返ると、出社してきた同期の江坂蹴(えさかしゅう)が片手を上げて彼女の傍を通り過ぎようとしていた。

     極普通の挨拶。
     何の意図も無い。
     しかし佳波にとっては、その声の主が大問題だった。
     じわっと涙がわいてくる。

    「え?」
     蹴は驚いて立ち止まった。
     軽く挨拶した相手が、じっとこちらを見つめて迷子の子供のように泣きべそをかいているのだから。
     焦って佳波に近づき、顔を覗き込んだ。
    「なんで朝から泣いてるの?」
    「そ、それは……」
     佳波は目に溜まったものを拭って、彼の顔をじっと見つめた。
    「……今日も、ミスするかもって思ったら……こわくて」
     蚊の鳴くような声とは、このことだ。

     江坂蹴には、この佳波の涙に心当たりがあった。

    「あぁ、昨日の発注忘れのことでまだ立ち直って無いのか……」
     蹴は佳波にハンカチを渡しながら、苦笑した。
    「あれはもう解決したし、気にしなくていいよ。何か困ったこととか不安なことがあったら、すぐ訊いてくれればいいだけだから、な、頑張っていこー」

     佳波は差し出されたハンカチを見て、慌てて押し返した。
    「い、い、い、いいです。男性にハンカチなんてお借りしたら……」
     涙を指で拭き拭き、佳波は蹴を置いてササササっと歩き出した。
    「え、ちょっと待って、吹田さん!」
     蹴は、逃げるようにビルへ駆け込む彼女を、慌てて追いかけた。



     入社2年目である22歳の吹田佳波と24歳の江坂蹴との間には、大きな大きな格差があると、佳波は思い込んでいる。劣等意識が全身の92%くらいを占めていた。
     店舗管理チーム(通称SS)に配属された同期は佳波と蹴の2人だけということもあって、そのレベルの差が嫌でも表立ってしまうように思えるのだ。

     なんでもスイスイと上手くこなしてゆく蹴に対し、なんにでもつまずいていちいち皆の手を止め足を引っ張ってしまう佳波。
     さらに同期というしがらみのせいで、蹴が佳波の相談相手で世話役で……、実質の尻拭い役になってしまっている現状。
     佳波は蹴に申し訳なくて、頭が上がらない。

     2歳の歳の差はあるものの、これじゃ月とスッポン。
     正直、会社にとっては、アタリとハズレである。
     それでも、佳波はコネ入社なのでクビにはならない。あまり強く叱責されることもない。
     この苦しみはまさに針の筵(むしろ)だ。
     しかし安易に仕事を辞めれば、次に就職できる保証もない。
     わずかな自由が吹き飛んでしまう。辞めるわけにはいかないのだ。

     だから、
    『こんな簡単な処理をするのに、そんなに時間かかるの?』
    なんて江坂蹴に呆れられても、ただ黙って耐えるしかない。
     気がつけば、
    『なぜここで間違うのかな……見当がつかない……』
    とか、
    『こんなんで通ると思ってたの?』
    とか、最終的には、
    『吹田さん、今、もう何もしなくていいから』
    なんていう言葉が出てくる。

     別に彼は悪意を持って言っているわけではないと佳波にもわかっていたが、それでもかなりのダメージを受ける。仕事の失敗に落ち込み、人に迷惑をかけることでさらに深く落ち込む。

     なんとか頼らずに頑張ってみようとしては更なる失敗を引き起こし、
    『もっと早めに相談しろって言ってんのに、なんでこうなっちゃうまで言わないのかなあ……』
    と、言わせる結果になる。
     負の連鎖である。

     唯一の救いは、江坂蹴が佳波を見放さないことだった。
     ブツブツ言いながらも、一からやり直しを手伝ってくれるのは彼だけ。佳波の唯一の味方と言っていい。
     恨めしいけれど、嫌いにはなれない。

     深い感謝と尊敬と劣等感、そして少なからず抱く憧れ。
     佳波はそんな複雑な感情に振り回されて、お嬢様らしからぬストレスフルライフを送っていた。

    第2話 謎解きのエブリデイ

     江坂蹴が世話好きで、面倒見が良いのは、佳波に対してだけではない。
     他の同期や後輩の相談に乗ったり、ストレス解消に付き合ったりもしている。
     頼られれば何でも引き受ける『委員長』または『主将』気質に違いないと佳波は思っていた。

     振り返ってみれば、お花見、プール、映画、飲み会、ボーリング、サッカー観戦などなど、この2年で毎月のようにイベントを企画してくれている。
     ただ、佳波はすべて丁重にお断りしてきた。

     せっかくの懇親会の誘いを断る理由は、ただ一つ。
     佳波の家族の許しが無いからだ。



     佳波の父と母は一人娘の彼女を溺愛している。
     よって、年頃の娘に良からぬ虫がつくことを最も危惧していた。
     本当なら屋敷から、一歩も外に出したくないほどに心配だった。

     娘の人生を全て管理しておきたいとまで考えていたが、いかんせん仕事が忙しく隅々まで目を配ることが困難な状況。
     そこで佳波が就職したのを機に、彼女の従兄である箕面浩四郎(みのおこうしろう)を吹田家に住まわせることにした。
     一風変わった男だが、大きな体に恵まれ柔道の有段者であり、さらに性格も生真面目なので、大事な娘の護衛には最適だと吹田夫妻は思ったのである。

     しかし、それだけではまだ不安だった。
     何かほかに別の対策も必要だ。大事な娘を守るために信頼できる誰かが必要だった。

     そんな過剰な心配をする佳波の父と母が、夜や休日に娘が外出することに対して、口だししないわけがなかった。
     若い男と酒を呑むことが疑われるような会合に、決して娘を行かせなかった。
     吹田父は、常日頃からこう言う。
    『いいか、業務以外の時間に男と……浩四郎以外の男と、口をきいてはならん!』
     
     無茶苦茶な命令に聞えるが、父親としては偽らざる本音だった。



     その日は、今年もあと2週間ほどで終わりという寒い日で、佳波の仕事もてんこ盛り状態だった。
     一息つく時間を見つけて、彼女は自販機で温かいほうじ茶を買おうとしていた。

     その自販機が設置されている廊下で、蹴が佳波に声をかけてきた。
    「吹田さんってさ、なんか楽しみあるの?」

     佳波は手に100円玉をもったまま、動きを止めた。
     一瞬ナチュラルにバカにされたのかと思ったのだ。
     ただ、蹴の顔には嘲笑するような表情は浮かんでおらず、ただの質問のようだった。
    「やっぱり、楽しみ無さそうに見えますか?」
    「いや、ごめん、そういうわけじゃあ……」
     蹴は慌てて訂正した。

    「そうですねえ、楽しみですかあ……?」
     佳波は少し考えてみた。
     普段何が楽しみかと訊かれたら、会社で仕事をしている時間だった。
     両親の呪縛から逃れられる唯一の時間だ。
     しかし、仕事で失敗ばかりしている人間が、その尻ぬぐいをさせている人を相手に、そんなことを堂々と言えるはずがない。

    「好きなこととかモノとか……どういうカテゴリーが吹田さんの好みなのかなあと思って。2年ちかく一緒に仕事してるけど、吹田さんって謎が多いからさー……」
     そう蹴が言うので、佳波はさらに首を捻った。
    「うーん、自分部屋の整理整頓でしょうか……。あと日めくりカレンダーをめくるのが好きです。それと、めったにないんですけど、家の中で溜まったホコリを見つけて掃除するのが快感で……」
    「あ、いや、そういうんじゃなくて、ほら、もうすぐクリスマスだから何か欲しいものとか……」
    「プレゼント交換でもするのですか?」


     江坂蹴は天井を見上げて「うーん」と唸った。
    「ちょっと違う……」
     そして額を押さえて考え込んだ。

     目をパチクリしてぽわんと蹴の顔を見ている佳波の表情から察するに、どうやら『今回はクリスマスパーティーでも企画してるのかな』とでも考えているようだ。


     一体どうアプローチすれば、この不思議なお嬢様の牙城を崩せるのだろうと蹴は考える。
     初めて逢った時から佳波は、蹴にとって、入口も出口も見つからない大迷宮のような存在だった。
     大きくて煌びやかで眩しいけれど、なんとなく現実味がなく、とっかかりが掴めない。

     そう、最初は普通に接していて何かわからない違和感を感じ、
     次に、結構長い時間一緒にいるのに意思疎通が難しいことに興味を持ち、
     吹田佳波がとんでもないお嬢様だとういう点に気付いてからは、その揺るがぬペースに更なる興味を抱き、
     気が付けば、何とかこちらを向かせようと必死になっている自分がいた。

     今まで何度デートに誘って却下されたことか。
     お花見、プール、映画、食事、ボーリング、サッカー観戦……。
     ご丁寧に、
    『私はパパから、会社の責任者不在の個人単位の催し物には、参加してはいけないと言われていますので』
    と意味不明なお断りを入れられる始末。
     そんな断られ方をされたのでは納得がいかない。

     蹴はそこまで執着する理由が自分でもわからなかったが、断られれば断られるほど、近付いてみたくなる性分だった。
     難問や難題は、その難易度が高い方が、答えを見つけ出すことが楽しいものだ。
     社内の好奇の目など気にならない。
     無謀なチャレンジだよという言葉にも、耳を貸さない。
     叶わない夢も、届かない努力もない。
     根気よくやって成果の出ない事など、この世には無いのだ。

    第3話 悪夢の忘年会

     しかしながら蹴にしてみれば、佳波の取るだろう態度は、今回もほぼ想定内のものだった。
     わざととぼけてスルーしているわけではないし、親のせいにして遠回しにデートを断っているというわけでもない。
     嫌なら嫌、困るなら困る、そうハッキリ言える人だと思っている。
     良くも悪くも、相手の気持ちより自分の都合を優先して答えるクセがついているようだ。
     いや、自分の都合というより、吹田家の都合、というべきだが。
     
     彼女があんな考え方をする理由は、今までに普通の友人関係を築くチャンスがなく、相手の気持ちになって考えるという作業が不得手なのに違いない。
     親の考えが絶対で、全ての基本はそこにあるという風に考えるよう躾けられてしまったのかもしれない。
     どちらにしろ、そんな彼女の対応に引き下がってばかりはいられない。

     蹴は食事に誘ってみようと考えていた。
     その時に、何か気の利いたプレゼントでも用意できればいいが、経済的な面で言えば、いくら高いものをプレゼントしたところで屁とも思われないに違いない。
     ならば、彼女の本音を聞き出す以外方法が無い。

     そろそろ強引にでも扉を開けたい。
     突破しなければ、いつまでも前に進めないのだ。


    「20日の金曜の夜は空いてる?」
     蹴が訊くと、佳波は首を振った。
    「何も予定はありませんが、早く帰宅しなければダメなんです」
     蹴は眉根を寄せた。
    「ダメ? 今回も……?」
    「はい。ごめんなさい」
    「じゃあさ、もし別の日だったら……どう?」
    「それが浩四郎との約束があって……」
    「え? コウシロウ、……って?」
    「箕面浩四郎です」

     佳波は平然と答える。
     いやいやいや、と心でツッコミを入れてから、蹴は口を開いた。
    「フルネームを訊いたんじゃないよ。……吹田さんとその人、どういう関係?」


     どういう関係?
     佳波は、どうしてそんなことを訊かれるのだろうと首を傾げた。
    「イトコです。最近残業が多くて私のこと見てられないけど、約束どおりにちゃんと早く帰って来るんだよって言われていて」

     蹴は微妙に唇を動かし、言いたい言葉を呑み込んで、できるだけ優しい声を出した。
    「イトコとそんな約束するかな普通……。それって、もしかしてただのイトコじゃなくて……」

     その言葉と同時に、近くの階段から話し声が聞えてきた。

     思わず二人がそちらを向くと、彼らが所属するSS(店舗管理チーム)の責任者である千里亮人(せんりあきと)室長と、今年の4月にSSからPP(商品企画チーム)に異動になった豊島沙穂(てしまさほ)が並んで階段を上ってきた。

     蹴はそれ以上会話を続けることができなくなった。
     というのも、吹田佳波は言わずもがなの特別扱い”VIP”だ。困らせるようなことをしていたら、上司にどんな咎めを受けるかわからない。
     しかも千里だけでなく、苦手な豊島沙穂も一緒だ。できるだけ顔を合わせたくない。
     彼はすぐにその場を去った。


     階段を上ってきた千里と豊島は、佳波を見つけるとにこやかに声をかけてきた。
    「吹田さん、今度SSの忘年会やるから、江坂くんに幹事するよう言っておいて」
     千里はそう言って、傍にいる豊島を見た。
    「私もおジャマするね」
    と豊島は言う。
     佳波はその時初めて、蹴がその場から消えていることに気付いた。
    「あ、はい」
     戸惑いながらも、とりあえず伝言を頼まれたということで、頷いた。
    「彼に私のところに電話するように伝えてね」
     そう言う豊島は、赤い口紅が艶やかで、魅惑的な笑みを見せた。
    「……はい、伝えます」


     佳波はフロアの入り口で『店舗管理チーム』という小さなプラスティックのプレートがかけられたクリスマスツリーを見ていた。
     クリスマスか。友人たちは家族や恋人と楽しく過ごすらしい。一般的にそういうものらしい。
     でも、佳波の場合、家族でクリスマスはありえない。
     父と母は普通に仕事だろう。
     大体和菓子屋にクリスマスなんていうイベントは必要ないというか、業務妨害的なイベントだ。
     昔から家族でキリストの誕生日を祝う習慣は無い。
     いつも一人きりで過ごす。
     今年は去年同様、浩四郎と二人でのクリスマスになるだろう。

     その佳波の後方から、1年先輩の岡本小実(おかもとこのみ)の声がした。
    「あら~、吹田さん、ツリーを呆然とご覧になってる様子からして、クリスマスのご予定がつまってらっしゃるんでしょうねえ。うらやましいなー」
     岡本は化粧室で直してきたばかりのキラキラの唇を突き出してわざとらしい敬語を使う。
     佳波は驚いて振り返り、慌てて大きく首を横に振った。
     すると、岡本の傍にいた庄内鈴花(しょうないりんか)も同調する。
    「当たり前でしょ、社長令嬢だもん。婚約者候補の素敵な男性に囲まれたパーティーが待ってるに決まってる」

     佳波の傍を通り過ぎながら二人は、彼女にはっきり聞こえるようにこう言った。
    「江坂くんは、誰と過ごすのかしらねー」
     二人はクスクスと笑い、目の端で佳波の様子を見ながら遠ざかっていった。

     江坂蹴……?
     佳波はゆっくり動く頭の中で、さっきクリスマスの話題を口にしていた彼の事を思い出していた。

     彼を客観的に観た時、
     快活だし、よく気がつくし、仕事は早いし、スッキリした美形だし、引き締まった体躯で背も高いし、どう考えてもモテるのではないかと思われる。
     それなのに、なぜか彼女はいないと言い張る。

     本当はもう、豊島沙穂と付き合っているのではないのだろうか。
     以前から気にかかっていたそんな疑問がじわじわと頭の中に広がる。

     ズキンと胸が痛む。
     何だろう、この痛みは。
     悲しい気持ちでいっぱいになる。

     あの豊島の蹴への親密な態度は、普段から滲み出ていて隠そうとしても無理がある。
     火の無い所に煙は立たない。
     佳波はぶるっと体を震わせた。
     蹴は、豊島とのことは悪い噂だと否定していたけれど、今回の忘年会の割り込みといい、蹴と豊島の絡みが多過ぎる。

     22年間彼氏無しの彼女の脳内には、恋愛に関する基礎知識が欠けていて、総合的な判断ができなくて困っていた。

     不安だった。
     遠くない未来、彼は、佳波の傍からいなくなってしまうのではないだろうか。

    第4話 グレーゾーン

     佳波はほうじ茶のペットボトルを持ったまま、自分の席に戻った。
     隣りの席の蹴はどこへ行ったのか、まだ戻っていない。
     彼女はノートパソコンを立ち上げ、今月の店舗ごとの実績と所見を書くためのファイルを開いた。
     週末までに提出しなければならないが、実績の集計に手間取ってまだ完成していない。

     すると、しばらくして隣の席に蹴が戻って来て着席した。
     その椅子に腰を下ろしたドンという音で、佳波はビクッとして彼をふり返った。
    「えっ、え、江坂くん!……」
    「ん?」

     さっきまで妄想していた江坂蹴と豊島沙穂の事がイッキに甦り、勝手に顔が真っ赤になる。
    「あ、あの、ほ、報告書を書いておりますので、お静かに願います……」
    「……んと、……失礼しました」
     蹴は佳波を見ながらそろりと椅子に座り直した。


     佳波が何か空回りを始めたのを感じた蹴は、それ以上話すのをやめた。
     彼女がこういう状態の時は、必ずといっていいほど集中しておらず、大きなミスをしかねない。
     本当なら、さっきのコウシロウについて、すぐにでも問い詰めたかったのだが、今はどうやら緊張状態だ。
     しょうがない、尋ねるのはまた明日にでもするとしよう。


     SSのチームの座席は、6人ほどが向かい合わせになっていて、その島が3つで合計20名弱の集まりでできている。
     若い男子社員が多く、女子は佳波と、岡本と庄内の三人だけ。
     筆頭の千里でもまだ30そこそこの、若いメンバーだった。


     佳波の前の席の池田(いけだ)が、隣の中津(なかつ)にぼそぼそ呟く。
    「江坂は吹田さんをまだ諦めてないんだな。20日の金曜に何かに誘うみたいだ。さっき廊下でコッソリ聞いた」
     中津は、佳波の様子を伺っている蹴の様子をチラ見しながら、
    「あら、可哀そうに。20日って、忘年会の日らしいよ」
    と平然と返した。
    「マジで? 運が悪いね。今度こそ諦めるかな」
     感情豊かでムードメーカーな池田が蹴に同情するのを、中津は普通にやり過ごす。
    「江坂は豊島サンとくっつきゃいいんじゃないのー?」
     中津はそう言って、大した興味も見せず、仕事を淡々と続けていた。

     確かに、豊島沙穂が江坂蹴にロックオンしているという噂は、彼女が二人の教育実習を担当し始めた頃から、チーム内で広まっていた。
     彼女は佳波に対しては殆ど叱らなかったのに対し、蹴にはとんでもなく厳しかったのである。

     当時、SSの社員たちは色めき立った。
    『豊島、テンション高くね? もしかして江坂が好みなのかぁ?』
    『5歳年下かあ。でも肉食女王には関係無いからなっ』
    『江坂、よく耐えるよね。まんざらでもないのかな……』
    『ドSなお姉さまが好みなんじゃねー?』
     皆、蹴と豊島の仲を疑っている。

     豊島は何かある度に、「江坂くん」「ちょっと、江坂くん」と彼ばかりを傍に呼びたがる。
     そのハラスメント満載の教育実習を終えて、豊島がSSを出てPPに移ったのは、社内風紀を守る為の異動だと陰で言われたのは当然のことである。
     江坂蹴がその気になれば、豊島のことをセクハラやパワハラで訴えることができる程度の状況だと周りが感じていたからだ。


     しかし、蹴は豊島に関して訴える様子はなく、ただ佳波にだけは何度となく噂を否定した。

    『絶対に豊島さんとは何もないから!』
     蹴は、色眼鏡で自分を疑うように見る佳波に、そう繰り返し説明してきた。
    『でも、周りの人がみんな……』
    『誤解だよ。頼むから変な噂を信じないで』
    『そうですか』
     その当時の佳波は、蹴の事にはあまり深い興味がなかったせいで、素直に彼の言い分を聞き入れた。
    『ですよね。江坂くんは誰にでも優しくて良い人だし』
     ニコッと笑って納得した佳波は、その時、蹴を疑うことはしなかった。
     が、しかし。

     時を経て、少なからず蹴との繋がりが強くなりつつある昨今、彼の豊島に関する話題がどうしようもなく気になってきたのである。
     湧き上がる暗い妄想を、自分で押しとどめることができないほど不安に埋もれている。
     それほど、逆に言えば江坂蹴への尊敬や憧れが強く、彼のいないSSでは仕事ができないと思うようになっていた。


     佳波は報告書を書く手を止めて、思う。
     なぜ、SSの忘年会に豊島が来る必要があるのか。
     そしてなぜ、江坂蹴を幹事に指名したのか。

     ……嫌だ。

     絶対嫌だ。


     その時、パーテーションの向こうからやってきた千里の姿が佳波の目の端に映った。
     あ、と一瞬固まった佳波に気付かず、千里が蹴の傍にやってきて口を開いた。
    「江坂くん、ちょっと」
    「あ、はい」
     突然呼ばれ、蹴は慌てて立ち上がった。
    「吹田さんから聞いてくれた?」
    「え、何ですか?」
     佳波は千里から蹴に伝言を頼まれていたことをすっかり忘れていた。
     しかしそんな”忘れ物”は日常茶飯事なので、千里も特に気にする様子はなく、話を進めた。
    「江坂くんに忘年会の幹事を頼みたいんだけど、お願いしていいかな?」
    「わかりました。いつですか、今からだと結構キビシイ……」
    「いや、もう場所と日付は決まってる。豊島さんの知り合いの居酒屋で20日に予約が取れたんだ」

     佳波の背中でまた沈黙が流れた。
     蹴が返事をしていない。

    「だから、みんなにスケジュールあけるように連絡回して、あと予算とかメニューとか豊島さんと相談してくれ。会費の方も任せるから」
    「……はい、20日……ですね」

     蹴の明らかに元気を失くした声が、佳波にも聞えた。

    第5話 秘書”K”氏登場

     その日、佳波が仕事から帰ると、見知らぬ人が客間の椅子に腰掛けていた。

    「お嬢様おかえりなさいませ」
     佳波の帰宅を出迎えた年老いた女性の手伝いは、深々と礼をした後、
    「お父様からのお言い付けで、今日からお嬢様のスケジュールを管理される秘書の方がいらしてます」
    と小声で伝えた。
    「ええっ? 私に秘書ですか? 偉い人でもないのに……」
     佳波は驚いて客間の男性を部屋の入口から見つめた。
     すると、その男性は佳波の声が聞えたのだろう、すくっと立ちあがって佳波の方を向き一礼した。
    「勝手にお邪魔しておりますが、今後はこちらのお屋敷に住み込みとなりますので、よろしくお願いいたします」
    「は、はい……」
     父親の決めたことであれば、彼女は受け容れざるを得ない。

    「わたくしは浩四郎様同様、お嬢様の生活の安全をお守りするのが役目でございます。秘書とは対外的な一応の名ですので、今後ともわたくしの事は”K”とお呼び頂ければ結構です」
    「”K”様ですか」
     部屋に入り、少しずつ相手に近づきながら、佳波は窺うように上目遣いで見上げた。
    「呼び捨てで結構でございます」

     落ち着いてはいるが、年齢は20代後半くらいに見え、背が高く細身。
     高級そうなスーツを着こなし、髪を後ろで束ね眼鏡をかけている。
     表情を変えることなく、姿勢も良く、一見近寄りがたい隙の無い男性だが、その眼鏡の奥の瞳は割と優しい色をしていて、どこかで見たような懐かしさを感じさせた。
    「よろしくお願いいたします、”K”……さん」
    「お気になさらず、”K”とお呼びください。お嬢様は携帯電話をお持ちになっていないそうですが、わたくしとは常に連絡を取れる状態でいていただく為、特別に許可を得ております」
     ”K”はそう言って、鞄の中からスマートフォンを取りだし、佳波に向かって差し出した。
    「電話を携帯して頂いてる間は、どちらにいらっしゃるかが把握できますので、肌身離さずお持ち願います」

     ”K”からそれを受け取ると、これでますます自由が無くなる、と佳波は思った。

    「あの、”K”さんはどのお部屋に?」
     佳波は手伝いの老婦を振り返って訊いた。
    「お嬢様の部屋の隣のクローゼットを片付け、ベッドをお入れしております」
    「まあ……」
     佳波がその手伝いの答えに驚いていると、”K”はほんの少しだけ微笑み、
    「十分でございます」
    と、頭を下げた。


     夜になり、その日も父母は勿論、浩四郎の帰宅も遅くなると連絡が入っていた。
     手伝いの人間は通いのため、夜9時頃には屋敷から帰ってしまう。
     初めて会った正体不明の秘書”K”と、夜に二人きりという状況は、逆に佳波の不安を煽った。

     それでも11時頃には、皆帰宅するはず。
     それまでの辛抱だ。

     自分の部屋にこもっていた佳波は、9時半、いきなり扉をノックする音に驚いて体を強張らせた。
    「は、はい、何でしょう?」
     精一杯声を出して、ドアの向こうの人間に尋ねる。
    「”K”でございます。夜分に失礼いたします」

     佳波はゆっくり立ちあがり、そのドアを開けるべきか迷いながら、静かに近づいた。
    「何かご用ですか?」
    「お屋敷の中にいる間はセキュリティが作動しておりますし、警備も厳重ですので、わたくしは2時間ほど離れの方へ行って参ります。その間にもし何かお困りのことがございましたら、電話で呼び出していただければすぐに駆けつけますので」
    「離れですか……」
     屋敷の別棟には浩四郎の希望で、ジム設備が整えられていた。
     ”K”はドア越しに続けた。
    「今後、この時間帯は毎日トレーニングの時間に宛てたいと思っております。その後入浴し睡眠を取ります。もし、お嬢様がお友達と電話でもされるなら、誰もいないこの時間をご利用されるのがよろしいかと」
    「え、でも……」
     佳波は驚いてドアを開けた。
     そこにはトレーニングウェアを着て立っている”K”が、静かに微笑んで頭を下げていた。
    「勝手に誰かと電話するのは、禁じられているんですが……」
    「承知しております。ですから誰もいないこの時間に、と申し上げているのです」
     ”K”は一呼吸置いて、続けた。
    「携帯電話はわたくしの名義になっておりますので、利用したとしても直接ご家族に明細を知られることはないと思います。わたくしから報告するつもりもございませんので。ご自由にお使いください」
     ”K”は深く一礼をして、佳波の目の前から去っていった。
     佳波はその後ろ姿を見ながら、”K”の不思議な行動が理解できずにぼんやりと部屋のドアを閉めた。


     佳波は、”K”から渡されたスマートフォンを引き出しから取りだした。

     連絡を取り合う人はいない。
     携帯電話の利用を両親に許可されていなかった為、以前は公衆電話からかけたりしていたが、結局面倒でかけなくなった。
     皆、友人はラインやそのほかのSNSを使っているので、そういうコンタクトができない佳波に対しては、もう蚊帳の外で、実際、友人は遠のいていった。

     でも……。そういえば……。
     佳波は鞄の中からスケジュール帳を出し、パラパラとめくった。

     会社に入ってしばらくした頃、連絡不能では困ると江坂蹴が無理矢理パソコンのメールアドレスでもいいからと、シツコク訊いて来た。
    『携帯持ってないなんて、ウソじゃないの?』
     最初のうちは疑っていた蹴も、本当に会社のPCのアドレスしか教えないでいると、困惑していた。
     そして、
    『じゃあ、もし携帯持つようになったら、真っ先に俺の連絡先入れといてよ?』
    と、番号やらメールアドレスやラインのID、フェイスブック、家の番号から住所から何から、いろんな個人情報を紙に書いて押し付けて来た。
     その紙を、捨てては申し訳ないのでスケジュール帳に挟んでおいたことを、佳波は思い出したのだ。

    第6話 知り過ぎている知人

     つまり、今現在、個人情報を知っているのは江坂蹴だけだ。
     年に一度年賀状でやり取りするだけの古いクラスメイトの連絡先を、ピックアップする必要性もあまり感じなかったので、蹴の連絡先をぎこちない手つきでスマートフォンに登録する。

     もう既に、両親と浩四郎と千里室長、そしてKの番号などは入っていた。
     そこに並べて”江坂蹴”と入力しかけて手を止めた。


     だめだわ。
     だって、……彼は男性だもの。

     蹴は蹴なのだが、残念ながら性別はオスだ。
     佳波は、男性の連絡先を自分の携帯に入れることに強い抵抗を感じた。

     でも仕事のことで連絡する可能性は大だし……と考え、
     それでも男性だし……と手を止め、
     また、でも悪い人ではないどころか自分のサポートをしてくれている人じゃないの……と思い直し、
     しかし男性だし……と悩む事、数十分。

     結果、『SS緊急連絡先』という名前で、蹴の情報を入力した。
     それでも入力が終わっても、ドキドキしていた。

     男性……男性……、ああ、大丈夫でしょうか、神様!

