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    SWEET-SOUR-SWEET

    他人が自分の事をどう思っているか、あまり気にならない主人公遠藤陽己(えんどうはるみ)。おかげで、あからさまに愛情表現している天然女子古川貴奈子(ふるかわきなこ)の気持ちにも全く気付かない。果たして、鈍感で無神経な善人と揶揄される遠藤は、貴奈子の気持ちに応えることができるのか。甘くて酸っぱい柑橘系ラブコメディ。
    キーワード : 20代、販売店員、アルバイト、甘め、長編、完結、R15
    ※ 1話2500字未満 全31話 計8万字程度

    #1 それは伝説

     あるリサイクルショップに、悪意はないけれど人を巻き込むおバカなアルバイトと、人は良いけれど運の悪い社員がおりました。
     ある時、社員はフラフラ歩いているバイトに注意しました。
    「古川さん、それ、触ると崩れるから気を付けてね」
     しかしバイトはあっという間にダンボールの山に埋もれてしまいました。
    「遠藤さんもっと早く言ってくださーい」
     彼女はいたずら盛りの子狐のように、その山からちょこんと顔を出して言いました。
     社員は溜息をつきます。
    「でも、先週も崩したよね」
    「そうでしたっけ?」
    「全く同じ場所だよ」
    「忘れてました!」
     バイトの満面の笑みに、社員は仕方なく、何も見なかったことにしておきました。
     そして数分後のことです。
    「遠藤さーん」
     社員を呼ぶバイトの声がしました。
    「ん?」
     振り向いた社員の脚に、荷を載せた重い台車で突っ込むバイト。
    「わー、ごめんなさい!」
     社員は前に転倒し、さっきバイトが崩したダンボールの山の中へ沈みました。
     彼は台車の突進をまともに食らって、しばらく起きあがれません。
    「あの、急いで停まろうと思ったんですけど、ブレーキなくてー。なんでかなー」
     必死に弁解するバイトに、社員は脚や腰に手を当てて体を支えながら立ちあがりました。
    「えっと……ここにある台車、全部ブレーキついてないけど?」
     驚愕の表情で固まるバイト。
     社員は顔を引きつらせながらも、優しく尋ねました。
    「古川さんて、ほぼ1年、台車で作業してるよね?」


    (2月28日 日曜日 午後5時前)

     一同は休憩室で腹を抱えながら、それでも必死で声を抑えてクックックと笑っていた。
     笑っていないのは古川貴奈子(ふるかわきなこ/20歳アルバイト)だけだった。貴奈子は顔を真っ赤にして俯いている。
     ボーダーと呼ばれている語り部の男子アルバイトが、話の最後を締めくくった。
    「この世にも恐ろしい話、信じる信じないは……」
    「信じるフツーに」
     話を聴いていた二人の男子アルバイトは、笑い疲れて一息つくと、顔を寄せて話し始めた。
    「それって昨日の話だろ。そういや遠藤さん、店長に呼び出しくらってたわ」
    「またあの人、他部署のバイトのやったことで絞られるんだ……」
    「オレならブチキレる」
    「それも1回や2回じゃねーしな」
    「キナコのバカは修正しようがないから、傍にいた遠藤さんが怒られたんだろうけど、だまって怒られてる遠藤さんて、どうなのよ」
    「どっちかっつーとキナコの上司の片岡氏の責任なのにな」
    「二人とも違う意味で上司に向いてねえな」
    「遠藤さん、器がデカイのか、天然なのか。ま、天然だろうな」

     男子アルバイトたちが小声ながら盛り上がるのに対し、貴奈子は一人、必死で反論する。
    「別に遠藤さんは天然とかじゃないと思うけど! ただ、優しいだけで……」
     すると、コマチと呼ばれている高校生アルバイトは、
    「いや、天然っしょ、天然。国宝級の伝説の天然記念物的天然」
    と言い切った。
     貴奈子は頬を膨らませ、目の前の男子バイト3人を睨みつけ不服そうに呟く。
    「どうしてそんなこと言うかなー」
    「だって」
     オザと呼ばれるアルバイトが言った。
    「こんだけわかりやすいキナコの気持ちにも、あの人全く気付いてねーし」

    「ええっ!」
     言われて貴奈子はガタンと大きな音を立てて、その場で立ち上がった。
     休憩室のテーブルを囲んでいたアルバイトたちは、彼女の顔を見上げた。
    「ん? なに驚いてんの?」
    「わ、私の気持ちって、一体なんのことかなっ……て」
    「好きなんだろ? 見てたらわかるわ」

     貴奈子は口を開けたまま、両手でテーブルを押さえつけてはいるものの、それ以上動けなかった。
    「な、な、な……」
    「あれ、バレてないと思ってたのかよ」
    「多分、店でおまえの気持ちに気付いてないの、遠藤さんと片岡氏くらいだろ」
    「遠藤さんはオレら販売部の主任。おまえ単なる荷受けのバイト。無理やり用事作って会いに行くんだから、あからさまだわ」
     3人は笑いながら証言する。
    「在庫置場によくピンク色のショボショボしたハートが落ちてるよな」
    「そうそう。それにおまえが遠藤さんと話してる時、たまに頭からブワーっと湯気が出てる」
    「でも遠藤さんがいなくなったあとは……」
    「ほぼ残骸」
    「まるで抜け殻」
    「それでも遠藤さんは、キナコの気持ちに全く気付かない」

    「もう、何それ!!」
     貴奈子がテーブルをバンと叩くと、3人は危険を感じて一斉に身を引いた。
    「待って待って、あのな、キナコ」
      「……あの、みんな……」
    「コーフンすんなよー」
    「酷すぎない? 私のコトはともかく、遠藤さんはそんな無神経じゃないしっ!!」
      「おーい……」

     ふと、バイトたちは口を閉じた。
     休憩室の入口に人影が見え、そこから誰かが声をかけている。

     遠藤陽己(えんどうはるみ/26歳正社員)が、入口付近で背伸びしながら、部屋の中のバイトたちに手を振っている。
     一瞬の静けさが漂った。
     その場にいたアルバイトたちは、全員が背筋を伸ばして半笑いになった。

    「もう、仕事の時間だぞ?」
     しかし、その気さくな声かけに応じる者は誰一人いない。

    「いってきまーす」
     3人の男子バイトたちは低い声で周囲の同僚たちに告げ、中腰のまま席を立った。
     誰も目を合わさず、それぞれにゴミを捨てたりエプロンを付け直したり、ドリンクを飲み干したりして俯いたまま部屋を出て行った。
     貴奈子だけは、立ち位置のせいでしっかりと遠藤と目が合っていて動くことができなかった。
    「古川さんも、急いでね」
    「は、は、はい」
     遠藤は緊張した貴奈子の顔を見て苦笑いしながら、男子3人の後について店に戻った。


     そうか、無神経かぁ。そんな風に見られてるんだなあ……。
     遠藤はうーんと首をひねりながら溜息をついた。

    #2 必然的事故

     その貴奈子の台車激突事件が話題になっていたこの日に、また店で事故は起こってしまった。
     それは、遠藤が店頭でお客様に尋ねられた商品を探しに商品置場である倉庫へやってきた時のことだ。
     棚の一番上の箱に入っているようなので、脚立を持って来て上ったところ……。

     ……やばい、フラフラする。もしかして熱?
     しかもこれ、箱、デカいし重い。

     ちょうど頭の高さなので、もう一段上がって、箱を引っ張り出さずに中を覗き込もうかと彼は考えていた。
     すると急に足の下から元気な声がした。
    「遠藤さん、大丈夫ですか?」
     そこには古川貴奈子が台車を端に寄せて、遠藤を見上げている姿があった。

     若干嫌な予感はしたが、今彼女は台車から離れているし、激突される心配はなさそうだ。
    「うん。あ、そうだ、商品取り出すから、受け取ってくれる?」
    「いいですよ」
    「ちょっと重いんだけど」
    「力だけは自信があります」
     自信満々に答える彼女は、くるくると回る愛らしい目でじっと遠藤を見ている。
     本当に大丈夫? と訊きたいところだが、そこはぐっと我慢して言葉を呑み込む。

     遠藤はダンボールの箱に手を伸ばして引き寄せフタを開いた。
     その時またふらつきを感じ、よろっとバランスを崩して棚にもたれかかってしまった。こうなると両手を棚につき、落ちないように体を支えるしかない。
    「うーん……」
     元の姿勢に戻ろうとしたが、踏ん張る足元の面積が狭すぎて、無理だと気付く。
    「大丈夫ですか?」
     貴奈子は心配しているのだろう、落ち着きない様子で、遠藤の真下をぐるぐる回っている。
    「ご、ごめん、怖いからじっとしてて」
    「はいっ」
     貴奈子はパタと足を止めた。
     離れてほしいという遠藤の願いも空しく、彼女は脚立の真下にいた。

    「頑張ってください! 私が支えますから!」
     貴奈子が両方の手を伸ばし、遠藤の足首を持とうとしていた。
    「いやいや、いい、大丈夫」
     遠藤は棚と貴奈子の顔を見比べた。
    「誰か背の高い男子を呼んできて……」
    「大丈夫です、絶対私が支えます! 力だけは自信があるんです!」
     彼女の一生懸命な様子に、遠藤はそれ以上何も言えなかった。
     そして、まあ落ちたとしても死ぬわけないしな、と半ば観念した。

    「とりあえずさ、足持たれると動けないから、こっちに回って来てくれる?」
     遠藤は棚を手すりのように持ちながら、右足を一歩下の段に乗せ、貴奈子にその方向に来てくれるように片手を棚から離して示した。
    「わかりました!!」
     直後、ガッシャッという大きな音がした。
     貴奈子自身が脚立に思い切りぶつかっていた。

     遠藤は大きく揺れた脚立から、重心をのせていた右側へと落ちていった。


    (同日 午後9時過ぎ)

     閉店後、休憩室でメソメソと泣く貴奈子の前で帰り支度をする男子バイトたちが、憐れみの視線を彼女に向けた。
    「もう泣き止んだら?」
    「だってっ……」
     コマチが貴奈子の肩をポンと叩いた。
    「わざとやったわけじゃないしさ、気にすることないんじゃないの?」
    「だってっ……うぇ、え、えぇぇ」
     オザもまた貴奈子の背中をつついた。
    「遠藤さん、酷いケガしたわけじゃないし。捻挫程度なんだろ? 大丈夫だよ」
    「でもぉ……私がぶつかったから……あうっ、あうっ」
     ボーダーは貴奈子の前に立って、腕組みをして言った。
    「もとはと言えば、誰も呼ばずに一人で荷物下してた遠藤さんが悪い」
     その言葉に貴奈子はまだしゃくりあげながら、ぼんやりと呟く。
    「……私、誰か呼んきてって言われたような……」


     遠藤は、手で頭を庇いながら右側へ落ちた。左手は棚のへりを掴んでいたので、着地の衝撃は緩和し、手首やひざを痛めた程度ですんでいた。
     しかし大騒動になったわけで、当然のように店長から叱責を受けた。
    「仕事中にケガとかしてくれんなよ。おまえ自身はともかく、バイトまで巻き添えは絶対困るからな」
     元々愛想の悪い店長が、ぶっきらぼうに言い放つ。
    「申し訳ありません」
     遠藤はただ謝るしかない。

