<無知の章> 第1話 力は与えられず
湖面に涼やかな風が吹き渡り周囲の緑を揺らしていた。
この大好きな景色の中で、僕はあなたのことを胸に描いて深く目をとじた。
ゆっくりと目を開け顔を上げると、そこには雲一つない空があった。
朝焼けが消えたばかりの美しい水色をしていた。
そこは街から車で30分ほどの馴染みの場所だった。家族ともよく遊びに来る。今日は友人と釣りをしにやってきた。日曜は忙しいけれど以前から誘われていただけに断り切れなかった。
釣り具を載せ彼と共に湖の淵へとボートを押し出す。
その時、彼が何かを見つけた。
僕は彼が指さす方を見て体中の血が一斉に足元へ落ちてゆく感覚に陥った。この目に信じたくない情景が広がっていた。一瞬、呆然とする。
湖の真ん中で無人の小さな手漕ぎボートが漂っていた。
友人は僕らのエンジン付きボートの後部から慌てて飛び降りた。
その叫び声で我に返る。なんだって? 電話をかけに行くって?
馬鹿な。この近くに民家はない。公衆電話だってない。こんな時、携帯電話が手元にあればと悔しく思う。
湖にボートが浮かんでいるということは誰かがそこまで漕いできたということ。しかしその人影は見当たらない。
あの様子からすると、事故か、あるいは。
どちらにしろあまり希望を持てないことはわかる。だからと言って可能性が無いわけではない。手漕ぎボートの周囲がまだ少し波立っているように見えたからだ。
乗り込めるのはせいぜい3、4人が限度の軽そうな船だ。乗っていたその何人かの人が落ちたとき、波が治まるまでどれくらいの時間がかかるんだろう。まだなんとか間に合わないか? 夏とはいえ、朝方は気温も低いし水温はもっと低いのだ。
もしここで消防の到着をじっと待っていれば、かすかな望みも完全に消えてしまう。
そう思うと僕はいてもたってもいられなかった。人の命がかかっている。僕は自分のボートのへりに掴まり中腰になって、前だけを見つめて進む。
後方で友人が僕の名を呼び、戻れと叫んでいる。でもそれは無理なことだ。
到着したとき、その船の周囲から波も泡も消えかけていた。静かにそこに浮かぶペットボトルやお菓子の袋が、残酷な事態の痕跡を表しているだけだった。
僕は何も考えずそのまま湖に飛び込んだ。救助の知識など無い。無駄骨かもしれない。しかし可能性の有無を確かめたかった。
今できることは潜ることだけだ。そのためだけに真下へと掻き進む。
視界は悪くはないが、着物の帯ほどの大きさの水草が湖底を埋め尽くしていた。それはゆらゆらと手招いているようだった。
そろそろ息が続かなくなってきた。体力にも泳ぎにも自信があったのに、ここまでかと半ばあきらめかけていた時、水草に黒い蝶が絡まっているのが見えた。
人影だと気付いて蝶に手を伸ばすと、その蝶が泡を吐いた。小さなあぶくが僕の目の前をのぼって行く。
慌ててその黒いものをぐっと引っぱり上げようとしたが想像以上に重い。
蝶の体は二つの黒い塊と繋がっていた。
蝶と絡み合う、もっと大きな蝶たち。
僕はゴボリと息を吐いた。
だめだ。
3人は助けられない。
水が、口と鼻から押し入って来る苦しみの中で、必死で一番小さな蝶を抱いて湖面へと向かう。
湖面は、底から見れば“空”だった。
白く輝いてキラキラと揺れている。
雲間から降りてくる神の光に似ている。
僕が引き寄せたその小さな黒い蝶は、光の中で、きれいな赤い色を見せた。
ふと気付いた時、あなたが僕のすぐそばにいた。
手の力が抜けて行く。
空へと届ける前に、掴んだものを離してしまいそうだ。僕の意識がなくなりかけたちょうどその時、あなたは僕の心の中に入ってきた。おまえはここまできて何もできないのかと、憐れむように語りかける。
でもだめです。もうこれ以上の力は出ない。ボートまで連れて行くなど、そしてボートに乗せるなどもう無理です。泳ぐこともできそうにない。
光の中、頭上で赤いものはぼんやりと浮いている。僕はその赤い蝶が空へ上ってゆく様子を見届けることなく、底へと落ちていった。
この深く静かな藍色の湖の底で、じっと僕を見つめるマリア様。
今日は午後からあなたに逢いに行くつもりだったんですよ。
でもまさか、あなたから来てくださるなんて。
この幸せに感謝します。
ハッと息を吸って布団から飛び起きた。
息苦しさはまだ続き、心臓の強い鼓動と共に大きな呼吸を繰り返す。
上下していた肩は少しずつ平静を取り戻す意識の中で静まっていった。
また同じ夢だ。
僕は吐き気がして洗面台に向かった。
辿り着いて激しく嘔吐すると、そのまま力を奪い取られ、床に倒れた。
<無知の章> 第2話 ふりかかる難題
携帯電話が震える、その微かな音がどこかで響いている。
確かテーブルの上に置いていたはず。
まだ半分目を閉じたまま必死で這い、部屋の中央にある低いテーブルへと向かった。狭い部屋でよかった。ぎりぎり電話に手が届いた。操作する指を震わせながら、なんとか携帯電話を耳に当てた。
『柏原(かしはら)くんか?』
男の声がした。
「……はい」
『大丈夫か? 苦しそうだな』
「あぁ……すみません……」
それ以上は言えずに思わずまぶたを閉じた。
課長だ。
裸眼では辺りがぼやけて何も見えない。必死で目を凝らして、携帯電話に大きく表示された時刻を見ると、午前9時半過ぎ。
また遅刻か……。
絶望にも似た気持ちを抱え、なんとか立ちあがり支度を始めた。
こんなことがあるたび、課長には病院へ行って診断書をもらって来いと渋い顔をされる。
会社の都合や同僚への手前、診断書が必要なのはわかる。課長の立場ならもっと言いたい事もあるはずだが、まるで親の様に心配されているのが現状だ。
嘘を吐いているわけでもないのに、自分が情けなくて嫌になる。
それまで就業時刻に遅れたことなど一度も無かったのに、6月からの三か月の間で計八回の遅刻。
自分でも怖かった。
だから今月だけでも三回、それぞれ別の病院で検査をしてもらった。
『朝、目覚めることができず、目覚めた途端に動悸がして吐き、めまいを起こした後、意識を失います』
自分が死ぬ夢を見ます、そうも伝えた。
総合病院では異常が見つからず、脳波の検査結果も正常。内科から精神科に回されてどっさり薬をもらったが、飲んでも頭がぼうっとしただけだった。最終的に別の病院の心療内科で診断書をもらったが、長期休暇を押し付けられそうで、怖くて会社に提出できなかった。休まされた後は確実に配置転換になる。いや、配置転換だけで済むだろうか。
幸い体と脳に異常はないようなので、ストレスを減らす努力をして自力でなんとかするしかない。
そう思っていたのに、またやってしまった。
会社に着いたのは11時前だった。
届を出して、午前の半休をもらうことになる。実際は遅刻だが、うちの会社にはタイムカードという物がない。10分や20分の遅刻は問われず、ひどく遅れれば有休処理。
そういうシステムは逆に苦痛だ。緩い規則の中で牽制し合う社内の空気はいたたまれない。
出社してきたことを報告するため、課長の席へ向かった。苦い顔をされるのは覚悟していた。
しかし課長は僕の体調を気遣う言葉をくれた後、特に普段と変わらず自然な笑顔を浮かべて話し始めた。
「柏原くん、実は中途採用でうちの課に配属された子がいてね。眞崎まさきさんという女の子で、正式には9月からなんだけど。今朝の朝礼で皆に紹介し、挨拶もしてもらった。君にも後で紹介したいんだ」
うちの会社はアパレルメーカーだった。東証一部上場の優良企業で、その商品ブランドはF1層をターゲットにしたもの。やや高級なイメージがあり、国内外で多くのファンを持つ。
女子の中途採用なら、店舗で販売応援をするスタッフだろう。採用数も多いが退職数も多く、毎月のように募集している。
「その子、柏原くんに任せるから」
「僕ですか?」
「君ももう四年目だし、成績だって営業一課で頭一つ抜けた位置にいるわけだし、新人ひとりくらい任せても大丈夫だろう?」
「はあ……」
そう、四年目。
総合職なので三年が過ぎれば、異動は切実な問題になって来る。ただこれほど遅刻を繰り返しながら診断書も出さない今の状態では、大きな人事異動のある春まで営業部にいられるかどうかわからなかった。
だから僕にとって課長の言葉は小さな光明だった。
新人スタッフを加えると言ってくれるのは、まだ営業部にいてもいいという意味ではないだろうか。都合の良い解釈だろうか。
「今、彼女は総務で説明受けている所で、昼休憩までには戻って来るから。よろしくね」
「はい……」
「それから、彼女、頭痛持ちらしくて、体調には気を遣ってあげてほしいんだ」
一応頷いたが、残念ながら今の自分には、人の体調のことまで気にする余裕など無い。
「陸斗(りくと)また半休かよ。前の日に言っといてもらわないと得意先から電話があると困る」
ちょうどトイレから出ようとした時、入ってきた営業部の先輩と目が合い声を掛けられた。仕方なく足を止めて応える。
「あー、すみません、ちょっと」
翌朝は倒れる予定です、とあらかじめ届けられるわけないでしょう。
とはいえ、自分の体調について、社内の人に教えたくはないので課長以外には黙っていた。
「そう言えば、おまえの担当する新人の件、聞いた? えーと眞崎さん」
「ああ、はい。さっき課長に」
「もう本人には会ったか? すげえ可愛いよな」
「……そうなんですか? これから、多分、午後に会うことになると思いますけど」
先輩はふーんと言って頷いてから、真顔で尋ねてきた。
「その眞崎さんの件、申し訳ないけど、オレら先に断らせてもらったから、陸斗、宜しく頼むな」
その言葉に驚いて、どうしてですかと訊き返した。
「成績下げたくないからだよ。おまえも今朝、遅刻さえしてなきゃ断ることができたのになあ。まあ、大丈夫、おまえなら成績も美人も両方ゲットできる。遅刻しても全然オッケー」
「意味が分かりません。遅刻への文句ですか?」
「文句じゃない、嫉妬だよシット。いいなあ、オレらも陸斗くらいキャパがあれば可愛い子と一緒に仕事できたのに」
悪びれもせず言う先輩に呆れる。
「可愛い子がスタッフに加わるたびに成績落としてどうすんですか。スタッフなんて入れ替わり激しいのに」
そういう僕の顔を、先輩は不思議そうに見つめてきた。
「なんか勘違いしてないか? 眞崎さんは販売スタッフじゃない、営業だ。おまえは業界未経験、営業職未経験の新人の面倒を見なくちゃいけないんだよ。一から教育するんだ、マンツーマンで、な」
「……営業?」
初めて聞かされた事実に戸惑っていると、先輩はニヤリと笑った。
「だからオレたちはお手上げ。いくら可愛くても無理なんだよ。おまえに嫉妬するやつが出てくるかもなー」
そういうことか。中途採用と聞いていてすっかりスタッフだと思い込んでいた。総合職を来春まで待たずに採るなんて考えもしなかった。突然、どうしたんだろう。どこかで人が足りて無いのか?