     佳波は一人で罪悪感に悶えては、顔を紅潮させていた。



     吹田佳波に秘書という名の”お目付け役”がついたことなどまるで知らない江坂蹴は、その日の夜、普段とさほど変わらぬ時間帯の7時頃に帰宅した。

     彼は会社から一駅離れた狭い狭いアパートに独り暮らしをしている。
     間取りは1K。4畳半の居間、そして2畳ほどの小さいキッチンに、風呂とトイレ付。
     とにかく古くて、壁も床もキッチンも全てボロボロだった。
     いくら綺麗に掃除していたとしても、とてもではないが、他人を呼べる場所ではない。
     ただ、旧知の仲と呼べる者は、例外である。
     ドアを開けたが最後、蹴がいくら断ろうとも勝手に入り込んでくる。
     それはまるで家宅捜索の令状でも突きつける刑事のように、コンビニの袋を持ち上げて「来たぞ」と言う。

     この日は千里から忘年会の話をされて、ひどく落ち込んで帰って来ているだけに、どんな客が来ようと決して開けないという覚悟を持っていた。
     さっさと風呂に入って寝る。
     そう決めていた矢先、パンツ一枚でパジャマと下着とタオルを抱えて震えている蹴の耳に、さび付いた鐘のようなガンゴ~ンというチャイムが聞えてしまった。

     恐る恐るドアの覗き穴から外を見ると、何かお弁当の包みのようなものが視界を塞いでいた。
     玄関の外にいる者は、顔の前にそれをかざして、顔を隠しているのだ。
     こういう卑怯な手段でごまかそうとするのは、あいつに決まっている。

    「今から風呂。来るならあと30分後で」
     蹴がそう言ってドアから離れようとすると、カチャという音がしてビュウウウウと冷たい風が部屋の中に吹き込んできた。
    「待て待て、おまえなんで合鍵持ってるんだ!」
     蹴が寒さに縮こまり、その場で小さくダルマのように蹲って叫ぶと、相手は平然と部屋の中に入りドアを閉めた。
    「蹴のお母さんに借りたの」
    「か、借りた?」
    「そう、はい、これお母さんから夕飯の差し入れでーす」
     寒くて全身に鳥肌がたっている蹴の鼻先に、風呂敷包みの三段くらいの重箱弁当が押し付けられた。
     思わず弁当を放り投げてやろうかと思うくらい、イラッとした蹴だが、ぐっとこらえて包みを受け取り、相手を睨みつけた。

    「受け取ったぞ。だからおまえは帰れ、梅田!」
    「ええー、その量、一人で食べるの?」
    「今の時期、明日の朝でも腐らないから。おまえはとにかく帰れ」
     梅田と呼ばれた女性は、背の高い均整の取れたプロポーションで、可愛らしい笑顔を見せる。
    「30分、ここで待つよ」
    「はあ?」
    「それとも先に食べてていいかなー?」
    「おまえ、それでも女か! 裸同然の男の前で実家にいるみたいにくつろぐな! おまえはただの小・中の同窓生なだけ、クラスメイトでもなかったんだからなっ!」
     ボーイッシュな短い髪の似合う梅田愛葉(うめだまなは)は、何を言われても笑顔を崩さない。
    「あの頃はあんまり喋ったことなかったけど、まあいえば、オサナナジミ、ってやつじゃん」
    「いやいや、知人止まり」
    「もういいから、そんなこと言ってる間に早くシャワー浴びておいでよ。風邪ひいたらキスしてあげないよ」
     蹴は唖然として睨み返した。
    「おまえ、俺の彼女なの?」
    「そうだよ? 何言ってんのー? 親公認の仲じゃん」

     蹴はふと思いついたように、携帯電話を鞄から取りだし、電話をかけた。
    「あ、千林(せんばやし)? 今からうちに来い。梅田がいる。ついでに三国(みくに)も連れて来い。とにかく、食いものはあるから」
     梅田愛葉は不満気に眉間にしわをよせた。
    「男2人呼んでどうするの」
    「危機感を感じたら、さっさと帰れ」
     千林と三国は梅田と友人で、彼女に危害を加えるつもりなど毛頭ないが、何が一番ネックかというと、この狭い部屋に4人というのは定員オーバーなのである。
     梅田には早く出て行け、といいたかったのだが、逆効果だったようだ。
    「危機感? ナイナイ。それより、二人が到着する前に、することしちゃおっ」
    「すること……」
     ほらほら、と梅田愛葉は蹴をシャワー設備だけの狭い半畳ほどの風呂場に連れて行く。
    「え、あ、ああ??」
     蹴の手から無理矢理タオルや着替えなどをもぎ取って、パンツ一枚姿の彼を、風呂の壁に体を押し付けた。
    「!!つっつめたっ!!!」
     あまりの冷たさに前のめりになる蹴の体を、梅田は見事にキャッチして、彼の唇をぱっくりと戴いた。
     仰天し、蹴の体は動くことができず、されるがままになっている。
     梅田は慣れた仕草で、蹴のパンツを下ろし、自分もさっと服を脱いでいく。

    第7話 最悪のコンディション

     蹴の部屋に着き、”ガンゴーン”というチャイムをならした千林と三国は、ドアが開いた時の蹴の顔を見て驚いた。
     蹴は彼らを急に呼び出しておきながら、「おせえよ」と言って舌打ちした。
     今にも嘔吐しそうな奇妙な呼吸と、苦渋に満ちた表情で、パジャマを着ている。
     風呂上がりらしいシャンプーの香りをさせていた。

     部屋の中には、にっこり笑う梅田愛葉がいたが、
     二人が来ると、さっと立ちあがり部屋から出て行った。
     その時の彼女も、髪が濡れていることに気付いた二人は、蹴をジロリと見つめた。

    「な、何にもないからなっ!」
     いくら蹴がそう言っても、誰も信じるはずがない。
    「風呂場でナニしたの?」
    「ナニも何もしてないっ。かっ体中をアカスリタオルで……えと、サッパリ……」
    「な、風呂場でナニをサッパリしてんだ、バカやろー」
    「いや、風呂場はサッパリする所……」
    「あっちの方もサッパリしたんだろうが!!」
    「ちがーーーう! だから早く来てくれって言っただろーーっ!」
     蹴が顔を赤くして怒るのを、三国と千林は憤然と見守っていた。
     しかしながら、そう言えば、梅田愛葉はアカスリ専門店で働いていたことがあったな、とその時二人は思い出していた。




     翌日の朝、吹田家では、食事の前に家中の者が集められていた。
     吹田夫妻は昨夜も帰宅が遅かったので、朝になってから”K”の紹介を行ったのだ。
     佳波の父、吹田佳雄(すいたよしお)が”K”の傍に立ち、告げる。
    「彼は大変優秀な私の秘書の一人だったが、今回彼を信じて佳波の生活の安全を全般的に任せることになった」
     まるで朝礼だ、と佳波は思ったが当然口にはしなかった。
     当の”K”も紹介されている間は、無表情なまま真っ直ぐ前を見ているだけである。

     そして、皆は食事を終え、浩四郎は特に”K”に関心を持たずに、さっさと出社のために屋敷を出て行った。
     佳波は、”K”がどういう行動を取るのかチラチラ様子を見ていた。
     すると彼は紅茶を飲みほした後、彼女に「いってらっしゃいませ」と伝え、自室へ戻っていった。
     今のところ、あまり生活を縛られているような気がしないのは、錯覚だろうか、と佳波は首を傾げる。


     佳波は小さい頃から登校の際、母が車で送迎をしてくれていた。
     今も出社時は母が会社の近くまで送ってくれる。
     そして、仕事が終わる頃には父を送迎している運転手が迎えに来て”KOTORIE”の専用駐車場で待機している。

     しかし、その日の朝、母はいつもの通りに佳波を会社の近くまで送りながら、こう言った。
    「これからは”K”があなたの傍にいますから、送迎の際は彼と一緒にね」

    「はい、ママ」
     佳波はそう答えながら、ホッとしていた。
     ”K”が送り迎えしてくれるのか。
     残業したりすると待たせている車のことが気にかかっていたが、これからは電話で連絡するという普通に便利な状態で迎えをお願いすることができる。
     どうしてだろう。
     昨日会ったばかりの人なのに、もうすでに、安心感がある。

     ただ、”彼と一緒に”と母の言った言葉の意味は、実際は、彼女の想像するような形とはかなり違っていた。
     それをまだ、佳波は知らない。




     SSのデスクでは、両肘ついて頭を抱えて落ち込んでいる江坂蹴の姿があった。
    「朝っぱらからどうしたの?」
     この部署のナンバー2で、千里室長よりも社歴の長い服部(はっとり)が、蹴の肩をぽんぽんと叩いた。
    「いや、なんでもないです」
     顔を上げて蹴が答えた。
    「そう? 始業時間になったら、4階の応接ルームに行くようにって千里さんが言ってたよ」
    「……了解です」
     返事をしてから、さらにへたり込む蹴だった。

     忘年会の日付の件で落ち込み、昨日のワイセツに近いアカスリに立ち直れず、そしてこれから、4階の応接で豊島と二人きりの時間が待っている。
     蹴にとっては泣きっ面にハチ……いや、泣きっ面にマワシゲリくらいの苦しみが続く。



     ちょうどそこへ「おはようございます」と出社してきた佳波は、デスクでうつ伏せ状態の蹴を見つけ、
    「まだ眠いんですか?」
    と不思議そうに声をかけた。
    「いや、そうじゃないと思うよ」
     そう答えたのは向かいの席の池田である。
     きょとんとする佳波の隣で、蹴はむっくり起きあがった。
     彼は池田に片手を挙げてスミマセンとでも言うように頭を少し下げ、無言で座席を立ち、SSのフロアから出て行った。
     と思うと、すぐに引き返してきた。
     そして、佳波の手を引っ張り「ちょっと来て」と廊下まで連れ出した。

     廊下は出社してくる社員が大勢いるため、廊下の突き当りまで二人は移動した。
    「なんですか? どうかしましたか? 私また失敗を……」
     だんだん声が上ずる佳波を、蹴はてのひらで制して、
    「違う違う」
    とポケットから紙切れを取り出した。
    「これ、良かったら使って」
     そう言って佳波にくれた紙には、
    <20日19:00 La lune bleue tel:03-XXXX-XXXX>
    という、見慣れた蹴の文字が並んでいた。
    「ラ・ルン・ブル、って、あの駅前にできた洋食とスイーツのお店ですか? 人気店ですよね」
    「うん」
     元気の無い蹴は視線を上げないまま続けた。
    「なかなか予約取れなくてなんとか取れた日がその日だったの、20日」
    「あ、そうなんですか……」
    「どうぞ、2名で江坂の名で予約してあるから誰かと行ってください。俺、その日忘年会の幹事で抜けれないから、使えないのね……幹事でさえなけりゃ、吹田さんを誘ってたんだけど……」
    「ああ、なるほど」
     納得はしたものの、佳波はしばらく考えてから、ん?と首を傾げた。
    「もしかしたら前に私がこの店のお話をしたのを、覚えていてくれて予約を取ってくれたのですか?」
    「うん」
     蹴は人形のようにコクンと一つ頷いて、
    「ほら、イトコのコウシロウくんにでも連れて行ってもらいなよ」
    と、濁った目で遠くを見ている。

     蹴はまるで、魂が抜けたような表情をしていた。

    第8話 ようやく気付いたその気持ち

     それはまだ秋頃の話。
     吹田佳波は相変わらず残業をしていて、ぼーっとしながら書類の山をシュレッダーにかけていた。
     すると、「吹田さーん、これもお願いっ」と甘えた声で岡本小実が紙の束をドンと機械の傍に置いた。
     庄内鈴花も「あ、ラッキー。吹田さんがいたー」と、追加で書類の束を置いてゆく。
    「はい……」
     見てみると、書類はホッチキスで綴じられた冊子状で、全て解いてからでなければシュレッダーにかけられないものばかりだった。
     佳波は、はあ、と一つ溜息をついて、作業の手を止めた。
     そこへ、様子を見に来た江坂蹴が
    「まだ終わらないの?」
    と声をかけてくれた。
    「すみません。もう少し……」
     佳波がそう言って止めていた手を慌てて動かし始めると、蹴は先輩たちが置いていった書類の束に気付いたようだった。
    「手伝う」
     蹴はそれだけ言って、冊子を解き始めた。
     佳波が遠慮して断ったが、蹴は『ホッチキス外しってやってるとクセになるよ』とかなんとか、意味のわからないことをいいながら、傍で作業を始めた。
     その時に、手は忙しくても口は暇なので、何か色々と雑談をした。
    「そうだわ、江坂くんは電車通勤ですよね。いいですねえ、楽しそう」
    「電車通勤が? 苦しいだけだよ? あ、でも、そう言えば駅周りが開発されて急に綺麗になってたな」
    「そう、そうなんです! 駅の前に凄く美味しいスイーツが食べられる人気洋食店ができたらしくって、いいなーって思ってたんです。ほら、うち和菓子屋だから、パパに言ったら怒られそうだし、まあ、行く相手もいないし、っていうか行く時間も無いですけど……」
     そんな話を、佳波は独り言のように言ったのだ。
    「それに予約も全然取れないお店なんですって。ら、ら、らぶ?……なんていうお店だったかしら」


     その佳波の適当な雑談を、蹴は覚えていてくれたことになる。

     佳波がメモに釘付けになっていると、蹴が口を開いた。
    「いいんだ。きっと今回も吹田さん誘ったところで、断られることは半分覚悟してたし。……今度こそっ!とは思ったんだけどねー」
     彼は苦笑に近い笑顔を見せた。
     そして、
    「もし誰とも行かないならキャンセルするから、後でまた都合教えて」
    と言って、蹴はSSのある3階のフロアの廊下を歩いて、奥の階段へ消えて行った。


     佳波はその紙を持ったまましばらくその場に立ち尽くしていた。

     これは、もしかして個人的なお誘い……?
     というか、今までのお誘いも、個人的な、つまりは二人だけで行く予定だったの?
     いや、まさか……。
     
     江坂蹴のように優秀な人間が自分を誘うわけがない。
     それでなくても、いつも嫌われないか冷や冷やするくらい、迷惑をかけているのだ。
     勘違いしてはいけない。
     彼は面倒見が良いだけ。


     SSのフロアから出て来た中津が、思わず廊下で足を止めた。
     もう始業時間は過ぎているのに、またぼんやりと立っている佳波の後ろ姿を見つけたのだ。
    「おい、吹田さん?」
    「は、はいっ!」
     中津の声に飛び跳ねんばかりに反応して振り返った佳波に、彼は尋ねた。
    「江坂、ちゃんと4階の応接に行った?」
    「え、さ、さぁ。よく知りませんが、さっき向こうの階段から上に上がっていったような……」
     中津はチラと佳波の目の奥を覗き込んだ。

     彼女は相変わらず、自分とは無関係な世界の話だと思っているらしい。
     ここはひとつ、現状がどういうことになってるのかを、ちゃんと認識させるべきかな、と中津は思った。
     他人事にはたいてい無関心な中津だが、少し江坂蹴が可哀想になったのかもしれなかった。

    「……ということは、今、4階の応接で豊島サンと江坂は二人きりかぁ……」
     無表情で呟く中津に、佳波は驚いて聞き返した。
    「な、なんで二人きりなんですか?」
    「それは……」
     中津が冷めた目で笑った。
    「豊島サンのお望みなんじゃないの? ま、江坂もみすみす食われたりはしないだろうけども」
    「く、く、く……」
    「何? 江坂が心配? なら、用事作って突撃してきたら?」

     佳波は真っ青になって、バタバタとSSの自分のデスクに走って戻った。

     SSの佳波のデスクの前の池田や、近くにいた服部は、ぽかんとして佳波の慌てふためく様子を見ていた。
    「ど、どうしたの、吹田さん。また、何かミスでも?」
    「い、えと、そうでは……」
    「おい、大丈夫? 何かあるなら手伝うよ?」
     皆の注目の中、彼女はデスクの上でカバンをひっくり返していた。
     カタンという音がして、Kから持たせてもらっている携帯電話がデスクの上に滑り落ちた。

     佳波はその携帯電話を握り締めると、またバタバタと足音を響かせて、3階の廊下を突っ走った。

     何をするつもりなのか、もう自分でもよくわからない。
     しかし、どうしても豊島と蹴が二人きりという状況が、今は耐えられなかった。
     今まで、蹴の誘いを深く考えもせずスルーしていたことに気付いて、心臓が苦しくなった。
     たとえ気付いていたとしても、父親の呪縛から逃れてデートするなんてことはできないに違いないが、その気持ちに”ありがとう”すら言え無かった自分が情けない。


     4階まで階段で駆けあがって、息を切らして、ある部屋の前で立ち止まる。
     第1応接室。
     となりは第2、次は第3と続いて、合計5つの応接室がある。
     どこに蹴がいるかは知らない。
     もしかすると重要な商談をしている部屋もあるかもしれない。
     全ての応接室に、”使用中”の札がかかっている。
     開けて調べていくわけにはいかない。

     佳波は応接室のドアから一旦遠ざかり、5階へ向かう上り階段のステップに腰を下ろして息を静めた。
     震える手で携帯電話を起動させ、『SS緊急連絡先』の番号を呼び出した。

    第9話 危機一髪

     佳波にとって初めての携帯電話での通話。
     初めてのおつかい並みにドキドキする。
     何回かコールしているが、相手の出る様子はない。大事な話の最中だからマナーモードすら消しているのか。
     それとも、出るに出れない状況?……だとは思いたくはないが。

     神様!
     佳波は階段に小さく座り込んで、携帯電話のコール音をじっと聞いていた。

     しばらくして、コールが途絶え、繋がった。
    『はい……』
     蹴の声がした。



     佳波が蹴の気持ちに気付いて電話をかけた、その少し前に話は戻る。
     蹴が重い足取りで4階に上がった時には、豊島は、一番奥の第5応接室前に立って待っていた。
    「遅いわね。2分遅刻よ」
    「2分ですか……。すみません、でも、これ、ただの忘年会の仕切りですよね」
    「まあね」
     豊島はフフと笑う。

     応接室に入った豊島は、蹴をソファに座らせると、自身もすぐ彼の隣のソファに座り、体を寄せて尋ねる。
    「江坂くん、一人当たりどれくらいの金額設定にする?」
    「そうですね……」
     蹴は近すぎる距離に顔をしかめた。
     シャンプーなのか、化粧なのか、何かわからない強い匂いに息が詰まる。
     仕方なく、豊島と反対側のソファに鞄を置き、体をできるだけ彼女から離した。
    「19時から21時で、3~4000円くらいに……」
    「わかったわ。一応提案してみる。おまかせでいいのね?」
    「はい、酒代は別途……」
    「OK。じゃ、次の話、ねえ、私のこと、いい加減放置はやめてくれないかしら」
     突然、豊島の声色が変わった。
     少しドスをきかせた、脅しめいた声音だった。

    「は、突然何を……?」
    「は? じゃないでしょ。前に彼氏と別れるから付き合ってって言ったじゃない?」
    「あ、はあ……」
     やはり本題はその話かと、蹴は彼女から視線を逸らした。
     豊島は美人ではあるが、男を食い散らかしているという噂があり、とうてい魅力を感じられなかった。
     なので、いつもそういう話が出るたびに、きちんと拒絶の意志を伝えている。
    「ですから、放置してるんじゃなくて、ちゃんとお付き合いはできないと……」
    「どうして? 私の元カレが千里くんだから?」
    「……あの、千里さんには奥さんもお子さんもいらっしゃいますし、そういう話をするのはどうかと……」
    「なに? 倫理観の問題? じゃやっぱりここに千里くん呼んで話する?」
    「違います、違います、落ち着いてください」
     毎度のことながら、話の論点が噛みあわない。
     さすがの蹴も冷や汗が出て来た。
    「今まで付き合ってた人、ちゃんと別れたわよ? 何が不満?」
    「いや、その、無理矢理付き合えって話自体がそもそもオカシイじゃないですか」
    「え、だって、江坂くんが好きなんだもん」
     急に声を小さくする豊島に、フッと魂を吸われるように可愛さを感じてしまう。
     蹴はハッとして土壇場で踏みとどまり、我に返った。
     危ない危ない。

    「それはありがたいお言葉ですが、私は豊島さんとお付き合いする気持ちはありません」
     毅然とした態度をとらなければ、と蹴はハッキリ伝えた。
     もう何度めかの言葉である。
    「理由は? 好きな子がいるとかでしょ? あれ、あの和菓子屋の娘……」
    「違います!!」
     豊島から避けて離れていた姿勢を変え、向き直った。
     それだけはしっかりと否定しなければならない。
     でなければ、佳波が豊島から理不尽な怒りを買う恐れがある。
    「吹田さんのはずないでしょ。やめてくださいよ」

     豊島はつまらなさそうな顔をした。
    「でもみんなそう言って……」
    「面白がって言ってるだけです。私の好きな人はほかにいますので、そんな噂は非常に迷惑、吹田さんにも失礼です」
    「じゃあ、誰が好きなの、あのアザト可愛い岡本? それとも仕事だけはまともにできる庄内?」
     豊島が追及を止めない。
     蹴は思わず袖で額の汗をぬぐった。
    「私は……その、社外で、だ、大学の関係の……」
     頭の回転は速い蹴だが、今の状況でスラスラ嘘を吐ける余裕がなく、しどろもどろになりかけた。
     その時。

     ブブブブブ。
     スマートフォンが着信を告げている。
     誰のだ?
     俺のか?