     そんな事務所でのやりとりを貴奈子が聞いてしまいショックを受けていたのだが、そんなことなど遠藤は全く気付いていなかった。


     閉店後、社員はまだ仕事が残っているが、アルバイトはすぐにタイムカードを押して店を出ることになっている。
     手首に包帯を巻いてパソコンを叩いていた遠藤は、販売部のアルバイトである男子3人組が事務所の入口で自分を手招きしているのに気付いた。
     慌てて席を立ち、彼らのそばに走り寄り顔を見渡した。
     すると男子バイトたちの中で、ボーダーが最初に口を開いた。
    「実は、キナコが……」
    「店の外で遠藤さんのこと、待ってます。行ってやってもらえませんか?」
    「あのままだと、風邪ひいちゃうんで」

     遠藤は訳がわからないまま、薄いスーツ姿で建物の外へ飛び出した。
     そこは店の裏口。目の前が従業員用駐車場で、冷たい風が真正面からやってくる。
     2月の底冷えする外気で手足を縮ませ、白い息を吐いている古川貴奈子が、ただじっと立っていた。ベージュのコートのフードを被り、こちらに気付く様子はない。
     遠藤は戸惑いながらも声をかけた。
    「古川さん」
     くるりと向きを変え、遠藤の顔を見上げた彼女はひどく驚いていた。なぜ今ここにいるのか、という顔だった。男子3人組が遠藤を呼びに来たことを知らなかったのだろう。
     彼女は遠藤が仕事を終えて裏口から出てくるまで、このままずっと待っているつもりだったのだろうか。何時になるかもわからないのに。
     そんなことを考えると、急に彼の中に罪悪感が生まれて来た。

     彼が貴奈子に近づくと、彼女は金魚のように口をパクパクとさせ、顔を赤くした。
     遠藤は彼女に頭を下げた。
    「ごめん」
    「えっ、えっ、違います、謝るのは……」
    「迷惑かけたね。古川さんがケガしなくてよかった」
    「そんな……私のせいでケガして、店長にも怒られて、全部私が悪いのに……」
     貴奈子の顔がどんどん赤くなる。
     遠藤は知らなかったが、彼女はずっと泣き続けており涙腺がバカになっていて、ほんの些細な言葉にも涙がすぐ溢れ出してしまうのだ。
    「ちがうちがう。気にしないで。ね、泣かないで」
     本当は風邪をひいたと分かっていながらも仕事を続けていた自分が悪いのだ。
     彼女はポロポロと涙を零しながら、顔を上げた。
     夜の月明りに照らされた貴奈子の光る頬を見た遠藤は、ただ困って言葉を探した。

    「遠藤さん……顔、赤い」
    「ん、あー……古川さんて、やっぱり可愛いいなと思って……」
     遠藤は熱があることを悟られないよう、慌ててごまかしたつもりだった。

     しかしその言葉は、貴奈子にしてみればフツーに”殺し文句”である。
     彼女は当然のように更に紅潮し、涙する。

    「あの、ほんと、ゴメンね……」
     どう謝ればいつもの元気な笑顔に戻ってくれるのか、オロオロするしかない遠藤だった。

    #3 自己管理の問題

     リサイクルショップ『MAOH』与野川(よのかわ)駅前店は、1年前にオープンした。
     よその支店にいた遠藤だが、オープンと同時にこの店に販売部主任としてやってきた。
     オープニングスタッフとして多くのアルバイトやパートタイマーを雇用したが、その中でも販売部所属のアルバイトの男子3人組は、遠藤にとって可愛い後輩のような弟のような存在だった。
     現在、大学生で21歳の“ボーダー”こと柏井、20歳の“オザ”こと小沢、高校2年生17歳の“コマチ”こと小野の3人だ。
     そこに当初は古川貴奈子も販売スタッフとして名を連ねていたのだが、あまりの商品知識の無さと、接客の下手さが災いして、店長に半年ほどで倉庫の荷物運び専門に所属を変えられてしまった。
     彼女はそういういきさつで販売部だった時期が少しあり、男子3人組と仲が良く、遠藤のことも慕っている。

     営業時間が午前10時から午後9時のこの店の、店頭の責任者である遠藤は、午前は中尾という社員に任せ、彼は夜の閉店作業のために昼から出勤となっている。


    (2月29日 月曜日 午前11時)

     遠藤はこの日、月末ということで少し早めに出社した。
     昨日よりさらに風邪が悪化したなという自覚はあった。湿った咳が出始め、倦怠感が一向にひかない。
     しかし仕事は山積しているので休むわけにもいかず、風邪薬を飲みマスクをして店頭に立ったが、だんだん気分が悪くなり辛くなってきた。吐き気までもよおしてきたので、たまらず事務所に戻り事務仕事に切り替える。
     隣の席の片岡佑輔(かたおかゆうすけ)が苦い顔で遠藤を見ていた。
    「風邪が長引いてないか? 大丈夫なの?」
    「ちょっと苦しいかな……」
     ゴホッゴホッと咳き込む遠藤の顔色を見ながら、片岡が言った。
    「病院行ったか?」
    「いや……薬は飲んだけど」

     その後、遠藤は店長の一声で早退させられ、病院へ行くことを命令された。

     夕方、遠藤は店に電話を入れた。
    「すみません、やっぱりただの風邪だったんですが、こじらせて肺炎起こしかけてたみたいで……」
     電話の向こうでは店長がうーんと唸っていた。
    『そうか。疲れがたまってたんだろ。ちゃんと治るまで休め』
    「はい……」
     店長はスケジュール表を見ているらしく、カサカサと紙の音がする。
    『遠藤は2日の水曜が公休か。ほかは有給で処理しとく。店はオレもいるし、中尾も片岡もいるから、心配するな。医者にOKもらったら出て来い』


     遠藤は、皆に勤務時間の変更や残業をさせることになってしまったことに落ち込んでいた。

     情けないなあ……。

     自宅のワンルームマンションのベッドの上にいた。病院で出してもらった薬を飲んで2時間、心なしか楽になったような気がする。
     でもまだ熱と咳と喉の痛みが止まらない。ただ、市販薬を飲んでいた時より、ずっと深い眠りにつくことができた。
     翌朝、水分を補給してまた薬を飲んで眠った。
     そしてその日は夕方まで眠り続けた。それが3月1日のことだ。


    (3月1日 火曜日 午後5時前)

     夕方、男子アルバイト3人組と貴奈子は、シフトが同じだったので顔を合わせていた。
     昨日彼らは公休日だったため、遠藤が早退したという出来事を知らなかった。
    「うぃー、キナコ、今日遠藤さん休みだって」
     言われて貴奈子は首を傾げた。
     シフト表にも記載されているが、遠藤の公休日は今日ではなく明日である。
    「もしかして、手首が痛くなって、急に入院とか……」
     貴奈子が不安そうに口に手をやると、オザが貴奈子の頭を小突いた。
    「安心しろ、おとといのケガとは関係ないから」
     振り返らずにそう言って、そのまま通り過ぎようとする。
    「ねえ、オザ、休みの理由知ってるの?」
     貴奈子は引き留めるようにオザの後姿に声をかけた。
     オザはチラと貴奈子を顧みたが、何も言わずに前を向いた。
    「待ってよ。今日の休みには何か意味があるから私に教えたんでしょ?」
    「んー」
     休憩室に続く通路で、3人はようやく立ち止まった。一番年下の高校生、誰もが目を引く美少年のコマチが、溜息をついて振り返った。
    「ほんとに聞きたい?」
    「え……」
     貴奈子は不安そうに3人を見た。
     いつも落ち着いているリーダータイプのボーダーが、視線は合わさず口を開いた。
    「知れば、キナコはいてもたってもいられないだろうな」
    「そ、そんな……」
     貴奈子は3人の同情に溢れた暗い視線を一身に浴び、焦った。
    「ど、ど、ど、ど、どういうコト? なんで隠すのよ。何があったの? 教えてよぉ……」
    「どうする? 教える?」
     3人は顔を見合わせて、何やらコソコソと話している。
    「コマチ、おまえ教えてやれよ」
    「え、オレ? やだよ、オザが言ったら? 最初に声かけたの、オザだし」
    「オレかよ。マジでか」
     オザが渋々と言う顔で、貴奈子の方に一歩足を向け彼女の顔を見つめた。
    「な、何なの……?」
     オザの真剣な表情に、彼女は思わず身構えていた。
    「実は……」
     そう言いかけたが、オザは視線を逸らし口をつぐんだ。
     その仕草を見て、貴奈子は手で顔を覆った。
    「いい、いいよ。聞きたくない、いやだー!」
     彼女はそのまま3人を押しのけて走って休憩室に飛び込んだ。

    「あいつ、メンタル弱すぎ」
     ボーダーはボソッとそう呟いた。
    「図太そうに見えるのに、遠藤さんのコトとなると、あーなんだよな」
    「そんなんで告れんのか?」
    「無理っしょ」
    「で、ホントのコト、いつ言う?」
    「言わなくていんじゃね? 聞きたくないらしいから」
    「風邪をこじらせただけらしいんだけどねえ」
     3人はニヤリと笑った。

    #4 療養中なんですけど

    (同日 夕方 6時)

     貴奈子がしょんぼりと店の在庫置場で台車の上に座っていると、前方から貴奈子の上司にあたる仕入・物流担当社員の片岡が歩いて来た。
    「おまえはいつも、堂々とサボるよな」
     片岡は呆れた口調で言った。しかし、貴奈子がいつものようなハジケた反応を見せないため、少し不審そうに彼女に近づく。
     貴奈子は台車の上で膝を抱えて俯き、動かなかった。
    「具合でも悪いのか?」
     貴奈子は黙ったまま首を横に振った。
    「ならいいけど」
     片岡は落ち込んだ様子の彼女に背を向け、タブレットを片手に商品を調べ始めた。そして調べ終えてその場を去り際に、チラと貴奈子の様子を見た。彼女は相変わらず顔を伏せ蹲っている。
    「おい、キナコ。働く気がないなら帰れ」
     貴奈子は少し顔を上げ、恨めしそうに片岡を見た。
    「片岡さん、教えて欲しいことがあるんですけど」
    「何だ。……っていうか、おまえ顔赤いな。熱測った方が良くないか?」
     片岡はそろそろと貴奈子の近くにやってきた。
     貴奈子の顔が赤いのは、単に俯いてひざで顔を圧迫していたせいだったが、そのことは本人もよくわかっていなかった。彼女は片岡の言葉を聞き流していた。
    「あの、今日……遠藤さん休んでますよね」
    「ああ」
    「理由知ってますか?」
    「ああ」
     片岡は貴奈子の顔を見て、何か気付いたようだった。
    「あ、だから……! やっぱりそうか!」
    「え……」

    「おまえ、おととい遠藤を脚立から突き落としただろ?」
    「つ、突き落としてません!」
     貴奈子は必死で首を横に振った。
    「その前は台車で轢いたそうじゃないか」
    「ひ、轢いてません! ちょっと当たっただけ……」
    「そのたびに遠藤、店長に怒られてんだぞ。あいつ絶対ストレスだよ。ストレスで風邪こじらせたんだよ」
    「風邪?」
    「そーだよ、肺炎の一歩手前」
     貴奈子は肺炎と訊いて少なからず驚いた。そして、その時初めてそれが遠藤の休みの本当の理由だと知った。