それにしても、時季外れの後輩の教育か。
大きな負担なのに嫉妬されたり反感買いまくるのは割に合わない。先輩たちは、物見遊山てとこか。気楽なもんだな。
現在24歳で元OLの眞崎芹亜(まさきせりあ)。
もし彼女が辞めたりすれば僕の責任となり、同僚のブーイング間違いなし。彼女の適性が未知数なだけに、かなりの労力を取られそうだ。可愛い子かどうかなんて関係なく、成績に暗雲が立ち込めている。
やばい。遅刻の上に成績も落ちたら、もう、課長も庇ってくれなくなる。
<無知の章> 第3話 閉ざす人
昼休みになり、広いフロアにはほとんど人がいなくなっていた。僕と課長は営業一課のデスクのあるフロアで眞崎芹亜を待っていた。
12時を10分ほど過ぎた頃「すみません!」と言う高いトーンの声が聞えた。目をやれば、グレーのパンツスーツですまなそうに身を屈めて女子が走って来る。
営業職を選んだとは思えない穏やかで優しい顔立ち。真面目そうであり控えめでもある。それは新人だから当たり前といえば当たり前だったが。
「眞崎さん、彼が君の教育担当の柏原陸斗くん」
課長に紹介され僕が会釈すると、よろしくお願いしますと彼女は90度のお辞儀を見せた。少し緊張している様子が新人らしく、ほほえましかった。
「じゃあ、お昼、行きましょうか」
僕が言うと、課長は腕時計を見て残念そうな顔をした。
「そうしたいんだが、これから本社に顔出さないといけないんだ。悪いが柏原くん、眞崎さんのことおねがいするよ」
「……わかりました」
仕方がないなと僕は彼女の顔を見た。彼女も僕の顔を見ていた。
この子と二人きりか。それなら社食より外だな。
彼女の先に立ってビルを出たが、僕の全神経は後ろからついてくる気配に集中していた。
あの先輩は話を盛っていたわけではなかった。近年稀に見る可愛らしさだ。仕事が手に着かなくなる、とまで言うと大袈裟かもしれないが、成績が下がる事を心配する気持ちがわかる。
どちらかと言うとストライクゾーンは広くないし、一目惚れなんていう経験も無い。そんな自分が一瞬で惹かれてしまう女性は珍しい。運命の人だとまで夢想しないが、神様がくれたこのチャンス、利用してもいいんじゃないかと思ってしまう。
負担だったはずの新人教育が、一気に楽しく思えてきた。
僕は大通りの和食料理店に、芹亜を連れて来た。
「あのう、柏原さん」
テーブル席で、前に座っている彼女が小さな声を出した。
「陸斗でいいよ。柏原なんて、課長しか呼ばないから。うちはウザいくらいフレンドリーなんだ」
そう言うとすぐに彼女はチラと僕の顔を上目遣いで見た。
「じゃあ、私はセリで。みんなにそう呼ばれてましたから」
「え、あ、うん。セリね」
好みの女性の前で、この”フレンドリー”ルールは適用しなければよかったと後悔した。妙にドキドキする。
「陸斗さん、私、“love-leeラブリー”ブランドの服、大好きなんです。このスーツだって……」
「ああ、それ、うちのだよね……プロパーで買ったの? 高かっただろ?」
「そうです、高かったー。だから社販で安く買えるかなーって。もうそれしか頭に無くってー」
楽しそうに笑う。
僕は彼女をじっと見ていた。心奪われるとは、このことか。
彼女の仕草は全てナチュラルに見えた。
でもどこからか緊張感も伝わってくる。ナチュラルさと緊張感。相反する二つの表情を向けられて、理解に苦しんだ。
そうか、きっとこれは、媚びというやつだ。先輩に嫌われたくないっていう気持ちか。可愛がられようと必死で自然な笑顔を絶やさず、“フレンドリー”ルールを無理して受け入れる。
媚びることも無理することも、入社したばかりなんだから仕方ない。やれるだけやってみるのもいいさ。君が疲れるまで、こちらもそのペースに合わせましょう。
芹亜が正式配属されて一週間ほどたった。一緒に仕事をしながら彼女を見ていて、それは媚びではないのだと気付いた。
彼女は親しそうな態度を見せることもあるが、決して図々しくはならない。その距離は計算されている。
笑顔という盾で身を守っている。
どこまでも、いつまでも、心を許さない。誰にも。その、ある種ブレない態度に感心してしまう。
それは、得意先回りの途中に、芹亜と蕎麦屋に入った時だった。
昼時でほぼ満席。カウンター席がかろうじて空いていた。
何を注文しようか考えていた。温かい蕎麦と冷たい蕎麦がある。冷たいものが食べたい気もするが迷う。空調が効きすぎるショッピングモールと、まだ夏の名残のある太陽の下とを交互に歩いて、多少バテていたからだ。
僕がしばらくメニューを見つめていると、隣に座っている芹亜は少しだけ顔を近づけて小さな声で言った。
「冷たいお蕎麦もいいですけど、ちょっと美味しそうな店だなーって思うと、私は結構あったかいの頼みます。ほら、おだしとか美味しかったら幸せじゃないですか」
彼女はにこにこと笑っていた。
その笑顔に、こちらもただ苦笑する。しっかりとした盾を構えられている気がした。
温かい蕎麦を前にして、僕は眼鏡を外して盆の横に置いた。
すすってみると確かに、いい香りと出汁の丸い旨味が口の中に広がる。冷たさだけを求めて掻き込むより、なんだか贅沢な気がした。
ふと視線を感じて顔を上げた。
至近距離で芹亜に凝視されていた。
何かみっともないことをしたかと指で口元あたりを拭ってみたり、シャツや周辺を汚していないかと視線を走らせたが特に何事もない。
自分にしてみれば裸眼ではこれくらいの距離でなければ相手の表情がわからないため、間近で見つめることはよくあることだ。しかし、相手は普通の視力の人。ここまで見つめるには何か理由があるに違いない。
彼女は運ばれてきた蕎麦に手を付けることもなく、ただ僕の顔を見つめて表情を強張らせていた。
「どうかした? 蕎麦伸びるよ?」
戸惑いながら尋ねたが、それでも彼女は固まったままだった。
数秒後、忘れていた呼吸を取り戻すように、やっと小さく息を吐いた芹亜は眉間に皺を寄せたまま俯いてしまった。
彼女はそのまま頭を下げ、少し気分が悪いので早退させてほしいといい、何も食べずに店を出て行った。
訳が分からぬまま、ぼやけて形の定まらない後姿を見送った。
僕は、してはいけないようなこと、言ってはいけないようなことを、彼女の前でしたんだろうか。その後も訊くことができずに日々を過ごした。
思えばあの後、ちゃんと理由を訊いておけば、もっと早く奇跡の意味に辿り着けたのに。
<無知の章> 第4話 不思議な関係
眞崎芹亜に指導しながら得意先を回る毎日を送っていた。
気が付けば10月。彼女と出逢ってから、あっという間に一か月が経っていた。
ふとした瞬間に思い出す。蕎麦を食べていた時、理由の分からない強い視線で彼女に見つめられたことを。あれは何だったんだろう。その後、彼女の態度は以前と変わらぬものになったので、なんとなく訊かないままでいる。
芹亜は相変わらず誰にでも愛想がいい。社内の男子は皆、彼女が内勤だと酷く嬉しそうだ。