     蹴は思わずソファから立ちあがり、鞄を持って豊島の隣から離れた。
     鞄の中で確かに携帯は光っている。
     ありがたい。
     これを理由に部屋を出よう。

     しかし、携帯を持ってドアに向かおうとすると、豊島がドアの前に立ちはだかった。
    「私のことは気にしなくていいから、今ここで電話に出て。待ってるからっ」
     可愛くウインクしてみせても、これでは軟禁である。
     仕方なく部屋の中でできるだけ豊島から離れて、そろそろと携帯電話を取り出した。
     見知らぬ人間の携帯電話からかかってきている。
     出るべきか。

    「誰?」
     豊島が、蹴ににっこり微笑む。
    「仕事、仕事関係だと……」
    「じゃあ、早く出なさいよ」
    「静かにしててくださいよ?」
    「わかんなーい」
     また小さく笑う。

     エグイくらいに可愛い顔をする時があって、蹴は緊張で首元にじんましんが広がった。

    「出ますから、近寄らないでください」
    「はーい。早く電話終わらせてね」
    「くそっ」


    「はい」
     江坂蹴は気持ちを落ち着かせてから、やっと声を出した。
     それでも、思った以上に低い声で、見知らぬ相手に喧嘩を売っているような雰囲気だった。
     こんな状況で、真面な会話なんてできるものか。
     そう思っていた彼は、電話の相手が誰か考えようともしていなかった。
     とにかく、豊島から離れるための救世主であることを祈っていた。

     相手がすぐに名乗らない。
     コクリと喉を鳴らすような音がして、さらに微かな吐息を耳にした。
    「もしもし、どなたですか?」

    第10話 ブラン・ニュー・デイ

    『どなたですか!』
     唸るかのような、蹴の声がする。
     怒っている、イライラしている、それはこの電話で仕事を邪魔されているからだろうか。
     吹田佳波は、名乗る勇気が出ず、しばらく口をパクパク動かしていた。
     すると、思わぬ声が耳に届いた。

    『ああ、生野(いくの)専務でしたか。失礼しました、いつもお世話になっております』
     急に蹴が一人で勝手に話し始めたのだ。
    『あ、今からそちらの会社に? ……はい、わかりました』
     彼はまるで客先の誰かと会話しているかのように、丁寧で硬質な声を出す。
    『資料を持って今すぐ参りますので、はい、少々お時間頂けますか』

     これは、なんだろう。
     蹴の一人芝居の意味は?
     考えても出てこない佳波は、思わず「江坂くん」と口走っていた。
    『え……』
     急に驚いたように声を詰まらせる蹴に、佳波は必死で訴えかける。
    「あのですね、私、江坂くんがどこにいるのかわからなくて……えと、電話して都合悪かったでしょうか。あの、すぐ、切ります……」
    『あ、待って……』
     蹴の声が一瞬上ずった後、息を止めたのがわかった。
    『あの、お待ちください……。今、どちらにいらっしゃるのですか……?』
     佳波は、変に丁寧な口調の蹴に困りながらも、仕方なく正直に答えた。
    「4階の階段です。……周りには誰もいません」
    『どうして……』
    「謝りたかったので……。私の為にあんなに人気のあるお店を予約してくださって、ありがとうございました。今回のことでようやく、今までの事を思い返して反省しました……。親に決められているからとはいえ、深く考えもせずせっかくのお誘いを当たり前のようにお断りしてきて、本当にごめんなさい……」
     佳波は気持ちが高揚していて、一方的に話し続けた。
     そのため、蹴にどれくらい伝わっているのか、不安になり、さらに焦っていた。
    「申し訳なくて……その……」
     蹴はしばらく黙っていたが、『いいえ。お気になさらないでください』という答えが返って来た。

     もっとはっきり、わかりやすく言わなければ。
     佳波は焦りながら、一生懸命に言葉を探した。
    「申し訳ないのと同時に、そのお誘いの意味に気付けて、とても、とても、嬉しくて……」
     息を吸って、なんとか自分の気持ちに近い想いを吐露する。
    「仕事……じゃなくて、普段から、江坂くんがいつも私だけに付き合ってくださったら、どんなに素敵かと想像しました。独り占め……というか。……わがままですけど」
    『いえ……』
     蹴は、さっきまでより、少しクリアな明るい声を出した。
    『こちらも、そうなることがベストだと思って、今までやってきましたので……』

     佳波はその業務的な返答を聴いて、彼の傍に豊島がいることを、強く感じ取った。
    「それからですね、今、て、豊島さんと二人きりだと伺ったので、それが、私……私……どうしても……気持ちがざわざわして、嫌というか……その……」
    『あぁ……』
     蹴の嘆息が聞えた。

    「江坂くん、私のお願いを笑わずにきいてもらえますか?」
    『はい。どうぞ』
     佳波は自分が言おうとしていることの滑稽さに、羞恥心で声を震わせながら小さく告げた。
    「二人でどこかへ出かけることは多分無理です。でも、江坂くんに、私の……彼氏になってほしいです」
    『…………』
     数秒待ってみたが、蹴が何も言わないので、諦め半分、もう一度佳波は言った。
    「好きっていう気持ちはいっぱいあります。それだけじゃ、だめでしょうか?」
    『…………』

     佳波は思わず目を閉じ、俯いていた。
    「だめですよね。そんなの彼氏とか彼女っていう関係じゃないですよね……」

    『あの……』
     蹴の声が、静かに響いた。
    『その件は、お会いしてからお答えしたいのですが』


     失礼します、そう言って蹴の声は消えた。
     通話が終わってしまった。
     佳波は気が抜けて、階段でへなへなと倒れ込んだ。
     すると、しばらくして奥の応接室でドアの開く音がした。
     乱暴にバタンと開閉された後、1秒もしないうちに、廊下を走って来る江坂蹴の姿が見えてきた。
     そして、彼は全速力で佳波の所までやってくると、そのまま腕を取って5階へと連れて行こうとした。しかし、突然のことで足取りがおぼつかない佳波を見て、4階と5階の間の踊り場で、立ち止まった。

    「吹田さん」
     蹴は佳波を捕まえていた手を離してから、息を整えて微笑んで見せた。
    「携帯いつから持ってたの?」
    「昨日からです……」
    「俺の番号ちゃんと入れといてくれたんだ。ありがとう。助かったよ」
    「助かった……のですか?」
    「ん? いや、なんでもない」

     そして、その笑顔のまま、蹴は鞄を放りだし、佳波をすっぽりと包むように、ハグをした。

     まるで風が吹いたかのようだった。
     蹴の前髪がふわっと頬にかかり、下顎のあたりに彼の肌を感じた。

     佳波は、外国ならば挨拶程度でしかない頬と頬の接触に、硬直していた。
     いろんなものが佳波の体を覆う。
     スーツの匂いや、シャツから伝わる体温。呼吸の音、心臓の音。
     そして蹴の声。

    「どんな形でもいいよ、俺の彼女になってくれるなら……」

     走ってきたせいだろうか。
     蹴の声は途切れ途切れだった。

    「江坂くん……あの……恥ずかしいです……」
    「わかってる。でも、ゴメン、嬉しくて……」

     蹴の手は彼女の髪に触れ、より強く彼女の温かさを引き寄せる。
     彼は佳波を離そうとはしない。

     佳波の体はとても窮屈なのに、目の前が明るく拓けて行く気がした。

     何もかもが新しい世界。
     心がやっと通い合った瞬間だった。

     素敵な毎日が、これから始まるはず、だった。

    第11話 社長と社長の会話

    ”KOTORIE”の社長室では、取締役社長の石橋達馬(いしばしたつま)と、客人が二人、応接用のソファに座って相対していた。
    「本気で仰ってるんですか?」
     石橋は、理解できないと言わんばかりに、わざとらしく声のトーンを上げた。
     ただただ、訝(いぶか)し気に顔をしかめてみせる。

    「石橋さんには面倒なことを押し付けてばかりで、申し訳ないとは思っているんですがね。娘というのはとにかく可愛いものでね」
     そう臆面もなく言ってのけたのは、老舗和菓子屋”しらいし”社長、吹田佳雄である。
     吹田の隣で無表情のまま座っているのは、”K”だ。


    「お嬢さんが可愛いのは分かりますが、だからと言って就労中も様子を見たいというのは……つまり、一日中監視したいと仰っているのと、同じですよね? 政治家でもなく、著名人でもなく、命の危険に晒されている方でも無い、一般の個人をそこまでするのは、……どうかと思うのですが」

    「一般の個人の話をしているのではありませんよ、私の娘です」
     吹田佳雄は、平然とした顔で言う。

     石橋は苦い表情を崩さぬまま、尋ねた。
    「でも、それならばなぜわが社に就職させたのです? 吹田社長のお傍で勤務させれば良かった。いや、いっそ就職などせず、お屋敷から出さずにお勉強させていれば良かったのです……」
    「いえいえ、私は娘に社会経験は必要だと感じています。ただ、一つだけ心配なのは、良からぬ虫がつくことです。娘にはちゃんとした家柄の、経済的にも人格的にも見た目にも優れた男の嫁にせねばなりません」

     吹田の話を聴き、石橋は、はあー、と感心とも呆れともつかない声を出した。
     そして、茶を一口飲んでから、
    「例えば、吹田社長お気に入りの”K”くんのような方でしょうか?」
    と、半ば皮肉にも聞こえるような口調で尋ねた。


     吹田佳雄は、それには答えず、こんな話を始めた。
    「私の娘に対する愛情は、異常だと皆さん仰います。まあ、傍目にはそう見えるかもしれません。でも、ここまでこだわるのには訳があるのです」

     吹田社長が話し出したのは、まだ彼が30代になったばかりの頃の話だった。


     その頃の吹田佳雄は、”しらいし”で若き重役としてもてはやされ、もう既に次期社長の座は間違いないだろうと言われていた。
     社内は勿論、パーティーなどで知り合う女性や、親が持ってくる縁談など、数多くの女性と関係を持ったが、一人だけ、言葉すら交わしたことがないのに、忘れられない人がいた。

     その人は見目麗しく才女で、明るく華やかな良家の子女であった。

     自分には届かぬ人と諦めていたその女性が、なんと、至極普通のサラリーマンと結婚してしまった。
     それを知った当時の吹田は、愕然とする。
     きっと周囲が、その女性の夫となる人間をよく調べずに、望むがまま結婚させたのに違いない。

     娘の選んだ人間に間違いはないと思ったのかもしれないが、それは両親の怠慢以外の何物でもない。
     娘の幸せをもっとよく考えて、結婚という人生の岐路を十分に検討すべきだったのだ。

     やがてその夫は脱サラして料理屋を開き、そして数年後体を悪くして店をたたんだ。
     そんな男を選んだばかりに、その女性は今までどれほど苦労しただろうか。

     夫選びを間違えさえしなければ、今頃華やかな世界にいるはずの人だったのに。



    「私は、佳波にそんな苦労をさせたくない。私がこの男なら、と思える人間が見つかるまで、決して博打(ばくち)にも似た恋愛で、人生の道を間違えさせたくはないのです」


     吹田の話を聴いても、まだ納得できない石橋は、憮然とした表情で腕組みをしていた。

    「それはね、吹田さん。世界中の父親が娘に対して思うことです。しかし、みな、そこまで娘をがんじがらめにはしない。娘は父親のモノではないからです。それでもどうしても、と仰るなら、お嬢さんが恋愛のぬかるみに浸ってしまう前に、一刻も早くお似合いの男性を見つけて婚約でもなさるべきでしょうね」

     石橋の言葉に、吹田は何とも言えない微笑を浮かべた。
    「今、お話した女性ですが、実はこの”K”の母親なのです」
    「ほう……」

    「”K”は母親の苦労を目の前で見て育っています。”K”は分かっているのです。だから”K”を娘と24時間行動を共にさせ、早いうちに状況を把握しておきたい。娘の人生を変えてしまうような人間が近寄って来ないかどうか、を」

     吹田の理屈は結局親馬鹿としか言えない上に、この年寄りの頑固さは死んでも治らないなと、石橋は呆れていた。

    「それで、”K”くんをうちに出向させ、お嬢さんの部署に配属させるという形で調べるのですね……」
    「ご面倒をおかけしますが、どうか石橋社長にはご理解願いたい」
     石橋は自分の顔を両手で覆い、目を瞑った状態でうーむと唸った。
     とりあえず、社内中に監視カメラを付けろと言われるよりは、マシな提案だと譲歩するしかない。
    「決して社内でトラブルを起こさないと約束していただけますか。いや、トラブルだけじゃなく、表立って社員の素行を探るような露骨な態度を取らないと、誓っていただきたい」
    「勿論ですよ。”K”にはただ、佳波の仕事の補佐をして娘の一番傍にいさせることだけで、十分なので」

    「それでは、”K”くんの履歴書を見せていただけますか」
     仕方無いなという石橋の顔と、満足気な吹田の顔。
     その二人の傍で、無表情のまま、一言も語らぬ”K”がいた。




     二人の社長と”K”が、社長室で話している事などまるで知らない佳波と蹴は、豊島に見つからないように、素早く3階のSSのフロアまで戻ってきた。
     佳波を焚きつけた中津を始め、SSのメンバーは、羨望と安堵と祝福と心配……などの入り混じった複雑な表情で、二人を迎え入れた。
    「お二人さん、おかえりっ。その幸せそうな顔は、おめでとうってことかなー……?」
     と、池田。
    「ま、計算通りだろ?」
     と、中津。
    「今年の忘年会は、江坂蹴を祝福する会、に変更かもなー」
     と、皆が笑っているのを、蹴は嬉しそうにはにかんで頭を下げていた。

     ”KOTORIE”社史上有名な、『江坂蹴の三日天下』と言われる、悲劇の始まりである。

    第12話 ミッション

     千里亮人は”KOTORIE”社長室に突然呼び出された。
     それは、吹田社長が訪問してきた日の翌日、18日水曜日のことである。

    「……という事情なんだが、うまく対処してくれるかな、千里くん」
     千里は、石橋が受けた吹田社長の要望を全て押し付けられる形になって驚き、しばし言葉が出なかった。

    「増員ということでしたら、一応デスクは余ってますが……」
    「そうか。じゃ、ま、適当に仕事を与えて、適当に面倒を見てやってくれ」
    「は、はあ……それで良いのですか?」
     千里はちょうど昨日、吹田佳波と江坂蹴が付き合い始めたらしいという噂を耳にした。
     この事は、すぐに本社内で拡散されると思われる。
     なんてタイミングが悪いのだと哀憐する。

     しかし石橋社長は、ろくに戦力にならない吹田佳波のことなどで、一々頭を悩ませている暇はないらしい。
    「その”K”という男を受け容れさえすれば、吹田さんは文句言わないわけだろう。勝手に犯人探しをさせておけばいい」
    「はぁ……」
    「社内がひどく荒らされるようであれば、私から吹田さんに、お嬢さんと”K”のお二人には退職していただくよう勧告する。もう十分あの人のワガママは聞いた」
    「わかりました」
     千里が一礼して去ろうとすると、石橋は思い出したように付け加えた。
    「後で”K”の履歴書を人事部から回しておく」



     さらにその翌日の19日木曜日のこと。
     社長や千里たちの秘密のやり取りがあったことなど全く知らない江坂蹴は、昼過ぎ、仕事先から本社へ帰る電車の中で、なんとなく疑心暗鬼を抱えていた。

     今週は最悪のスタートを切った。
     16日月曜日、佳波を食事に誘おうとしたが玉砕、しかも当日は忘年会の日だと聞かされ気分は最悪。
     一昨日の17日火曜日、豊島にセクハラを受けている状況から、佳波が電話で助けてくれ、なんだかんだで付き合うことに。
     昨日の18日水曜日、夜に佳波から浮かれた調子で電話がかかってきた。
     蹴が驚き疑惑や不審を募らせてしまったのは、その電話のせいなのだ。

     その電話がかかる前まで、蹴は、急に接近しすぎてはいけないと覚悟していた。
     相手は箱入り娘ならぬ箱詰め娘(保存期間20年超)のお嬢様だぞ、と連絡を取るのも控えるべきだと考えていた。
     佳波の心をこちらに向かせることができただけでも有り難いことじゃないか。
     本人も二人きりでデートすることはできないと言っていた。
     それくらいご両親にとって大切な娘を好きになったのだから、我慢は当たり前で、徐々に距離を縮めていこうと思っていたのだ。
     それなのに。

     あっさり長電話が許されていた。
    『9時から11時の間なら電話しても良いんです』

     お目付け役である”K”という人の許しがあったからだと彼女は言う。
     そして、急に携帯電話を持たせてくれたり、夜に誰とでも電話して良いとし、両親へは秘密にしてくれると言ったという。
     なぜ、そんな甘言を鵜呑みにするんだろう。
     ”K”は父親の優秀な秘書だった人間なんだろう?
     これは、あえて佳波を泳がせて、誰が彼女に近づいているのかを見極めるための策略にほかならない。

     佳波はその”K”に対して、会って間もないのにかなり信頼を寄せているっぽい。
     困ったものだ。
     佳波は、お嬢様の特質というべきか、簡単に人を信じてしまうところがある。
     その”K”という男が、彼女の通話記録を取り寄せたり、あるいは携帯電話にアプリを仕込んだりしていても、おそらく彼女は気付くまい。


     蹴が”K”という存在に頭の中を占領され、危機感を募らせていた時、ちょうど会社のビルに帰り着いた。
     3階のSSフロアへエスカレーターで上がろうと、ロビーの自動ドアを入った時の事だった。

     ビルの中に入った途端、彼の目の前に、大きな壁のようなものが立ちはだかっていた。
    「な、なん……」
     やたらデカイ背中が見える。
     身長は190以上ありそうだし、横幅も厚みも蹴の2倍くらいある。
     異様な雰囲気を放つ男がいた。

     このビルの受付嬢が恐怖の表情を浮かべているのも納得できるくらい、訪問者としては不釣り合いな服装だった。
     毛玉が無数にできて、それは裏地じゃないのかと思いたくなるような、着古した感のある迷彩ジャージの上下。
     マフラーらしきものが3枚くらい首元にまとわりついている。
     蹴から見える後頭部は、爆発に遭った科学博士の頭のような、ボワッとしたパーマ。決してアフロとかいう上等のものではない、黒コゲのカリフラワーに似た縮れ毛の塊。
     足元は白か灰色かよくわからない生地に、なぜか明るい水色のラインが入った、小学生でも履かない様なデザインのスニーカー。履き潰した様相でボロボロ。
     真っ黒の軍手のような手袋をし、その手には黒のヘルメットが握られている。

     何者なんだ?
     このビルに爆発物を仕掛けたとでも言って大金を巻き上げようとする脅迫者か?
     それとも、どこかの刑務所から逃げ出してきた逃走中の犯罪者か?
     どこをどうみても、不気味だとしか言いようがない。
     実際、冬だというのにひどく汗臭く、泥だらけだ。

    「だ、誰だっ!」
     蹴は身構えながら、男の後ろ姿に声を発した。
     その男はゆっくりと蹴の方へと体の向きを変え、その全容を晒してきた。
     顔は土気色しており肌はボロボロにあれている。
     黒縁で色の入った大きな眼鏡を掛け、口元は無精ひげで青黒く、分厚い唇もまた体の具合がどこか悪いのではないかと思うほど、色が悪い。
     その男が、蹴に向き直ると、口を開けた。
    「カ、ナ、ミ」

    「はっ???」
     蹴は出て来た単語に驚愕して、頭の中が真っ白になった。
     佳波、と今言ったのか?

    第13話 不確定要素の出現

    「カ、ナ、ミ」
     再度、一語一語、力強く発音され、江坂蹴の顔からは血の気が引いた。
     一瞬、人間ではないのでは? と考えたが、アンドロイドなら標準の人間に寄せるはずだが、色んな意味で個性が強すぎる。
     これは、生活環境が滲み出ている『人間』で間違いない。

    「マ、ツ」
     松? すぐに理解できない、日本語は初めてだ。
     蹴の頭の中にクロスワードパズルのマスが表れ、そこに、カナミマツと文字を入れ込んだ。
     佳波、待つ?

    「ど、どなたですか」
     佳波の関係者ということなら、敬語を使わねばならない。
     しかし、その男はぴくぴくと唇を動かし、口角を上げただけだった。
     笑顔には見えないが、どうやら笑ったらしい。

     すると、ちょうどその時、プーンという音がしてエレベーターの扉が開いた。
     男がエレベーターを振り返る。
     蹴が男を挟んで、エントランスの奥にあるエレベーターを見つめていると、そこから出て来たのは、想像通り、吹田佳波だった。


    「あ」
     佳波は笑顔でその大男を見た後、蹴の顔を見て、続く言葉を失くしていた。
    「す、吹田さん、この人……」
     蹴は、それだけ言うのが精一杯だった。
     佳波はその蹴の様子を見て、クスクスと笑いだした。
    「江坂くん、びっくりしてますねー」

     彼女は受付嬢に同意を求めて笑いかけたが、彼女たちも顔を引きつらせていて笑う余裕がない事に、気付いていない。
     沈黙が流れる中で、ようやく説明の必要性に気付いたのか、佳波は男と蹴の方に歩いて来た。

    「江坂くん、紹介します。この人は私の従兄の浩四郎です」
     佳波は大男を指して微笑む。
     開いた口が塞がらない蹴をそのままにして、今度は大男に向かって蹴を紹介した。
    「浩四郎、私の同期でとてもお世話になってる、江坂蹴くんです」
    「エサカ、シュウ」
     大きな声で名前を呼ばれ、蹴は思わず「はい」と返事をした。

     浩四郎はまた、ピクピクと口角を上げ、
    「カナミ、ヨロシク」
    と発声した。
     それはもう会話ではない。
     発声練習かと思うくらいに腹から声を出して、単語で区切って話す。
     蹴は、どう対応すればよいのか全くわからなかった。
     ただ佳波の顔を見たまま、立ち尽くすしかない。

     すると佳波は相変わらずの笑顔で、
    「江坂くん、浩四郎は柔道三段で、自衛隊に勤めた後、陶芸家になり引退、今はイベント会社勤務です」
    と、不思議過ぎる経歴を極当たり前のように紹介した。
    「東京生まれ東京育ちの純日本人なんですけど、人と喋る時、少し力が入るクセがあって、後、最近仕事がハードで体調も悪いから、無理してる部分もあるみたいです。悪い人じゃないんですよ」
    「エサカ、シュウ、アシタノコト、タノム」
     大声で言われた蹴は、明日? と思い巡らせやっと忘年会の日であることを思い出した。
    「タ、ノ、ム」
     また脅すような大声で言われ、慌てて、
    「あ、はい。吹田さんは、早目に帰ることができるよう、配慮いたします……」
    と、返事をした。
    「ヨロシク」

     浩四郎がようやく、白い歯を見せて笑った。
     蹴はとにかくインパクトに負けてうろたえてしまったが、よくよく考えると、コウシロウはその事だけを伝えるために、ここまでやってきたのだと気付いた。

     これは一種の牽制だと考えた方が良い。いや、脅迫か……?

     意味不明の秘書”K”といい……。
     佳波守備陣、どうやらかなり堅牢であることは間違いない。




    「江坂くん」
     千里はSSのフロアの自分のデスクから、蹴を手招きした。
     帰社早々、浩四郎の洗礼を受け、若干弱っている蹴ではあったが、気を取り直して午後の業務に取り掛かっていた矢先だった。
     千里の表情はどこか浮かない。
    「忘年会の幹事、ご苦労さま」
     千里の元にやってきた蹴は背筋を伸ばして、デスク脇に立った。
    「いえ、豊島さんがうまくまとめて下さるようなので、私は大したことはしていません」
    「そう……」
     千里はどう切り出そうか悩んだあげく、遠回しに尋ねた。
    「君は本社近く、……電車で一駅か……そこで一人暮らしをしているそうだが、実家からは通えないくらい遠いのかい?」
    「いえ、電車で1時間もかかりませんが……。父がもうずっと入退院を繰り返していて母も大変なので、自分は一人立ちした方が邪魔にならなくていいかなと。それだけの理由で一人暮らしをしています」
    「そうか……」
     蹴はその場で黙って立ったまま、千里の問いの裏にある本音を読み取ろうとしていた。
    「ご両親、大変だね。近くに親戚とかサポートしてくれる人はいるの?」
    「それは大丈夫です。母方の祖父母が経済的に支援してくれ、叔母が送り迎えなどしてくれていますので特に困っていることは無いと思います」
    「そうか……」
     もう何度目かの嘆息を漏らし、千里は浮かない顔をする。
    「あの、何か、問題でもあるんでしょうか?」
     蹴は千里の憂鬱そうな表情には、心当たりが無く困惑した。
    「いや、なんでもない。戻っていいよ、ありがとう」
    「……はい」
     蹴は消化不良のまま、一礼して自分のデスクに戻っていった。

    第14話 忘年会前日

     ふと気付けば明日は20日。
     蹴は、佳波を忘年会に不参加にさせることや、自分の名前で取ったレストランの予約のことを、間際になるまで放置して忘れてしまっていた。
     佳波とうまく付き合い始められたのは良かったけれど、恋人同士としての道はまだよちよちと歩き始めたばかり。今回のクリスマスディナーも、彼女にプレゼントしたものの遠慮され、今、宙に浮いている状態だった。
     言い訳ではないが、この一週間、蹴の周りでは色々ありすぎた。


     蹴が夜8時半過ぎにアパートを出ようとして鍵をかけていると、背後から「えい!」という声が聞えてきた。
     尻の窄(すぼ)みに激痛が走る。
    「いてっ」
     カンチョウして来たヤツを振り返ると、思った通り、梅田愛葉だった。
     両手の人差し指と中指を突き出して手を組み、忍者のように構えている。
    「……おまえな、……ガキか」
    「背中やオシリを不用心にさらけ出してるから、そういう目に遭うのさ」
    「暗い場所で、鍵穴に鍵を挿し込んでる時は誰でもそういう姿勢になるの」

     もはや、なんでおまえがここにいるんだ、という質問は不要だった。
     梅田は蹴の実家の近所に住んでいるが、ことあるごとに実家からの伝言やら差し入れやらを持って、蹴の部屋にやってくる。
     さほど距離は遠くないとは言え、母は梅田のことを早くて便利なバイク便くらいに思っているのではないか。
    「おまえはホント暇なんだな」
    「愛しい彼女がやってきたのに、その言いぐさは何だよー」
    「違う違う。知人」
     顔を振って取り合わない蹴に、梅田は溜息をついた。

    「こんな時間からどこ行くの?」
    「会社の上司と居酒屋」
    「あ、じゃ私も一緒に行く!」
    「だめ」
    「いいじゃん。私、場を和ませるの得意なの」
    「仕事の一環なのに、他人が入って場を和ませる必要は……」
     そう言いかけた蹴だが、少し考えて梅田の顔を見た。
    「おまえさ、明日の夜ってヒマ?」
    「うん……? 何、何、デートのお誘い?」
    「うん」
     蹴は、明日20日の19時、”La lune bleue”という店で食事しない? と尋ねた。
    「えっ」
     梅田は驚いて目を丸く大きく見開いて蹴の目を見つめた後、ブンブン縦に顔を振り、
    「ヒマヒマ、ヒマしすぎてスケジュール埋めるのに忙しいくらい! 金曜だしデートにぴったりだよねー!」
    「オッケーじゃあ、19時、遅れんなよ」
    「場所は……? 迎えに来てくれないの?」
    「自分でスマホに聞いて来い」
     そんな事を言われても、わーお、キャーッホーと跳び上がって喜ぶ梅田を尻目に、蹴はさっさと部屋の前から道路まで彼女に気付かれないように走り、タクシーを捕まえた。
     車中で、蹴は携帯電話を取りだした。
    「あ、千林? 明日夜時間あるか? ってか、そうじゃなきゃ困るんだけど」
     千林はふてくされ気味に、
    『なんだよ、俺はおまえのパシリじゃねーぞ』
    と反発するのを抑えて、何も聞えなかったかのように告げた。
    「あした駅前の、ラ・ルン・ブルって店で、梅田と食事のセッティングしたから、っと、勿論日頃お世話になってる千林くんのために食事代は俺が出す」
    『ひゃい? はあ?』
     千林が驚いて妙な擬音語を口から零しているのも気にせず、蹴は、
    「俺の名前で2名、19時に予約してあるから、10分前には絶対来いよ、で、うまくやれよ!」
    『うわ、うわ……』
     蹴はとりあえず必死で取った予約が無駄にならずに済んだことで安堵していた。
     千林が梅田のことを憎からず想っていることは、周知の事実である。
    「問題を一つ解決し、かつ、良い事をしたあとの気分は爽快だな」
     おもわずつぶやく蹴だった。

     タクシーの車中、佳波からかかってきた夜9時の電話で、蹴は自分の失策を詫びた。
     もう一つの方の問題は、謝るほかない。
    「今日コウシロウさんが会社に来たことで思い出したんだけど、忘年会出席にしたまんまで進めちゃってゴメンね。吹田さんだったら、用事があるって言って欠席しても許されたと思うんだ」
    『いえ、忘年会は会社の行事ですし』
     佳波の声は明るかった。
    『それに、夜まで江坂くんと一緒にいられると思うと、とても嬉しいんです』
    「そ……か。ありがとう」
     佳波の気持ちは嬉しかったが、そこのところを箕面浩四郎にしっかり釘を刺されたばかりだったので、彼女を早く帰さねばならない。
    「豊島さんから人数の最終確認があったから、それじゃ出席者として数えておくね」
    『はい……』
    「それじゃ、今から居酒屋さんに顔出してくるから、また、明日ね」
     蹴がそういうと、佳波は聞き取れるか取れないかくらいの小さな声で『豊島さんと二人でですか?』と訊いて来た。
     そこは確かに、気になる部分かもしれない……。
    「二人きりじゃないよ。千里さんもいるし」
    『あ、そうなんですか。よかったです!』
     沈んだ声の後に聴く、明るい声。
     やはり、豊島のことは急いでなんとかせねばならない。