     貴奈子は遠藤の休みの理由が、もっと何か恐ろしいコトではないかと想像していた。
     例えば、お見合いだとか、結婚式の衣装合わせだとか、彼女と同棲するための引っ越しなど。男子バイトたちに脅かされたせいで、悪い想像ばかりしていたのだ。
    「おまえ、遠藤と同じで赤い顔してるから、あいつの風邪うつってんじゃねーか? おまえ今すぐ家に帰って寝ろ。肺炎になったら面倒だぞ」
     片岡がそう言って貴奈子の背を押した。
    「そうかも。うつってるかも!」
     ……遠藤さんの病気を自分が貰うなんて、ちょっと親密な関係っぽくてステキ……。
     貴奈子はスキップでもしそうなほど浮かれて、店から帰っていった。


     遠藤陽己は夕方過ぎ、やっと汗まみれの服を着替え湿ったシーツを取り換えた。少し動いただけで疲れ、すぐまた横になってぼんやりと天井を見ていた。
     肺炎かあ。高校の時も風邪だと思って放置したせいで入院したな。全然学習してないって父さんに怒られそうだな。体調管理は基本だって言うのが口癖で……。そう言えば、あの人は元気なのかな。

     思考は鈍く、体は重く、咳は止まらない。喉が痛む。
     手の甲で、熱くなった額に触れた。その時に、うっすらと変色した手首が見えた。薬の鎮痛作用もあって痛みなどすぐ消えて忘れていたが、捻挫の跡が残っていた。
     古川貴奈子のことをなんとなく思い出した。彼女は責任を感じているのではないだろうか。
     脚立から落ちた日の帰り際、あの程度のことでいつも明るい子が泣いていた。泣くほどのことではないのに。というよりも、もともと具合が悪いのを放置していたオレが悪かったんだ。
     ごめん。
     すうーと意識が遠のきそうになった時、携帯電話のメッセージアプリの音がした。手に取ると、加南子からメッセージが来ていた。
    ≪今夜行くねー≫
     そんな軽い言葉を見ただけで、頭が痛くなった。
    ≪具合悪くて。起きられないから放っておいてくれないかな≫
     そんな風に送ると、加南子がお見舞いに行くという内容のメッセージを返してきた。
    ≪ごめん、一人で静かに寝かせてほしい。良くなったら連絡するから≫
     治るまでは会いたくなかった。彼女に対して抱えている重い気持ちを、いつか吐き出さねばならないのはわかっているが、今は到底無理だ。そんなエネルギーはない。


    (同日 夜9時半)

     突然玄関のチャイムが鳴った。こんな夜遅くに誰だろうと不思議に思いながら、遠藤は重い体を動かした。
     狭いワンルームマンションにチャイムが連続で鳴り響く。まるで借金の取り立て屋レベルだな、と彼は思った。
     一体誰だ。携帯電話を見ても着信などの記録はない。だいたい普段なら仕事をしているこの時間に、連絡もせず来る人間なんて自分の周辺では考えられない。
     遠藤は玄関の近くにあるドアホンで訪問者を確認した。深々とニット帽を被った怪しげな男が3人。遠藤は思わず玄関から離れた。ジャージのパンツのポケットに手を入れ、万一に備えて携帯電話を握った。
     すると、今度はドアを手でドンドンと叩き始めた。ギョッとする遠藤に、聞いた事のある声が響いた。
    「遠藤さん、いるんでしょー」
     彼は一瞬誰だかわからず、もう一度モニターを見た。
    「寒いっすよ、開けてー」
     カメラに近づいて訴えるその顔を見て、遠藤は思わず肩を落として溜息をついた。そしてドアの鍵を開けて、彼らを招き入れた。
    「うぃーす」
     3人のデカい男たちが狭い部屋になだれ込む。
    「寝てたんすか? チャイムさんざん鳴らしたのに。無視しないでくださいよ」
     コマチが遠藤を冷たい目で睨んだ。
    「いや、ゴメン。来ると思わなかったから」
     遠藤は自分の狭い部屋が黒くデカいもので浸食されてゆくことに脅威を感じた。
    「はい、これ」
     ボーダーが重そうなコンビニの袋を遠藤に差し出して、さっさと床に腰をおろした。戸惑いながら袋を受け取る遠藤をよそに、あとの2人も遠慮なしにテーブルを囲むように座りだした。
    「ありがとう。でも、え、……もしかしてお見舞い?」
     遠藤は、3人がそこまで思ってくれているとは知らず、ただ驚いていた。
    「肺炎で倒れてるって聞いたら心配して当然だろ」
     そういうオザに続いて、コマチも言った。
    「どうせ、誰も面倒見てくれる人いないっしょ?」
    「……うん、まあ……」
     遠藤は慌ててマスクをして3人の傍に座った。

    #5 意味不明

     遠藤陽己は時計を見てから、3人に訊いた。
    「仕事帰り?」
    「そうだけど。あ、遠藤さんは寝てて。オレらは9時からの特番見たら帰るから」
    「……あ、うん」
     遠藤は苦笑しながら、テレビのリモコンをテーブルの上に置いた。ゴホゴホと咳が止まらない。おもわず体を曲げ、マスクの上から口に手を当てる。
     しかし3人は遠藤のことなどお構いなしで、ザッピングしながら口々に話している。
    「最初の30分見逃したな」
    「やっぱ店から一番近い遠藤さんちでも、この時間になっちゃったなー」
    「あー、録画しときゃよかった!」
     目当ての番組があったらしく、3人は皆テレビに集中して、やっと静かになった。
     遠藤は彼らがくれた重い袋の中を覗き込んだ。ゼリー飲料やレトルトのおかゆなどが大量に入っていた。絶対こんなに食べきれないと思った。
    「食うなら作ってやるよ」
     ボーダーが立ち上がり、遠藤の手の中の袋からおかゆを取り出した。
    「いや、大丈夫。自分で……ゴホッ」
    「いーから、寝てろって」
     ボーダーは勝手にキッチンに立つと、水を入れた鍋をコンロにかけた。
     遠藤は安堵したせいか、少しめまいを感じてそろそろとベッドに戻った。咳をするたび力が入り、腹筋を使うので体力を消耗する。
     横になった途端あっという間に眠りに落ちた。誰かがいるという雑音が心地よかったからかもしれない。

     ボーダーは温め終わったおかゆを持ってベッドにやってきたが、、咳をして苦しそうに顔を歪めて眠る遠藤を見て少し心配そうな顔をした。
    「寝たか。大丈夫かな」
     ほかの2人もそろそろと立ち上がり、咳の合間に喘ぐような呼吸をしている男を、上から覗き込んだ。
    「こりゃ、しばらく仕事に来ねえな」
    「遠藤さんとキナコが揃わねーとつまんねー職場なのに」
     そして、コマチが紙と鉛筆を出して何やら書き始めた。
     3人はテレビを消すと、ニヤリと笑い合って遠藤のマンションを後にした。


    (3月2日 水曜日 午前11時)


     朝、目覚めた遠藤陽己は、なんとも言えないだるさでしばらく動けなかった。熱は幾分下がったみたいだが、咳止めを飲んでいるにもかかわらず酷い咳が続く。そのうち喉から血が出るんじゃないかと想像する。
     テーブルの上にはラップで覆われた冷えたおかゆがあった。そう言えば昨夜はバイト3人組が来てくれたなあとぼんやり思い出す。部屋を掻き回した跡もなく、ゴミすら落ちておらず、おかゆ以外はまるで彼らの痕跡がない。もしかすると遠藤が眠ってすぐ帰ったのかもしれない。テレビが観たかったなんて、やっぱりただの口実か。
     ふと、おかゆのお椀の下に紙が敷かれてあるのに気づいた。ベッドから降りて、テーブルの脇に座りお椀をよけてその紙を手に取った。
     遠藤はその紙に書かれているメッセージを見て目を細めた。

    ////////////////////////////////////////////////
     遠藤主任殿
     はやく復帰してもらわないと、オレら仕事サボれなくて困ってます。
     ずっと店長が見張ってます。
     明日も仕事終わったら来るから、なんか欲しいもんあったら
     小野宛に電話かメールを。
     柏井 小沢 小野

     小野 xxx-xxxx-xxxx     xxxxxxxxxx@xxxxxx.ne.jp
     キナコ xxx-xxxx-xxxx
    ////////////////////////////////////////////////

     遠藤は瞬きして最後の一行をじっと見つめた。
     古川貴奈子の電話番号が書かれてある。

     回らない頭でしばらく考えていたが、浮かぶのは疑問符ばかりだ。
     遠藤は、短く息をして携帯を手に取った。
     まずは小野くんに連絡しておこう。今はまだ授業中かもしれないな、と考えながら遠藤はメールを送った。
    ≪昨夜はありがとう。嬉しかったけど、風邪うつしちゃマズイし、今日のお見舞いは遠慮するよ。それから、メモに古川さんの連絡先が書いてあったけど、どうして?≫
     すると、休み時間なのか定かではないが、すぐに返事が返って来た。
    ≪キナコに電話してやってよ≫
     遠藤はその一行をベッドに這いあがりながら見ていたが、
    「何の電話を?」
    と呟いた。
     台車や脚立の件を気にしてヘコんでいるとかいう理由だろうか。遠藤は額に手を当てて考えていた。
     すると、またメールが来た。
    ≪キナコ、昨日バイト早退して、今日も休んでるって。電話してやると喜ぶよ≫
     遠藤は嘆息した。
     あぁ、自分の風邪がうつってしまったということか。
     咳のせいで喉がやられ、あまりうまく声が出ないが仕方ない。彼はベッドの上に座って携帯電話を手に取り、番号を押した。

     数回呼び出し音が鳴っていたが、一向に出ないので遠藤が切ろうとした時だった、小さな声が聞こえてきた。
    『はい』
     遠藤は慌てて携帯電話を握りなおした。
    「古川さん?」
    『はい……』
     完全に怪しんでいるような声だった。
    「遠藤です。古川さんが病気だって聞いたから」
    『えっ!!』
     急に大きな声で反応があった。案外元気そうだな、と遠藤は安心した。
     しかし、相手はなぜか怒りだした。
    『えー、遠藤さんの声じゃないし。ホントに、リサイクルショップ-MAOH-の販売部主任の遠藤さん?』
    「うん」
    『ウソウソ。遠藤さんが私に電話してくるわけない。誰よ! どうせイタズラでしょ、ヘンな声だして。コマチ? オザ? それとも……』
    「いや、あの、遠藤だよ。ちょっと喉やられて、声ヘンなんだけど」
     電話の向こうで貴奈子が沈黙した。

    「昨日僕んとこに小野くんたちがお見舞いに来てくれてね。それでさっきメールしたら古川さんが休んでるって聞いて……。風邪うつしちゃったかな……」
     そう伝えると、貴奈子が電話口で大きく息を吸い込むのがわかった。遠藤は大声を出されるのかと思い、咄嗟に携帯電話を耳から離した。
     しかし、貴奈子は息を吸ったまま、吐き出さずに呑み込んだようだ。