ただ彼女の笑顔の盾は強力だった。
社内の誰にでも同じ態度で接していて隙が無い。時折おどけて冗談を言ったり、怒って不満を口にする様子でさえ、決して相手に深入りしない微妙なラインを保っている。ガードが固すぎて、誰も彼女を誘えないでいた。
きっと揺るがない関係の男がいるんだろうと誰もが思ったし、僕も思っていた。
同期の広樹と昼飯を食べに出かけた時のことだった。最近どこかよそよそしい態度を取って来るなとは思っていたが、ついにやつは本音を口にした。
「生殺し状態はやめろ」
「は?」
唐突な言葉をかけられ、反射的に訊き返した。広樹は冷たい視線をこちらに向けている。
「付き合うならさっさと付き合えよ。そうまでしてセリ以外の女にもモテたいのか」
まさかの言いがかりだ。
「何でそういう話になる?」
ほぼ毎日一緒に仕事をしているのに、芹亜にはしっかり距離を置かれている。他の同僚と全く同じ接し方をされているんだ。
しかし、広樹はどことなく軽蔑を含んだ口調で続ける。
「想像できないとは言わせない。気付かないフリすんなよ、チャラガネ」
「……チャラガネって何だ?」
「チャラいくせにメガネかけてカッコつけてる仕事バカ、のことだよ」
「どういう略し方だ。眼鏡以外は認めない」
「そう、眼鏡。おまえはかなり目が悪い」
広樹はため息をついた。あまりこっちを見ようとはしない。
「だから、気付かないんだろ。セリがずっとおまえを見てること」
「まっさか、ありえないわ」
僕は思わず空を見上げて大笑いした。
「気付けよ、バカ」
「バカバカ言うな。だいたい、今は指導中なんだよ。むやみに付き合って下さいとか言えるか」
すると、広樹はだるそうに話す。
「セリが何も言って来なければ、おまえはアクションを起こさないのか? じゃあ、それならそれで構わないから、セリとは今までもこれからもずっと無関係だと公言してもらおうか」
「ずっと無関係って……」
意味がわからない。誰に約束するって言うんだ。
「なんでそんなこと公言しなくちゃいけない?」
する必要がどこにある? 物事には状況やタイミングがあるというだけのこと。今はその時期じゃないだけなんだ。
広樹の態度は解せない。芹亜が好きなら、うだうだ言わずに告白すればいい。広樹以外のほかの誰だって同じだ。
広樹は、より一層、見下した目で僕を見ていた。
「おまえは視力が悪いっていうより、洞察力が無いんだな。ま、分かってたけどな。さすが、チャラガネだ」
チャラくもないし、カッコつけてもいない。そして仕事バカでもない。体を潰してまで働く気はない。遠く北海道で暮らす親に心配はかけたくないからだ。
頑張っておいでと言いながら、寂しそうにしていた母の顔は忘れられない。
ふわっと頭に故郷の景色が浮かんだ。
僕を悩ませる悪夢に出てくる美しい湖は、間違いなく故郷にある湖。懐かしい場所だった。小さい頃、夏になると両親と車に乗ってよく遊びに行った。その頃から目が悪かったが、眼鏡を通せば周囲の景色も十分に感じられる。風や光、色、影、空気。すべてが綺麗だった。
もう随分あの場所へは行っていないのに、どうしてあんな夢を見るのだろう。自分が死んでしまうのだから予知夢かとも考えたが、それは違うと最近気付いた。
あの広い湖の真ん中に浮かぶ小さな手漕ぎボートは、ただ静かに漂っていた。
どう考えてもおかしい。
景色と一体化したあのボートを、夢の中で僕は容易たやすく見つけることができた。
この視力ではありえないことなのに、視界はとてもクリアだった。
最近は……そうだ、ここひと月はあの夢を見ていない。このままもう二度と見なくて済むなら嬉しいが、幼い頃の大切な記憶まで一緒に消えたりしないだろうかと、ふと不安になった。
昼食から戻ると、一課のデスクに芹亜の姿がなかった。課の人間に訊くと休憩室で休んでいるのだという。
前に課長が言った言葉を思い出した。芹亜は頭痛持ちだから配慮してやってくれと。そういうことなら午後からの外回りは自分一人で行こう。
休憩室は、フロアをパーテーションで区切っただけの誰でも入れる場所だった。テーブルとパイプ椅子しかない。そんな場所で休んでいるくらいなら早退したって構わないのにと思い、様子を見に行った。
確かに、芹亜はそこにいた。テーブルに置いた両手の上に額をのせて伏していた。
そっと近づいて、テーブルを挟んだ場所に立つ。声をかけるのをためらったが仕方なかった。
「セリ」
彼女は驚いたように顔を上げた。やはり顔色が悪い。
「気分が悪いなら帰っていいよ。課長にはオレから言っとく」
彼女は眉根を寄せて首を横に振る。
「大丈夫です。慣れてるから」
「じゃあ、午後からは内勤してろよ。気分悪くなったらいつでも帰っていいから」
「いえ、同行します」
彼女はそのまま立ちあがった。
「無理しなくていいって。倒れたらどうすんの」
「行きます。だって今日は……」
「今日は?」
そう言いながら芹亜の言葉を待っていた。ボケッとしている僕に彼女はため息をついた。
「10月3日です」
小さな声で言ってから芹亜は俯いた。
その意味ありげな様子を見てひどく動揺した。今日という日に特別な意味を探したが、一つしか思い当たらなかったからだ。
「っあ、……まさか、オレの誕生日……? え……? いや、それと外回りと関係なくないか。っていうか、なんで知ってるんだよ」
「リサーチしたんです」
「リサーチ……」
調べた? なぜ? とは、さすがに訊きづらい。言葉に詰まって気まずい空気が流れた。これは何か意味があるんだよな。
なんとなく視線を落としていると、芹亜が言った。
「今日は直帰ですよね。仕事終わってからご飯食べに行きませんか。お祝いさせてください。……もし、誰かと予定が入ってなければ……」
「予定……?」
正直言って、想定外の言葉の連続に困惑していた。単なる食事なら仕事仲間でよくあることなのに、誕生日だから、という前置きがあるせいで躊躇する。
青い顔をしたままで、笑顔もなく、芹亜は上目遣いでこっちを見ていた。
「26歳のお誕生日の時間を、少しだけ私にください」
芹亜の真っ直ぐな瞳は深く探るように僕を見ている。
「……先輩の誕生日だとか、気を遣わなくてもいいんだよ?」
彼女の言葉をどこまで本気にしていいのか分からないまま尋ねると、芹亜は落ち着いて応えた。
「陸斗さんに彼女がいるなら、気を遣って遠慮しますけど……」
今までの芹亜とはまるで別人のようだ。あれほどキープしていた距離を、突然詰めてくる。
「そんなの、誕生日より簡単にリサーチできるはずだけど」
何か理由があるなら、知りたい。
<無知の章> 第5話 知らないことの罪
自分の誕生日を眞崎芹亜に祝ってもらえるなんて、考えもしなかった。
勿論、自分だって馬鹿じゃない。あれほどガードの固い彼女がそれまでのスタンスを突然変える意味をよく考え直した。
何か切羽詰まった頼みごとがあるんじゃないか。彼氏との恋愛相談かもしれない。それとも仕事が辛いとかいう悩み?