     豊島の都合で9時頃に居酒屋に集合ということになっていた。10分遅れて着いた蹴だったが、店にはまだ誰も来ていなかった。
     店はこんな時間だというのに客が少ない。
     安っぽい造りなのに、チェーン店より値段設定が高め、ということが最大の原因なのではと蹴は思った。少なくとも、流行やコストパフォーマンスに敏感な人は、わざわざこの店を選びそうにない気がした。



     その頃、千里はまだ会社に居て、人事部から回ってきた”K”の”履歴書等個人情報書類”に視線を落としていた。
     履歴書に基づいて人事部で作られた書類は、タブレットで見ることができる。勿論、パスワードは厳重管理されている。
     人事部は急ぎの業務がほかにあったのか、それとも社長からの指示が遅かったのか、”K”の書類が見られるようになったのは、今日の午後だった。
     その中身を見て、不可解に思った千里は、思わず江坂蹴を呼び真相を聞こうと考えたが、やはり社員の目がある場所で訊くことはできないと判断し、今夜の居酒屋集合に顔を出すことにした。
     蹴と豊島は明日の忘年会の下見の為に、というか宜しくお願いしますよという挨拶も兼ねて居酒屋へ行くのだが、千里の目的は違った。
     ”K”という人物について、蹴と話がしたかったのだ。

    第15話 初対面の江坂くん

     千里は溜息をついた。

     吹田社長の話を石橋の口から聞いた。
    『うちに来る予定の”K”くんという人は、苦労人らしくてね。お母さんは良家の子女だったのに、普通のサラリーマンと結婚した。脱サラして店を出した夫はそのうち病気になって、店を潰した。”K”くんは吹田さんに拾ってもらったおかげで今がある。吹田さんはさ、良家の子女が普通の男と結婚すると不幸になると信じ込んでるんだよ。そこで、悪い虫を追い払う役目としてお嬢さんの周囲をがっちり守りたいらしいんだな』

     千里は江坂蹴のページを開き、”K”と見比べた。
     履歴書から見えるのは学歴と社に対する想いの一部にしか過ぎないが、蹴に聞いた話では、父が入院しており、母方の祖父母などに支援してもらっているという。しかし大学は普通に出ている。
     二人の家庭環境が一部似ている、と言えなくはない。

     履歴書に添付されるはずの写真画像が、”K”の分は貼られていない。
     なにやら手違いで遅れたらしく、手元に実物の証明写真が回されてきた。

     顔は、蹴によく似ている。間違いない。

     いや、写真に頼らずとも、この二人の関係を決定づける資料が、その書類には入力されていた。
     ”K”の本名が、”江坂彗(えさかけい)”と記されていたのだ。

     石橋はきっと履歴書など見ずに人事に渡したのだろう。見ていればわが社の有能な若手社員のと同じ名字だくらいは気付くはずである。

     ”K”の方は目の前にしているので顔つきはわかるだろうが、江坂蹴の容貌についてはよく知らない。そんな石橋や吹田社長では、この違和感に気付けないのだ。
     この二人は5歳の年齢差があり、色々考察してゆくと、兄弟としか思えない。

     兄が、弟の敵に成る日が刻々と迫っているという事では無いのだろうか。
     当事者たちは、そのことをわかっているのだろうか。
     千里はそれが知りたかったのだ。



     その頃、豊島沙穂は会社からの帰り、居酒屋に向かって通りを歩いていた。
     目の前を背の高い男が歩いている。
     真っ白の良質のダウンコートを着て、黒のパンツ、磨かれてぴかぴかの靴、ブランド物の皮のリュックという後ろ姿からは、イケメン以外想像できない。
     興味本位で豊島はその男に近づいた。通りを歩いている女子がみな彼を振り返ってゆくのだから、これはイケメン確定である。
     速足で追い抜いて、すれ違いざま、横眼でチラ見してみた。
     そしておもわず、立ち止まった。
    「あれ、江坂くん……」

     立ち止まった豊島につられるように、男も立ち止まりお互いにじっと顔を見つめ合った。
    「どなたでしょう?」
     戸惑った笑顔で尋ねる男は、まさに江坂蹴そのものである。
    「な、なにとぼけてんの。……」
     とは言ったものの、顔は蹴なのだが、背の高さや雰囲気が違うせいで後ろからは蹴だと気づけなかった。確かに夜の街灯りで見ているので、確信をもって間違いないとは言いづらい。これは、人違いなのか、それにしては似過ぎている……。
    「……江坂くんじゃ……ないの?」
     幾分弱気な感じで尋ねると、相手も困惑して「……江坂ですが」と答える。

     変な空気が流れた後、男の方が眼鏡を取りだしてかけると、もう一度豊島を見つめ直した。
    「やはり、私の知り合いの方ではないですね……。弟と間違えてらっしゃるのでは?」
    「えっ!」
     豊島は呆然としてその言葉を聞きなおした。
    「弟と間違えてるって、それは……」
     相手はフッと笑って眼鏡をまた外した。
    「そんなに似てますか。5つも下の蹴と間違えられるなんて恥ずかしいですね」
    「しゅ、蹴くんのお兄さんでしたか……失礼しました……」
     まだその男を見つめながら、信じがたいという表情で豊島は謝った。
    「弟のお知り合いということは、彼と同じ学校とか会社の方……ですか?」
    「はい……あ、私、以前同じ部署だった、豊島沙穂と申します」
    「私は、彗です。江坂彗と申します。弟がお世話になっております」
     彗は丁寧に頭を下げた。
     そして、コートの中のポケットを探して名刺入れを取りだして、まるで大手の取引先と交わすかの様に、豊島に両手で名刺を差し出した。
     私服のような服装であっても名刺入れを持ち歩くのは、これはモデルかホストか何かなのでは、と豊島は胸をときめかせていた。
     豊島も慌てて自分の名刺を探して差し出した。
     彼からもらった名刺は、表面には、
    『しらいし 社長秘書 Kei 』
    とだけ印刷されており、裏面に会社の連絡先が書かれてあった。

    「海外での生活が長かったので、私はずっと”K”という名で通していました。本名の江坂と呼ばれたのは久しぶりです」


     か、かっこいい!
     豊島沙穂の心の声がそう叫んでいた。

     豊島からもらった名刺を見て、彗の表情も微妙に変わった。
    「ん……、”KOTORIE”さんの社員の方ですか……というと弟も”KOTORIE”さんでお世話になっているということですか?」
    「そうですよ、ご存知ないんですか? 蹴くんは”KOTORIE”の優秀な営業部員なんです!」

     全然自分になびかない弟の蹴よりも、こっちのお兄さんの方が数倍魅力的で可能性があるじゃない!と、勝手に衝撃の対面を喜んでいた。
    「あ、あの、今から少しお茶しませんか? 職場での弟さんのこと、気になりません?」
     豊島が自身最高級の笑顔で彗にお誘いをかけた。
     彗は、瞬きして少し困ったように言った。
    「もうしわけありません。今日はたまたま用事があったので外出していますが、本来この時間は社長宅で待機していなければならないもので。……また、次の機会を楽しみにしています」
     社長宅……と聞いて、豊島はすぐに吹田佳波を思い出した。
    「吹田さんのお宅ですか?」
    「そうです。……ああ、”KOTORIE”さんなら、お嬢様もお世話になっていますよね」
     彗はそう言って笑ってみせた。

     恋に落ちると、胸がきゅーんとなるという表現は、本当に文字通りだと豊島は思った。
     彼の笑顔を見て、ハートをワシヅカミにされたような切ない痛みが走った。
     男性遍歴は豊富な方だと思うが、こんなにピュアな感情が湧き上がるのは初めての経験だった。

     この人を逃してはいけない。
     蹴に紹介してもらおうと、豊島は心に決めた。

    第16話 ”K”氏の告白

     社長宅に戻った”K”は、吹田佳波の部屋をノックした。
    「はい、何か」
     相変わらず臆病なお嬢様はドア越しに不安そうに訊いて来た。
    「お嬢様にお伝えしておかねばならないことがあります。明日の忘年会のことですが、社長の命(めい)でわたくしも参加することになっております」
    「ええっ」
     少なからず驚いた声が聞え、そっと扉が開いた。
     そして、また、鈍感なお嬢様は二度驚いたのだ。
    「ケ、”K”さん……今日一日お会いしなかったと思っていたら……いつ髪を切ったのですか?……髪の色も、淡い素敵な栗色だったのに真っ黒に染められたのですね。…………え、あれ、江坂くんに似ている気が……?? 眼鏡、外してみてください……」
     普段、”K”の言葉に従順で控えめな佳波であるのに、この時ばかりは思わず眼鏡に手を伸ばすほど、我を忘れていた。
     その佳波の手をよけるように、一歩下がった”K”は、
    「明日以降のことについて、お話があります」
    と、話を続けた。
    「温かいミルクティーをおいれいたしますので一階のリビングでお待ちください」
     訳が分からずしきりに瞬きをしている佳波に対して、”江坂彗”は、丁寧に説明する必要があった。


     広間のソファにちょこんと座っている佳波の前に、彗は静かに紅茶のカップを置いた。そして彼女の斜め向かいに座った。
    「社長や奥様、箕面さんが戻られる前に、どうしてもお話しておきたいことがあります」
    「はい、なんでしょうか」
     改まった彗の言葉に、佳波は緊張しきりであった。
    「私を見た時、蹴に似ていると思ったのでしょう?」
    「あ、……はい」
     佳波は、恐る恐る頷いた。
     突然、蹴と言う名前を出されたことで、ドキリとした。そして、彗が「私たちは兄弟です」と告げたことで、少し安堵し緊張がほぐれた。
     彗は、眼鏡を外し、垂れた前髪を少し後ろへ流してみせた。
    「江坂くんにそっくりです」
     頬を紅潮させて興奮気味に呟く佳波を見て、彗はにっこりと微笑んだ。
    「わざと隠していたわけではないんですよ。私はお嬢様の会社に蹴がいるとは全く知らなかったのです」
     彼は再び眼鏡をかけた。


    「私は、高校時代から父が始めた料理店を継ぐつもりで、ずっと父を手伝ってきました。二十歳まで。その後、父と諍(いさか)いになってになって店を辞めたのですが、その時、ある方が私のことを拾って下さいました。それが吹田佳雄さん、あなたのお父様です」
    「そうなんですか?!」
    「はい。店のお客様で母と面識が合ったか何かがきっかけでしたが、週に何度も通って下さる上顧客でした。当時……今から9年前ですが、吹田社長は高校しか出ていない私に、”しらいし”で働くために海外での語学留学と同時に和菓子の幅を広げるための菓子類つまりスイーツの勉強をしてきてほしいと言って下さいました。私などに期待をかけてくれたのです。脱サラして流行らぬ店の経営で母に苦労させている父とは大違いだと、その時の私は反抗心から家を飛び出し社長についていきました」
     彗は自分で持ってきたグラスに水を注ぐと、一口飲んだ。佳波も、沈黙に困って冷めかけたミルクティーを口にした。

    「私が日本に戻ってきたのは二年前でした。すぐに社長は私に秘書としての役目を与えて下さり、今に至るわけですが、当然ながら私は社長には大変恩義を感じています。しかし、社長が娘のあなたのことが心配で仕事も手に着かない状態だという悪い噂を社内で聴き、私がお目付け役を買って出ました。大変失礼な事を言うようですが、私はあなたを守るためではなく、社長を安心させ悪い噂を消すためにこの仕事をしているのです。……申し訳ありません」
    「……いえ、わかります」
     佳波はコクリとうなずいた。
    「だから、あなたが誰かと付き合うことがあっても構わないと思っていた。というよりも、まともに恋愛すらしたことのない人はどこか寂しい人だと思いますから、私がお目付け役を担当しているうちに誰かと楽しい時間を過ごしてくれればよいと思っていました。かと言って社長に知れるほど深い関係になられては困ります。そうなる前に私が手を打つつもりでした……」
    「えっ……」
    「えっ、と言われましても、……当然でしょう……」
     彗は佳波の目をじっと見つめた。
     佳波は思わずその視線に眉を寄せ、苦しそうに言葉を吐いた。
    「”K”さんが許してくれていても、私は隠れて恋愛をしなければならないのですね。というより、本気で好きになってはいけないのですね?」
    「社長の深い愛情をご存知なら、おわかりでしょう」

    「……私は明日から”しらいし”を離れて”KOTORIE”でお嬢様の補佐をします。お嬢様に幸せに過ごしてもらうために」

     佳波は思わず視線を上げ、彗の顔を見つめた。
     彼は静かに目を伏せていた。


     佳波は自分が世間知らずであることを承知している。
     そのせいで何か意見することは殆どできない。自分の方が間違っている可能性が高く、恥ずかしい想いをしたくないという気持ちからだ。
     しかし、この時はそんなことを考えている余裕はなかった。
    「”K”さんがパパに恩のようなものを感じていらっしゃることはわかりました。でも、”KOTORIE”まで来て私の見張りをするなんておかしいです……と思います……」
     精一杯の反抗の言葉だった。
    「家でも、会社でも、みたいに24時間張りつくことって、必要でしょうか……。”しらいし”の社員として、それではつまらないのでは……? せっかくの海外での経験も無意味になってしまうし……」

     彗は静かな笑みを浮かべて言った。
    「私はもう”しらいし”では用無しだということです。ただ”しらいし”では用無しでも吹田家で必要とされていると感じました」

    「何が何でもお嬢様を素晴らしい男性と結婚させる、それが私に課せられた役割なのです。それでなければ社長の安寧は得られないと、ようやく気付きました。お嬢様の幸福な未来を私に託されたのです」
    「そんな……のって……」
     思わず佳波は両手を握り締めて俯いた。
    「私の未来は、”K”さんやパパの手で創られるものではないはずです」
     彗はしばらく黙って居たが、にこやかな表情は変えなかった。
    「気楽にお考えください。今まで通り恋愛は自由です。ただし、結婚は別ものというだけです。そして……」
     彗は一呼吸置いて言った。
    「ただ一つお願いがあります。蹴とだけは関わらないでください。あいつを傷つける役目はしたくない」

     江坂彗は少し寂しそうな笑顔を見せた。

    「”KOTORIE” で勤務すれば必然的に弟と逢うことになるのでしょうね……」


     佳波は紅茶を残したまま、立ちあがり自室へと走って戻った。
     そんなことを言われても、もう、江坂蹴から離れろと言われても無理なのだ。
     好きになってしまった。

     お互いに想いが通じ合ったばかりなのだ。

    第17話 遅れて来た千里室長

     江坂蹴は夜9時半、居酒屋のカウンターで一人ビールを飲みながら、千里亮人と豊島沙穂が来るのを待っていた。
    「すみません、ビールおかわり」
    「はい。遅いね沙穂ちゃん」
     店長が低い声でそう返してきた。そしてすぐにビールとさきほど頼んだ焼き鳥が、蹴の前に並べられた。
    「私も遅れて来たけど、まあ、うちはだいたいこんなもんです」
     蹴は半分呆れつつそう言い、焼き鳥に食いついた。
     なんというか、固くてパサパサしていて、あまり褒められた味じゃないなと感じたが、知り合いの店だから仕方が無い。
     自社の業績も思わしくないのに突如強引に忘年会を開くなんて、パワハラ経由アルハラ行きって感じだな、と一人で呟いていた。と、その時だった。
    「こんばんはー!」
     そんな威勢の良い声が聞えて来たかと思うと、背後から肩をむんずと掴まれてゆっさゆっさと揺すぶられた。
    「な、なんだ」
     振り返ると、豊島沙穂が満面の笑みを浮かべて立っているではないか。
    「豊島さん……」
     もうどこかで一杯やってきたのかと思うようなその態度に、蹴は困惑した。
     そんな蹴の隣の席にドッカリと腰を下ろし、居酒屋の店長に向かって豊島は手を振る。
    「あ、沙穂ちゃん、ありがとうねー」
     店長もにこにこ顔で応対する。

     いつもはもっとねっとりとした色気があったような気がするが、今夜の豊島はやけに明るい。
    「室長は?」
    「知らないわよ、そーれよーりさー!」
     隣に座ったのをいい事に、腕をバシバシと叩かれ続けた。
    「な、なんですか、そのテンション」
    「さっき江坂くんのお兄さんに会ったよ!」
    「え」
     絶句した蹴の腕をさらに、叩き続ける豊島だった。
    「もー、かっこいいのなんのって、なに、二人、似たような顔しちゃってさぁ~。兄弟そろってホストクラブでも開きますか、ってな~」
     まだ飲んでもいないのにどこまでも上機嫌である。

    「あのー……。ホントの話ですか?」
     小型犬のようにきゃんきゃん喜ぶ豊島を前に、蹴は一転どろーんとした眼で低い声を出した。
    「マジよマジ。さっき、そこの通りを歩いてたら江坂くんそっくりの男の人に出会っちゃって、声かけちゃったわよ……それで……」
     豊島の話を最後まで聴かず、蹴は店を跳び出した。

     通りを探したがそれらしい人はいない。歩道橋を駆け上がり、上から見渡していると、さっき飲んだジョッキ2杯分のビールが急に回って来て足元がふらついた。
     思わず歩道橋で手すりにつかまり崩れんばかりに座り込んだ。



     居酒屋では、豊島が店長と話をしていると、千里がようやく顔を出した。もう10時近い。
    「お疲れさまー。なによ、またサービス残業?」
    「いや、まあ……。てか、江坂くんはまだなのか?」
     千里は驚きつつ、豊島の隣に腰を下ろす。
    「来てたわよ、でも、帰った。飲み逃げよ!」
    「え! ええー? 帰っちゃったのか……」
     千里は思わず電話を取りだして江坂を呼び出そうとしたが、それを豊島に止められた。
    「どしたの? いいじゃん、こんな時間だし。江坂くんいなくても大丈夫よ」
    「いや……俺は個人的に聞きたいことがあって……」
    「個人的な興味? やだー、お兄さんのことだったりして~」
     豊島の爆笑に、千里は携帯を落としそうになった。
    「何、その……お兄さんの話、聞かせてくれよ……」
    「いいのかな。だって、その話した途端、江坂くん飛び出して行っちゃったわよ? なんか言っちゃいけないワードだったのかしら?」
     もう何杯目かのチューハイでできあがっている豊島は、勿体ぶってにやにやと笑い続ける。
    「そ、そうなのか……?」

    「ホントかっこいいよ、江坂くんの兄貴。江坂くんの30%増しで輝いてる感じ」
    「おまえ、会ったのかよ!」
    「そそ、ほら、これが名刺……」
     豊島は大事そうに”しらいし”の名刺を両の掌にのせて、千里に見せた。

     ”しらいし”の名刺、Kei の名、間違いない、江坂蹴の兄、彗のものだろう。
    「違うんだよ、これ……」
     何と言っていいか、深いため息をついた千里だった。
    「違うって何が? ホンモノよ?」
    「いや、ホンモノなんだけどさぁ……」

     その彗は”しらいし”から出向してきて、明日の朝から”KOTORIE”に勤務することになっているのだと、豊島に説明した。
    「ホントなの!!」
     豊島は大きな口を開けて、眼も見開いて、千里を呆然と見つめた。
    「そうなんだよ。それで、その事を江坂くんが知っているのかどうか、ききたくて……」
    「そりゃ兄弟なんだから、知ってるでしょー?」
    「ん……複雑そうだからなあ……というかさ……」

     江坂彗が”KOTORIE”にやってくるのは、吹田佳波に良からぬ虫がつかないようにするためであるのに対し、その弟である江坂蹴は佳波と付き合っていてうかれている状態。
     これをどう解釈する?
     どうかんがえたって、兄VS弟の構図だろう?

     千里にそう言われて、豊島はキョトンとした。
    「やっぱり江坂くん吹田さんと付き合ってたのね……。いや、ちょっと待って!」

    「なんだよ……」
    「急に忘年会を開くことになった理由は、何でしたっけ覚えてます?」
     元恋人に頭が上がらない姿を、江坂蹴に見られなくてよかったかもしれないと、千里は思っていた。
    「わ、わかってますよ。それは豊島沙穂さんが、うちのSSに戻って来る前祝い……」
    「そうよ、私来月からSSだからね。忘年会の主人公は、私なんだからね。やめてよ、祝いの席で血みどろ対決なんてサイテーよ。しかもその中心のヒロインは吹田佳波ってことになるじゃないの」

     そうなんだけどさぁー、と千里は頭を抱えた。
    「でも大丈夫!」
     豊島沙穂は、今度は千里の腕をバンバンと叩きながらにこやかに言った。
    「お兄ちゃんの方は、この私が骨抜きにしてあげるから、兄弟対決が華やかなのも最初のうちだけよ!」
    「そ、そうかな……」

     当然この二人に、これから起こるいびつな恋愛多角形について、想像が及ぶはずもなかったのである。

    第18話 反逆児、起つ

    「お久しぶりですね。お元気そうでなによりです」
     しんとしたSSの室内で、江坂蹴は対面した兄”江坂彗”に向かってそう言い放った。

     そう、今日は20日。
     始業少し前、朝礼とまではいかないが軽くみんなの注目を集めた千里が、新しいメンバーとして紹介したのが”しらいし”からの出向で来た、江坂彗である。

    「あなたが江坂家から消えて、何年になりますかね?」
     蹴が真顔で訊ねると、彗はにっこりと微笑んだ。
    「消えたとは神がかり的ですね。海外で学んでいただけですが……そうですね、9年ほどになりますか」
    「それはそれは。もう江坂家とは縁を切られたのかと思っていましたよ。あなたは父の具合が悪いのを知っていながら店をやめた。家族を捨てたんですからね」

     千里室長を始め、SSのメンバーたちは、不穏な空気を感じて、笑顔を消した。
     笑っているのは蹴と彗の二人だけだ。

    「それで恥ずかし気も無く、まだ江坂の名字を名乗ってるんですか?」
    「便宜上仕方のないことです」
     彗は弟に向かって、優しい目で言った。
    「今日から、こちらの店舗管理チームでお世話になります。どうぞ、よろしくお願いいたします」

     蹴はその言葉の意味を瞬時に解析する。
     仕方なく江坂を名乗る、つまり本名を使うのは”KOTORIE”で勤務するため。
     勤務するのは、間違いなく吹田佳波を監視するため。
     そこには佳波の両親の、娘への過剰なまでの束縛と管理が存在している。

    「そうですか。会社では私の方が先輩なので、一応顔をたててくださいね」
    「勿論です。雑用係が増えたと思って下さって結構です。蹴さん」
    「なるほど、よろしく」
     にこやかに微笑む二人の間に、冷たい氷の剣を隠し持っているのが、完全にチームの皆に伝わった瞬間だった。

     蹴はくだらない時間だったと言わんばかりに、自分の席に着くと業務に取り掛かろうとした。
     すると、千里室長が困惑しながら蹴の背中に声を掛けた。
    「江坂くん座席なんだが……あ、いや、これからは蹴くんと呼ぶべきだね、混乱する……。彗くんの席を吹田さんの隣にしたいんだが……」
     言われて蹴は動きを止め、目を細めて苦い顔をした。
    「それはつまり」
     蹴は千里を振り返った。
    「私のこの席を、彗に譲れとおっしゃってるんですね?」
    「う、うん。申し訳ない……。いや、吹田さんと彗くんを別の島に移してもいいんだが……」

     蹴は手に持っていたボールペンを置いて、ギュウッと拳を握りしめた。
    「わかりました。私はどこへ移動しましょう。あ、それから、私のことは今まで通り江坂と呼んでください。名前で呼ぶのは、彗だけでいいのでは?」
     千里の目を見ずに言う蹴に対し、彗が口を開いた。
    「そうですね、江坂さん。そうしましょう。私は彗と呼ばれる方が好きですので」
     何気ない彗の、一語一語が蹴の気に障る。
     抑えていたはずが、もう、勝手に声が大きくなっていた。
    「どこへ移動ですか、室長!」
     感情を抑えられず爆発させた蹴は、ほとんど千里に八つ当たりのような言い方になってしまった。
     
     しんとなったSSで、千里が言葉を発した。
    「江坂くんらしくないな」

     蹴は言われて、俯いた。
    「失礼しました。すみません」
     顔をあげない蹴の表情は、誰も見ることができなかった。

     そんなひっそり静まったSSのフロアに、手洗いから戻った吹田佳波が入ってきた。
     と同時に、皆が気を遣うように、そして兄弟の確執など何も見なかったように、空気を掻き消して仕事に戻り始めた。
    「江坂くん、俺の隣空いてるよー。こっちこっち」
     そう言ったのは隣の島の服部だった。
    「あ、はい……」

     蹴が席を立ち、荷物を運び始めるのを、佳波は驚いた目で見つめていた。
     思わず目が合った池田に、佳波は問いかける。
    「江坂くん、引っ越しですか?」
    「う、うん。今日から、そこ、彗さんが座るんだって」
    「あ……”K”さんが」
     彗は改まった様子で、佳波に一礼した。



     彼女を取り巻く環境はどんどん父親に固められてゆくのだなと、蹴は思った。


     江坂蹴は、その時確かに奈落の底にいた。
     絶望的なほどガードの硬い吹田家の構図。
     自分の人生でさえ吹き飛ばされてしまうかもしれない、大きな権力。
     その権力の一端に、実の兄が絡んでいようとは、想像の域を超えている。
     あまりに馬鹿馬鹿しくて、唖然とし、呆然と立ち尽くし、そして彼は自分の足元に目をやった。

     俺の足は底なし沼に埋もれているのか。
     いや違う。
     目の前に高い崖が並んでいるのを、ただ見せつけられてビビっているだけで、足元はちゃんとした地面だ。
     なぜなら、沼は自分の心が生み出すものだから。
     もう動けないと思えば、そこは沼地となり沈むだけになる。

     江坂蹴という人間の一番の取柄は、逆境になればなるほど闘志が湧くという性格。
     足元が地面である限り、いつかは登り始める。そこに黙って蹲っているなんて、意味が無いからだ。
     動けるなら這い上れ。
     動けるか動けないかは、自分の気持ち次第だ。


     そんな崖がなんだ。
     実の兄の存在がなんだ。

     登り切った後の爽快感を思うと、今からゾクゾクする。

    第19話 忘年会の楽しみ方

     その居酒屋は、店の構造上カウンターか小さなテーブルしかないため、全員が顔を合わせるような形での宴会にはならなかった。ただSSチーム全員が参加しても、元々人数が少ないため十分と言えば十分な形ではあった。
     SS全員に加え、豊島沙穂、江坂彗が加わったとしても21人。3、4人ずつでテーブル6つほどにばらけて座っていた。
     主賓として譲らない豊島沙穂と、室長である千里亮人だけはカウンターで飲んでいる状態。
     そこへ皆が順々に酒を注(つ)ぎにくる。