    『ホントに遠藤さんですか?』
     貴奈子の声は静かだった。

    #6 さらに意味不明

    「うん、遠藤だよ」
    『高熱出して倒れてるって聞きましたけど……』
    「今は大丈夫だよ、だるいけどもう起きられるから。それより、古川さん風邪は?」
    『あの、じゃあこれ遠藤さんのケータイですか?』
    「あ、うん……」
     どうも会話が噛みあわない。
    『どうして私の番号知ってるんですか?』
     なんとなくまずいな、と遠藤は目を伏せた。突然社内の人間から電話があったら嫌だよな。いやそれ以前の問題で、番号を教えていない相手からかかってきたら怖いよな。
    「小野くんたちに番号教えてもらって……」
     とにかく、本題に戻って早く電話を切ろう。なんか疲れて来た。
    「古川さん今日バイト休んでるんだよね?」
     遠藤が訊くと、貴奈子は明るい声を返してきた。
    『はい! アツシが“Big-Japan-Soul”の番組のスタジオ観覧チケットもらったって言うんで、一緒に観に行くんです! せっかくいい天気だし、ちょっと遊園地もよろうかなって思っててぇー、今はちょうどアツシと早めのごはん食べてるとこです。……あ、休みは片岡さんの許可もらってますよ。今日は仕事少ないから、別にいいって! ふふっ』
    「……」
     遠藤は呆然としてしばし言葉を失くしていた。
    「昨日、早退したって聞いたけど……」
    『あ、一応片岡さんが帰れっていうから帰ったんですけど、でもぜーんぜん病気っぽくなくて平気でしたー』
    「じゃあ、元気……なんだね」
    『はい! あのぉ、遠藤さんのケータイ番号、登録しちゃってもいいですか?』
    「……あぁ……どうぞ」
    『嬉しい!! 私の番号も、登録しといてくださいね!』
    「…………うん」

     電話を切った後、遠藤はベッドに力なく横たわった。古川さんの元気な声は嬉しかったが、若干毒気に当てられた気もする。
     とりあえず、仕事に復帰したらあの3人組の意図するところを聞かなければならない。何を思って彼女へ電話させたのか白状させよう。風邪だと勘違いしてたのかイタズラなのかをはっきりさせたい。


    (同日 夜 9時半)

     また遠藤の部屋のチャイムが鳴り響いた。
     まさかと思いながらも、こんなに連打でチャイムの鳴らすのは彼らしかいないと観念した。マスクをつけてドアを開けると、寒さに震えるニット帽姿のデカい男たちが立っていた。
     遠藤は顔を引き攣らせて迎え入れるしかなかった。
    「もう来なくていいよ。風邪うつったらどうするんだよ」
     黒い集団は無言でドカドカと部屋に押し入り、各々床に座ってくつろぎ始めた。
    「これ」
     ボーダーがまたコンビニの袋を突き出した。
    「あ、ありがと」

     遠藤は困って立っていたが、3人は気にすることもなくまたテレビをつけた。
    「遠藤さん、AVとかないの?」
     高校生のコマチが可愛い顔で無邪気に訊く。
    「無いよ無い無い」
    「どこに隠してんの?」
     オザがベッドの下に手を伸ばし始めた。
    「だから、無いって!」

     ボーダーが普通にクローゼットを開け始めたので、遠藤は驚いて彼の手を取った。
    「な、なにしてんの?」
    「ん、ボードゲーム探してる」
     柏井がボーダーと呼ばれる所以は、決してスノーボード好きでも、ボーダー柄好きでもなく、ボードゲームの達人だからであった。
    「無い。カードならあるけど」
    「カードはボードゲームじゃないな。でもま、いいか。カード出して」
    「ええ? 今からここでやる?」
     遠藤は驚いて持っていた袋を落とした。

     落としたコンビニの袋から、ミカンが見えた。昨日と同じくやけに重いと思っていたら、ミカンのぎっしり詰まった袋が二つも入っていた。やはりこんなの、食べきれない。
    「みかんはビタミンCが豊富で、咳や痰を鎮めるのに効果的で、漢方薬にも使われてまーす、ってネットに書いてあったよ」
     そう言ったのはコマチだった。
    「そうなんだ、ありがとう……」
     遠藤は袋を拾い上げた。病気の時に優しくされると、どんな悪ふざけも許してしまいそうだ。
    「さあ、やるか」
     ボーダーが言った。ほかの2人はテーブルの上にあったものを全部床に置いた。
    「ここはやっぱりポーカーだな」
    「フツーにババ抜きがいいなー」
    「えー、オレはページワンがいい」
     カードを切りながら、ボーダーが遠藤を見た。
    「遠藤さん、何がいい?」
     遠藤は、自分も参加するのかと驚きながら、テーブルの回りの男たちに近づいた。

    「その前に、聞きたいんだけど」
    「なに?」
     コマチがキョトンと無垢な表情を見せる。
    「小野くんさ、古川さんの電話番号の件なんだけど、あれ、彼女に無断で……」
     遠藤が言いかけるのを、ボーダーが珍しく大きな声で遮った。
    「遠藤さん、キナコに電話したのか?」
    「ああ、したよ。だって、小野くんが……」
     するとオザが声を上げた。
    「そーかあ。喜んでたろ、キナコ」
    「あ? そういう話じゃ……」
    「そーだよ、オレたち、いいことしたなー」
     コマチが満足気に頷いていた。
    「いや、ちょっと待って」
     遠藤はそう言ってから、咳込んだ。3人は律儀にその様子をじっと見て待っていた。
    「意味わかんないんだけど」
     遠藤はさすがに3人をじっと睨みつけた。

    「早退とか欠勤とか言うから、てっきり病気だと思うだろ? オレのせいかなって思ったんだよ。だけど彼女元気だったよ。なんの目的で電話させたの?」
     彼が3人の顔をぐるりと見渡すと、3人はそれぞれ目をそらして口をもごもごさせた。
    「イタズラかー?」
     遠藤の目が細くなっている。
    「いや、オレらも、知らなくて」
    「風邪ひいたって、誰か言ってなかったっけ?」
     ボソボソと言う3人に、遠藤は呆れ気味の声をだした。
    「そういう不確かな話で電話させるなよ。古川さんだって知らない番号から急に電話かかってきたら驚くだろ?」
     言われて3人は顔を見合わせた。
    「どっちかっていうと、サプライズ的な」
    「まさか、みたいな」
    「超ラッキー! みたいな」
     遠藤は3人が言うのをじっと聞いていたが、
    「何言ってんだよ。電話したせいで、彼女のデートの邪魔しちゃったよ」
    と、溜息をついた。

    #7 水の泡

     遠藤の言葉に、3人は顔を見合わせた。
    「デート? なんすか、それ」
    「ウソでしょ、間違いでしょ」
    「いや、たしかアツシって人と一緒に何かの番組を見に行くとか遊園地行くとか、嬉しそうに言ってたから」
     それを聞いてオザは頭を抱え、小さく呟いた。
    「あの、バカ。自分が言った事わかってんのか」
     ボーダーが溜息をついた。
    「オレたちの苦労が……」
     コマチはというと、呆れた顔をしていた。
    「あーあ、もう、無理」
     3人のテンションが急激に下がったのを見て、遠藤は言った。
    「さ、そろそろ白状しようか」
     真相を追求しようとする遠藤を見て、オザは急に開き直ったように質問した。
    「遠藤さん、カノジョいるんですか」

    「え?」
     遠藤は急に訊かれて動揺した。
    「いるんですか?」
    「いるってことでいいですね?」
     3人に詰め寄られ、遠藤は戸惑いながらも仕方なくうなずいた。
    「なんで、突然そんなこと訊くんだよ……」
     遠藤がドギマギしながら言うのを、3人は冷たい目で見ている。
    「別れる予定はないんですか? 新しい彼女つくりませんか?」
     オザの言葉に遠藤は目を丸くした。コマチもブッとふきだした。
    「オザ、すごいこと言うー」
    「だってそれくら言わねえと……」
     この人わかってねーよ、とオザは遠藤を見た。
     コマチはそんなうらめしげな顔のオザに、説明するように言った。
    「別れる予定なんて、フツー立てないっしょ。それ訊くくらいなら、結婚の予定を訊いたほうがよくない?」
    「確かにな」
     ボーダーもコマチの意見に賛成のようだった。
     ブツブツと話し合っている3人の姿に、遠藤は眉を顰めた。
    「なんでそんなことが気になるんだよ?」
     オザは逆に遠藤に向かって首を傾げた。
    「さっきの流れでこの話、って……わかりませんー?」
    「んん? なにが」
     遠藤は目を瞑り、話の流れをさかのぼろうと考え込んだ。
     ついにボーダーはかぶりを振った。
    「ダメだ。この人攻略する方法が思いつかねえ」
     言われて遠藤は、また眉間に皺を寄せる。
    「なんだよ、はっきり言えよ。さっきからなんなんだよ」
    「いやーべつにー」
    「遠藤さんの幸せを壊したいわけじゃないんですけどね」
    「ただ、近々結婚する気があるのかだけでも、聞かせてもらっていいすかね」
     すると遠藤は迷うことなく、即答で答えた。
    「全然考えてない」

    「そうですか!」
    「そうですかー」
     3人は満足げに笑い、立ち上がった。
    「じゃ、オレたち帰りまーす。明日も来まーす」
    「ええ??」
     3人は、今回はテーブルを片付けることもなく、何か達成感のようなものを背負って部屋から出て行った。
     残された遠藤は、ただただ意味が分からず呆然としていた。結局、貴奈子への電話はなんのためだったんだろう。
     そして彼らの、明日も来るという捨て台詞に悪寒が走った。


    (3月3日 木曜日 午後5時前)

     携帯電話を握りしめてニヤニヤしている貴奈子を見つけたボーダーは、彼女の頭を丸めた紙でパシッと叩いた。
    「いたっ。何すんの!」
     貴奈子は大きくて無愛想な男を睨みつけた。
    「おまえは遠藤さんを好きじゃなかったのか」
    「えっ……す、好きだよ……。やだな、何言わせんのよー」
     照れまくる貴奈子を見て、ボーダーは冷たい視線を残し無言で去っていった。
     貴奈子は叩かれた頭を撫でながら携帯電話の画面をまた見つめる。遠藤陽己の名前と電話番号が表示されている。そして彼の携帯電話にも彼女の番号が登録されていると想像して喜んでいた。
     彼女にとっては、遠藤が特に用事もないのに電話をかけてきてくれたという事実と、わざわざ男子バイトらから番号を訊き出したという事実が感動を呼んでいた。
     そんな風に貴奈子は自分に都合のいい解釈をしてニヤついていた。

     休憩室のいつものテーブルにいた貴奈子のもとに、今度はオザがやってきた。
    「おい、バカ」
     いきなりの暴言に貴奈子は唖然として彼の顔を見つめた。
    「おまえ、一回熱だして脳みそ煮沸消毒して来い」
    「は?」
     貴奈子が言い返す間もなく、オザは通り過ぎて奥のロッカーに消えていった。
    「なんなんだよお、あいつら」
     せっかくいい気分でいるところを邪魔されて、貴奈子はふくれっ面でぼんやり携帯電話を見つめた。