社内の風潮は決してドライではない。何かあるとすぐ噂が広がる。芹亜の気持ちを、自分に都合良く勘違いして恥をかくくらいならまだしも、変に揶揄されて仕事がしにくくなっては困る。
その時の僕は社の風潮を甘く見ていた。広樹が言っていた洞察力が無いという言葉の意味が、そこに隠されていたことに気付かなかった。
「頭痛、大丈夫か? 我慢しなくていいから」
外回りに同行して仕事をこなす芹亜に尋ねた。
彼女はとても嬉しそうに「もう治りました」と笑う。安心しきった緩んだ表情だった。
「私は」
芹亜は眼鏡の奥の僕の目をじっと見て言った。
「陸斗さんといると、頭痛が治るんです。頭痛薬飲んでも治らない痛みが、すっと消えるんです」
「ええ?」
それは、暗に特別な存在だと言ってくれてるのかなと考えて有頂天になりかける。
「気のせいじゃないの?」
「いいえ。100%治るんです」
芹亜の顔は自信に満ちていた。
ついに最後の店舗での仕事が終わり、電話で課長に報告した。そして、予定していた通り、現在地が社から遠いので直帰しますと伝えた。
ファッションビルから出て駅へ向かった。硝子の壁で足元以外の場所を覆っている通路は、ビルの三階部分に位置していて駅へと直結している。眺めがいいので立ち止まった。
「どのあたりで食べるのがいいかな。家の方向どっちだっけ?」
そう尋ねると、隣に立っていた芹亜は平然と答えた。
「もう、店は予約してあります」
え、と声を出してしまった。
確かに、彼女からお祝いしたいと言ってくれたのだから、予約されていてもおかしくはないが、付き合ってもいない、友達でも無い人にそこまでされた経験は無い。しかもグループでというわけではなく、個人的と考えると、珍しいことだと思う。
「ありがとう……」
そうは言ったものの、次の言葉が見つからない。
あのガードの固さ、あの特別感のない接し方から、どうやってこんな状況を想像するだろう。好意で誘われたのかどうかは、まだわからないが、なんとなく胸中穏やかでは無い。
多少なりとも女性の扱い方は心得ているつもりだった。主導権が取れない展開には慣れていない。
和食好きの芹亜なのに、彼女が選んでくれた店は雰囲気の良い洋食店だった。
席は夜景が見える窓側、カップルばかりの店内。贅沢にスペースを取った大きなテーブルには、濃いピンクのクロスがかかっている。小さなランタンが窓際に置かれていて、そのオレンジの光が揺れていた。
会社帰りのよれよれのスーツでこの席に座るのは、かなり恥ずかしい。芹亜はというと、どうも雰囲気が違うと思っていたら、うちの一番高級なブランドの服を着ていた。上品でエレガント、芹亜より少し年上の女性がターゲットのブランドだ。
「セリが洋食選ぶなんて、めずらしいね」
水を一口飲み、乾いた口内を湿らせてから言った。
「陸斗さんはビーフシチューが好きだって聞いたから、美味しいお店を……」
彼女が微笑んで言うので、少し気になっていた疑問を口にした。
「ちなみにさ、そのリサーチはどこで……というか、誰から聞いた話?」
「え、ビーフシチュー、好きじゃなかったですか?」
「いや、それは間違ってないんだけど……」
僕が瞬きすると、芹亜は答えた。
「広樹さんです。陸斗さんと仲が良さそうだったから」
思わず持っていたグラスを落としそうになった。
「広樹に! いつ、訊いたの?」
「半月ほど前ですけど……」
僕は思わず目を細めた。
なんだとあいつ。今日、そう、今日芹亜の話をしたばかりなのに、どういう事だよ。変に煽って来るだけで、具体的なことは何も言わなかった。人をチャラガネとかなんとか非難するならその理由を伝えてからにしてくれ。
でも、とすぐに考え直した。広樹は彼女に嘘を教えたわけではない。柏原陸斗の誕生日はいつ、好物は何、と訊かれた時点でいくらでも嘘をつくことはできたのにそうはしなかった。その辺りは、やはり友人だと思えるが、どうしてすぐ教えてくれなかったのかがわからない。
ウェイターがやってきて、上品な手つきで二つのグラスにワインを注ぐ。
やはりこういう場所で働く男はいい男だな、と顔を見た。相手はにっこり微笑む。ああ、これこれ。芹亜がずっと自分に向けていた笑顔。そうか営業スマイルってやつだ。
そう思いながら、僕は芹亜の顔に視線を戻した。
彼女と目が合う。でも、彼女は笑わなかった。もの言いたげに柔らかそうな唇を開いて見つめてくる。
その視線があまりにも色っぽくて、言葉が出てこない。思考だけが回り始めた。
半月前……?
芹亜が広樹に僕の誕生日を訊いたのが半月前だとすると九月半ば。多分、あの日の後なんじゃないのか。彼女が蕎麦屋で不思議な態度を取った日の……。
いい機会だ、今日はあの時のことを訊いてみよう。
彼女は一度目を閉じてから、表情を変えた。どことなく迷いや緊張が感じられた。
「陸斗さん、……眼鏡外してくれませんか」
その言葉に驚いて、どうしてかと問い返すと、芹亜は頬をきゅっと強張らせて僕を見た。
彼女が何も言わないので仕方なく眼鏡を外しかけたが、ふと手を止めた。
「オレ極度の近視だから、外したらセリの顔すらはっきり見えなくなるんだけど……」
「でも……」
芹亜はためらうような、求めるような視線をこちらに向ける。その可愛い表情が見えなくなるなんて惜しい。
それでも、彼女は言う。
「陸斗さんの顔が見たいから」
か細い声でそうねだられると、やはり拒否はできない。
ただ、これでもう、芹亜の表情はぼんやりとしか分からなくなってしまった。声や雰囲気だけで、彼女の心を窺う。
「陸斗さんと私、前に逢ったこと無いですか? 逢ってますよね?」
芹亜はそんなことを言った。
「え? 前って……。いつの話?」
「四か月くらい前に、逢ってませんか?」
「四か月前?」
表情の見えない相手と、意図の見えない話をしている。とても気持ちが悪い。
「ごめん。意味がよくわからない。はっきり言ってくれよ」
四か月前と言えば、6月3日? そんな前に彼女と逢っていた? こんな可愛い子と逢っていて忘れるだろうか。忘れていたとしても、会社で逢った時に思い出すんじゃないだろうか。
芹亜は僕の求めには応じなかった。何も答えず無言だった。
「8月入社、9月1日付の営業部配属だろ? 6月に逢ってるわけないよ」
僕がそう言うと、ようやく芹亜が話し始めた。
「営業部に来たばかりの頃は、陸斗さんがあの人だったなんてわからなかった。陸斗さんが眼鏡をとった時に、初めて気付いたんです……」
「あの人? ……って?」
誰だ、それ。眼鏡を外せば僕はその人に似てるのか。芹亜があの蕎麦屋で僕を見て、異様な表情をした意味がやっと分かった。
「でも、それはきっとオレじゃないよ」
僕には芹亜と逢った記憶は無い。人に逢う時は必ず眼鏡をかける。顔が分からないのは困るから。だから、彼女が言っている相手がどういう男かはわからないが、間違いなく人違いだ。
芹亜は大きく頭を振った。
いくら目の悪い僕でも、そのオーバーなアクションには気付く。どうしてそこまで、かたくなになるんだろう。こんなの、似た人がいた、くらいで終わる話のはずなのに。
「陸斗さんの顔は絶対に忘れない。だって、いつも夢に出て私のことをずっと見守ってくれて……」
夢の中に、僕が?