     忘年会が始まる前に、皆でこっそり話し合った。
     その時に、千里と豊島を酔わせてしまえば忘年会なんて面倒なものに長い時間付き合わなくて済むという結論に至り、泥酔させるべくお酌攻撃を決行することになっていた。

     ただ、その攻撃には不参加を表明しているものが数人。
     幹事である江坂蹴は賛成するわけにいかなかった。後で叱られるのは彼になる。
     服部もまた、ナンバー2としてアルハラに参加はできない。しかし半ば黙認の状況。
     吹田佳波は、早く帰りたいという気持ちがないため、積極的な参加はしない。佳波は蹴と少しでも長く一緒にいたいという希望がある。
     江坂彗はというと、佳波を送り迎えする運転手でもあるため酒も飲めず、宴会など早く切り上げたいのだが、SSに入って早々にそんな攻撃に参加するほど無分別では無かった。

     千里は酒に弱いため、さほど飲まさなくてもすぐに寝てしまうのだが、問題は酒に強い上に酒癖が悪い豊島沙穂であった。
     絡まれたのは、仕方ないというべきか、彼女の目下のターゲットである江坂彗であった。

    「彗くーん、てか、同い年だよね、彗って呼んでいい?」
    「どのようにでも」
     彗は目線を合わせないまま、小さく顎を引いた。
     4人掛けの席に座っていた彗の向かいには、佳波がいて二人きりだったはずが、彗の隣に豊島が座り、割り込んできた。

     SSのメンバーはそれをみながら囁く。
    「もう豊島姐さんは彗さんに任せて、俺たち消えてもよくない?」
    「そだね、そろそろ抜けてもバレないよ」
    「千里さんは完全に寝てるし」
    「服部さんと江坂はやけ気味だから、触れないでそっと抜け出そうぜ」

     そのたまり場に、いつの間にか江坂蹴が顔を出した。
    「ちょっとちょっと、勝手に抜けるのは構わないけど、会費お願いしますよ、男子五千円、女子四千円、計算しておつりは月曜に払います」

     たった半時間ほどしかいなかった飲み会にしては割り高だとブーイングが出たが、蹴には関係の無い話。
    「元を取りたかったらどうぞ、ゆっくり飲んでって」
     言われて、とにかく早く帰りたいメンバーたちは、渋々サイフを出して支払いを済ませ、そっと会場を抜け始めた。


     そんなふうに幹事を務めながらも、蹴は、兄と佳波の様子が気になって仕方がなかった。
     服部と同席して飲んでいても上の空だった。

    「な、江坂くん」
     服部に声をかけられ、ハッとして笑顔を作った。
    「なんですか?」
    「俺、千里さんが気になるから、カウンター行って飲むわ。おまえどうする?」
    「あ、俺は……」
    「あそこ、問題だよな」
     そう服部が指さしたのは、江坂彗に絡んでいる豊島のテーブルだ。
    「行きたくない? お兄さんとそんなに仲悪いの?」
    「えと……、まあ、ホントは家族に内緒で海外へ行った時には、心配もしたし悲しかったんですが……」
     蹴は、ポツポツと呟くように答えた。
    「そうか、まあ、感情ってもんはこじれやすいよな。あんまり対立してると、SSのメンバーが気を遣うからさー」
    「そうですね、すみません……。あっちの席、見てきます」
    「ん、じゃ、お願いな」

     服部の手前そうは言ったものの、蹴は彗を許す気には毛頭なれなかった。
     いつ日本に戻ってきたのか知らないが、帰って来ていたのなら家族に会いに来て父の見舞いをするくらいの気持ちがあってもよさそうなものだ。
     それなのに、突然”しらいし”の社員として蹴の目の前に表れて、佳波のボディガードよろしく片時も側を離れようとしない。
     蹴の感情を逆なでする。反発心がムクムクと立ち上り消すことができない。

     仕方なく彗と佳波と豊島がいる4人掛けの席に、蹴は向かうことにした。
     が、彼らを目の前にすると突如、反発心とは違う感情が芽生え始めた。
     彗の隣に豊島がべったりと寄り添っているのを見つつ、蹴は佳波の隣にどんと座り込んだ。


     驚いたのは、佳波だった。
     いつも隣の席に座っていたとはいえ、少し距離が近すぎるというか、わざと席をつめて座って来ているとしか思えない蹴の態度だった。
    「吹田さん、食べてる?」
    「あ……はい」
     ドキドキして顔が火照るくらいに、体が密着している。
     席が狭いせいなのか、わざとなのか佳波にはわからない。
    「あのさ」
     低く小さな声で、蹴が佳波に囁いた。
    「二人で抜けようか」

    「え……?」
     言われて佳波は、思わず目の前の彗のことを確認した。
     彗は俯いて豊島の攻撃を躱している。蹴がこの席に座っていることにも、きづいていないかもしれない。
    「でも……江坂くんが後で叱られるのでは?」
     佳波もできるだけ声を落として、尋ねてみた。
     蹴の答えは簡潔だった。
    「構わない」

    「今しかないと思うんだ。二人きりになれるの」

     蹴の言うことは最もだ。
     でも佳波は、もし自分が彗の目を盗んでどこかへ消えたとしたら、彗は父に叱責され、場合によっては職務怠慢だと解雇される可能性があるような……そんな気がした。

     蹴を取るか彗を取るか、そんな決断を佳波は迫られていた。

    第20話 恋の番人

    「だめ?」
     蹴は、佳波の耳元で尋ねた。
     そんなふうに囁くのも、彗の目の前ですることで反抗心が膨らみ、気持ちが変に高ぶる。

     佳波の顔が真っ赤に染まっているのは、耳に息がかかっているせいだろう。
     多分、まだ何にもしらないお嬢様を、この手で攻略したい。
     しかも、それを阻む敵が兄だとすれば、尚更やりがいがあるってものだ。


     眠っている千里、その隣で店長と話しながら飲んでいる服部。
     酔っぱらって、やたらと彗の体をさわりまくっている豊島と、それを避けるように苦笑いで俯く彗。
     ほかにはバイトが二人ほどいるだけで、SSのメンバーはもうどこにもいない。
     佳波を連れ去るには絶好のチャンス。

    「行こう」
     そう呟いて、蹴は佳波の手をそっと握った。
     答えるように、微かに握り返す温かさを感じ、そっと立ちあがろうとした瞬間だった。

     ピロピロピロ ピロピロピロ

     驚くほど大きな音が鳴った。
     それが携帯の着信音だと蹴が気付くのに、コンマ何秒かの時間があった。

     佳波が慌てて自分のカバンの中をさぐっている。
    「吹田さ……ん」
     溜息に似た声が、思わず蹴の口から漏れた。
     彗もその音に敏感に反応して、佳波の様子を見、そしてその隣で棒立ちになっている弟の姿を睨みつけた。

    「はい、佳波です」

     兄弟の視線がバチバチと火花を散らしている中、吹田佳波はマイペースで電話を取っていた。
    「あ……」
     佳波は電話を少し耳から離した。
     電話の向こうで誰かが怒鳴っているのが、その場にいる全員に聞えた。
    『カナミ、ドコダ。オソイ。心配デ探シテル。ドコダ!』

    「浩四郎……」
     佳波と蹴が思わず同時につぶやいた。

    「あ、あのね浩四郎、もう帰るよ。ごめんね」
    「帰りましょうお嬢様」
     彗は慌てて佳波に帰りを促した。吹田さんと呼ぶべき所をついお嬢様と呼んでしまった事にも気付いていない様子だった。
     立ち上がった彗に弾き飛ばされた豊島は、床でオシリをドンと打った。
    「いたたた」

     そんな豊島を放置して、彗は席から飛び出すと、蹴の事もドンと突き飛ばして佳波の手を取った。
    「箕面さんに心配かけてしまいました。急ぎましょう」

     突き飛ばされた蹴は、彗と佳波が慌てて連れだって店を出て行くのを、呆然と見送った。
     そして、ゆっくりと豊島の所にゆき「大丈夫ですか」と手を差し伸べた。
    「ひどいわね、江坂くんのお兄さん……吹田さんしか、目に入って無いみたいじゃない」
     豊島がぼやいた。

     実際そうだと蹴も思った。
     これは、かなり強敵なのかもしれない。

     まだ8時半だというのに、携帯で怒鳴る浩四郎。
     佳波の傍にいただけで睨んできた彗の態度。
     どれをとっても、尋常では無い。
     佳波はよくぞこんな環境で生活しているものだと、蹴は感心せずにはいられなかった。



     その頃、”KOTORIE”本社の最寄駅のとある店では、ピリピリした緊張感が漂っていた。
     そこは、人気店である”La lune bleue”という名のレストラン。
     クリスマス前のカップルばかりが溢れる店内で、梅田愛葉と千林が食事をしていた。

     梅田は予約席に座っていたのが千林だったと知った時、一瞬顔色を変えたが、そのまま何事も無かったように食事を楽しむ風を見せていた。
     千林は当初、自分とのデートだとわかって来てくれていると思っていたのだが、例え笑っても、視線を合わさない様子だとか、変に沈黙があったりする状況から、これは江坂蹴の策略だと勘付き始めた。

     きっと梅田は、食事の場の和やかさを失わないように、千林が相手でも我慢して会話に応じているのだろう。そう思うと、千林は蹴への怒りと同時に梅田が可哀そうになってきた。

     それでも食事の時間は続く。
     せっかく場の雰囲気を壊さないようにしてくれている梅田のために、食事だけは終わらせて、その後で千林としては謝ろうとかんがえていた。

     千林が事の次第に気付き、言葉少なになったのを見て、梅田もあまり笑わなくなった。
     わざとらしい会話もなくなり、緊張感が当たりを包み込む。

    「いいんだよ」
     そう梅田がつぶやいた。
    「確かに私、あいつに言われて来ただけだけど、千林くんは気にしなくていいんだよ」
    「気にしなくていいって言われても……」

     ついに本音が漏れだした梅田に対し、千林はもごもごと呟くしかできなかった。
    「俺は嬉しいわけで……でも梅田さんは……辛いのかなと思ったり……」
    「私はさ」
     梅田は食事の手を止め、はあと一息溜息をついた。
    「江坂蹴なんてどうでもいいの、自分勝手でお子様だし、まあ幼馴染どまりってかんじ? ていうかさ、私、彼氏とかこだわってないのよね、ちんちんさえあれば」
     思わず千林はぎょっとして口から肉をポトリと零した。
    「えっえっ……」
    「ま、だからそんな女だし、あんまり気にしないで。フリーな感じが好きなのよねーフリーな感じー」

     梅田はその後、ただ酒いただきまーすと言って、高級ワインを3本空けた。
     そして千林に、
    「この後エッチする?」
    と真顔で聞いたのだった。

    第21話 自信家の危機

     『訊いておきたいことがあるんだ』

     夜9時を過ぎた頃、吹田佳波は江坂蹴に電話をかけた。

     居酒屋でさっき突然に帰ってしまったことを詫びるために。
     すると、先のような言葉が、佳波が何も言う前に蹴の口から出て来たのだ。
     開口一番、という言葉の通り。

    「はい、何でも訊いてください」
     答えられることは何でも答えたいし、蹴が何を疑問に思っているのかも、早く知りたかった。
    『あのさ、吹田さんのお父さんは、吹田さんのことを苦しめたいわけじゃないよね?』
     それは、できることならパパに訊いてほしいと思ったが、そんなことを言えるわけもない。
    「……はい、ただ、24時間管理したいと言ってました」
    『そう』
     蹴は普通にその答えを受け容れたようだった。
    『吹田さん、お姫様のように可愛がられてるんだね』

     蹴が黙り込んだのを見計らって、佳波は自分の謝りたいことを口にした。
    「あの、会社で席を勝手に移動することになってしまって、ごめんなさい。パパが無理矢理”K”さんを入れたせいで、江坂くんにとばっちりというか……。すみませんご迷惑をおかけして」
     すると、蹴は電話口で笑ったようだった。
    『吹田さんの顔、もう近くで見れないな……』


    『まあ、服部さんの隣っていうのは、池田さんや中津さんと近くにいるより、勉強になっていいよ。……あ、池田さんたちに告げ口するなよ?』
    「いいません」
    『彗にもな』
    「あ、はい」

    『彗には何でも話すの? あいつ、ずっと吹田さんの傍にいるの? ていうか、コウシロウさんも?』
    「あ、はい……そうですね……送迎とか」
    『ガッチリ見張られてるんだ』
    「まあ……」

     佳波の曖昧な返事の後で、蹴がクスクス笑い出した。
    『よくそんな環境下で、彼氏つくろうなんて思えたね、それスゴイ冒険じゃない?』

     蹴は笑っているが、佳波はその言葉に必死で反論した。
    「冒険とか……考えになかったです。パパへの反抗心でもないし、特別彼氏という存在がほしかったからっていうわけでもないし、ただ、江坂くんのことが……江坂くんが誰かと付き合ってしまうことが怖かったっていうか……ホントに、私は……」
    『わかった、わかった。俺と同じ気持ちだ』
     蹴は佳波に最後まで言わせず、そう結論づけた。
    『誰にも渡したくないんだろ』
     フフとまた蹴は笑った。
     佳波はうん、と声に出さずに頷いた。

    『吹田さんのお父さんも、そういう気持ちなのかな……』
     蹴の言葉に、佳波は言葉が出てこなかった。

    『いつかは、嫁に出すつもりがあるのかな……王子様のような相手を見つけてさ』
     佳波はドキリとして息を呑み込んだ。
    「そんなこと、……今、言わないで……」
    『あ、やっと敬語やめた』
    「え、あの」
    『嬉しいよ』


     電話越しに聴く蹴の声は、どこかぶっきらぼうで、遠くて、ハスキーで、大人びてるのに、聴けば聴くほどもっと聴いていたくなる。不思議だった。


    『でも、俺は負けないから。相手が彗だろうと、コウシロウさんだろうと、吹田さんのお父さんだろうと……』
    「江坂くん……」

    『俺は負けないから』

    「……すごい、自信家……」
     佳波は嬉しくて、でも笑えて来て、それだけ言うのがやっとだった。

    『俺はまあ自分勝手なだけかもしれないけど、自分の価値を信じないと、相手の価値に負けちゃうだろ。だから、最初から勝つ気でかからないと勝てるもんも勝てなくなる』


     佳波は蹴の話を聴きながら、自分より遥かに出来の良い人だとは思っていたが、それだけでなく、すごく真っ直ぐな性格なんだと知った。



     電話を終えて、佳波は、窓から外を見ていた。
     すると、ピロピロピロと、携帯が着信を告げた。
     誰だろうと確認してみると、”K”という文字が大きく出ていた。
    「はい、佳波です」
    『お嬢様、すみません、お話がございまして……』
    「……なんでしょう……」
     江坂彗からの話で思いつくのは、今夜の忘年会のことか、それとも会社での仕事の失敗のことかと、一瞬にして佳波は不安に陥る。
    『お願いしたはずなんです……』
    「お願い、ですか?」
    『ええ。ですが、もう遅いようですね。わたくしは蹴をお嬢様から遠ざけなければならないようです……』
    「……江坂くん……ですか? いえ、そういうことは……」
    『いえ、会社での噂も確認しました。お二人はお付き合いされているとか。あれだけ噂が回っていると、社長に知れるのも時間の問題かと思われます。……その前にわたくしが何とか手を打たねばなりません』
     彗は真剣な声で言った。

    「今から、蹴に会って参ります」

    第22話 兄からの忠告

     吹田佳波は必死になって江坂彗を止めた。
    「やめてください。江坂くんは悪い事をしたわけじゃないんです。気持ちを……気持ちを教えてくれただけ、私も気持ちを伝えただけです……それだけなのに……」
     電話の向こうで、彗が少し沈黙した。
     そして短く息を吐くと、
    『お嬢様、その言い訳で社長が納得すると思いますか』
    と、聞き返した。
    『わたくしは蹴の兄ですので、彼のことはお嬢様よりよく知っています。ここはわたくしにお任せ下さい』
    「では、私も連れて行ってください」
    『だめです。もう少ししたら箕面さんがお帰りになるそうですので、お嬢様のことを頼んでおきました』
    「そんな……」
    『何か蹴に伝えたいことがあるなら、電話でどうぞ。電話以外での接触は、仕事でのものも含めて極力避けてください。間にわたくしが入りますので』
     彗の言葉には取り付く島が無かった。

    「……恋愛は……自由だって」
     半分泣きそうになりながら、佳波は呟いた。
    『ほかの男なら論外でシャットアウトです。弟だからこそ、一言忠告に行かせてほしいのです』
     佳波の言葉では、彗を止めることはできそうになかった。
     かと言って、家を飛び出してしまえば、大騒動になって余計に江坂蹴の立場を悪くするかもしれないと思った佳波は、彗の言う通り黙って待つことにした。



     午後9時半、家に帰りついたばかりの蹴は、ジャケットを脱いでハンガーに掛け、スーツのままとりあえず狭い部屋を見回した。
     さっきは外で佳波からの電話を受け、強気なことを言ったけれど、自分の環境と彼女の環境の違いには少なからず危機感を持っていた。
     例え思いが通じ合ったとしても、こんな部屋に呼ぶわけにもいかない。
     さっきは強引に連れ去ろうとしたけれど、どこへ彼女をつれてゆけばよかったのか。
     二人きりになれる場所が、どこにあるんだろう。

     不意にガンゴーンとさびれたチャイムの音が鳴った。
     誰だと思いつつ、ドアを開けるとそこには背の高い男が立っていた。
     178の蹴より5センチ以上高い身長の圧迫感が、嫌悪感を誘った。
    「彗か。よくここが分かったな」
    「母さんに聞いたんだよ」
    「なるほど、母さんなら教えそうだ。兄貴のことを随分心配してたからな。久しぶりに会って少しは反省し……」
    「会いには行って無い。電話で聞いた。そんなことはどうでもいいから、ちょっと出て来い。車で待ってる」
     言葉に抑揚も無く、冷淡にさえ聞こえる彗の声は、昼間佳波に接していた時とは随分様相が違う。
    「俺の部屋は汚すぎて入れないってか?」
    「そうだな」
    「……」
     チと舌打ちをして、蹴はまたジャケットを羽織った。


     蹴のアパートの前に、ピカピカの黒のセダンが停まっていた。
     左ハンドルのその車の運転席に近寄ると、スッと窓が開いた。
     蹴は、
    「さすがにロールスロイスでは来なかったようだな」
    と、嫌味を言った。
     すると、彗も運転席から呟いた。
    「これくらいの車なら俺の給料でも買えるんでね。乗らないのか?」
    「外の空気の方が美味い」
     寒さを我慢して、蹴はうそぶいた。

    「はっきり言おう、お嬢様と別れてくれ」
    「まあ、そういうことだろうな」
     蹴は驚く様子もなく、平然と返した。

    「俺はおまえを小さい頃から見て来て知っている。おまえは恋愛をゲームか何かと勘違いしてるふしがある」
    「ゲーム?」
    「そうだ。おまえは昔から女の子に人気があった。クラスでも目立つ存在だったから。でも、おまえが好きになる子は決しておまえを相手などしそうにない高嶺の花ばかり。おまえに告白するような子には一瞥もくれなかった」
    「それがゲームになるのか」
     不服そうに蹴は言い返した。
    「たまたま好きになる子がそういう子だっただけで、ゲームだなんて思ったことがない」
    「おまえは気付いていないだけだ」

    「おまえは自分を見向きもしない女の子を、振り向かせることだけに興味を持ってる。いわば攻略することが楽しいゲームと同じだ」
    「違う……。俺は単に清純でちょっと浮世離れしたような子が好きなだけで、そこに駆け引きとか攻略とかそんな気持ちは……」
     無い、と言おうとして、蹴は言葉を濁した。
     無い……とは言いきれないか、と自分でも気付いたからだった。
     稀代の負けず嫌いは、つい、誰にもなびかないようなお嬢様に惚れる癖があった。
    「好きだから、口説くだけ。それの何が悪い」
    「まあ、うちのお嬢様以外でそういうことはやってくれ。それに関しては何も文句は言わん」

    「吹田さんは面白い子だなと思った」
     蹴は白い息を大きく吐いた。
    「社長令嬢だってきいて、なるほどなと思った。でも、俺が今までつきあってきた女の子とは違う。わがままで気の強いお嬢様とはわけがちがう。ほんとに可愛い子だと思うから付き合おうと思った。どんなにハードルが高くても、だ」
     寒さで少し鼻をすすり、蹴は続けた。
    「そして俺のことを好きだと言ってくれた。もしこれがゲームなら、そこで終了だろ。好きになってくれたらもうどうでもいい、そういうことじゃない。これからも付き合っていきたいんだ」

     彗は聞いていたが、車の中で首を横に振った。
    「不釣り合いだ」

     その一言に、蹴は言い返す言葉が無く、息を呑み込んだ。

    「結婚まで考えてるわけじゃないよな」
    「そりゃ、今の段階で結婚は……」
    「なら、今のうちに引いとけ。おまえから、お嬢様に別れを切りだせ」
    「冗談じゃない」
    「冗談じゃないさ。本気で言ってる」

     彗の言葉はどこまでも冬の空気のように冷たかった。
    「それが、お嬢様だけでなく、ひいては俺たちのためにもなる。江坂家をバカにされたくはないだろう……?」

    第23話 土曜の朝の訪問者

     江坂家がバカにされる。
     そんなこと考えてもみなかったが、不釣り合いな相手との交際では世間的に見ればそうなることは必然なのかもしれない。
     でも、そこは、吹田社長の心根一つだ。
     母の両親が父との結婚を許したように、普通の家庭に育った者を見下したりしない人であれば、付き合いだって認められるのでは……。
     いや、吹田佳波の父はそんな人では無さそうだったな。

     蹴は兄に言われた言葉を、腹の底まで響く思いで受け止めていた。
     自分がバカにされるだけならまだしも、家族が恥ずかしい想いをするというのは、耐えられるものではない。



     翌日は土曜で仕事は休みだったが、朝早くから蹴は電話で起こされた。
    『今から、おまえんち行くから』
    「え、誰誰?」
     寝ぼけたまま、電話をとった江坂蹴は、硬質な声の相手に尋ね返した。
    『千林だよ、バカ』
    「なんでバカなんだよ、そういや、梅田とうまくいったのか」
    『だから、バカなんだよバカ。もう、アパートの近くまで来てるから鍵開けとけバカ』


    「13まん6せんひゃくにじゅうさん……!!?」
     蹴はカードの明細を見せられて、ストンとその場に座り込んだ。
    「おまえのおごりだったよな。払ってくれ」
    「ちょっと待て何食ったんだよ。なんだこの3万×3っていうのは!」
     千林を前に、蹴は脱力してぐてーっと床に寝転がった。
    「ワインを3本空けた」
     千林は冷酷にも、そう告げた。

    「そっか、あいつ酒豪だったのか……知らなかった。うわ、サービス税ついてるし……」
     蹴が梅田愛葉の事をあいつ呼ばわりしたことに、千林はカチンときたらしく、蹴の頭をペシッと叩いた。
    「おまえはな、蹴、梅田さんのことは酒豪だけじゃなく、何一つ知らないんだよ、バカ」
    「また、バカよばわりかよ。散々だな……」

    「くそー、なんでこんな女心の読めないバカがモテるのか、許せねえっ……くっ」
     そう言った千林が泣いているのを見た蹴は、驚いてむっくり起きあがった。
    「なに、どした、フラれたか?」
     言われても、千林は涙を呑み込んでいるばかりだ。
    「なんだよ……梅田がそんなひどいことしたのか?」
    「セックスした」
    「は?」
    「セックスした。付き合うことになった」
    「はぁ?」

     蹴は意味がわからずに、ポカンと口をあけたまま、尋ねた。
    「で、なんで泣いてるんだよ。あれか、酔った勢いってやつで後悔してんのか。おまえは優しすぎるからなぁ……」
    「ちがう」
    「じゃあどうした」
    「泣かれたんだよ、最中に!」
     千林は怒鳴るように言った。
    「私なんかを見てくれてありがとって言って……それって、それって、どういう意味か、わかるだろーが」
    「ど、どういう……って、それは……」

     その後の言葉が続かず、蹴は黙り込んだ。
     千林も泣くだけで、それ以上語らなかった。

     ひとしきり泣いた千林は、溜息をついて蹴の部屋の冷蔵庫を開けた。
     缶ビールを持ってきて開けると、イッキに呷(あお)った。
    「朝から酒かよ……」
    「しょうがないだろ」
    「で、どうすんのよ、付き合うの?」
    「付き合うよ。俺が……おまえの分まで幸せにしてやるんだ」
    「なんだそりゃ、結婚すんのかよ」
    「それぐらいのつもりで、付き合うって言ってんだよ、鈍感バカ」
    「え、俺、鈍感なの? はじめて言われたわ」
     千林は顔を真っ赤にして怒り、げんこつを作って殴る真似をした。
    「おまえにフラれて泣いてる子たちがどれだけいたか、しらないだろ、バカ」
    「え、泣かしたの? 俺が?」
    「だから鈍感なんだよ」
    「そーか。申し訳ない」

     あんまりバカバカ言われて半分スネていた蹴だが、千林の『幸せにしてやる』という言葉に、少しダメージを受けていた。
    「……誰かを幸せに、とか……そんなの簡単には……」

    「今のおまえじゃできねえよ。自分中心の考え方をやめな。まあおまえの自信過剰なとこが好きっていう女もいたから、なんとも言えんが……」
     千林は苦い顔をして、またビールを呷った。

     そう言えば佳波にも自信家だと言われたなと、蹴はぼんやり考えていた。


    「なぁ、聞いていいかな」
    「なんだよ」
     蹴が元気を失くしてぼそりと呟いたので、千林はビールの缶をテーブルに置いて彼に向き合った。
    「家柄の差ってさ……どうやって埋めるの?」
     寂しそうに言う蹴に、慌てて千林は答えた。
    「そりゃ、愛情だろ」

    「本人同士の話じゃなくて、親とかさ、世間一般に対して、どう納得させればいいの」
    「そ……」
     そんなこと知らねえと言いたかったが、元々優しい性格の千林は、考え込んだ。

    「それは、おまえ……俺に聞くよりお前の親父に聞いた方がいいんじゃないの?」
    「ああ……」
     でもなぁ……と蹴は溜息をついた。
     父親は体を悪くして以来、家族に申し訳ない、自分が夢ばかり見ていたせいで迷惑をかけた、情けないとよくこぼしている。
     結婚を後悔しているかもしれない父に尋ねるには、少し可哀そうな気がした。