     するとしばらくして今度はコマチが入って来た。
     彼は横目で貴奈子を見て何も言わずにロッカーへ向かった。どうも3人の様子がおかしい。
     3人が戻ってきてドカッと椅子に座ると、貴奈子は警戒して離れた席に座り彼らの様子を見つめた。
     オザが言った。
    「アツシって、確かおまえの元カレだよな」
     貴奈子は質問の意図が分からなかったが、とりあえず、うなずいた。
     すると、コマチが薄ら笑いを浮かべて言った。
    「ほらー、やっぱ無理っしょ」
    「何が?」
     貴奈子は訊き返さずにはいられなかった。
     ボーダーが咳払いをして、オザとコマチが姿勢を正す。
     貴奈子は一抹の不安を感じた。……なんだ、なんの会議がはじまるんだ。

    「自分の好きな人が高熱で苦しんでる時に、なんで元カレとデートしてる」
     ボーダーの静かな声には完全に軽蔑の色がのっかっている。
    「デートじゃないってば! Big-Japan-Soulの番組観覧だったんだよ。行くかって訊かれたら、行くでしょそりゃー」
     そう言いながら、貴奈子はどうして昨日の事がバレてるのかなと首を傾げた。
    「アイドルと元カレと遠藤さん、どれが本命なのさー」
     コマチが冷めた目で言った。
    「なんでそーゆー……」
    「遠藤さんには彼女がいるんだぞ」
     突然オザが言った。

    #8 奸計を巡らす

     貴奈子はその言葉に心臓を掴まれたかのように、目を見開いて動きを止めた。
    「おまえが遠藤さんのことどこまで本気なのかしらねーけど、彼女がいる男振り向かせるのに、チャラチャラしてる余裕なんてないんじゃねーの?」
     そうオザが言う。

     普段は口数の少ないボーダーですら、
    「これでも結構おまえと遠藤さんのコンビは好きだった。だから、付き合ったりしたらおもしれえなって思う。でもこのままじゃ無理だ」
    と苦い顔をして言った。

     貴奈子はゆっくりと視線を落とし、テーブルの一点を見つめた。
    「マジ説教なの?」
     ポツリと言う彼女に、3人は何も答えなかった。それはつまり、肯定しているということだ。
    「ごめん……」
     貴奈子はしゅんとして俯いた。
    「アツシは私が凹んでたから心配して気を遣ってくれたっていうか……。そりゃ付き合ってた時期もあるけど、今はアツシに友達以上の感情は無いんだよ……それでもダメなんだよね」
     問いかけてもやはり、誰も答えてくれない。ただ睨みつけられているだけだ。
    「遠藤さんに彼女いるんなら、やっぱり……諦めるべきだよね」
    「人に訊くな」
     オザが言った。
    「だよね、じゃなくて、諦めるか、諦めないか自分で決めろ」
     いつになく厳しい口調に、貴奈子は半ベソをかいていたが、ここで泣いたら何を言われるかわからない。
     貴奈子が俯いたまま黙っていると、ボーダーが立ち上がった。
    「5分前だ」
     3人は貴奈子を残し、休憩室から出て行った。


    (同日 午後7時頃)

     夕方のアルバイトは、5時から9時の4時間の間でヒマな時間に15分の休みがもらえる。
     貴奈子は休憩室のテーブルでチョコレートをつまみながら携帯電話を触っていた。
     するとコマチが休憩室に入って来た。
     彼は貴奈子の近くに座ったが、携帯電話にイヤホンを差し込み動画を見始めた。
     貴奈子より3つも年下だがいつも彼女をばかにする。可愛い顔で背が高く、筋肉質。サッカー部にいたこともあるらしい。貴奈子がなんとなくコマチを見ていると、彼は急にイヤホンを外して彼女の方を向いた。
    「なあ、キナコ」
    「え、なに?」
     コマチは意外にも笑顔だった。
    「オレ今彼女いないけど、遠藤さん諦めてオレと付き合う?」
    「え?」
     貴奈子は目を丸くしてコマチを見つめた。
    「こんなチャンスなかなか無いよ? 行列のできる店に待ち時間なしで入れるくらいラッキー」
    「そう、なんだ……」
     行列ができるほど彼女候補がいても、まあ、おかしくはない。

    「遠慮しとく」
    「なんで? オレ、これでも彼女には優しいのに。浮気しても怒んねーし。ただ、そんときはオレもするけどね」
    「それって優しさって言わないんじゃないの?」
     貴奈子は思わず笑った。そして、
    「でも、やっぱりコマチと付き合うなんて、考えられないなー」
    と、ぼんやりと答えた。
    「じゃあ、誰となら考えられるんだよ」
    「誰と……?」
     貴奈子が黙って俯くと、コマチが口を開いた。
    「キナコがちゃんと決心してくれないとオレら応援できない。オレらの助けなんかいらないんだろうけど、まあ……オレらがキナコをほっとけないんだよな。だから遠藤さんのこと、諦めるにしろ諦めないにしろ、早く決めろよ」
     コマチはそれだけ言って、またイヤホンをして動画を見始めた。
     貴奈子はその時初めて3人の気持ちに気付いた。
    「あ、……ありがとう」
     小さな声で貴奈子は言った。


    (同日 夜9時前)

     店の売り場は8時半をピークに、閉店9時に向けて客数が減ってゆく。8時ごろには品出しも終わっており、販売スタッフは閉店時間まで主に接客や整頓に追われる。
     閉店時間が近づいて、手が空いているスタッフは客のいないコーナーの清掃を始めた。
     例の3人は、売れない輸入CDコーナーで顔を合わせた。
    「で、どうよ、キナコのかんじは」
     オザが棚を拭きながら、隣のコマチに訊いた。
     コマチはCDをワゴンに積んでいた。
    「もうひと押しってトコかなー」
     そう答えるコマチに背を向けて、CDの値段を張り替えていたボーダーは、フフと笑っていた。
     オザは思わず手を止めて言う。
    「あの二人が一緒にいると、絶対何か事件起こすだろ。まあ大抵被害受けんのは遠藤さんだけど。それをさー、できることなら、毎日見てたい」
    「キナコが販売部にいた時は壮絶だったからな。すげー腹筋ついた」
     ボーダーが懐かしそうに言った。
     コマチは笑っていたが、
    「それって遠藤さんにしたら結構メーワクな話だよねー」
    と呟いた。
     3人は少しの間沈黙した。確かに貴奈子と遠藤が付き合ったら面白いに違いないが、遠藤を困らせたいわけではない。
    「……でもさ……」
     オザが2人の顔を窺いながら言った。
    「遠藤さんもまんざらじゃないと思うんだよなあ。普通ならキレるのに、あの人がキナコ見る目、優しいもん」
     言われて2人もうなずいた。
    「あんな目でみられるから、キナコも惚れるんだよな……」
    「じゃあ、悪いのは遠藤さんだ」
     3人は顔を見合わせた。
    「そうだよな」

     彼らは思った。
     あの遠藤のことだから、特に意識なく貴奈子をその気にさせてしまったのだろうが、その罪は償わねばならない。ただ、貴奈子の気持ちに気付けと言ってもすぐには無理そうだ。時間をかけて周りから固めていくしかない。

     遠藤と貴奈子が同じ空間にいるだけで化学反応が起きる。
     その化学反応でみんな幸せな気持ちになる。
     それは貴奈子だけでなく、遠藤だって同じ。まさしくウィンウィン、悪いことなし。

     3人の中で、自分達の密かな悪巧みを正当化する言い訳が構築されていった。

    #9 意外と気付かない

    (同日 夜 9時過ぎ)

     閉店後、3人はぼんやりしている貴奈子を見つけた。
    「おい、キナコ。まだ帰んねーの?」
     休憩室でオザが声をかけると、貴奈子は顔を上げて「帰るよ」と言って立ち上がった。
    「遠藤さんのお見舞い、行く?」
     オザの問いに、貴奈子は驚いて動きを止めた。
     そして一瞬考えていたようだが、すぐに首を横に振る。
    「行かない」
     彼女は休憩室を走って出て行ってしまった。

     3人はその様子を不思議そうに見ていた。
    「諦めんのかな」
    「つまんねえ」
     彼らは口々にぼやきながら、当たり前のように遠藤のマンションへと向かうのだった。


     チャイムが鳴ったので、遠藤はすぐにドアを開けた。この時間の訪問者は、間違いなく彼らだ。
    「結構、元気ぽいっすね」
     3人が驚いた様子で彼を見ていた。もうヨレヨレのジャージではなくきちんと服を着ていたせいだろう。
    「やっぱり来たんだな」
     遠藤は笑った。
    「うぃーす」
    「おまたせーぃ」
     3人はまた遠慮せずにズカズカと部屋に上がる。
     テーブルにおつまみやスナック菓子があったので彼らは一斉に遠藤の顔を見た。
    「腹減ってるだろうから、鍋くらい作ってやりたかったんだけど、ほんと、全然料理できないんだよ」
     遠藤は申し訳ないのと恥ずかしいのとで少し顔を赤らめていた。
     計算外の状況に戸惑って立ち尽くす3人を、遠藤は促して座らせた。そして冷蔵庫を開け、
    「小野くんはコーラな」
    と言いながら、缶ビールとコーラを冷蔵庫から出し始めた。
    「買いに行ったの?」
     コマチはコーラを受け取りながら訊いた。
    「うん、散歩に行ったついでに。明日にでも出勤したいから……。あ、ピザでもとる?」
    「いや、いいっす」
     オザが困惑した顔で言った。
     遠藤は不思議に思い、「腹減ってないの?」と訊いた。
     ボーダーは3人の傍に立つ遠藤に、ぐいとコンビニの袋を差し出した。
     遠藤はその中身を見て呆れたが、反応が見たいんだろうなと考え、とりあえず笑顔でありがとうと言った。
    「受け取ったよー」
     オザが小声で呟いた。
    「エロ本なんですけどー」
    「意外だな」
     ボーダーもボソリと言った。

     コマチはなんとなく遠藤を見つめていた。
     その強い視線を感じた遠藤は、戸惑って顔を強張らせた。
    「なんだよ、なんでそんなまじまじ見る?」
    「いや、遠藤さんの私服姿って初めて見るから」
    「ああ」
     コマチはまだじっと見つめている。遠藤は気にしないように横を向いたが、それでもまだコマチに見られているのがわかった。
    「遠藤さんて、オレたちとトシあんまり変わんないように見えますよね」
    「そうか」
    「それに仕事ん時のカオとは違うし、なんか新鮮だな。マスク取って、マスク」
     コマチが遠藤のマスクに手を伸ばしたので、遠藤は逃げるように腰を浮かした。
    「昨日までぼろぼろだったから、今日はまともに見えるっていうだけだろ?」
    「いやー」
     遠藤とコマチとのやり取りに、オザとボーダーも自然と遠藤の様子を観察し始めた。
    「身長、175くらいですかね」
    「……そうだけど」
    「近くで見ると、肌キレイですよね」
    「最近は無理に灼いてないだけ……」
     結局、オザが遠藤の隣に移動し、無理やり彼のマスクを外した。
    「へえ」
    「ほお」
    「なるほどお」
    「おい、ちょっと待て!!」
     遠藤はたまらず声を上げた。
    「なんなんだよ、気持ち悪いな!」
    「今まで女目線で遠藤さん見たことなかったから、こうして近くで見ると、色っぽいなーって思って」
     コマチは言った。
    「い、色っぽい??」
     遠藤は眉をひそめた。
    「遠藤さんて、今まで何人と付き合ったの?」
    「少ないよ」
    「少ないって、50人くらい?」
     オザが茶化すように言った。
     遠藤は笑ってごまかそうとしたが、ボーダーとコマチがコソコソと話し出したので、ヘンな想像をされても困ると思い、
    「3人だよ、な、少ないだろ?」
    と、白状した。
    「26歳で3人は確かに少ないな」
     コマチは不思議そうに首を傾げていたが、思い当たったように言った。
    「じゃあ、告られた数は?」
    「え……?」
     遠藤は一瞬思い出そうとしたが、すぐに諦めた。
    「5人くらいじゃないかな」
    「それ、完全にウソ」
     コマチが両手でバツを作った。
    「正直に答えてください。あなた、モテますよね?」
     コマチの声に、ほかの2人もジロリと強い視線を遠藤に投げかける。
    「いや、そんなことは……。普通だよ、フツー。あ、なんか熱出て来たかも。寝ようかな」
     3人は静まり、またじっと遠藤を見ている。
     遠藤は再びマスクをして俯いた。
     ……いいから、もう、早く帰れよ! と心で叫んでいた。