その瞬間、芹亜はどんな顔をしていたんだろう。慌てて眼鏡をかけた時、彼女は俯いていた。
「セリ?」
僕の声に反応した芹亜が顔を上げると、すでに、いつもの冷静さを取り戻していた。
そうして彼女はまた、心を閉ざすかのように、穏やかに微笑んでしまう。
空に捧ぐ / 無知の章 / ①~⑤
終
祈りの章 へ続く
<祈りの章> 第6話 夢の終わり
食事を終え店を出た。街の灯りで、星は見えない。
輝きは、隠されている。
肩を並べ、黙ったまま歩く。
「陸斗さん」
芹亜が先に口を開いた。
「今日、いっぱいもらってましたね、誕生日プレゼント」
「……あ? あ、いや……」
見られてたのか。決まりが悪くて彼女の方を向けなかった。
「隠さなくていいじゃないですか。好かれてるっていいことですよ」
「……いいことか」
彼女に嫉妬を期待するなんてのは間違ってるんだな。
そう思って納得しようとするのに、なぜか寂し気な視線を向けられて戸惑う。
「私のプレゼントも、もらってくれますか?」
どうしてそんな表情をするんだろう。
僕の誕生日を祝ってくれたが、結局、芹亜の本心はどこにあるんだろう。夢の話も作り話ではないようだ。
こうして微妙な空気が流れる中で、窺うように尋ねられると、僕に気があるんじゃないかと期待してしまう。
「そうか、用意してくれたんだ。勿論ありがたくいただく」
彼女が僕に見せてくれる好意は、どういうものなんだろう。夢の中の男に似ているという事だけの、ただの興味なのか。僕の、この現状へのフラストレーションには気付いていないのか。
「会社に持っていけなくて部屋にあるんです。一緒に部屋に来てもらえますか? ここからすぐ近くだから」
「あー……うん」
そこまで気軽に誘われるなんて落ち込む。やはり男としては見られていない、仕事関係の義理的な態度なんだな。もうくだらないことを考えるのはやめておこう。
芹亜の部屋の玄関で、彼女が奥から小さな袋を持ってくるのを見ていた。
「陸斗さんが欲しがってた、限定版のDVD、ネットにはなかったけど、たまたま店で見つけたから……。あらためて、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。嬉しい……」
嬉しいけど……。なぜ、そんなDVDのような小さな物を、会社に持ってこれなかったのか不思議に思った。
ふと見ると、玄関の小さな飾り棚に、優しい顔のおばあさんの写真があった。傍の小さく白い像は聖母マリア。そしてロザリオ。
「セリは、カトリック?」
「これは亡くなった祖母の形見です。こんなところに置くべきじゃないのかもしれないけれど、今日は陸斗さんに見せたくて」
そうか。僕を部屋に連れてくるのは、最初から予定されていた事だったんだ。きっと店も、わざと芹亜の自宅の近くで選んだんだな。
「それ、オレも持ってる……よく似たロザリオ」
「やっぱりそうですか。そんな気がしてたんです」
芹亜は微笑んだ。
どうして彼女はそう感じたんだろう。
でも、僕自身も芹亜がそれを持っていることに違和感はなかった。持っているような気がしていた。
子どもの頃から僕の身近にあったマリア像。その静かな愛を湛えた表情と、芹亜の微笑みが似ていたからかもしれない。
そんなことがあったからだろうか。
僕はその夜、久しぶりに例の湖の夢を見た。
でも、苦しさはまるでなかった。あの赤い蝶がマリア様に連れられて、空に消えて行くのをただじっと見ている。
きっとあの蝶は助かったのだと思った。
そしてなぜか、悪夢はこれでもう終わるのだと、確証のないまま、ぼんやりと考えていた。
翌日、少し早めに出社すると、芹亜はまだ来ていなかった。彼女の席は広樹の席の隣だ。既に出社している広樹が、僕をじっと見つめる。
「陸斗、昨日の誕生日は、セリと一緒だったのか?」
ただ食事をしただけ、別に彼女に何かしたわけではない。そんな冷たい目で見られる覚えは無い。
「おまえがオレの個人情報をバラしたからな」
「違うよバカ。……セリがやっと勇気を出したんだ。なんでわからない!」
広樹は足元のゴミ箱を蹴って中の紙屑を散らかした。
何をするんだと言いかけて、その散らかされたゴミの中に派手な色の紙の塊を見つけた。ボールのように転がっていく。蛍光色の紙など仕事で使うはずがないので不思議な気持ちで見つめた。
すると広樹が言った。
「それ、拾って見てみろよ」
「おまえが散らかしたゴミだろうが、なんでオレが……」
「セリが捨てたポストイットの塊だ。いつもセリのデスクの引き出しの中に、ビッシリと貼ってあるんだ。手に取って開いてみろ」
広樹はめずらしく厳しい表情をしていた。しかたなく舌打ちして付箋紙の塊を拾う。
その表面から一枚引き剥がして見てみると、そこには女子の文字で≪陸斗のお荷物、さっさと辞めろ≫と書いてあった。
僕は慌ててその塊を壊し、中身を全て確認した。どの付箋紙にも酷い言葉が並んでいた。そしてそこには、必ず僕の名があった。
呆然としている僕に、広樹が言った。
「総務のサトミと、チアキ、経理のユミと、リエ。犯人はもう割れてる」
「それならなんで教えてくれなかったんだよ……」
「セリに口止めされてた。こんなの全然気にならないからって。……笑ってたよ。でも、昨日はおまえら、近くなれたんだろ? なら、そろそろ陸斗は状況を知る義務がある」
思わず目を伏せた。
それが、DVDすら会社に持ってこれなかった理由なのか。
それが、普段は僕に、接点を求められなかった理由なのか。
「先輩なら先輩らしくしろ。セリの気持ちを考えて態度を決めて、周りを納得させろ」
広樹に強い軽蔑の眼差しを向けられた。
「今のままじゃ、セリがかわいそうだ」
退社する寸前に一本の急ぎの電話がかかってきた。
内容はプロモーション時期を過ぎた、ほぼ在庫ゼロの商品を納品しろという得意先のわがまま。しかも自分の得意先ではない。
実際の営業担当は帰ってしまった後なので、訳が分からず手間取っていた。
随分遅くなった。もうみんな帰ってしまったと思っていたら、フロアに人が入って来る気配がした。
「陸斗さん、まだ帰らないんですか?」
芹亜だった。
ふわりとした笑顔で近寄って来ると、手伝いましょうかと言って、僕の傍に置いてあった注文書を持ち上げた。
今なら2人きりだ。
僕は作業の手を止めて、彼女に向き合った。
「なあ、オレのせいで、嫌な目に遭ってるんだって?」
芹亜は驚いた顔で僕を見た。
「なんで言わなかった?」
「それは、……全然気にならなかったから」
「嘘言うなよ」
「ホントです」
そう言ってから、芹亜はぎこちなく笑顔を作った。
僕はその表情にため息が出た。
「オレが原因なのに、オレには言う必要がないのか」
「……必要ないと思いました」
「なるほど、そうか。セリには夢の中の男がいるから、それで十分なんだよな。守られてるんだもんな」
芹亜の顔から、笑みが消えた。
「そんな……」
「オレはさ……」
たまらなく悔しかった。
「オレはセリの前に実際に存在するんだよ。夢の男のことをどう理解しようとセリの勝手だけど、オレとは混同しないでくれ」
自分の口から出た言葉を聞いて、どんどん情けなくなってゆく。
「いいな、何かあったときは必ず先輩のオレに報告しろ」
そうして、芹亜の手から注文書を取り上げた。
「これはセリには関係の無い仕事だから、手伝わなくていい」
芹亜が他人に悪意を向けられるのは間違っている。
責められるべきは僕の方なんだ。
僕が彼女に好意を持っていることが問題なんだ。だからただの先輩として接していれば、そのうち彼女は楽になるはずだ。
「一緒に仕事しているうちは、周りに誤解されるような態度はしたくない。だから早く帰れ」
今までの下心や、あわよくばなんて気持ちは消えていた。
彼女を癒す相手は僕では無く、夢の中にいる男なんだと思い知らされたから。
<祈りの章> 第7話 赤い服の少女
翌日から、僕は芹亜に集る男の先輩たちに対して、仕事の邪魔だとはっきり苦情を伝えた。嫌がらせをした内勤の女子社員にも、仕事上のパートナーである事をきちんと説明した。
多少キツイ語句も交えたせいで、僕の意図した所は相手に伝わったようだった。眞崎芹亜は柏原陸斗の仕事の補助レベルの扱いだと、社内で同情が集まっている。
芹亜のいない場所を選んで僕を呼び出した広樹が、怪訝そうな顔をして尋ねてきた。