     母親に聞いてみるか……。
     それとも……。

    第24話 蹴の答え

     江坂蹴は千林を連れて、レンタカーを借りに行った。
    「どこ行くの?」
     千林の疑問に、蹴は「一人で行く勇気がないから、ちょっとそばにいててほしいんだよ」と答えた。
    「おまえが弱気になるなんて珍しいこともあるもんだな」
     千林はそう言って驚いた。

     どんな不仲な人に会いに行くのかと思っていた千林だったが、想像と違う展開に驚いていた。
    「まぁー、蹴ちゃん、いらっしゃいー!」
     インターホン越し、歓迎されているではないか。


     そこは、蹴の祖父母の家、境沢(さかざわ)家だった。
     どこまでもどこまでも外壁がつづくほどの大きな屋敷だった。中は緑の多い日本建築で、それはそれはお金持ちなんだろうなぁと千林が驚嘆するほどだった。
    「こんなじいちゃんちがあったら、俺、悩みなんて無いと思うわー」
     こそっと、そんな風に言うほどだった。
     90歳近い祖父は、少し体調が悪くて寝ているらしいので、二人は祖母と話をした。

    「お友達連れてくるなんて珍しい……というより、蹴ちゃんが来ることも、最近じゃ珍しいわね」
    「ごめん、なかなか来れなくて……」
    「いいのよお。あれでしょ、高志さんがご病気になられて、なんだかんだで気を遣ってしまうんでしょ? わかるわよ」
     祖母は明るく快活な笑顔で、蹴たちを迎え入れた。

    「今日はどうかした? なんでも言っていいのよ?」
    「ああ、いや、ちょっと話がしたくて、でも……恥ずかしかったから、こいつ千林っていうんだけど、一緒について来てもらった」
    「千林さん、よろしく。恥ずかしいって、なんでしょ。困ったことでも?」
     蹴は視線を下げて、言葉を探している。
     千林は、彼が請求した飲食代が高すぎて、金の無心に来たのかと疑ったほどだ。

    「困ったことといえば困ってるかな……。教えてもらいたくて。どうして、父さんと母さんの結婚を……というか交際自体を許してくれたのかなと。父さんは普通のサラリーマンだったし、母さんのような人と社会的に釣り合う人ではなかったし……」
     祖母は驚いて、
    「どうしたの、蹴ちゃん……。お父さんのこと、そんなふうに言うことなんて今までなかったのに……。高志さんはちゃんとした人なのよ。ただ大病を患ってしまっただけで……」
    と、早口でいいかけたのを、蹴は何度も頷きながら聞いていた。
    「そう、別に父さんを非難してとか、父さんのことで謝りに来たとか、そういうことではないんだけどね……」
     蹴の言いたいことが、千林にもようやくわかってきた。
    「今、付き合ってる人がいるんだけど……」
     蹴はそこまで言ったが、続きが言えなかった。

     すると、祖母が優しい微笑みを浮かべた。
    「良家のお嬢様を、好きになってしまった……のかしら?」
    「……ご両親が厳しい人で、交際をゆるしてもらえそうにないんだ……それって、どういう努力をすれば、俺のこと認めてもらえるのか……いや、認めるとまでいかなくても、普通に見てもらえるだけでも今は構わないんだけど……なんか今のままじゃ門前払いっぽい感じなんだ……」
    「そんなの、蹴ちゃんなら大丈夫でしょう? そんなに難しいおうちなのかしら?」
    「ちょっとね……母さんも兄貴も知ってる社長さんなんだけど……そのお嬢さんが、すっげー箱入りで」
     思わず笑ってしまった蹴だったが、祖母は「彗ちゃん……元気にしてるの?」と、愛おしそうに呟くのだった。
    「うん、その社長さんの所でよくしてもらっているらしいよ」
    「そう、元気でがんばってるならよかったわ。また一度遊びに来てって言っておいて」
    「わかった」

    「大丈夫よ」
     祖母はにっこりと笑った。
    「蹴ちゃんと彗ちゃんには、おばあちゃんがついているから。絶対に大丈夫。応援してるわ」
    「うん……」

     基本的に、吹田社長と蹴の祖母とでは人が違うってことかな、と、彼が諦めようとした時、祖母が意外なことを言った。
    「どうしても、どうにもならない時は、おばあちゃんの所に来なさい」
    「うん……」
    「おばあちゃんの言ってる意味、わかる? うちの子になりなさいって言ってるのよ」
    「え?」


     養子縁組をしろと?
     境沢家の息子として……、境沢蹴として、佳波と付き合えと?



    「悪い、車運転してもらっていいか?」
     蹴は千林に帰りの運転を頼んだ。
    「いいよ。結構ヘビーな提案だったもんな……。事故られたら俺も困るし」

     蹴は、助手席で黙ったままぼんやりしていたが、自分の部屋に帰りついた頃には、少し割り切ったような顔つきになっていた。
    「どうなの、考えまとまったのか?」
     千林が聞くと、蹴は頷いた。
    「うん、ばあちゃんち行ってよかった。これで、なんか踏ん切りついたっていうか」
    「そうかぁ」
     江坂蹴が、境沢蹴となるのか、それとも、そこまでしてお嬢様と付き合うことは諦めるのか、どっちにしたのか気になったが、千林はそれを聞かずに帰ろうとした。

    「ありがとうな、千林」
    「いや、まあ……。ちゃんと金出せよな、せめて半分でも」
    「わかったわかった、近いうち払う。で、梅田のこと頼むな。俺も頑張るから」
    「ん?」
     もう8時を過ぎていた。
     12月も下旬、夜は寒い。ぶるっと身震いした千林は、念のため、蹴に尋ねた。
    「頑張るって……おまえ、境沢さんになるの?」
    「いや」
     蹴は横に首を振る。
    「え、じゃあ、何を頑張るんだよ。諦めるってこと?」
    「いや、諦めない」
    「えええ?」
     蹴はにやりと笑った。
    「江坂蹴だよ、俺は。江坂蹴が兄貴にも、社長にも、敵わないってわかるまでは、がんばるよ。もしダメな時は……その時は……諦めるけどさ。まあ、大丈夫なんじゃない?」

    「そうか……やっぱり自信過剰だな……」
     千林は蹴らしい答えだと思い、つられてにやっと笑った。

    第25話 意地悪な恋人

     土曜日、夜9時前から、吹田佳波は部屋に閉じこもった。
     今夜は両親が屋敷にいるため、電話も慎重に見計らってかけなければならない。両親に呼ばれないように、適度に会話をしておいて、そっと部屋へと入ったのだ。

     昨日のことを彗に尋ねたところ、
    「彼は納得してくれたと思います」
    という返事。納得したというのは、佳波と別れるということに違いない。
     それを、ひどいとは言えない。
     悪いのは江坂兄弟ではなく、理解が無さすぎる両親だ。そして、佳波自身が自分の権利を主張できない弱さがあるせいだ。
     だから蹴を責めるつもりはないけれど、彼の言葉をちゃんと聞いておきたかった。
     そして、迷惑をかけてしまったことを詫びたいと思っていた。

    「……吹田です」
     相手が電話に出たのを見計らって名乗ったものの、自分でも驚くほど声が出ていなかった。かすれ、うわずり、そして声そのものが小さかった。
    『ん? 吹田さん? だよね?』
     聞き返されて、「あ、はい」と慌てて声を出す。それでもまだ思うように声が出なかった。
    『どしたの、誰か聞いてるの? 小さい声だね』
    「いえ……声がちょっと調子悪くて……」
    『風邪かな、大丈夫?』
    「はい。風邪ではないので……」
     なかなか本題に入るのは難しい。どう切り出そうかと、少し沈黙が流れた。

    「あの……」
    『あのさ……』
     同時に話し出して、思わずまた沈黙する。

    『吹田さん、今日はなんか緊張してる? フフ』
    「き、緊張……っていうか……あの……」
    『何?』
    「昨日、彗さんがそちらに伺ったのではないですか?」
    『うん、来たよ』
    「それで……あの……」
    『ああ、そのことか……。気にしてるんだ』
    「気に……なりますよ……彗さんからは納得したというお話でした。……それって……つまり……」
     佳波は胸の奥がぎゅううと痛むのを感じた。
     うっすら涙まで出て来た。
    「ごめんなさい……。私のせいで嫌な思いを……」
    『なんで謝るの。あれは兄弟喧嘩の延長だよ。お互いに相手のすることが気に入らないだけ……。俺はあいつの言うことを聞くだけは聞いたけど、了承はしてない』
    「でも、お話をきいて頂いたのなら、うちの父がどういう行動を取るかは大体わかって頂いたはずですから……」
    『あのね、敬語やめよう。彼氏なんだよね、俺』
    「え……」
    『なんか他人行儀以前の問題。職場でだって同期だしさ、そこまで俺、怖いのかな』
    「怖いわけじゃ……」
    『ちょっとがっかりだよ。いつまでたっても近寄れないしさ』

     言われて、佳波は言葉を失った。
     だから、……それが理由で別れるって言うのかな、と思いながら黙っていた。
    『ああ……吹田さん、怒ってるのかな、とかさ。今、思い返してみて、それで変に敬語づくしなのかなって思ったわ』
     佳波は、怒って無いけど、と思いながらも言葉にしなかった。
    『ごめんね、怒ってるのなら謝るよ』
    「……」
    『言ってなかったよね、ちゃんと』
    「……何をですか?」

    『好きだよ』

     佳波は唖然として、また言葉を失くしてしまっていた。
    『やっぱこれは、ちゃんと言っとかなくちゃいけない言葉だよね。だから彼氏ヅラすんなよって怒ってたのかもなーと、気が付いた。フフ』
     蹴は電話の向こうで笑っている。

     佳波は笑えるような心境ではなかった。
    「そ、そんな言葉、ないからとかで怒ったりしません。ていうか、ちゃんとわかってたし……ちゃんと、伝わってきてたし……。この何日か、すごく嬉しい時間だった……こうして電話して話ができて……それってもう、私にとってはすごく特別だったから……」

     そして、エッエッと息が詰まって、涙が出て来た。
    「ちゃんと……わかってます。……でないと、こんなめんどくさい子に……毎日、話して……毎日、仕事のフォローとかしてくれて、……もっと前に気付くべきだったけど……嫌われてないってわかって嬉しくて……もうそれだけで……」

    『うん』
     蹴が頷く声が、佳波の耳に届いた。
     号泣しそうになって、思わず手で口をふさいだ。

    『明日、日曜だし、会いたいな』

    「え……?」
    『会いたくない?』
    「会いたい……で……す……でも……無理……」
     涙がぽろぽろこぼれて、言葉が最後まで出なかった。会いたいと言ってくれているのに、何もできない自分が悔しかった。
    『そっか』
     蹴は残念そうに呟いた。

    『じゃ、明日は諦めるよ。でもさ、ほらビデオ通話ができるから、顔だけ見せてよ。それで我慢するから。……やり方教えるから、かけ直して……え、よくわからない???……』

     蹴の説明で、慣れない操作をした佳波だった。
     なんとかスマートフォンの画面に自分達の画像が映し出された。


    『目が真っ赤だよ? フフ』

     また、蹴に笑われた佳波だった。

    第26話 譲れない

     年末最終週に突入した月曜日以降、SSのメンバーはあいさつ回りでオフィスを留守にすることが多くなってきた。
     千里と服部も外出し、主に電話番となったのは吹田佳波と江坂彗の二人だった。
     二人きりだが、電話応対が忙しく、話をする暇もなかった。
     昼休みも電話がかかってくるので、佳波の休憩中も彗はオフィスを出られなかった。

     24日、一息ついたのは2時頃のことだった。
     服部が帰って来て、その後に庄内や中津も帰って来た。
    「忙しかったろ、地下の食堂で30分ほど休憩しておいで」
     服部が、彗に言うと、
    「はぁ、でも吹田さんの傍を離れるわけには……」
    と、休憩を遠慮するような事を彗は言う。
    「勿論、二人で休憩しておいで」
     服部は苦笑して、彗と佳波を立たせ、エレベーターまで追いやった。

    「食事できたのかね、あの二人」
     服部が佳波たちを送りだした後で呟くと、中津が、
    「彗さんの分まで、吹田さんがお弁当作ってるらしいですから、デスクで食べたんじゃないですかね」
    と、答えた。
    「へえ。仲睦まじいね。もう、夫婦じゃん」
     庄内が笑うと、服部は苦い顔をした。
    「江坂くんの前で言うなよ?」
    「はいはーい。わかってまーす」


     地下1階の食堂には、ほとんど誰もいなかった。
     黙って自動販売機でコーヒーを買った彗は、佳波から少し離れた席に座った。
     佳波はほうじ茶を持ったまま、じっと彗を見つめていた。
     視線を感じた彗は、「何かご用ですか?」と尋ねた。
    「いえ、彗さんは恋人はいないのですか? こんなに素敵なのに」
    「え?」
     彗は驚いて、そして困ったように顔をしかめた。
    「そんな人がいては、この仕事は務まりません」
    「ですよね。彗さんも、被害者ですよね」
    「被害者……」
    「24時間、自由がない。私も彗さんも、それは同じ」
     佳波はぼんやりと呟いた。
    「今夜はクリスマスイブですが……浩四郎と彗さんと3人でケーキでも食べますか? それとも和菓子にします? ふふふ」
     佳波が笑うのを、彗はじっと見つめていた。
    「お嬢様が笑ってらっしゃるのを、久しぶりに見た気がします」
    「そうですか?」
     佳波は肩をすくめた。

     彗は体の向きを佳波の方に向け、まっすぐ見ながら尋ねた。
    「蹴とのお付き合いは、本当に終わったんですよね?」
     佳波は言われて、すっと視線を逸らした。
    「……終わったなんて言ってませんよ」
    「どういうことでしょう。社長に知れたら大変なことになります」
    「彗さんが黙っていてくれたら……パパやママが気付くことは無いんじゃないかなと、最近思います。そりゃあ、この会社の社長さんにパパが問い詰めたら、どうなるのか分かりませんけれど……社長さんも江坂くんを……自社の大事な社員のことを告げ口するのか疑問ですし……」
    「待ってください、お嬢様……」
     彗は頭痛でも起こったかのように、深く目を閉じた。
    「それでは私の職務怠慢になりますので、社長にお伝え致します」
    「そんなこと、彗さんはしないと信じてます」
    「外部から話が入って来ることになると、まずいことになります。これ以上は黙っていられません」
    「そうしなければ、彗さんは会社を辞めさせられるのですか?」
     佳波がチラと彗を見て、そう尋ねた。
    「おそらく」
    「それでは、言いつけられた江坂くんはどうなるのですか?」
    「それは……」

     吹田社長なら”KOTORIE”の社長に圧力をかけて、異動させるなりなんなりするだろうと思われた。
     しかし、例えば蹴が転勤させられたとして、今と何がかわるのだろう、と彗は一瞬考えた。
     デートもできない、社内で口を利くことも殆ど無い。
     電話で毎晩声を聞くだけ。
     遠距離恋愛と、今の状況とは、殆ど変わらない。逆にそれが二人の絆を強くする可能性もあるし、あえて別れを選ぶとも考えにくい。
     蹴が転勤先で新たな恋人を作るとしたら話は別だが、弟の性格上攻略中のターゲットを途中で諦めるようなことはしないだろう。
     そのせいか、佳波が落ちついているのは。
     二人はもう、言いつけられても構わないという心境にまで発展しているということか。

    「お嬢様、どうして、私をそんなに困らせるのですか……。電話を取り上げることもできるのですよ」
    「彗さん……」
     佳波もまた、彗に体を向けて、まっすぐに見つめた。
    「パパを一緒に説得してくれませんか。彗さんの弟だと言えば、パパも考えてくれるかもしれません」
    「そんな、それは無理です」
    「ただ、お付き合いをするだけの話です。結婚まですると言ってるわけではありません」
    「では、絶対に結婚しないのですか? 今、社長がお見合いを勧めたらそれを受けることができるのですか?」
     言われて、佳波は息を呑んだ。
    「どうしてそんなに、パパは……私を苦しめることばかりするのでしょう。私が憎いのですか? 彗さん、私はパパに愛されていないのですか?」

     彗は、困惑の果てに目を閉じ、呟いた。
    「蹴がいいのですか……。わたくしではだめですか……」
    「えっ?」

     佳波は聞き間違えたのかと思い、「今なんとおっしゃいましたか?」と尋ねた。

    「わたくしは社長から、いつか江坂の名字を捨て、吹田を名乗りなさいと言われてきました。それは、あなたとのことがあるからだと、そう思っていたのです」

     彗は静かに目を開け、視線を落としたまま、続けた。
    「今はまだあなたは、社長のお嬢様です。でもいつかはわたくしの婚約者となるはずなのです……」

    「わたくしは、身を引くつもりはありませんよ……」

    第27話 ナイーブなイブ

     休憩から戻ってきた吹田佳波と江坂彗は、どこか不自然だった。
     佳波は終日ぼんやりとし、彗は気難しそうな顔をしていた。

     二人とも、外回りから帰って来た江坂蹴とは、視線すら合わせようとしなかった。
     蹴がおかしいと思うのも仕方のないことである。
     彗はわからなくもないが、佳波まで蹴を避けているのはどういうことだろう。二人は就業時間が終わると、何も語らず早々に退社したので、理由はわからないままだった。
     蹴の胸に不安がよぎった。
     今夜はクリスマスイブ。それなのに、彼女から電話はかかってこないような気がしたのだ。


     予感は的中する。
     9時を30分回っても携帯電話は震えなかった。
     佳波の都合を優先するため、いつも彼女から電話がかかって来る。その後で蹴からかけ直したりすることはあっても、彼から電話をかけることはない。
     何があったかわからないまま、ただ電話が繋がるのを、待ち続けた。

     10時を回った時だった。
     例のさびれたチャイムの音が聞えた。こんな時間の突然の訪問者は、友人か梅田くらいしか考えられないが、梅田は千林の彼女になったはずである。おかしいと思いつつ、蹴はのぞき穴から外を見た。
     そこにいたのは、雪で頭や肩を真っ白にして、俯いて立っている梅田愛葉だった。
     思わず、「おい、なんだよ」と呟きながらドアを開けた蹴は、開けたことをのちのち後悔した。
     開けた途端、冷たい体の梅田に抱き着かれた。
    「……梅田」
     氷のように冷たい体を受け止めて、蹴は呆然と立ち尽くした。
    「おまえ、何時間外にいたんだ」
     梅田は答えなかった。ただ、ただ、ぎゅううと蹴を抱きしめている。
    「梅田……?」
    「黙って! 蹴の温かさを奪ってるの」
    「……雪女かよ」
    「蹴は裏切者だからね」
     何か言い返そうとしたが、裏切ったと言われればそうかもしれないと言葉を呑み込んだ。
     ”La lune bleue”に俺が行くとは一言も言っていないが、敢えて誤解させるような真似をした。それは梅田の気持ちを知っていて、罠に掛けたようなものだ。
     蹴は手で梅田の頭の上や肩に積もった雪を払った。
    「中に入ってストーブの近くに来いよ」
    「ここでいい」
     そして、顔をそっと上げた梅田は、口を蹴の喉に当てた。
    「カプ」
     という擬音語を発して、喉に歯をたててみせた。
    「今度は吸血鬼か……」
    「なんでもいいのよ」
     梅田は、そして恐ろしいことを言った。
    「愛し合った末に、命を奪いたい」



     蹴が梅田の責めに困惑している頃、吹田佳波は病院にいた。
     夜間病院は、救急の患者が結構大勢いるため明るかったが、一般待合室は静かだった。
     ベンチに座った佳波の隣には、江坂彗が少し離れて座っていた。

     熱を出して倒れたのは、箕面浩四郎だった。
     運転して病院まで連れて来た彗と、付き添いの佳波。彼女の両親は会議が長引いているらしく、帰れないとのことだった。
    「なんの熱かわからないのが怖いですね」
     そう言ったのは彗だった。
     普段から過労気味だった浩四郎だけに、臓器が悲鳴を上げているサインかもしれないと彗は言う。そう言われると心配になって診察室まで入って行きたい気持ちになる佳波だった。

     すっと彗は立ちあがり、「ちょっと飲み物でも買ってまいります」と言ってどこかに消えた。
     彗が自ら佳波を残していなくなることは珍しい。
     それが、10分経っても20分経っても帰って来ないのだ。
     普段空気のように傍にいる人がいなくなると、なんとなく変な気持ちになる。それが、こんな静かな病院の中だということで、不安にかわってゆく。

     蹴の声を聴きたい気持ちはあるが、今日聞いた彗の話が胸につかえて、なんと電話してよいかわからない。浩四郎にとっては災難だったが、こうして病院という非日常の世界にいることは、今の佳波には救いだった。
     蹴と相対せずに済む。
     病院へ行っていたからという言い訳が成立する。

     それにしても、30分経っても帰って来ない彗と、診察待合室で横になっているだろう浩四郎の事を考えると、ますます一人で居るのが怖くなってきた。
     診察待合室のドアの前に座り直して、開閉時に中の様子を見ようとしたが、やはり横になって順番を待っている浩四郎の姿がチラと見えるだけだ。
     何かの検査中なのかもしれないが、辛そうに目をつぶっていた。



     江坂彗は、自動販売機を探してロビーの奥に入った所で、思わぬ人に会っていた。
     もう消灯時間を過ぎているのに、車いすでゆっくりと廊下を進んでいる男性。それは、彼の父、江坂高志だった。
    「お、蹴か?……まさか、彗か?」
     声を掛けて来たのは、父の方からだった。
     彗はその場で立ち止まり黙って父を見つめていた。彗が病院に来るなど想像もしなかったろうから、わからないのもしょうがない。
     薄暗い廊下であることも手伝って、父は本当によくわからないようだった。
     少しずつ、車いすを移動させている。
    「病室に戻るの?」
     ついに、彗は声をかけた。
    「あ、ああ」
    「何階?」
     彗はそう言うと父の背後に回り、車いすを押し始めた。
     3階と言われ、エレベーターの前で上りのボタンを押すと、すぐに扉は開いた。
    「久しぶりだなあ」
     父は小さくやせ衰えた姿で、しわがれた声を出した。どうやら声で彗だと気付いたらしい。
    「元気かぁ?」
    「おかげ様で」
    「吹田社長の所でがんばってるんだってな……母さんから聞いたよ。よかったな、それから……ありがとうな」
     言われても、彗は黙っていた。
     過去に見捨てた親から、労いの言葉をかけてもらうほど、苦しい気持ちになることはない。
     ありがとうの意味は良く分からなかったが、聞き返すことはしなかった。

     それ以上の会話はないまま、父の指し示す病室に連れて行った。
     それじゃあという一言さえも出せぬまま、さっと病室を抜け出した。そのまま、エレベーターに乗り1階に下りたのはいいが、たまらない気持ちになって便所に駆け込んだ。
     冷たい車いすのハンドルを握った手をバシャバシャと洗い、そして、そのまま何度も顔を洗った。

     まるで、さっきまで父に見せていた、鬱屈した心を洗い流すように。

    第28話 いけない感情

     フロアを探していた佳波が、とうとう彗を見つけた。
     その時の彼は、自動販売機の傍の壁に、上半身びしょびしょに濡れた姿で持たれたかかっていた。
    「どうしたんですか、彗さん」
     佳波は思わず駆け寄り、鞄の中からタオルを出して彼の体をパタパタと拭き始めた。
     されるがままになっている彗の両目は涙に濡れているように見えた。それで、顔を拭く時、思わず手が止まった。
    「彗さん、大丈夫ですか?」
     彗は視線を落として息を吸ったあと、呟くように話し始めた。
    「俺はね……父さんを見捨てたけど、ほんとはね、ほんとは……いつかまた一緒に店やりたいって心のどこかで思ってた……。次こそは流行る店で、俺が父さんの二倍も三倍も働いて、家族を幸せにしてやりたいって……。そのきっかけに”しらいし”があったんだ」
     彗は息を詰まらせながら、泣くのをこらえるように語る。
    「”しらいし”で社長の後継者になれば、思うがままに金を動かせる。父さんの夢だった料理店の一つくらい流行らせることなんて簡単なんだよ……。だから、後継者になるために、必死で働いた。あんたを嫁にもらえさえすれば、それは全部叶うことなんだと信じてた。……でも。まさか弟とその座を取り合うなんて……、もし蹴にあんたを取られたら、俺には何も残らないじゃないか。親を捨てた罪悪感だけしか……」

     佳波は、そんなことないです、という言葉をかけてあげたいと思ったけれど、その言葉はこの場ではあまりに軽すぎた。
     黙って、タオルで雫の垂れる髪をふいてやるしかできなかった。
    「自分が情けない……」

     佳波は、拭いていた手を止め、冷たい彗の両手を握り締めた。
    「江坂くんは……社長になりたいなんて思っていないと思います。それに、彗さんが社長の後継者になるのは、私がいなくても実力でできると思います……」
    「そんな実力なんて、どこにあるんだ……娘のお守くらいしかできない奴だと社長に思われてるよ」
    「ごめんなさい、私がもっとしっかりしていれば……お守役なんて必要なくて、彗さんは普通に有能な社員として認められていたはず……だって、あの人間不信のパパが秘書に抜擢した人ですもの」
     彗はふらりと壁から体を起こした。
    「慰めてくれて、どうもありがとう」
     少し嫌味もこもっているかもしれない彗の言葉を聞いて、思わず彼の顔を見上げた。
    「彗さん、私は……」
    「ごめん」
     彗は謝った後、佳波をぎゅっと抱きしめた。



     梅田愛葉は玄関口でコートを脱ぎ捨てた。
     痩せて細い体には似つかわしくない豊満な胸が、セーター越し柔らかい弾力として蹴に迫った。
    「さ……むいからさ……。ちょっと待ってろ、毛布……」
     逃げようと行きかける蹴の手を、梅田はむんずと掴んで離さない。
    「いい。シャワー貸して」
    「え。あ、ああ、いいけど……」
     戸惑いながら蹴は彼女をシャワー室に連れて行く。
    「一緒に入る?」
    「いや、遠慮します」
    「何よ、何回か一緒に入ったじゃん」
    「それは無理矢理……」

     長い時間水を出し続けなければ、シャワー口から暖かい湯はでてこない。
     水を出しっぱなしにしたままで、蹴はタオルや着替えを取りに棚を探していた。
     タオルとシャツやパンツを取りだした蹴は、シャワー室に戻ってびっくりした。
     一糸まとわぬ裸の梅田が、滝の水にでも打たれるように、震えながらシャワーを浴びているではないか。
    「おまえ、風邪ひく……」
     思わず水のシャワーの中から引っぱり出し、体で温めようとした蹴だった。
     裸の女を抱いているという感覚より、救い出したという感覚でしかなかったが、冷たい梅田の体を抱きしめる腕を、離す事ができなくなっていた。
    「なんでこんなことするんだ」
     それは、梅田に言っているのか自分に言っているのかわからない言葉だった。
     蹴の体にすっぽり収まるサイズの細さ、でも背は高い梅田は、そのまま顔を上げ、じっと蹴の唇を見つめていた。
    「キスしよ」
    「だ、ダメ!」
    「何回もしたじゃん」
    「それは、おまえが無理矢理……」
    「無理矢理でいいから……セックスしよ」
    「え……」
     ジャーッという音に蒸気の温かさが混じり始めた。
    「ふ、ふ、ふ、風呂はいってこい!」
     蹴は、梅田の体をシャワー室に閉じ込めた。

     蹴は梅田がシャワーを浴びている間に、千林に連絡しようかと電話を出した。しかし、この状況をきちんと理解してくれるかわからない。恨まれる、絶交状態になる可能性だってある。
     蹴は躊躇し、うろうろと部屋の中を歩き回った。
     梅田に抱き着かれたせいで、部屋着は半分濡れてしまっている。

     とりあえず着替えよう。そうだ、俺が外へいけばいいんだ。
     職場近くの駅前にビジネスホテルがあったはず。
     明日は朝イチで急ぎの仕事があったから、……まあ、ちょうどいいや。



     抱きしめられた佳波は、なぜか、彗の悲しみがどんどんと体の中に入り込んでくるような気がした。
     背の高い彗は、背中を丸めて佳波の体を包み込む。
    「彗さん」
     顔を上げるとそこには彗の顔があり、くっと指で顎をすくいあげられた。

     人生初めてのキスが始まり、一瞬でとろけるような感覚に驚き酔いしれる佳波だった。

     いけない、そう思いながら、彗とのキスがやめられなかった。
     好きではない人とのキス。気持ち悪いはずなのに、そんな感覚になれないのは、好きな人のお兄さんだからか、それともシンパシーを感じてしまっていたからか。

     7秒のキス。それはあっという間に終わった。
     佳波は呆然として、離れて行く彗の顔を見つめていた。

     まだ、江坂くんとは何もないのに。
     先に彗さんとキスしてしまった。
     私は、ふしだらな人間なの?