     遠藤は耐えられず立ち上がり、3人に背を向けてペットボトルのお茶を飲んでいた。その時、棚の上に置いていた彼の携帯電話が光を放った。
     画面には番号が表示されていた。携帯電話からだ。誰だろうと一瞬ためらったが電話に出ることにした。
    「はい」
    『もしもし、遠藤さんですか?』
     女性の声だった。
    「はい」
    『あの、今から行ってもいいですか?』
    「はい!?」
     遠藤は驚きのあまりペットボトルを落としそうになった。
    「ど、どなたですか?」
    『……登録してくれてないんですか?』
     遠藤は意味が分からず一瞬黙った。しかし、なんとなく聞き覚えのある声だった。
    「すみませんが、お名前をお願いします」
     遠藤が少し大きな声を出したので、男子3人も困惑した表情の彼に気付いて話をやめた。彼らがそのままじっと見つめていても気づかないくらい、遠藤は電話に集中している。
     電話の相手は何も言わなかった。
    「あの、聞こえてる?」
     遠藤はイタズラ電話なのか、と思いながら訊くと、ようやく相手が答えた。
    『古川です』
     電話の相手は小さな声でそう言った。

    #10 貴奈子の決心

    「フルカワ……え? 古川さん?」
     遠藤は、相手の名前を聞いてやっと彼女の言葉の意味に思い当たり、声の調子を和らげた。
    「ああ、登録って、そういうことか。……ごめん」
     遠藤は貴奈子の番号を電話帳に登録していなかった。部署も違うし、する必要はないと思っていたが、なによりすっかり忘れていた、というのが一番の理由だ。
     遠藤が言葉を探して視線をさまよわせていると、3人組が彼を凝視していることに気付いた。その視線がまた驚くほど強い。
     オザとコマチが口を開いた。
    「遠藤さん、今、古川って言った?」
    「キナコですか?」
     遠藤は黙ってウンウンと頷いて見せた。その時、遠藤の耳元で貴奈子が再び言った。
    『今から行ってもいいですか?』
    「え、あー……いいけど……」
     遠藤は何やら異様な殺気を漂わせている3人を見ながら、「今、小沢くんとか……いつもの3人が来てるんだ」と伝えた。
    『やっぱり、いるんだ』
     貴奈子は何か考えている風だった。
     遠藤は3人の男子たちが互いに目くばせしていることには気付かず、その苦い表情だけが気になっていた。

     一応、彼らにも訊いてみるべきかなと思い、声を掛けた。
    「古川さんが来てくれるって言ってるけどいいよな?」
     確認されて、3人は渋々うなずいた。それを見てから遠藤は再び貴奈子に訊いた。
    「古川さん、今どこ?。迎えに行かなくても来れる?」
    『大丈夫です。でも、ちょっと道を間違えたかも』
    「あー、じゃあ、今いる場所は?」
    『はい。でも迎えはいいです。道順だけ教えてください』
     特徴のある、呼吸を呑み込むような幼い話し方は憎めず、遠藤は苦笑した。
    <だ、か、ら、どこにいるのか言ってくれないと道順の説明もできないんだよな>
     心ではそう言い返してみるものの、貴奈子の無垢で大きな瞳を思い出すと、そんな言葉も消える。
    「えーと。……で、どこにいるの?」


     貴奈子が来ると聞いて3人は全員「迎えに行く」と言い出した。
    「仲いいんだな」
    と、遠藤はあきれ顔になっていた。
    「だって、あいつハタチとは思えないくらいガキだし、バカだし、イミフだし。世話焼かなきゃどうしようもないっていうだけっすよ」
     オザが語気を強めて言うので、遠藤は「何もそこまで言わなくても」となだめる方に回った。
    「3人で行くのもなんだし、遠藤さんが寂しいだろうから一人でいいだろ」
     ボーダーがオザに言う。
    「じゃ、オレ行ってくるわ」
     オザはさっとジャケットに袖を通して、あっという間に部屋から出て行った。

     当然ながら、彼には貴奈子に忠告する役目があった。

     オザが貴奈子を見つけた時、あからさまにがっかりした顔をされた。
    「オザだったら来なくていいのに」
    「病人の遠藤さんに来てほしかったのかよ。迎えいらないって言ったのおまえだろーが」
    「一応ね、そうは言うけどさ」
     ふふふ、と笑う貴奈子を見てオザは暗い気持ちになった。
     二人は遠藤のマンションへの道を歩きだした。貴奈子は意外と近くから電話してきたので、短い時間で彼女に伝えるべきことを伝えておかねばならない。
     貴奈子の前を歩きながら、オザは低い声で言った。
    「あのな、遠藤さんのことなんだけどな」
    「うん」
    「会いに来たってことは、おまえ、諦めないつもりなのか?」
    「え? 今さらな言い方だね。応援してくれるんじゃなかったっけ」
     至極真っ当な反応だった。
     誰も“絶対諦めるな!”とは一言も言ってない。しかし、頑張るつもりなら全員で応援するぞ的なニュアンスを十分伝えていた。さすがの貴奈子もそれは感じ取っていたのだ。
    「応援はするけど……別に付き合わなくてもよくね? ……ほら、仕事仲間とか、知人、友人……」
    「ん? それなら応援なくてもなれるけど」
     それも当然の反応だった。
    「だって、遠藤さん彼女いるわけだろ」
    「うん」
    「あの人実は、そうは見えねえけど、モテんじゃねーかと」
    「モテるよ。トーゼンだよ」
    「え、そ、そうか。やっぱり女子から見ると、そーなのか」
    「すっごいイケメンとかじゃないけど平均点が高いんだよね。見た目も性格も能力も、どこ見ても悪いトコが無いから」
     貴奈子は淡々と言葉を返す。
    「じゃあ、おまえ……そんなライバル多そうな男を勝ち取る自信あんのかよ」
     オザは貴奈子の言葉を恐る恐る待った。もしかしたら、万が一にも考え直してくれるかもしれない。その僅かな可能性に賭けた。

     貴奈子はふうと溜息をついた後、きっぱりと言った。
    「ヨメになる」
    「はあ!?」
     オザは驚いて振り返った。
     貴奈子は不自然なほどに落ち着いていた。
    「遠藤さんと結婚するんだよ。今は遠藤さんに彼女がいても構わない。邪魔もしない。でもいつかきっと遠藤さんに気付いてもらう。私が一番遠藤さんの事を好きなんだよって」
     オザは眉をひそめた。
    「なんかその考え怖くない? ストーカーの臭いしかしねえけど」
    「うるさい! 迷惑はかけない! だいたい片想いなんて、考えてることはストーカーとおんなじなの。要は相手に迷惑かけなきゃいいんだよっ」
    「マジでかあ……」
     オザは完全に立ち止まった。オレたちはそれを応援してもいいんだろうか、という疑問が脳裏をよぎる。
    「なによ、『いつか結婚する』っていうフレーズがそんなに悪い? じゃあ、遠藤さんが独りになるまで待つって言ったらいいの?」
    「いやいや、そっちの方が言い回し的には執念深そうで怖いわ」

     貴奈子はふうんと言って、視線を落とした。
    「オザは、私には1%も可能性が無いって言いたいの?」
    「そうは言ってないけど……」
     オザは貴奈子の寂しそうな表情を見て戸惑った。
     貴奈子は静かに呟いた。
    「好きなら、その人の傍にいられる日を期待するもんでしょ。たとえ1%の可能性でも、さ」
     圧倒的な正論に、オザは黙り込むしかなかった。
     どうやら貴奈子は、3人が煽ったせいで決心してしまったようだ。しかも今の段階では『いつか東大合格!』ばりに無謀な決心だ。恋人がいる男を相手に、プロポーズしてもらうまでひたすら待つなんて。

     オザは溜息をついてうなだれた。
     面白いからと煽った自分たちが、このまま彼女を放置するのは無責任だと思えたからだ。

    #11 長さに負けないために

     数分後、オザが貴奈子を連れて、遠藤の部屋のドアを開けると「いらっしゃい」と遠藤が笑顔で二人を迎えた。その笑顔を見るなり、貴奈子の表情は崩れ、もう隠しようがないほどの照れと喜びが溢れてしまっていた。
     彼女の危機感の無い様子を見てとったボーダーとコマチが苦い顔をしてオザを睨む。オザはすぐに2人の傍に寄って、弁解を始めていた。

     何が起こっているのか、遠藤にはさっぱりわからなかった。
     男子3人の様子に気を取られていた彼の傍で、貴奈子が口を開いた。
    「いつ店に戻ってこれるんですか?」
     遠藤は思い出したように声のする方を振り返った。
    「うん、今日医者に行ったら肺の方はキレイになってるって言われてね。あ、そういえば捻挫してたとこも腫れがひいて治ったな……」
     手首を見ながら話していると、貴奈子は居たたまれないという表情で俯いた。
    「あ、あの、それ、ごめんなさい……」
    「ん? いや、これは、古川さんのせいじゃないんだよ」
    「え?」
     戸惑う貴奈子に、遠藤は笑いながら説明した。
    「あの日、もう結構熱があったんだ。普通の風邪だと思ってたから薬飲んで仕事してたんだけど、ずっとフラフラしてて。だから、脚立の上でバランス崩した。で、棚に手をついても握力なくて、しっかりつかまっていられなかったんだ。棚につかまってるのに落下するってよっぽどだよ。マジで恥ずかしかった」
     それを聴いて貴奈子はほんの少し救われたような笑顔を見せた。

     しかし、続く遠藤の言葉に、貴奈子は再び表情を凍らせることになる。
    「でさ、それでいうと、その前日に台車で飛ばされた時も俺が悪いんだ。もう頭痛が酷くてボケッとしてたから、古川さんの猛突進を止められなくてさー」
     遠藤は貴奈子の傷口に塩を塗っていることにも気付かずに指折り数えだした。
    「27、28、29、1、2で今日が3日だから、結構長引いてるよね。熱が引かなかった時点で医者に行ってればよかったな。とりあえず、明日は出社するから」
     そうですか、と貴奈子は顔をひきつらせた。