「各方面に酷いこと言い回ってるみたいだけど、本当にそれでいいのか? オレが言った意味をはき違えてないか?」
「ないよ」
僕の役割は、彼女の先輩で指導社員、それ以上でもそれ以下でも無い。彼女が仕事をスムーズにこなせる環境を整備するのが役目だ。
「嫌がらせは無くなったみたいだけど……」
広樹が珍しく歯切れの悪い言い方をした。
「オレは責任を感じるよ……セリは、前よりずっと元気が無い」
「気のせいだろ」
芹亜は何も言って来ない。僕の行動に対する批判も、共感も、感謝も、嫌悪も、何も無い。彼女が何を考えているかは想像するだけ空しい。
「陸斗は本当に洞察力が無いな。いや、現実を直視する能力が無いのか?」
広樹が呆れたように溜息をついた。
確かに、それに関しては強く否定できなかった。
そして後日、こんな僕をあざ笑うかのように、予想外の難問が目の前に現れた。
芹亜が楽になるために除去すべきものは、僕一人が何かほざいた程度では、到底コントロールできるものではないと思い知らされた。
得意先巡回の途中のことだった。
ファッションビルの広場には大きな噴水があった。時々3メートル以上の高さまで水を噴き上げる。
それを目にした芹亜は、突然気を失ってその場に倒れた。
失神した芹亜を抱き上げた。
情けなくうろたえ、携帯電話を取り出そうとした時、彼女が意識を取り戻した。
「陸斗さん!」
芹亜は急に泣き出して、僕にしがみついた。
「助けて、怖い!」
パニック状態の彼女を抱きしめて、なんとか落ち着かせようと「大丈夫」を繰り返した。
しばらくして、彼女は赤くした顔に涙を溢れさせて僕に言った。
「部屋に帰りたい……」
僕は混乱したままタクシーを呼び、彼女を部屋へ連れて帰った。
ベッドで横になる芹亜に、病院に行かなくて大丈夫かと尋ねた。
「子どもの頃からこうなんです。……水が自分の体を包み込んでいるような錯覚に陥ってしまうと意識が遠くなる。頭上の水槽をくぐる水族館でも倒れて、みんなに迷惑かけて……。お風呂には入れるけど、バスタブに張ったお湯は少し怖い……。でも、そういうことはもう慣れてるから……」
苦しそうに仰向けになって目を閉じる彼女を見て、胸が痛んだ。
頭痛といい、水でパニックになってしまうことといい、慣れてるなんて、とてもじゃないが信じられない。
「オレにできることは無い?」
そう訊くと、芹亜は携帯電話を取ってほしいと言った。彼女の鞄の中から携帯電話を探し、見つけたものを彼女に差し出すと、彼女はそのまま僕に返した。
「お願いします……」
彼女はそう言って、すっと眠ってしまった。
携帯ケースを開くと紙が挟んであり、『セリに何かあったときは、こちら連絡してください』という文字と番号、藤代梓と言う名前が書かれてあった。
芹亜がこれを僕に渡したと言う事は、電話してくれということだろう。
梓という人はすぐに電話に出た。
その女性は芹亜が失神したと聞き、緊張気味に、水の近くに行ったんですね、と呟いた。僕自身、よく事情が呑み込めないせいで、見たことをただ伝えるしかできない。梓はすぐにこの部屋に来ると言って電話を切った。
話声で芹亜は目を覚ましたようだった。場所を考える余裕もなかった自分に嫌悪する。
「陸斗さん、私の夢って変ですか……。今も陸斗さんが、私に頑張れって励ましてくれて……それで……」
だからそれは、……それは柏原陸斗じゃない。でも今言っても仕方がない。
「……夢に意味なんて無いよ。そんなの、オレだって変な夢なら何度も見た。夢に悩まされてた時期はある……」
彼女がどんな夢か知りたいと言ったので、その夢の情景を話して聞かせた。
夢の内容を話したのは、医者を除けば、芹亜だけだ。課長にも体調不良の原因が夢だとは言っていない。
僕は芹亜の状態を考えて、夢の内容を最後までは話さなかった。自分が死んでいくという結末は。
夢とは自分で無意識に作ったフィクションでしかない。でも僕らが見た夢はリアル過ぎた。何かの意味があると思ってしまうのも、仕方ないことなのかもしれない。
「その蝶は、陸斗さんに助けられたんですね。今の私みたいに」
芹亜はそう呟くが、蝶はともかく、君を助けたとは思えない。
何の力にもなっていない。現状、支えることすらできていない。
職場での人間関係だと割り切ろうとしているのに、この悔しさはなんなんだ。自分のしていることは、本当に芹亜のためになるのかと、ようやく疑念を抱き始めた。遅すぎるし、頭が悪すぎた。
「たとえ夢でも、湖に飛び込むなんて怖かったでしょう? 陸斗さんは……どんな時でも優しいんですね……」
目を閉じた芹亜が、か細い声を出す。彼女はまたいつの間にか眠りに落ちていた。
綺麗な顔は、色を失くしている。
思わず手を伸ばし、その頬を撫でた。
セリ、と心の中で彼女の名を呼んだ。君は僕を見てくれない。
君を守りきれず、夢の存在にすら勝てず落ち込む。拒否してみても、考えないようにしても、それでも君のことが頭から離れない。勝手な態度を取っていても、芹亜のどこかに触れていたいと思ってしまう。この頬や、その言葉や、見えない胸の奥や……。
「好きなのか……」
自分に問う。
声に出さなくても、答えは最初からわかっていた。
しばらくして、女性が鍵を開けて部屋に入ってきた。どこかの店の制服を着ていた。きっと仕事を放り出して駆けつけて来たんだろう。その人は藤代ですと名乗った。彼女は芹亜とあまり年が変わらないように見えた。
芹亜が眠っているのを確認した藤代梓は、僕を部屋の外に連れ出した。
マンションの非常階段まで来た彼女は、眼下の駐車場を見ながら、後ろに立つ僕に話し出した。
芹亜は小さい頃両親を亡くして、祖母に育てられた。しかしその祖母もすぐ他界して、伯母の家族と一緒に暮らすようになった。それが藤代家だと言った。梓はつまり、芹亜のいとこだった。
芹亜はいつも明るく人気者だったが、どうしても治らない頭痛と水恐怖症のために近所の病院に通っていた。芹亜はいつも笑っていた。周りの人に気を遣わせまいと頑張って生きて来たんだと思うと梓は言った。
「でも」
梓は僕を振り返った。
「セリには、もう無理させなくない。一番自然な彼女でいられる時間をあげたい」
どこか懇願するような目を向けて、彼女は言う。
「……柏原さんのことは、前に本人から伺いました。あなたのこと信頼してるみたいです。傍にいてもらえたら、私はとても安心なんですが」
そう言われても返す言葉が見つからない。自分の無力さに嫌気がさしているのに。
「……セリが自分から近づこうと思った男性は、多分、あなたが初めてだと思います。セリは、あなたにとって重荷ですか?」
「いえ、そんなんじゃ」
大きな声で答えられなかった。俯く僕を、梓はどんな気持ちで見つめていたんだろうか。遠慮がちに彼女は呟いた。
「いいんです、気にしないでください。あなたにも、無理はしてもらいたくないから。無理をしたって、いいことなんて何も無いから……」
自分にとっての『無理』とは、なんだろう。
芹亜の場合は、不自然なほどの穏やかな笑顔が『無理』の象徴かもしれない。きれいなのに、見ていると哀しくなる。
その芹亜から離れようとすることが、僕にとって一番の『無理』なんじゃないか。
他人に対して、ここまで何かしてあげたいと思たことは無い。自分は大したことができないけれど、芹亜には求められたいとどこかで願っている。夢の中のやつなんかより、僕を……。
必要とされたい。
「こんな話してすみませんでした。後は私が看ますから、柏原さんはどうぞ会社へ……」
そう言う梓に対し、僕は首を横に振った。
「セリのこと、もっと教えてもらえますか?」
どんなふうに育てられ、どんな事を考えていた子だったのか。怖いものだけじゃなく、好きなものは何なのか。何を信じて、何を欲して、心の中にはどんな風景をしまっているのか。
「柏原さん、それは……」
梓は困った顔をして微笑んだ。
「セリに直接聞いてあげてください」
そう言った梓だったが、芹亜自身も知らないことを一つだけ教えてくれた。
「セリの両親は、セリが4歳の時に、入水(じゅすい)自殺をしました」
そこにどういう理由があったのか、経緯はわからないが、確かなことは、こうだった。
芹亜の家族は、彼女を連れて北海道の湖で身を投げた。
そして、芹亜だけは助けられた。
救助した男性は、亡くなってしまった。
僕は体が震えるのを感じていた。
藍色に溢れた湖で、空へと上る小さな赤い蝶。
それは、セリ? 赤い服を着た、セリ?