     でも、どうしてか、愛おしさが溢れてくる。
     まるで彗の悲しみを呑み込んだような感覚だった。

    「申し訳ありません……お嬢様」
     低く震えるような声で、彗が呟き、その場に佳波を残して待合室の方へと消えて行った。

    第29話 自分勝手のツケ

     江坂蹴は梅田愛葉がシャワーを浴びているうちに、スーツと鞄を持ってこっそりと自分の部屋を出た。
     まるで、セックスをするだけしてラブホテルから逃げ出す既婚者のような、なんだか後ろめたい気持ちが蹴にまとわりつく。
     いやいや、俺は何もしてないからな、とブルルと顔を横に振って、自分の尊厳を取り戻す。
     テーブルには、
    <鍵をかけて郵便受けに入れておいてくれ>
    と書置きして、合鍵を残してきた。
     梅田は、母親から合鍵を借りている可能性もあったが、念のためだ。


     シャワーを浴び終えた梅田愛葉は、蹴の服と同じ香りのするバスタオルで髪を拭きながらその書置きを見た。
    「ふん」
     素肌に蹴のシャツを着て、テレビをつけ、ビールをのんでいたが、やはり蹴が帰って来る様子はない。
     仕方無いのでバスタオルを引きずって、折り畳まれた布団を引きのばして整えた。
     掛け布団をすっぽりかぶって、彼女は眠りについた。



     先に一般待合室へと戻った江坂彗を追って、吹田佳波も慌ててベンチに座った。
    「箕面さんー、箕面さんのご家族の方はいらっしゃいますかー」
     看護師に呼ばれて二人が診察室に入ると、浩四郎が点滴をしながら、眠っているように目を閉じて横になっていた。
     そこでは医師の説明があった。
    「ご本人にも言いましたが……」
     血液検査の結果からは肝臓の数値が高いとのこと。過労と、風邪もあるようで、安静にしているように、タバコ・酒を控えるようにと医師に念を押された。
     あまり重篤な病状ではなかったことにひとまず安心した二人だった。
     そこへ、吹田社長夫妻も駆けつけ、皆がほっと胸をなでおろしていると、再び看護師が誰かを探して声を上げていた。
    「箕面さーん、箕面さんの奥さまー」
     吹田家の人間は皆、顔を見合わせた。
     仕方なく佳波の母が話を聞こうと診察室に入ろうとすると、そこから大きな浩四郎の声が聞えて来た。
    「カナミ! ワシノヨメ、カナミ! カナミ!」
     母はあっけにとられて、吹田家の面々を振り返った。
    「佳波、あなたのこと呼んでるみたいよ」
    「わ、私?……??」
     佳波は訳が分からないまま、診察室のパーテーションの奥で横になっている浩四郎の元に様子を見に行った。
    「あと15分ほどで旦那さんの点滴終わりますからね」
     看護師は当たり前のようにそう佳波に告げた。
    「は、はい……」
     とりあえず頷きながら浩四郎のそばに行くと、彼は少し落ち着いたようで、安らかな寝顔をしていた。
    「浩四郎?」
     声を掛けてみると、パッと目を開けた。寝ていたわけでは無さそうだった。
    「カナミ、明日モ、弁当タノム。ワシ、ヤスメナイ」
    「だめだよ、風邪ひいてるし、それみんなにうつしちゃいけないでしょう?」
    「ソウカ……マスク、シテ……」
    「ダメダメ。お弁当は作りません」
     彗の分と一緒に浩四郎の分の弁当を作っているのは、手伝いの婦人ではなく、佳波だった。だから、彼女は呼ばれたのだろうが、どうして嫁などと言ったのか不可解だった。

     待合室の皆の元に戻った佳波は、浩四郎の様子を伝えた。
    「明日も出勤する気だったのか」
     吹田社長は笑っていたが、問題はそれだけではない。
    「パパ、どうして私がヨメって思われてるの?」
     浩四郎の妄想であってほしいと思いながら尋ねると、吹田社長はこともなげに言ったのだ。
    「佳波の事を守ってほしい、いずれはおまえの嫁になるかもわからん、と、前に言ったからだろうな」
    「ええ!!」
    「しょうがないだろう、そう言えば一つ返事でうちに来てくれると思ったから、……大体、後継者にはならないと言って好きな仕事をしているのに、佳波だけ嫁にもらえると思うのは、都合が良すぎるぞ」
     佳波の父はそう言って笑うのだ。

     笑いごとではない!

    「パパ! 私をだしにして浩四郎に無理をさせたんじゃないの!? ひどいわ。独り暮らしをしていたのに、無理矢理うちに住まわせたりして、通勤も遠くなってしまったのよ!」
    「か、か、佳波……」
     社長は佳波の剣幕に驚いて、一歩後ずさった。
    「なんだ、おまえ、少し前までおとなしいおとなしい娘だったのに、私に反発してくるとはどういうことだ?」
    「私だって、わかることがあります。私だって、怒ることはあります! パパはなんでも誰でも自分の思う様に動かせるとそう勘違いしているわ!」
     父の強さだと思っていたものが、権力を笠に着た横暴と言ってよいものだと気付いた瞬間だった。
    「あ、そ、そうか。これはすまなかった」
     社長は圧倒されて、妻と顔を見合わせたが、その二人の後ろから、彗が声を出した。
    「社長、お嬢様が変わったのには理由があります」
    「うん?」
     彗を振り返った社長は、それはどう言う意味だと尋ねた。
    「お嬢様はお付き合いしている男の影響で、そうなったのです。相手は自信家で、自分勝手なサラリーマン、”KOTORIE”に勤務している男です」
    「なんだと!」
     社長は、背筋をぴんと反り、バッと佳波を見ては怒りの表情を見せた。
    「誰だ、そいつは!」
    「言わないで! 彗さん!」
     佳波が途中で声を上げても、彗の言葉を押しとどめることはできなかった。
    「江坂蹴という男、……私の弟です。本当に申し訳ありません。私は、責任を取って”しらいし”を辞めさせていただきます……」
    「お……弟?……君の弟なのか……まさか……」

    「すべて本当のことでございます。お嬢様は少なからず弟と付き合うことで、強くなられました。優しさと、強さと謙虚さを兼ね備えた、魅力的な女性になられたと思います」

     彗は、一礼して、その場から去った。
     もう彼の車がなくても夫婦二台の車があれば、家族で帰宅は出来るはずと、先に帰ろうとしたのである。
    「ちょ、ちょっと、ちょっと待ちなさい、”K”」
     夫人も、社長も、彗の後を追った。
    「辞めることはありませんよ”K”」
    「辞められては困るよ……」

     立ち止まった彗に、社長はこう告げた。
    「この話は、少し話し合う必要がありそうだ。すぐに辞める事はしないでくれ。話が聴きたい」

     そんな風に困惑して取り繕う父の姿を、佳波は初めて見た気がした。

     それは、私の付き合っている人に関して、もっとよく話を聞きたいだけなのか、それとも、彗に辞められることが痛手なのか、この時の佳波にはまだよくわからなかった。

    第30話 優秀がゆえに

     翌日の25日朝、”KOTORIE”の社長室では石橋社長が秘書から数日遅れの情報を得ていた。
    「なに? ”しらいし”の社長の娘が、SSの江坂くんと付き合っていると?」
    「はい、噂はかなり回っています。吹田佳波と江坂蹴が先週付き合い始めたと」
    「そうかぁ……、やはり吹田社長の不安は的中というところか。いやいや、そんなことを言ってる場合じゃないな!」
     石橋は、電話でSSの千里室長を社長室に呼び出した。

    「もうしわけありません……監督不行き届きで……」
    「いやまあ、うちの社としては風紀を乱すような恋愛は禁止しているが、基本、社内恋愛黙認だからな、君の責任うんぬんは無いよ。ただ、責任問題とすれば、”K”くんがヤバいんじゃないのか……?」
    「さきほど彼からは、欠勤するとの電話がありました」
    「そうか、なるほど……」
     こうなることは目に見えていた千里は、溜息をつきたい所を押し殺して、社長の前に立っていた。
    「よし、すぐに辞令を出そう。江坂蹴を高松に飛ばすぞ」
    「え!」
     驚いている千里に、石橋は、あたりまえじゃないかと人事に電話を掛け始めた。
    「江坂蹴、今日付けで高松勤務にしなさい」

     千里が「今日ですか、それはまた急な……」と、戸惑っていると、石橋は当然のように言う。
    「何を言ってる、江坂くんを守るためじゃないか。退職にでもしろと言われたら困るだろう。まあ、応じないけれども……面と向かってやぁやぁとやるよりうまく話をはぐらかしたい。高松は営業力が足りなくて困っていた所だし、年末のあいさつ回りに今からならまだ間に合う」
    「SSは、彼のような優秀な人間がいなくなると痛手ですよ……困ったな」
    「最悪、”K”くんの処遇がどうなるのかわからんが、もし”しらいし”を解雇されるようなら、うちで拾え。彼も優秀なんだろう?」
    「はい、それは間違いなく……ただ……吹田社長の手前、それはできますかねえ……」
    「江坂くんの、……というより、社内をひっかきまわしたんだから、それなりになぁ……無理かなぁ……」
     いざとなったら吹田佳波など退職させると言っていた強気はどこへやら、何事も穏便にした方が都合がいいと言わんばかりの逃げの一手の石橋社長だった。



     話は昨日の夜に戻る。
     箕面浩四郎が病院から帰った後、吹田社長は彗に対して詳しく話を聞きたいと申し出た。
     しかし、彗はもう何もそれ以上話すことはありませんと、突っぱねる。
    「まあ、今日はもう遅い。明日、君は”KOTORIE”に出勤せず、この自宅に待機しなさい。まだ退職願いは受理していないからな」

     そして、朝から社長の書斎に彗は呼び出されたのである。
     社長の出社前、朝7時頃のことだ。朝食もそこそこに社長と面談である。
     吹田社長は、珍しく微笑を浮かべていた。
    「佳波の件では君に負担をかけてしまって、申し訳なかったね」
    「いえ、ご指示を受けて、こんなに早くに不愉快な結果をお伝えすることになってしまい、申しわけないのはわたくしの方でございます」
    「私はね、娘がとても大事だ。だが、会社の後継者という意味で有能な婿を迎えたいという気持ちが一番強い。ひいては、それが娘の幸せになると信じている。娘の周りの悪い虫を一つずつ潰していくのは、骨が折れる作業だろう。だからね……」
     社長は、普段と違って、優しい声で言った。
    「娘に早々に婚約させることにしたよ。”KOTORIE”の石橋くんもそれがいいと言っていた」
    「はい」
    「誰がいいだろうか……と今悩んでいる。無論、浩四郎は論外だ……あいつはこの仕事の後継者にはむいていない。可哀そうだが、体の具合がよくなったら、独り暮らしの気楽な状態に戻ってもらうようにするよ……」
     彗は、固い顔つきを変えることはなかった。
    「私はね、君に娘の婿になってもらえたらとおもってるんだ。君ほど優秀な人材はもうほかに見つけられない」



     社宅を用意するから、とりあえず必要なものだけを持ってすぐ高松へ飛べと言われ、蹴は急いで帰宅した。
     そこにはまだ梅田愛葉が眠っていた。
    「おい、梅田」
    「んんん……」
    「悪いがお願いがあるんだ」
    「何? え、蹴、仕事からもう帰って来たの?」
     半分寝ボケ眼(まなこ)で起きあがった梅田は、バタバタと家の中を探し回って鞄に詰め込んでいる蹴の姿を唖然として見ていた。
    「俺が次にここに戻って来るのは、正月休みに入った28日の土曜日だ」
    「え、それまでどうするの?」

     蹴は、急に転勤になったこと、年末で忙しくてきちんと引っ越しする暇がないこと、留守中にはここに立ち入らないように、そして両親に息子が高松に転勤になったと連絡しておいてほしいということ、などを一気に口頭で伝えた。
    「そんな慌ただしいことってある?……」
    「実際問題、あるんだよ。お偉いさんの気分一つで、俺なんか紙きれ同然に飛ばされるんだから」
    「大変なんだね……」
    「29日には、親に、顔をだすとも言っといて」
    「はーい」
    「悪いけど、今から出るから、おまえも急いで支度してくれ」
    「あ、わかった」
     梅田は蹴のせわしなく動く様に圧倒されて服を着替え始めた。
    「ねえ、さよならのキスは?」
    「そういうのは、恋人同士がするものなの。おまえはただの知り合いだからな」
    「これだけものを頼んでおいて、知り合いって? 家族並みじゃん。こきつかわれてる」
    「ああ……」
     悪かったよ、と蹴は肩を上下させて嘆息した。
    「友達の彼女に、キスはできない」
     蹴は動きを止めて、梅田に向かい合った。
    「それに俺には好きな人がいるから、その人を裏切るようなことはしたくない」

     そう言われて返す言葉がなくなった梅田は、不服そうに尋ねた。
    「高松って、どれくらいの期間行ってるの?」
    「3年くらいじゃないかな……」
    「えええー」
    「よくわからない。今回の人事は特別だろうから……」
    「好きな人とは、どうするの?」
     蹴は苦笑した。
    「心配してくれるのか。大丈夫だよ、同じ会社だし、連絡はとれるから3年くらい……」

    「多分……大丈夫なはず……」
     しかし、あと3年も佳波が”KOTORIE”に在籍しているとは考えづらい気がした。
     でも、今は信じるしかない。

    第31話 隠されていた真実

     吹田社長は江坂彗を解雇するどころか、彼の辞職すら認めようとはしていなかった。
    「ぜひ、うちの佳波をもらってやってほしい。何年先でも構わない。君をいつでも”しらいし”の重役ポストに戻すという前提で今まで通り、佳波のそばにいてやってくれ」
     彗は黙ったまま、社長の顔より下に目線を下げて、社長の顔を見ようとしない。
    「何か希望があるなら、言ってくれ」
     言われて彗は、とうとう口を開いた。
    「今の時点で希望というのはございませんが……、社長はご存知ではありませんよね」
    「ん? 何のことだ」
    「お嬢様が好きになった男のことです」
    「……君の弟か?」
    「ええ」

    「あいつがどんなに粘り強く、負けず嫌いで、自分勝手なくせに、人に愛されているか」

     彗は冷静さを保つように話そうと努力したが、口の端に苦笑を浮かべてしまう。
    「仕事でも、指示する先の先をやってくる。みんなに頼りにされて、それでもプレッシャーに感じることはなく余裕で毎日の業務をこなしている。どんな難題を与えられても、どんな苦境に立たされても、決して弱音は吐かないで、しぶとく食らいついて成功を収めて帰って来る……あんな社員が、うちにいたらいいとお思いになりませんか」
    「ん……? ”しらいし”にか?」

    「私のゆくゆくの希望は、父の負けず嫌いの遺伝子を引き継いだ弟と一緒に、その父の店を再興することです」
     今度は吹田社長が黙り込んでしまった。

    「いつになることかわかりませんが、いつかは……。それが、わたくしの思い描く”叶えたい未来”なのです」
    「そうか……」
     吹田社長は、しばらく考えた後で、こう切り出した。
    「君に、お母さんのことで伝えていないことがあるんだが……聞いてくれるかね」



     吹田佳波は久しぶりに母親に車で送ってもらい、出社した。
     彗は今日は休みを取るということで、一人で職場にむかうことになったのだ。
     自由である嬉しさが半分、不安が半分だった。

     昨日はクリスマスイブだというのに色々とありすぎた。そのせいで、蹴と電話ができなかった。自分から選んだことだけれど。
     彗から婚約の話を持ち出されたかと思えば、どさくさに紛れて彼とキスしてしまった。
     蹴に会わせる顔が無い。言い訳を必死で考えるが、自分でもなぜ彗のキスを受け容れてしまったのか、よくわからなかった。答えが出てこない。
     このままではいけない。蹴に正直にならなければ。
     でも正直に全て話す事が最善なのかと問われれば、やはりわからないのだ。

     静かにSSのフロアに入った佳波は、そこで忙しく働く同僚たちの中に、江坂蹴の姿を見つけることができなかった。
     思わず中津や池田に問いかけた。
    「おはようございます。あの、江坂くんは……?」
    「おはよう。あれ? さっきまでいたけどなぁ? もうあいさつ回り行ったのかな、はえーな」
     何人かに聞いたのだが、蹴の行き先を具体的に知っている人はいなかった。
     蹴はあいさつ回りの前にやっておきたい仕事があったため、誰よりも早く会社に来ていたということくらいしかわからなかった。
     そこに千里室長はいなかった。なので、急展開で転勤になったことを教えてくれる人はいなかったのだ。



    「社長、お願いがございます。本日これから外出を許可して頂きたいのです」
     彗は、社長に向かってそう言うと、「弟に会いに行かせてください」と続けた。

     社長の許可をもらった彗は、自分の車に乗って携帯電話を取りだした。
    「蹴、今からちょっと会社を抜け出せないか?」
     唐突にそう言うと、相手は一瞬沈黙した。
    『俺は今日から高松支社行きだ。28日には帰って来るからその時に……』
    「いや、今すぐ会いたい。まだ家? 空港へ行くのか? それなら車で送ってやる」
     言われて、蹴は『何だよ気味悪いな』と電話口で笑った。



    「冷静なあんたが、どうしたんだ、彗」
     蹴のアパートに着いた彗の車に、荷物を載せながら蹴が言う。
    「何かあったのか?」

    「おまえが……」
     彗は、運転席に座ると、言葉を探して少し躊躇っていた。
    「おまえがこうなったのは、”KOTORIE”の社長にお嬢様の件で処分を受けたってことじゃないのか?」
    「さぁ。詳しいことはわからねーよ。突然今日高松勤務の辞令が出た……っていうか、まだその辞令すら見てないくらい、急がされた」
    「そうか……」
     彗は車をゆっくりと発進させた。

     助手席ではなく、後ろの座席に座っている蹴をチラとバックミラーで確認しながら、彗は話し始めた。
    「俺は母さんにも会いに行ってないし、親父には絶対会うつもりはなかったんだ。なぜだか、気が向かない、苦しい、これは、喧嘩別れしたわだかまりが残っているのかなと思っていた。でも、昨日、病院へ行くことがあってそこで偶然親父に会ってしまった。そしたら、俺は……体がガクガク震えるような怖さを感じた……わかるか、親父が小さくなって俺の脅威じゃなくなって、俺の中の感情の行き場所がなくなってしまったんだ……」
    「そうなのか……」
     蹴は首を少し傾け、理解しがたいような顔をした。
    「父さんと喧嘩ばかりしていたわりに、ほんとは誰よりも気にかけてたってことか……」
    「気にかけてたというか……」
     
    「親父の店を俺の手で再興させたかった。親父に勝ちたかった……。負けず嫌いは母さんも含め江坂家の特徴ってやつだな。知ってるか、母さんは親父と結婚できないなら親父と一緒に死ぬって言ってじいちゃんを脅したそうだぞ」
    「そ、そうだったのか……」
     蹴は唖然とした。
     祖母が詳しく語らなかったのは、そんないきさつがあったせいなのかと納得した。

    「何があっても、どんなことがあっても、私は高志さんと一緒になることでしか、幸せにはなれないと、結婚前も結婚した後も親父が病気になった時も、ずっと突っ張っていたらしい。祖父母が援助してくれてると俺たちは安心してたが、母さんはずっと断り続けていたそうだ。それを、吹田社長は知っていたんだ……だから、俺を引き抜いて店を諦めるように仕向け、江坂家に少しでも楽になってもらおうとしたらしい。おかげで親父は夢をあきらめ治療しながら働ける場所を見つけ、母さんは俺の給料を吹田社長から渡されてなんとか生活を続けていた……」
     彗は、運転しながら、ゆっくりと話した。

     初めて聞かされるその話に、蹴は少なからず取り乱していた。
    「それって……俺が大学へ行けたのも、彗と……吹田社長のおかげってことか……」
     手で額を抑え、目を見開いていてもその目には何も映らなかった。

    「おまえは出来が良いから学費も安く、良い大学へいけたんだよ。それは気にすることじゃない」
     兄にそう言われても、蹴の愕然とした表情は変わらなかった。

    第32話 心変わり

    「少なくとも、俺は吹田社長に可愛がられ給料だってきちんともらっていた。江坂家が社長にそこまでしてもらっていたなんて知るはずもなかった……。社長のことを勝手な人だと思わずにはいられない時もあったが、本当はそんなことはない、立派な方だった。江坂家のために、母のために、陰で支えてくれていたんだ」
     彗がそう言うのを、蹴は理解はできてもどう反応して良いのかわからなかった。

    「俺は”しらいし”を辞めるつもりだった……。でも、この大きな恩はきちんと返さなくちゃいけない。そう思って、しばらくは残ることにした。相変わらず、お嬢様の虫よけ役だ」
    「そうか……俺は……」

     そんな話をきかされては、蹴も吹田家の令嬢に手を出すことはできない。
    「俺は、しばらく高松で頭を冷やすよ……」
     それでも、諦めると言えない自分がいた。

    「いつか、一緒に……」
     彗がそう呟いた。
    「親父の店をもう一度作りなおそう。そのための勉強をしていてくれ」
    「……わかった」

     蹴が高松へ行った後、彼の携帯に吹田佳波からの連絡はなかった。
     正月休みに地元に戻ってきた時も、彼女からは連絡してこなかった。



     佳波は蹴が高松に転勤になったのは、父が手を回したせいではないと知り、考え込んでいた。
     千里室長から”KOTORIE”の社長の営業的判断だと聞かされたのだ。
     そのせいで父を恨むことはしなかったが、まだ入社2年弱の彼を転勤へと追い込んだのは、自分との交際が原因なのではないかという疑念が残っていた。

    「蹴は優秀だと認められただけです」
     彗は佳波の気持ちをほぐすように、静かにそう言うだけだった。
     自分から電話してどう言えばいいのか、謝ればいいのか労いの言葉をかければいいのか、わからないままだった。
     そうして、電話をかけることができないまま、半年がすぎた。


     佳波は時折、夜、彗の部屋に行くようになっていた。
     寂しさを紛らわすように最初はおしゃべりをしていただけの関係が、精神的なものだけではなく、愛を形作る全てのつながりを求めるようになった。
     22歳を過ぎてもまだ少女だった佳波も、彗と過ごすことで大人の女性へと成長していった。

     ただ、佳波の頭を悩ますことがまだ残っていた。
     彗にしつこく付きまとう豊島沙穂の存在だった。いや、豊島だけではなく、”KOTORIE”の女子社員は少なからず彗の容姿と地位に魅力を感じて、陰で誘うような行動が見られたのだ。


     23歳になった佳波は”KOTORIE”での勤務に難色を示し始めた。

    「彗、私、ママのようになれると思う?」
     ある日、佳波は彗に尋ねた。
    「奥様のように、とは?」
    「花嫁修業っていうか……将来、”しらいし”の社長の奥さんになるわけだから……もっと勉強しなくちゃいけないことがあると思うのよね」
    「はぁ……なるほど」
     行為が終わった後、ベッドの中、彗の腕の中でなんとなくにおわせるような事を言い始める佳波だった。
    「仕事をやめたいのですか?」
    「うん……。お料理とか家事は得意ではあるけど、完璧じゃないし……それに、どちらかというと、和菓子の知識も少ないし、お嫁入りの先の人の足手まといになりたくないから……」
    「いい心掛けですね」
    「もう……」
     深い関係になっても、いつまでも他人行儀に敬語を話す彗に、佳波は少し不満を感じた。
    「私たち恋人同士でしょ、そんな言葉づかい、嫌だわ」
     そう言って、佳波はふといつか江坂蹴が敬語をつかわないでと言ってきた気持ちがわかるなぁと感じた。恋人になれば、相手を思う気持ちが強いほど近くなりたいものなのだ。
    「でも、いつか、お嬢様は跡取りの方の奥さまになる方だから……」
     そう言いながら、また佳波の首筋にキスを始める彗に、佳波はくすぐったいのと愛しさのせいで、そのキスを唇で受け止めようとする。キスを交わしながら、尋ねる。
    「跡取りは……あなたでしょ? 彗」
    「さぁ、それはまだわかりません……」
    「私、パパが反対したら、家出するわ」
    「家出ですか、可愛らしいですね。私は死ぬと言った人を知っていますが……」
     そう言った彗は、彼女の体をもう一度キスで愛撫しはじめた。
     切ない吐息を漏らしながら、彗の体をぎゅうっと抱きしめる佳波は、この時、二人の関係が違う方向へ行くなどとは思ってもいなかった。