     そんな貴奈子の様子に気付くことなく、遠藤は顔を寄せ合って何やら熱心に相談している男子たちを見ていた。
    「あの3人に風邪をうつさないか冷や冷やしてたけど、大丈夫みたいだな。あいつらいつも一緒にいるから、1人風邪ひいたら、みんな風邪ひくんだろうな……」
     貴奈子が「オザたち、ずっと来てるんですか? いつからですか?」と眉間に皺を寄せた。
    「今日で3日目。見かけによらず優しいよね」
     遠藤はふと、近くの棚に置いていた新しいマスクを手に取った。
    「古川さんマスクした方がいいよ。ここはウィルスだらけだと思うし」
    「ううん、大丈夫です」
     貴奈子はなぜか嬉しそうに遠藤を見上げていた。

    「あのぉ」
     貴奈子がふふっと笑う。
    「遠藤さん彼女いるんですよね」
     その問いに、部屋の奥の3人が敏感に反応した。必然的に押し黙り、彼らは貴奈子をじっと見つめる。
    「……うん。聞いたの?」
     遠藤は意外な質問に戸惑っていた。
    「はい。やっぱり彼女さんは毎日お見舞いに来てるんですか?」
     貴奈子は無邪気な様子で訊いてくる。
    「いや、来ないよ」
     その答えに、貴奈子は目を見開いて飛びつかんばかりに訊き返す。
    「なんでですか?」
    「え?」
    「なんで来ないんですか? 彼女だったら看病に来ませんか?」
    「あー、そうかな……」
     遠藤は苦笑いした。
     あまり込み入った説明はしたくない。
    「もう5年付き合ってるし、そういう義務的な感じは無いから」


     3人はその遠藤の言葉に、いち早く反応した。
     ボソボソと声をひそめて話した。
    「5年だってよ。だから、遠藤さん3人しか付き合ってねーんだよ」
    「一人一人が長いってことか」
    「26歳で5年ということは、付き合い始めたのは21。で、ほかの2人は3年くらいずつ付き合っていたと仮定すると、その前は18、そしてさらにその前は15……」
    「まあ遠藤さんの性格なら、わからないでもないな」
     3人は顔を見合わせた。
    「女子のペースに流されてそうだもんな」

     彼らがヒソヒソ話し合っている時、貴奈子はというと、5年という数字に愕然としていた。
     彼女は何も言えず、寂しそうに視線を落とした。


    (3月4日 金曜日 午後4時半)

     翌日、遠藤がマスク姿で出社しているのを、男子バイト3人組はしっかりと確認した。そして、休憩室で貴奈子の出勤を待っていた。
     しばらくして「おはよーございまーす」という軽い口調で、貴奈子が休憩室に入って来た。
     彼女のその明るい態度が、昨日の衝撃に負けないという意志の表れなのか、それとも何も考えていないのか3人にはわからない。しかして若干イラッとする。

    「あれ……? 早いね。30分も前なのに」
     貴奈子は3人の前を素通りし自分のロッカーへ直行した。テーブルにやって来た時、ようやく重い空気が漂っていることに気付いた。
    「どーしたの?」
     貴奈子が言うと、3人はようやく口を開いた。
    「まあ、座ろうや」
     オザがバンバンと椅子の座面を叩いた。貴奈子は仕方なく、黙ってオザの隣に座った。また、何か怒られるのかと警戒しつつ。
    「では」
     ボーダーが低い声で言った。
    「緊急作戦会議だ」

     貴奈子は「んん?」と首を傾げた。
     それには構わずにボーダーは続ける。
    「議長はオレ、書記はコマチ。じゃ、まず現状確認からいこうか」
     コマチが紙とペンを出して、皆の顔を伺っている。

    「わかってるのは」
     ボーダーが口を開いた。
    「遠藤さんには彼女がいること」
    「え、ちょっと待って」
     貴奈子が慌てて手を伸ばして、皆を止めようとした。
     しかし、コマチはボーダーの言ったことを几帳面に書き綴っている。
    「そして、その彼女とは5年付き合っている」
     オザが言う。
    「な、なにこれ……ちょっと! 大きな声でやめようよ!」
     貴奈子が困惑していると、3人にじろりと睨まれた。
     議長ボーダーが言う。
    「オレたちは応援すると言っただろう」
     貴奈子は唖然としてボーダーの顔を、そしてオザとコマチの顔を見た。
    「そうだ。決めたんだ」
     オザがビシリと言った。
     ペンを走らせつつ、コマチが、
    「まぁ、応援するって言った限りは、責任とってキナコの願いをかなえたいわけよ」
    と説明する。
    「オレら3人が全力でサポートする」
     ボーダーに強く言われ、貴奈子は面食らった様子で「……あ、ありがとう」と言った。

     そうして、会議は粛々と続いたのだった。

    #12 それは一体誰のこと

     貴奈子の前で男子アルバイト3人は神妙な顔のまま、活発な意見を出し合っていた。
    「遠藤さんと彼女との関係は自然体に移行しており、最高潮~な時期は過ぎている」
     コマチが自分で言って、そのまま書いている。
    「そうなの? 自然体かもしれないけど、ラブじゃないとは言い切れなくない?」
     貴奈子が訊くと、コマチは取り合わないという感じで顔も上げずに、
    「5年も付き合ってラブなわけない」
    と言い切った。
    「そういうものか? 個人差あると思うが」
    「オレは5年も付き合ったことねーし、わかんねー」
    「いや」
     2人の反論に、コマチは鋭く目を光らせて言う。
    「遠藤さんの、彼女のことを語る目を見ればわかる」
     ……そうなのか、と2人はよくわからないまま頷いた。
     そして今度はボーダーが口を開いた。
    「今のところ、遠藤さんには結婚の意志がない」
     重要な一項の追加に、コマチはウンウンと頷いていた。
    「そう、今のところな」
     オザが強調するように言った。
    「遠藤さんは意外にモテるし」
    「告られ慣れていて、恋愛に対してガツガツ感が無い」
     ボーダーが言って、コマチに筆記するよう促した。

     貴奈子は、皆の目つきを見てその熱の入り方に若干ひいていた。
    「ふざけてるワケじゃないんだね」
     皆を伺いながら彼女が言うと、ボーダーが厳かな声で言い放った。
    「今回ばかりは真剣勝負だ。絶対勝ちに行く」
    「ふーん。張り切ってるなー」
     貴奈子はそう他人事のように言った。


    (同日 午後7時頃)

     片岡佑輔は商品返品のためタブレットを持って在庫置場にやって来た。そこで台車を押す貴奈子を見かけ、思わず声をかけた。
    「キナコ、ぶつけんなよ。それワレモノだからな」
    「はーい」
     間延びした返事が、片岡の不安を煽った。
    「ほんっとに、気を付けてくれよ? 壊したら弁償だぞ」
    「はーい」
     答えた矢先に貴奈子は台車を壁にコツンとぶつけた。
    「ほらあー!」
     片岡は飛んできて彼女から台車を奪うと、自分で所定の位置まで押していった。貴奈子は後からついてきた。イライラするのだが、貴奈子がすまなそうに下から見上げるので、彼は怒るに怒れなかった。
    「なんでおまえ、ここの店選んだの?」
     片岡は本当に知りたかった。
    「向いてないよ、絶対向いてない。接客もできないし、台車コントロールする力もないんだから」
    「じゃあ片岡さん、私に向いてる仕事、教えてください」
     悪びれもせず言う貴奈子に、片岡はうんざりした。
    「んなこと、自分で考えろ」
     そう言うと、さすがに傷ついたのか貴奈子は背を向けて戻っていった。

     ちょっと言い過ぎたかなと思った片岡は、貴奈子の後について行き、その背中に声をかけた。
    「ほら、おまえ……なんていうか、正直で不器用だから人に何か買わせるような仕事は向いてないと思うし、あと事務仕事は正確さが必要だから向いてないし、幼稚園みたいな子どもと一緒だといいかもしれないけどそれも結構神経使うらしいし……介護も……」
    「向いてないことばっかりってコトですか」
     貴奈子は振り向いて唇を尖らせた。
    「消去法だから。ちょっと待て。今考える」

    「主婦とかどうだと思います?」
     彼女は片岡にくりっとした目を向けて訊いた。

     その表情を例えるなら仔猫だな、と片岡は思った。結構可愛いと思うし、エプロンつけてニコニコして旦那を待つっていうのは、この子に向いている。
    「いい。それいいよ。早々に就職して来い」
    「だって、相手いないし」
     貴奈子は視線を横にそらし、寂しそうな顔をした。そしてそのまま片岡を見ずに言った。
    「片岡さんて、彼女いるんですか?」
    「へ?」

     何を突然訊いてくるんだ。
     片岡は面食らって一瞬のうちにいろんなことが頭によぎった。

     ちょっと待て、この流れでいうとコイツ、オレに告白しようとしてるんじゃないだろうな。もしオレに彼女がいないと知ったら、キナコのことだから、
    『私、片岡さんと付き合ってあげてもいいですよ』
    なんて、上から目線で言ったりするんじゃないか?

     片岡はかあーっと顔から首から頭の表皮まで赤らめた。
     恥ずかしさと戸惑いとまんざらでもない感で、どう答えるべきかわからなくなった。
     可愛いのは可愛いと思うし、スタイルもまあまあ。失敗ばかりするところが放っておけない気がする。でも、27のオレがまだハタチの子と結婚するなんて。親はどんな顔をする? ただキナコは大抵の人に好かれるヤツだから、結構親ともうまくやっていけるかもしれないぞ。いや待て、その前に、現職社員が現職バイトと付き合って大丈夫か? 社の雰囲気がどうとか、店長に言われたりしないか?

    「片岡さん」
     声をかけられ、片岡はハッとして視線を貴奈子に戻した。俯いてまで神経に考えていた自分に驚く。
    「彼女いるんでしょ? 片岡さんイケメンだし」
    「え、イケメン?」
    「うん。ウチの店ならコマチの次にカッコいいと思います」
    「そ、そう?」
     片岡はさらに顔を赤くした。もう黒いに近い。
    「ふふ。片岡さん、顔赤くして。かわいーな」

     いや、そういうキナコの方がよっぽど可愛いんだけど。いやいやいや、これは罠じゃないか、ドッキリだろ。からかって面白がってんじゃないのか。でも、もしマジで言ってたら……。

     片岡が必死になればなるほど、表情や言葉に不自然さがにじみ出た。
    「お、おまえはどんなタイプが好きなんだよ」
    「んー。優しくて、仕事ができて、カッコよくて、癒し系で……」
     片岡は、全部自分に当てはまるじゃないか、と脳と心臓にパニックを起こしかけていた。
    「そ、そんな男、な、なか……なかいないだろー……ははは」
    「そうかなぁ。すぐそばにいるような気がする。その人のお嫁さんになりたいんだー」

     片岡はギョッとした。
     貴奈子はまたふふっと笑って、彼に背を向けて仕事に戻っていった。
     もうこうなると、沸点に達した片岡に、彼女を追いかける術はなかった。

    #13 結婚観の相違

     貴奈子は片岡から遠藤の情報を聞こうと思っていたのだが、どう切り出していいのかわからなかった。
     遠藤さんの彼女のこと知ってますか。
     本当は訊きたかったけれど、そんな風に訊いたら遠藤の耳に入ってしまうと思われた。
     貴奈子は仕事もせず台車に座り、うーんと考え込んだ。