あの夢は現実に起こったことなのか? それなら、僕はその時本当に死んでいたのか? 夢の中の架空の話ではなかったのか。
じゃあどうして今、僕は生きてるんだ。
<祈りの章> 第8話 守れないまま
芹亜が倒れた翌日、それは晴れ渡った日だった。
10月半ば。駅から職場への道を歩いていると、どこからか金木犀の甘く強い香りが漂ってきた。
僕は、彼女のいない職場で、魂が抜けたように呆然と椅子に座っていた。PCは開いていたが、この目にその文字は映っていなかった。
そんな僕を広樹がじっと苦い顔で見つめているのは、なんとなく気付いた。
「セリが心配なら、おまえも休めば良かったのに」
「そういうわけにはいかない」
広樹の顔を見る元気もなく呟いた。
「たとえただの後輩でも、倒れた時は心配してもおかしくないんだぞ」
まるで嫌味だ。やつは、ただの、という言葉を強調して言った。
もちろん、芹亜の体調は心配だ。でも、もっと強い不安が僕を包んでいた。
それは、夢の意味などという不確かな不安より、はるかに現実的で具体性のある苦しみだった。
「北海道支店の支店長が倒れた」
そんな悲痛なニュースが営業部に届いていた。
支店長の病状は深刻で、復帰の目途が立っていない。本社から課長クラスの人が支店長代理として北海道へ飛ばされた。その人は部長に昇格したらしいが、それは慰めでしかない。
そう、うちの会社の北海道支店は過酷だと有名で、誰も行きたがらない。その本社から出た人も、出向するかのような覚悟を持って、逆らえない人事を受けたのだと思われた。
支店長代理が業務に慣れるまでは、地元出身の古株の課長が支店長代理の補佐をする。そのため、他の課長の仕事量が増え、一般社員の業務まで影響しているという状況らしい。
広い北海道に、支店は一つだけ。それでなくても社員は少ない。現時点で滞りなく業務が行われるとは思えない。
芹亜が営業部社員として採用された時に気付くべきだったのだ。慢性的に営業社員が足りていない支店は、北海道だ。
課長の目を見ることができなかった。
声をかけられたらもう、望みが無い。
しかし、無情にも営業部長と課長は、僕を接客ルームに呼び出した。
いつもは偉そうな部長も、この時ばかりはソファーにふんぞり返ることはなかった。僕の対面に座って前かがみになり、真剣な表情で見つめてくる。
「できれば、北海道出身の君がしばらく営業の応援に行ってくれると助かるんだ」
“できれば”なんて言葉は意味が無い。ただの飾りに過ぎない。“助かる”という言葉も同じ。はっきり“行け”と命令してくれ。
「しばらく、ですか?」
僕は確認のために尋ねた。
「そうだよ」
部長は笑顔で答える。
「支店長代理が支障なく業務を行うようになって、元通りに支店が回れば、君には帰って来てもらいたい。優秀な君をそうそう手放したくはないからな。そんなに長くはかからないよ」
「そうですか」
どう足掻いたって、上司の命令には逆らえない。課長が憐れみを浮かべた目で僕を見ていた。
芹亜のことが心配だった。
それでも北海道へ行くのは緊急で、今月末にはここを離れねばならない。あと2週間を切っている。とりあえず自分がいない間の業務の引継ぎをしなければならず、忙しくて土日も何もない。
数日があっという間に過ぎて行く。
ある時、広樹が電話をかけて来た。あいつがフロアを出てまもなくのことだった。まだビルの近くにいるんじゃないかと思われた。
私用の携帯電話にかけて来たので、デスクで取るわけにはいかず、廊下へ出て誰もいないのを確認して電話に出た。
「どうした、忘れものか?」
『ああ、忘れてはいないんだけど、陸斗の耳に入れるチャンスがなくてな』
広樹はどこか暗い声で言った。
「なんだよ」
『キレずに聞いてほしいんだけど……』
やけに遠回しな言い方をする。
『課長と部長が話しているのを偶然聞いたんだよ。北海道に行くおまえの、栄転の話』
「栄転?」
『そう、おまえ、課長になるらしいぞ。北海道支店の』
「えっ!」
僕はあまりのことに目を見開いたまま、まばたきを忘れていた。
『おまえ……多分、戻ってこれないぞ』
要するに人事異動だ。
少なくとも、3年。いや、もしかすると5年か、それ以上。
もう、いつ東京に戻って来られるかはわからない。
芹亜は元気になり、仕事に慣れて来たせいか、どこか楽しそうだ。僕が北海道支店の応援に行くと誰かに聞いたらしく、「じゃあ、ご両親と久しぶりに会えますねー」などと安穏に笑う。
応援じゃない。
もう東京には戻れないかもしれない。君を傍で支えようと思って心を決めたばかりだったのに、それは実現できそうにないんだ。
でも、そのことを芹亜に伝えることができないまま、下旬を迎えた。
25日火曜、課で“激励会”というものを開いてくれた。もう内示は出ているのに、“送別会”と言わない白々しさに腹が立つ。おかげで芹亜は異動のことをまだ知らない。僕も伝えなかったのだから、当たり前か。
最終日の31日月曜には引っ越しの準備で北海道へ行かねばならない。
実家は支店から遠すぎるし、社宅も無い。部屋を借りなければならなかった。
もう、日は残っていない。
芹亜とは29日の土曜になんとか時間を作って逢うことにした。
彼女に言わなければならない。
その日が近づくにつれ、何かが僕の心にのしかかり、潰そうとする。
息をするのも苦しい。まるで水の中にいるようだ。
こんなにも彼女の存在が大きかったんだと、今更ながら思い知る。
芹亜の手すら握ったことが無い。抱きしめたことはあるけれど、それは彼女がパニックを起こしている時。頬に触れたが、それは彼女の意識が無い時。
しっかりした意識の元で彼女に気持ちを告げて、触れたことが無い。だいたい、まだ彼氏でも無い。ただ、傍で支えようと決意しただけの男。
それはつまり、このまま逢えなくなっても、恋人同士が別れるのとは違う。
「誰かセリを支えてくれるヤツがいたら、安心して行けるのにな」
レストランで芹亜と食事をしながら、僕は呟いた。
「それ、どういう意味ですか……」
芹亜は僕の目を覗き込む。
彼女の瞳が、どんどん翳っていくのがわかった。僕が何も言えないでいる姿を見て、芹亜は気付いたようだった。
「ウソでしょう? 2、3か月で戻って来るって、課長が……」
「昨日、やっと正式な辞令が出たんだ。……短い期間だったけど、ありがとう」
僕はレストランの広いテーブルの上で、自分の腕を伸ばした。
掌を上に向け、セリの前に突き出した。セリはその掌を、じっと見つめてから、そこにそっと自分の手をのせた。
握手するはずが、僕は思いを止められず、彼女の指に自分の指を絡ませた。
初めて握った彼女の手は、秋の風に冷えたのか、少し冷たかった。
<祈りの章> 第9話 君が与え、僕が求めたもの
秋の日は、暮れるのが早い。
まだ夕刻だと言うのに、食事を終えるとすでに辺りは暗かった。
そういえば、あと2日でハロウィーンか。僕らが歩く先々でオレンジや黒の派手な飾りが躍っている。
ショップの連なる道を自然と選んでいたのは、気持ちを紛らわせたかったから。いや、気持ちに向き合うのが怖いから。何かを考えてしまう時間を作りたくなかったんだ。
手をつないで歩くことさえできなかった。彼女の手がすぐそばにあるのに。
何もしてあげられなかったな。
僕はわからなかった。たった2か月しか一緒にいなかった人に何を言うべきだろう。何も与えてあげられないのに、求めてもいいんだろうか。
「北海道に……」
そこまで口に出した。でもその先を言えなかった。
「遊びに来ることがあれば、案内するよ」
そんな言葉にすり替えた。
ぼんやりと歩く。芹亜の顔は見ないまま、彼女を部屋まで送って帰ろう。明日は日曜だけれど、まだ仕事が終わっていない。
ふと思い出したように芹亜が言った。
「今夜、あずちゃんが部屋に来るって言ってました。出発する前に会ってくれませんか?」
「あぁ、そうなのか……」
どうせ部屋まで送っていくつもりだったから、挨拶はしておきたい。そして、無力で何もできなかったことを、梓に謝らなければならない。
芹亜の部屋に着いてドアを開けると、電気はついておらず暗かった。
「梓さん、まだ来てないんだな」
僕が言うと、暗い部屋の奥から「とりあえず上がって待っててください」という芹亜の声が聞えた。
今日も玄関の飾り棚にはマリア様とロザリオ、彼女のおばあちゃんの写真があった。
あれからずっと置かれているんだろうか。僕はそんなことを思いながら、靴を脱ぎ部屋に入った。
この、僕が持っているものとほぼ同じ形のロザリオを、どうして見せたいと思ったのかな。
10の珠からなる小さくて質素なもの。祈りのために必要なもの。母が、どうか持っていてほしいと言うので上着の内ポケットにいつも入れている。
彼女も同じように、祈りを捧げるためにおばあちゃんに持つように言われたのだろうか。
芹亜はトイレにでも行ったのか。部屋に入ってもまだ暗いまま、彼女の姿が見えない。
パチリと音がした。壁際のスタンドライトがついた音だった。それは柔らかな光を放って、そばに立つ芹亜の横顔を照らしていた。
彼女は僕の方を向かないまま呟いた。
「陸斗さん、私、陸斗さんについていきたい……」
ついていくって……。
「やめとけよ。北海道は遠いんだぞ」
「わかってます、でも……」
芹亜はフッと僕に顔を向けた。ライトに背を向けて立っていて、表情はよく見えない。彼女は普通に数歩僕に近づいて、まるで子どもが親に甘えるように僕に抱き着いた。
「陸斗さんのそばにいたい」
芹亜が僕の支えを必要としてくれたのだとしたら嬉しい。
でも、きっと君は、僕と、夢の中の僕の区別がついていないんだろう?
いや、あれは僕なのか? よくわからない。
いつか君がその夢を見なくなる時が来たら、僕の存在は意味がなくなるのかもな、と思うんだ。僕の気持ちは、君にとって負担になる。
安易に知らない場所に行く決意はしない方がいい。
きっと後悔する。
いや……後悔させたくないとか、そんなのは言い訳だな。
君を本当に幸せにする自信がないだけなのかもしれない。
「簡単についていくなんて言ってどうする。もっとちゃんと考えろよ。大人だろ」
芹亜は僕の胸に押し付けた顔を、また左右に振る。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「あずちゃんが来るなんて、嘘です」
いきなりそう言われ、僕は驚いて芹亜の顔を見つめた。
「陸斗さん」
芹亜は訴えるように、僕の名を呼んだ。
「お願いです。私を見て!」
私を見て?