    「え? 私が退社しても、彗は”KOTORIE”に残るの?」
    「はい。わたくしも重要な仕事を預っていますので、簡単に辞めるわけにはいきません。吹田社長には、その件でご理解をいただいています。……私の役目はお嬢様のお目付け役。ご実家で花嫁修業していらっしゃるお嬢様のお相手でしたら、”しらいし”にいても、”KOTORIE”にいても、どちらでも構わないのです」
     佳波が会社をやめると自動的に彗も辞めてくれるものだと思っていた佳波は、不満を感じプイとへそを曲げてしまった。
    「それに、一日中同じ家で顔を突き合わせていると、お嬢様も息が詰まるでしょう」
    「私の顔なんて、一日中眺めていては飽きるものね」
    「そうは言っておりません」

     食事や風呂トイレなどを除き、部屋に籠城する作戦に出た佳波だが、彗は気にせず出勤してゆくようだ。
     数日粘ったが、ついに彼女の方から彗の部屋をノックした。
    「彗、いるでしょ? ……何とか言って」
     彗はドアを開けたが、
    「わたくしは、お嬢様をお叱りするような立場にございません」
    と、普段と変わらぬ態度で言うのだった。

    「ごめんなさい……」
     佳波は自分から謝って、その部屋の中に入れてもらった。


     そうして、1年、また1年と経ち、佳波は25歳間近となり、正式に婚約の話が出て来た。

    第33話 時の流れと共に

     江坂蹴と入れ替わりのようにSSに転属になった豊島沙穂だったが、当時から佳波も気をもむくらい彗にご執心だった。

     豊島は彗の顔を覗き込みながら訊く。
    「彗、婚約するってホント?」
    「いや。お嬢様がそういう方向に持っていきたがるから、社長もそろそろかなって感じさ。ちょっと前までは婚約させたいと必死だったのに、いまは落ち着いてる。……まあ、なんていっても、まだ社長は現役バリバリだから、今のところ後継者は必要無いっちゃ無いな」
     豊島の疑問に、彗は肩をすくめてみせた。
    「お嬢様の付き合っている相手が俺ってことで、社長も安心してるから……」

     3年近く経って、豊島は彗をまだ好きではあったが、佳波と付き合っているという現実には勝てず、友人としてでいいから、たまに会ってほしいと懇願するようになっていた。
     お嬢様の送迎がなくなった今では、特別待遇は認められず、彗は電車通勤だ。
     そのため、駅までの道を少し遠回りして歩いたり、居酒屋で一杯やる程度が、豊島と一緒にいる時間帯だった。

     豊島も自分が32になるまで独身でいるとは思っていなかったようで、ひとえに彗のせいだと愚痴るのだ。
    「俺なんかに興味もたないで、ほかの男と付き合えばいいだろ。もう随分ご無沙汰なんじゃないの?」
    「そうよ、すっごい欲求不満。なんたって、前は付き合う男に困ったことはほとんどなかったのに、彗を好きになってからは、ずっとずうっと、キス一つないんだから」
    「ご遠慮なさらず、彼氏を作ってくださいよ」
     彗は笑うが、彼の腕に恋人のように自分の腕を絡ませている豊島だった。
    「あ、でも、江坂くん……蹴くんには断られ続けたなぁ……。さすがに兄弟、好みが似てるのね」

    「まずいなー。こんなとこ人に見られたら誤解される……」
     そう言いつつ、彗は隣で顔を見上げている豊島の頬に反対の手を伸ばして、顎をくいともちあげた。
     道端を歩きながらの急な行動に、豊島は目が点になり、その続きのキスを期待するも、軽くスルーされてしまいきゃあきゃあ言いながら更にしっかりと彗の腕に絡みついた。
    「ハハハ」
     笑いながら、退社時に会社から少し離れた道をゆく二人。


     彗が”KOTORIE”を辞めないのは、豊島の存在があるからではないかと、社内で噂され始めているのにもまだ二人とも気付いていない。
     事実は、良い友達関係以上のことは何も無いのだが。多少、仲が良すぎる感があった。



     その頃、佳波は毎日をぼんやりと過ごすようになってきていた。
     せっかく婚約の話が出ても、元気が無い。というよりも、生気が抜けたような状態だった。
    「どうなさったのですか、お嬢様」
     久しぶりに早く帰宅した彗に、佳波ははぁと思わせぶりな溜息をついた。
    「なんかね、何やっても面白く無いっていうか……ゆううつなの」
    「どうしてでしょうね……」
    「いつも外で気晴らしして帰って来る彗とは違うのよ。最近帰宅が遅すぎるわ」
    「お嬢様も、自由に気晴らしされたらいかがですか?」

     佳波は、その問いには答えない。

    「彗はさ、お父さんの店をまた作るんだって言ってたけど、それはもうどうでもいいの?」
     リビングでアイスクリームを食べながら、雑誌を読んでいる佳波は、顔も上げずに尋ねる。

    「どうでもいいわけではありませんよ。ちゃんと勉強しています」
    「でもそれって……うちの後継者にはならないってことになるでしょ?」
    「でも、その店を作るのは何も”しらいし”を辞めなければできないことでもないですし」
    「なんか、彗って、ずるくなった感じ……」
    「はい?」

     佳波は肩を落とした。
    「あんなに必死でお父さんの店、再興させたいって言ってたのに、今は二の次なのね」
    「わたくしが必死になってもよいのでしたら、今すぐにでも社長にかけあって、こちらを辞めさせていただき、家業に集中させてもらいますが……」
    「そんなこと言ってない!」

    「がっかりだわ」
    「そうですか……」
     彗が静かに俯くのを、やっと顔を上げて見つめた。
    「ううん……彗にがっかりしてるんじゃない……。そういうことも応援できなくなっちゃった自分が、嫌なの……」
     佳波は豊島と彗の噂を知らない。
     それでも、なんとなく彗との関係に溝ができて来たことに気付いてしまった。

    「私が、彗を束縛してるのなら、……ごめんね、黙って従うしかない人をそんなふうに縛りつけてしまって……」
    「いえ、そうではありません……」
     彗はやはり冷静に応えた。
    「私にはお嬢様が必要でした……地位のためではなく、わたくしの心の支えとなってくださっていました。とても幸せな時間をもらいました……」

    「それはお互いさま。……でも、もう、それも終わりね……」
    「さようでございますね……」
     彗は深く頭を下げた。
     佳波はまた、アイスクリームを食べ始めた。
    「婚約しないとなると、パパがまた私を縛りつけるのかしら……。それは嫌だわ……」


     そして、彗は、リビングを出る間際にこう言い残した。
    「そう言えば、蹴が本社に戻って来ました」


    「蹴……?」

     今頃、江坂蹴のことを言い出されて、佳波は呆然と手を止めた。
     溶けて滴り落ちるアイスが、雑誌の上にこぼれても、まるで気付かなかった。

     江坂蹴が高松へ転勤になって以来、彼とは一度も連絡をとっていない。
     彼の名を聞かされ、佳波はどんな顔をすればいいのだろう。
     会いに来るだろうか。いや、そんなことはないはず。もう、彗の口から私が彼と深い関係になっているくらいは聞いて知っているだろう。それとも、隠しているだろうか……。

     どっちにしろ、私たちはもう3年近く前のような純粋な気持ちを持ち合わせていない。
     それに私は、江坂くんを裏切った……。

     そのせいで、心に何かひっかかりが残っている。

    第34話 5コール目で出た電話

     江坂蹴が帰って来たと聞かされた翌日、佳波は一日中蹴のことが頭から離れなかった。
     帰宅してきた彗に、リビングで一言二言言葉を掛けた後、視線の定まらぬ虚ろな顔で、尋ねた。
    「江坂くんは元気にしてますか?」

     彗は少し黙った後、にっこりと微笑んだ。
    「ええ、少しやせましたが……、元気そうですよ。今はWPという部署で直販ビジネスの企画の方を頑張っています」
    「そうなんだ……」
    「お会いになりたいですか?」

     佳波は慌てて顔を横に振った。
    「ううん、そういう意味じゃ!」
     しかし、彗は佳波の顔をじっと見つめて言う。
    「三日後の9月10日にはお嬢様の誕生日会があります。”KOTORIE”や”しらいし”からたくさんの人に招待をしていますし、そこに蹴を呼んでやってもいいのではございませんか。久しぶりということで、お話したいこともあるでしょう」
    「え……それはそうだけど……。でも、急に言っても、お忙しいと……」
    「どうでしょうね、今から早速電話で訊いてみましょう」
     そう言って、彗は携帯電話を取りだした。
    「蹴、今週の土曜の十日、時間とれないかな、少しでもいいんだが」

     佳波は彗が蹴と電話をしているのを前に、不思議なくらい落ちつかない気持ちになって、慌ててリビングをとびだした。
     キッチンに入ると、手伝いの婦人が佳波に会釈をした。
    「何か?」
    「あ、ちょっと喉が渇いて……」
    「では、アイスティーでもおつくりしましょうか」
    「いいの、私、自分でつくるから……」
     そんなやり取りをしている所に、彗が入ってきた。
    「お嬢様、蹴は土曜は無理なようです。父親の一時帰宅のため迎えに行く予定になってるそうで、大変申し訳ないが欠席する、とのことです」
     背中を向けたまま、彗の声を聞いていた佳波だが、
    「そう、わかった。急に言っても無理よ。無理よね……」
    と小さな声でつぶやいた。
     その夜、佳波はぼんやりと自室で携帯電話を見つめていた。
     江坂蹴に会うことはもうないのかもしれないと思うと、ほっとしたような、がっかりしたような、複雑な気持ちになった。


     その翌日のことだった。
     一人で昼食を終えた佳波は、自室に戻った。
     父母と彗は会社、浩四郎はもう随分前に独り暮らしに戻っている。なので家の中には手伝いと、父の運転手と、佳波ぐらいしかいない。
     今日は料理教室が3時からある。運転免許も取ったので、自分で運転してゆくため2時頃家を出れば十分間に合うと思われた。
     1時半を過ぎた頃、出かける用意をしていた佳波の携帯電話が静かに鳴り始めた。
     昔は携帯にも無知で大音量で鳴らしていたが、今はそんな事はなくなった。それでも部屋が広いため音を出しておかねば気付かない時があるということで、軽い音が鳴るようになっている。
     かかってくるのは、決まって父母か彗なのだが。

     しかし、携帯に表示された相手の名前は、『SS緊急連絡先』だった。
    「えっ!」
     しばらく見ていないとはいえ、この連絡先は忘れるはずがなかった。
     個人名を入力するのを躊躇って、こんな名前にしてしまった番号は、江坂蹴の携帯だ。

     佳波は10秒ほど、その携帯が鳴り続けるのを見ていた。
     切れるだろうか。
     彼からかかってくるなんて、まさかとしか言いようがない。

     それでも鳴り続ける携帯を、ついに佳波は手に取り慌てて電話に出た。
    「もしもし」
     焦っている自分がいる。すれ違いで切れていませんようにと、祈っている自分がいる。
    「もしもし」
     早口で、相手の電話と繋がっているかどうかを確かめる。

    『あ、吹田さんですか?』
     そんな懐かしい声が聞え、佳波は心の芯のような部分がズキッと痛むのを感じた。
    「はい。……え……さかくん?」
    『うん。久しぶり』
    「お久しぶりです」
    『彗から今日は2時くらいまではヒマしてるって聞いてたから、かけてみた』
     蹴の声は、以前と変わらず明るい。

    「びっくりした……」
    『ごめんごめん。だって、今日は誕生日だろ? おめでとう』
    「え?」
    『誕生会は十日だって聞いてたけど、確か吹田さんの誕生日は九月八日のはず……』
    「う、うん。すごい、憶えてたというか、知っててくれたんだ……」
    『入社してから1年以上片想いしてたんだから、それくらい憶えてるさ』
     急に、蹴と離れていた3年近い月日が、戻ってきたように感じられた。

    『誕生会行けなくてごめんね。高松から帰って来たばかりでバタバタしてて、今日は引っ越しで有休もらったから、時間できて……。今、吹田さんの家の前にいるんだよ』
    「えっ!」
     部屋の窓にかけより、門の辺りを身を乗り出して見てみると、通りの向こうで携帯で話をしている男性がいる。半袖のTシャツとデニムパンツというどこででも見かけるラフなスタイル。江坂蹴のスーツ以外の私服姿は見たことがないので、それが彼なのか判別できない。
     ただ、少し細身で背の高い様子は、どことなく彗に似ている。
     間違いない、彼が蹴なんだ。
    「今、外に行くから、少し待ってて」
    『え、大丈夫なの?』
    「全然大丈夫!」

     急いで鞄と車のキーを持って、ダダダダッと階段を駆け下りた。
    「お嬢様、もうお出かけですか?」
     手伝いの婦人に声を掛けられて、思わず自分が走っていたことに気付いて立ち止まった。
    「そう、……前に渋滞で遅刻しちゃったから、今日は早めに行くの」
    「……そうですか……、昼間に渋滞……? あ、お気を付けていってらっしゃいませ」
    「ええ、留守をよろしく」

     手伝いは不思議そうな顔をしていたが、佳波は気にしなかった。
     この気持ちはなんと説明すればいいのだろう。
     蹴と3年ぶりに会うことができる。
     二人きりで!

     恥ずかしくて、緊張して、でも、すごく懐かしくて、あたたかい気持ちになった。

    35話 懐かしい不安感

     窓から見かけた男性の前を少し行き過ぎてから車を止めると、佳波は車の中で深呼吸した。
     傍を通った時に見かけたが、確かに江坂蹴だった。
     心を落ち着けて、顔が火照るのを手で押さえながら、ゆっくりと車から降りた。
    「江坂くん!」
     そう声をかけ、パタパタと小走りに彼の元へゆく。

     蹴は驚いた顔をして、佳波を見つめていた。

     蹴の前でニコニコ顔で立つ佳波は、
    「ここじゃ、お手伝いの人に見つかってしまうから、ちょっと別の所へいきましょ」
    と、車に乗るように促した。
     蹴は頷いて、彼女の車の助手席に乗り込んだ。

    「あのお嬢様が免許を取って外に自由に出かけてるとはー……」
     蹴は笑いをこらえながら、佳波の運転を見ていた。
    「ペーパーじゃないのよ、ちゃんと、毎週運転してるんだから」
     自慢するように言ったのは、分かりやすい照れ隠しである。
    「それに、すっごく綺麗になったね、別人かと思ったわ」
    「あ、え、そ、そんな……こと……」
     運転中なので視線が合うことは無いが、全身が真っ赤に染まりそうなくらい恥ずかしかった。
    「江坂くんは、元気だった?」
    「うん、元気元気。吹田さんは?」
    「うん?」
     突然聞かれて、言葉に詰まった佳波だった。
    「あ、ゴメン、運転に集中できないよな。どこか適当な店に止めようよ。ちゃんと話したいよ」
    「そう……だよね」


     適当なレストランを探して、駐車場に車を止めると、二人は店の中に入った。
     9月とはいえ、まだまだ暑い夏であることに気付く。店内では、強い冷房がかかっていた。
    「私江坂くんの私服姿、初めて見たわ」
    「だよな。俺も、涼しそうなワンピース着てる吹田さんて、想像の域を遥かに超えて可愛いしびっくり」
    「もう、さっきからそんなふうに褒めてばっかりいるけど、おごらないわよ」
    「ハハハ」
     蹴はさも楽しそうに笑う。
     飲み物をオーダーして、お互いの顔を改めて見つめ合うと、蹴でさえも言葉がなかなか出なくなっていた。

    「んーとさ……」
    「ん?」
    「なんかいいよね、タメぐちだし。友達に戻れたって感じかな」
    「私たち、友達だった時期なんてないもん」
    「そか。そう言えばそうだな」
     蹴は少し考えてから、「同僚……かそれ以下みたいな?」と笑った。
    「あの頃は、鈍感で何もわかってないお嬢様で、失礼しました」
    「アハハ。俺も人に言わせると鈍感らしいから、ちょうどよくない? 付き合ってる人はいるの?」
     蹴に何でも無い事のようにさりげなく聴かれ、戸惑う佳波だった。

    「そんなの、江坂くんから先に言ってよ」
    「そうか、俺は高松で付き合った人がいたよ。でももう別れたけど」

     佳波はその言葉に、一瞬心臓を掴まれたような気持ちになった。
     自分は彗と付き合っていたのに、蹴に彼女がいたことは信じたくなかったのだ。
     3年間自分だけを想っていてくれているなんて、そんなこと厚かましいことなのに。

    「俺、自分で言うのもなんだけど、わがままだからね、愛想つかされる」
     といってケラケラと笑う蹴を前にして、つられて笑う佳波だったが、今度は自分が告白しなければならない。
     なんと言おうか考えていると、蹴が先に口を開いた。
    「こんなに綺麗になったんだから、いい彼氏ができたんだろうな。次の誕生会では婚約発表でもあるのかな……」
    「無いよ、無い」
     慌てて否定する佳波だった。
    「そうなの?」
     蹴は驚いて目を瞬かせていた。
    「別れたばかりだから」
    「そうなのか……ごめん……」

     沈黙が流れ、蹴が窓の外を眺めている横顔を、佳波はしばらく眺めていた。
     もう何を話せばいいのかわからなかった。
     目の前に置かれたアイスティーを、ストローでかき混ぜているばかりだった。

    「もう、行かなくちゃ……」
    「ああ、そっか、用事があるんだね」
    「うん……あ、駅まで送るけど……」
    「いや、大丈夫」
    「そう」


     蹴と別れ、料理教室へ向かう佳波は、赤信号でほっとして停まっていた。
     心拍数がいつもより上がり、普通の状態じゃない。
     これは、入社以来、蹴に対してずっと持ち続けて来た、失敗の不安と似ていた。

     今日の私は、失敗してないかな。
     そんなふうに顧みる。
     
     ”KOTORIE”の時代が急に懐かしくなった。



     その日、彗が帰って来たのは夜の10時頃だった。
     なぜそんなに遅かったのか理由を知らない佳波だったが、特に気にすることはなかった。どうせ、誰か女子社員に誘われてどこかの店で飲んでいたのだろうと考えていた。
     帰りが遅いのは日常茶飯事なので、一々気にも留めていられなかったのだ。

    「お嬢様」
     自室の前で彗に呼び止められ、佳波は振り返った。
    「これ、蹴から預って参りました」
     そう言って彗が渡してくれたのは、真っ白な封筒だった。
    「彗、今日江坂くんに会ったの? 彼は休みだと言ってたけど……あ、あ、ちょっと電話で話したものだから……」
     思わず、会っていたことを隠そうとした佳波だったが、彗は笑っていた。
    「今日は蹴の引っ越しの手伝いで、休みを取らせていただきました。蹴は実家に住むことになったので手伝わないわけにはいかなくなりまして、朝からこき使われておりました……。彼をこのお屋敷の前まで送ったのは、わたくしでございます」
    「え、じゃあ……」
    「久しぶりの対面、楽しかったですか?」

     彗は、なにもかも知っていたようだった。

    第36話 約束

     部屋に入り、彗から手渡された封筒を開けた。
     そこには「日本料理えさか」の簡易なパンフレットと、短い手紙が入っていた。

    <高松で良い板さんを見つけることができて、店が順調に開店日を迎えられそうなんだ。彗がずっと下準備をしていてくれたからね。そこで、俺たち兄弟からお誕生日のプレゼントとして、一緒にうちで食事してほしいと思って。いつでもいいので良い日に、彗と一緒に来てください>

    「彗!」
     思わず部屋を飛び出て、声を上げた。
     自室に入ろうとした彗は動きを止め、佳波に向き合う。
    「いつも、帰りが遅かったのは……ご実家の店の準備をしていたのね」
     彗はただ微笑んでいるだけである。
    「ごめんなさい、私……そんなふうに彗のこと見てあげられなかった……疑ってばかりで……」
    「お気になさらないでください。そんなことより、いつになさいますか?」
    「そうね……。いつが……いいかしら……」
     心の準備がまだできていないが、早く店にいってみたい気もする。
    「日曜日はどうかしら……」
    「……誕生会の次の日ですか?」
    「だめ? 早すぎるかな?」
    「いえ……。……構いませんが……二日続けてだとお疲れにならないですか?」
    「大丈夫よ」
    「そうですか……では、そのように蹴に申し伝えます」


     土曜日の佳波の誕生会には、たくさんの人が招かれ賑わった。
     ”KOTORIE”からは社長以下SSのメンバーが皆やって来て、”しらいし”からは重役連中が顔をそろえた。
    「お誕生日、おめでとうございます」
     そう言われ花束を受け取る佳波はキラキラと輝いて、社長令嬢の貫禄が垣間見られるようになった。


     日曜日になり佳波は朝からバタバタとしていた。
    「お嬢様、食事会は夜の7時からですので、まだまだ時間はありますよ」
     彗が苦笑するのに対して、佳波は必死に箪笥を開けていた。
    「でも、日本料理のお店なら和装がいいんじゃないかと思って、美容室に行く時間も考えないといけないし……」
    「昨日も和装でお疲れになったでしょう。大丈夫、普段の格好で楽にお食事してください」
    「そう?」
    「店もまだオープンしておりませんから、わたくしどもだけのささやかな食事会。大袈裟なことは不要でございます」

     それでも、少しでも綺麗な姿を蹴に見てもらいたいという気持ちは消せなかった。
     結局和服を選び、美容室にも二日連続で通うことになった。
     吹田社長からは、
    「なんだ、昨日の誕生会より綺麗な格好をして、どこへいくんだね?」
    と、問いかけられる始末だった。
     その両親は佳波より先に出かける予定があるとかで、彼女の行き先についてはあまり深く問いただそうとはしなかった。彗が一緒だというだけで随分信用されたものだ。


     夜、7時少し前になって彗が車を出発させた。
    「こんな時間では遅れてしまうわ」
    「大丈夫です。向こうの準備が遅れているとかで、もう少し後でもよいくらいなんだそうですよ」
     言われて佳波は渋々納得した。
     だが、佳波の心情としては、少しでも、一秒でも早く、店を見てみたかった。
     そして、早く江坂蹴に会いたい。
     つい、このまえ会ったばかりなのに、今日の日が待ち遠しかった。
     胸が痛むくらいに。


     江坂家兄弟が手掛けた店に到着した。
     開店前なのでのれんなどはなかったが、すでに看板がかかっていて、”日本料理えさか”の美しい文字が縦に並んでいた。その看板のかかっている傍の出入り口にはすでに中の明るい光が漏れていた。
    「こんなに立派なお店だとは思わなかったわ」
    「支援者の方々のおかげです。わたくしたち兄弟二人だけではできませんでした」
     そろりと中に入ると、眩しい店内に人がたくさんいた。
     江坂兄弟と3人での食事会だと思っていた佳波は、思わず後ろからついてくる彗を振り返った。
     と、同時に、拍手が起こった。
     店にいる人々が佳波の到着を知って、精一杯の喝采を送ったのだ。

     驚く佳波は、そこにいる面々の顔を見て二度驚いた。
    「さぁ、お嬢様中へ」
     彗に背中を押されて、店内に入ると、そこには”KOTORIE”の社長、両親、豊島沙穂がいた。
     昨日もあったばかりの彼らに唖然としていると、蹴が佳波の前に進み出て、ほかの人達を紹介した。
    「これがうちの両親、こっちは幼馴染の三国と千林と梅田、ここの二人付き合ってます」
    「千ちゃんとつきあってまーす」
     軽いノリで手を上げる梅田には、3年前の蹴への想いはカケラも残っていないようだった。
     皆、カウンターに座っていて、中には板長を始め料理人たちが数名笑顔で立っていた。

     カウンターの真ん中の席3つに、彗と佳波と蹴が座ると、総勢12名が揃うことになった。
    「二日続けてってのはないよー」
     そう言ったのは佳波の父、吹田社長だった。
    「パパたち、どうして??」
     言葉にならない佳波に、蹴は、佳波に後ろを振り返るように肩を叩いた。
     入ってきた店の入口の上部に紺色ののれんが巻かれて載せてあった。その大きなのれんを彗と二人でくるくると開いていくと”日本料理えさか”の文字よりさきに、”しらいし”という文字と小鳥の絵のマークが印のように白抜きで出て来たではないか。
    「どういうこと?」

     聞かれて蹴が答えた。
    「この小鳥のマークは吹田さんもご存知の”KOTORIE”のマーク。なぜ染め抜かれているのかというと、この店の内装に使われている調度品は”KOTORIE”の和モダンをテーマにした商品だから。そして”しらいし”の名は、この店で食事をして頂いたお客様にはすべて高級和菓子である”しらいし”の商品を手土産としてお渡しすることにしたから」
     そして、彗が”KOTORIE”の石橋社長や、吹田社長夫妻を両手で指して、
    「社長のお力添えで出来上がった店、みんなの合作の店なんです」
    と、伝えた。

    「素敵!」
     佳波は感極まって両手で口元に手をやり、涙をこらえた。
    「こんな素敵なことって、ないよね!」
     何度も言う佳波。

     皆は兄弟に、拍手を送った。
    「立派な企画をありがとう。絶対成功させてくれよ」
    「これだけの人間の期待を背負ってるんだ、そう簡単に潰したら許されんぞ! ははは」
     社長連中からの叱咤激励を受けて、蹴は、オーナーは父さんだから、と座っている父の背中をがっちりと掴んだ。
    「俺は経営が傾いたって責任追いませんよ」
     と、うそぶいた。

    「お誕生日のお祝いだよ、さ、食べて」
    「おいしい~」
     板長の料理を食べながら、満面の笑みを浮かべる佳波の隣で、蹴はぼそっと呟いた。
    「今いる人達、殆どカップルなんだよなー」
     吹田夫妻に、江坂夫妻、千林と梅田に、彗と豊島。
    「俺と豊島さん?……」
     彗は数に入れられて、面食らって豊島の顔を見た。
    「そういう話になったらいいな、的な感じかな、私たちは……」
     豊島が悪戯っぽい顔をする。キュートな笑顔だった。
     佳波は、うんうんと頷いた。

    「で、俺たち……」
     蹴が、臆面もなく佳波の顔を見て言う。
    「え?」

     蹴はニヤッと笑ってポケットからメモを取りだした。
    「”La lune bleue”の予約、いつ取ったらいい? やっぱり……」
    「クリスマスで!」
     すぐに答える佳波に、蹴の方が驚いていた。
    「ほんと?」
    「ほんと。今度は絶対に一緒に行こうよ」

    「約束な」
    「うん」


     蹴は片手の拳を握りしめ小さくポーズを取った。それを皆が見ていて、また拍手がわく。
     あたたかな食事会は、いつまでも続いた。



    <END>

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