僕はずっと、ずっと君を見てたのに。
「私は陸斗さんの夢の中の、赤い蝶じゃないんです……。私を、誰かに託さないで……」
「セリ……」
僕は赤い蝶を湖の底から空へと逃がしてあげたくて、生きてほしくて、見ていたんだ。
あの小さな蝶は僕と離れたあと、どんな人生を生きて行くのか。それを見届けられないのは辛いけど、きっとそれが僕のすべきことだと、マリア様は……。
やっぱり僕は君を見ていなかったのか。
君の人生を誰かに託さずに、ずっと見届けて行くのが、僕のすべきことなのか。
「……そうだよな……」
芹亜は僕が何を言い出すのかと、怯えるようにこの目を見つめている。
僕でいいなら傍にいようと決めた。それは同時に、君に対しても心で約束していたはずだ。
「じゃあ、セリがオレを必要としなくなるまで一緒にいようか」
僕は芹亜の額の髪を指ですくった。
芹亜は泣き出しそうな顔をしていた。
「一緒にいよう」
同じ言葉を繰り返す。それだけ言って彼女の背に両手を回した。彼女の震える肩に顔を埋め、細い首、温かい頬を感じながら、その生を抱きしめた。
唇を重ね、そしてずっと欲しいと願っていた彼女の肌に触れた。
その時、僕が君を支えているのではなく、君が僕を支えてくれていたんだと知った。
ぼんやりと灯りがともる部屋のベッドで、僕は眠る芹亜の顔を見ていた。
もう夢の暗示には惑わされない。
いつか君に嫌われるなら、その時が来るまで、近くで生きていたい。
今、僕も芹亜も、確かに生きているんだから。
そんなことを思いながら、一晩中彼女を見つめていた。
芹亜は退職願を出し、11月末付けで会社を辞めることになった。
11月中旬。
僕は残した仕事の確認のために、北海道から東京に戻り、前の営業部に顔を出した。
何よりも、たった10日ほど顔を見ていないだけの芹亜に、逢いたくて仕方がなかった。会社に顔を出すのは、そのついでみたいなものだった。
広樹が「調子どうよ」と笑う。「キツイわ」と、こちらも笑い返す。
やつは僕の顔をじっと見てから言った。
「セリ、会社辞めるんだって」
「そうか……」
僕はそう答えてから、やはり考え直して口を開いた。
「広樹、ごめん、実は……」
「いいよ、わかってるよ」
広樹はニヤと笑った。
「わかんないわけないだろ。幸せそうな顔しやがって」
東京に帰って来ても、もう過ごす部屋が無い僕は、芹亜の部屋に泊めてもらった。
「うちの親が君に逢いたいって」
芹亜にそう伝えた。
「そうなんですか……緊張する」
「大丈夫だよ、うちの母さん結構優しいよ」
「お父さんは……」
「父さんもすごく嬉しがってたよ」
両親のことを思いながら、芹亜に言った。
僕は両親を尊敬している。本当に優しい人たちだから、何も心配しなくていい。
<祈りの章> 第10話 願いは叶えられる
実家が北海道だと言っても、支店まではとにかく遠い。車で移動しても、3時間以上かかる。僕は芹亜と一緒に住むための部屋を支店の近くに借りていた。
半月近くたってもまだダンボールだらけの僕らの部屋を片付けるために、母は遠くから来てくれていた。
「セリちゃんが来るのが待ち遠しいわ」
母は嬉しそうに言った。
「でも、陸斗が帰って来てくれたのも、嬉しいのよ」
なんだ、僕は二の次なのか、と苦笑する。
ずっと一人で僕を育ててくれた、大切な人。
芹亜が来たら、すぐに母に会わせよう。
彼女の気持ちが変わらなければ、いつか家族になるんだから。
「父さん、どうしてるかな」
そう言うと、母さんは「そりゃあ、喜んでるに決まってるわ」と笑う。
僕が子どもの頃、寂しくて毎夜泣いていた母の姿はもう、どこにもない。
12月になった。
とうとう、芹亜が北海道に来る日になった。ずっと待ち遠しかった。もう雪深い。東京育ちの彼女には厳しいところかもしれないけれど。
空港に迎えに行くと、嬉しそうにこの手を握る芹亜に、僕は顔がほころぶのを止められないまま言った。
「お疲れさま。早速で悪いけど、実家に来てくれる?」
芹亜は少し驚いていたが、すぐに緊張した顔でうんと答えた。
彼女にはいきなりで申し訳ないとは思ったが、強引に実家に連れていった。
母はにこにこと彼女を迎えた。
ひとしきり挨拶を終えると、母は言った。
「陸斗の父さんにも逢ってくれるかしら?」
芹亜は不思議そうに頷いてから、父さんのいる部屋に入った。そこには写真と小さなマリア様の像が置かれている棚があるだけだ。
戸惑う彼女に僕は言った。
「この写真の人がオレの父さんだよ」
芹亜はその写真を見て、床にガクンと膝をつき呆然とした。
「……夢に出てきた……陸斗さん」
「この写真の父さんは26歳。今のオレと似てるよな。眼鏡は、かけてないけど……」
僕は、背中を向けたまま動かない彼女に言った。
「君は小さい頃、ご両親と共に北海道へ観光に来たんだけど、……ボートがひっくり返って、湖で溺れたんだ……」
僕は芹亜の様子を見ながら、言わなくて良いことは避けて、一つずつ話した。
「その日、たまたま釣りをしに湖にやってきた父さんはそれを見つけた」
「その前の年に起きた阪神淡路大震災で、携帯電話の重要性を世間の人は気付かされたのに、父さんはその時まだ持ってなくて、すぐに救助は呼べなかった」
「だから待たずに潜って、なんとか君を助け出そうとした。父さんの友だちが父さんを追いかけてきてくれたから、湖面に近い場所まで浮かんできた君を助けることができたんだ」
芹亜はまだ父の写真を呆然と見つめていた。
「陸斗さんの夢と同じ……? 私は、陸斗さんのお父さんに助けられてた……の……?」
芹亜はうまく呼吸できないで、言葉を詰まらせながら呟いた。
「君が持っているロザリオは母さんが、君のおばあちゃんに渡したものだよ」
そしてそのロザリオは、もともとは僕の父さんのもの。
僕と君をつなげようとしたもの。
母さんに君の存在を伝えた時に、母さんは君の名を覚えていると言った。
父さんが助けた子だって。
父さんは僕をとてもかわいがってくれた。いつも夏になるとあの湖に連れて行ってくれた。
僕は何も知らなくて、ずっと疑問に思ってた。どうして父さんはいなくなったのかなと。
でも母さんがようやく教えてくれた。そしてやっとわかったんだ。
父さんはあの赤い蝶を助けようとして、湖に消えたんだと。
父さんはとてもまっすぐに、人を愛することができる優しい人だった。
敬虔なカトリックだったから、きっと父さんの願いをマリア様が叶えてくれたんだろう。
その子が幸せに生きることを、父さんは心から願ってた。
僕と出逢う前のセリの夢の中で、君を支えた。
僕には、あんなに必死で助けた子だから、守って欲しいと夢で伝えようとしていた。
「父さんはセリのことが心配だった。セリ1人しか助けられなかったから……。両親のいない君が独りで生きて行くのは辛かったんじゃないか。自分がしたことは正しかったのか。あの幼い子は、幸せに過ごすことができたんだろうかって……」
芹亜はわあっと声を上げて、絨毯に顔を伏せ、まるで写真に謝るように泣き続けた。
「だから、父さんに言ってやってほしいんだ。なんで助けたんだよって。おかげで頭痛や水にパニック起こしてずっと辛かったんだって。そんな風に恨みごと言ってやってくれよ。父さんはその罪をわかってるから。オレにその罪を償えって……」
「違います……!」
芹亜は嗚咽しながら、大きな声で言った。
「私は……たくさんの優しい人に囲まれて、本当に幸せに生きてきました……」
泣くことない。
泣いたら、父さんが困ってしまうから。
「ありがとうございました……ありがとうございました……」
芹亜はそのままずっとずっと泣き続けた。
僕はそんな芹亜と、写真の中の父を見て思った。
父さん、ありがとう。
僕の大切な人を助けてくれて。
一生かけて彼女を守るよ。
父さんの願いを、叶えるためにも。
あと一つ、君に伝えたいことがある。
母さんに教えてもらったんだ。
君は憶えていないし、僕も憶えていなかった。
20年前、君はこの部屋で、この写真を見ながら、僕と遊んだ。
確かに、僕らは逢ってた。
君は間違っていなかったんだよ。
空に捧ぐ 全10話
終