     片岡はその様子を遠くから見ていたが、叱ることができなかった。
     心臓が大きな音を立てている。これは恥ずかしい。恥ずかしすぎる。誰にも言えない。でも、遠藤なら。あいつならキナコとも仲がいいし、口も堅いし、相談しやすい。よし、今日は遠藤を飲みに誘おう。あ、病み上がりか。
     片岡はブツブツ言いながら、遠藤のいる事務所に戻っていった。


     遠藤がパソコンのファイルを開き、店が発行しているカードの顧客名簿をチェックしている時だった。倉庫から戻ってきた片岡が隣の椅子にドカッと座るとデスクに突っ伏した。
     店長は店に出ていて、事務所は二人きりだ。事務員も定時で帰っていった。
    「おい、片岡」
    「……」
    「どうかしたのか?」
     訊かれて片岡は顔を上げないまま言った。
    「おまえ、職場恋愛ってどう思う?」
    「え……」
     突然切り出され、遠藤の仕事脳は急停止した。
     片岡がむっくりと起き上がり、赤く上気した顔と真剣なまなざしで遠藤を見つめるではないか。
     一般的な世間話をしている様子ではないとすぐにわかった。
    「……毎日会ってるから好きになるんだろう。よくあるパターンだと思うよ」
     そう言うと片岡はぐっと黙り込んだ。

     遠藤は体を起こすと、パソコンを放置して片岡へと向き直り、相手が何か言う気になるのを待っていた。
     すると、片岡がようやく口を開いた。
    「オレ、結婚するかもしれない」
    「!!結婚……?」
     急な話に呆然として片岡の顔を見た。
    「オレが今まで相手の気持ちに気付いてやれなくて、かわいそうだったなと思うんだ……。今思い返せば意味深な態度もあったような……あああ」
    「相手、誰なんだよ、教えてくれよ」
     少し戸惑いつつも片岡をつついた。
     片岡はまた真っ赤になって、椅子に座ったまま床に手がつくくらい体を折り曲げた。もう照れるという域を通り越して、悶えているという感じだ。
    「笑わないか」
    「笑わないよ。笑うわけないだろ」
     片岡は姿勢を元に戻し、真顔で遠藤を見つめた。
    「キナコ」

    「キナコ……」
     遠藤はオウム返しで呟いて、数秒してから「ええ!」と驚いた。
    「相手って古川さん?……おまえ……おまえと古川さん??」
    「いや、オレはね! そりゃ、ウチのバイトだし、今日までっていうかさっきまでそんな目で見てなかったよ。でも、キナコの方は違ったのかな……。いつからだったのかなあ~……」
     遠藤は言葉を失くし、目を丸くして片岡を見つめた。

     何か夢でも見ているように、片岡は呟く。
    「あいつ、よく見ると可愛いよな」
    「う……うん。可愛いと思う……けど」
    「結婚してお嫁さんになりたい……って言われちゃって。いや、オレもさ、可愛い嫁が早く欲しいしさー。職場結婚とかアリかなあーって考えちゃってさ。遠藤、どう思う?」
     片岡が小声で言うのを、遠藤はずっと凝視したまま、顔だけ横に振った。
    「でも……いや……えっと、なんて言っていいか……」

     遠藤は古川貴奈子の顔を思い浮かべた。
     いつも可愛い笑顔を見せてくれていた。でもそれはみんなに平等な笑顔だと思っていた。片岡にだけ特別な感情で接していたのか? 彼女は確かデートしてる相手がいたはずなのに、片岡はそれを知ってるのか?

     遠藤は複雑な表情を浮かべた。
    「……結婚まで考えるの……まだ早いんじゃ」
    「そうだよな。オレもそう思うけど、キナコがなー」
     片岡は照れながら言った。

     結婚したいって言われてるのか……。

     遠藤は視線を落として、片岡の笑顔を見ないように言った。
    「……ちゃんと付き合ってみればいいんじゃないか? 結婚前提なら店長も文句は言わないと思うし……」
    「ああ。ありがとう。そう言ってくれると思ったんだー」
     片岡の安堵の溜息が聞こえた。

     本当の話なら応援しなければと思った。恋愛下手な片岡がせっかく見つけた希望の芽なんだから。そうわかってはいるが、遠藤には割り切れないものがあった。
     結婚か。


    「よーし」
     片岡は立ち上がり、力強い足取りで事務所を出て行った。
     遠藤はその姿を黙って見送った。片岡のたまらなく嬉しそうな顔が目に焼きついて離れない。
     腹の底から出る溜息は、不快感そのものだ。
     片岡を憎んでいるわけでも、軽蔑するわけでもない。
     ただ、どうしても矯正できない、自分の中の歪みが苦しかったのだ。


     高校の時に親が離婚した。そんなことはよくある話だ。
     原因は父の借金だった。それまで父には可愛がってもらったし、父が大好きだったのに。
     父は夜中まで家に寄り付かなかった。そして、帰ってきたらケンカが始まる。毎晩、朝方まで。中学の時はもう、お願いだから家に帰って来ないでくれと思った。
     でも両親が離婚しても安堵するような生活はやってこなかった。母と一緒に暮らすようになった彼は、母の苦労を目の前で見て来た。だからすぐに新しい父ができても反対はしなかった。
     ただ、痛感したのだ。結婚とは愛情ではなくて経済的な契約でしかないと。
     破たんしたのも金の事情で、再婚するのも金の事情。
     それなら最初から結婚なんてしなければいい。社会への体裁以外でしか、家庭を持つ意味なんてないんだから。

     加南子も。
     ずっと俺が結婚を決意するのを待っているみたいだ。イライラしている様子が伝わってくる。
     彼女に会うのが億劫だ。結婚したいと思うなら俺以外の男と付き合ってほしい。
     そうだよ、俺の考えの方が間違ってるよ。でもどうしても前向きには考えられないんだ。片岡や加南子の気持ちに共感することができない。
     大人になってから自分の価値観を変える事は難しい。
     大きな影響を受けるような何かにめぐり合わなければ。

    #14 大きな誤解

     在庫置場に戻った片岡は、自然と貴奈子の姿を探した。
     彼女は棚の方に向かって携帯電話を触っていた。こちらに背中を向けている。
     片岡は声をかけようか迷いながら近づいた。何か適当な話題、仕事の話はないものかと考えながら近くまで来た。口を開け、声をかけようとしたその時、彼女が見つめる携帯電話の大きな画面に目が行った。
     黒い文字がはっきりと見て取れる。
     遠藤陽己。
     そしてその下に携帯電話の番号。
     彼女はその携帯電話をギュッと抱きしめてから、パッと振り返った。そこに片岡を見つけて、声も出ないほど驚いていた。そしてすぐに顔を真っ赤に染めた。
    「遠藤に用事か?」
     片岡は気まずさを感じたが、見てしまったものを見ていないふりができなかった。
     彼女は慌てて携帯電話を後ろ手に隠した。
    「呼んできてやろうか? 今、事務所に……」
    「い、いいです、いいですから、あの、……言わないでください」
     貴奈子は懇願するような目で片岡を見つめた。
    「なんで? 知られたくない……のか?」
    「はい……」

     遠藤と電話のやり取りがあることを人に知られたくないって、どうしてだ。
     なんで、そういう切ない表情をするんだ。
     今まで笑った顔と驚いた顔と落ち込んだ顔くらいしか見たことが無いのに。
     貴奈子の態度は余裕がなく、怯えてさえいるようだ。
     片岡はできるだけ平静を装って、
    「わかった。黙っててやる」
    と言った。そう言った後の彼女の反応を知りたかった。
    「すみません。お願いします。片岡さんのこと、信じてますから」
     貴奈子は逃げるように片岡の傍をすり抜けた。
     後ろめたさに凍った表情が示していた。
     多分、貴奈子は遠藤と……。

     片岡はしばらくその場で立ち尽くしていたが、脱力し大きな溜息をついた。
    「そーか、そーなのか」
     片岡は頭を掻きながら、
    「ま、いーや」
    と呟いて仕事を始めた。


     貴奈子は焦っていた。多分片岡に知られてしまった。彼女が遠藤を好きだということを。
     別に遠藤に気持ちを知られても構わないけれど、というよりわかって欲しいくらいだけれど、片岡から伝えられるのは嫌だった。
     どんな風に伝わるかわからない。そして、片岡から聞かされることで、遠藤が不快に思うかもしれない。もし事務所で大きな声でバラされたりしたら、確実に遠藤に迷惑がかかる。
     どうか黙っていてほしい。私の口から伝えたい。
     貴奈子はそれだけを願っていた。


    (同日 午後9時頃)

     遠藤は事務所の時計を見た。店長から、今日は残業せずに9時で帰れと言われていた。
     晩飯をどうしようか迷っていた。自炊したことが無いため、もし食べるなら自宅のマンションとは反対方向の駅前の店に行かねばならない。やめておこうか。体の調子は良かったが、加南子のことや片岡の結婚のことを考えたせいで、食欲がなくなってしまった。
     その時トントンと事務所のドアがノックされ、「お疲れさまでーす」とアルバイトたちが入って来た。閉店時間だった。事務所にあるタイムカードを押して、休憩室へと急ぐ。この時間、しばらくドアは開けっぱなしだ。
     片岡もバイトたちに混じって帰って来た。
    「お疲れ」
     遠藤が声をかけると、「ああ」と片岡は笑ってから視線を逸らした。
     さっきとは打って変わって元気が無い。

    「さっき、野口からメール来たんだけど」
     遠藤は少し迷いながらそう言った。野口とは遠藤の高校の後輩で、以前片岡に紹介した子だ。
     その言葉に片岡は、バッと遠藤に向き直った。
    「なんて言ってきた?」
    「なんかおまえのことが知りたいみたいで……何が好きで、どんな所で遊ぶのかとか、訊かれた」
    「おー! これってもしかしていい展開なんじゃねぇのー!」
     片岡は急に明るい声で嬉しそうに言った。
    「え」
     遠藤は困惑気味に片岡を見つめた。
    「そうだな、オレは食べるものなら寿司が好きで、酒は日本酒党。趣味は書道と映画鑑賞、美術館巡りも好きだし、休みの日は海や山に写真撮りに行くかなー」
    「ああ……伝えとく」
     片岡のハイテンションぶりにしばらく黙っていた遠藤だったが、とうとう「古川さんはどうなったの」と尋ねた。

    「え、ああ、キナコね。結婚したいみたいだよー?」
    「それはさっきおまえの口から聞いたけど」
     不審そうな顔をしていると、片岡が遠藤の肩をポンポンと叩いた。
    「やっぱりキナコ、いい子だよな。一途だと思うわ」
    「?……そうだね」
     彼は片岡がノロケているとしか受け取れなかった。
     でも、それならどうして野口とも付き合おうとするんだろう。古川さんのことはどうするんだ。

    「さっき遠藤が複雑な顔してた意味がわかったわ。気を悪くしないでくれよな、俺の勘違いだし、邪魔する気はないし、俺は誰にも言わないから」
     片岡はよくわからないことを口走って笑った。

     その時誰かが事務所に入って来た。
     タイムカードを押しに来た古川貴奈子だった。彼女は遠藤と片岡に対して、緊張気味に微笑むと打刻して部屋を出て行った。
     片岡が、急に遠藤の背中をバシッと叩く。
    「がんばれよー」
    「な、なんだよ?」
     遠藤はただ呆然として、鼻歌混じりで残務処理をする片岡を見つめるだけだった。

    #15 飲めない二人

     遠藤が仕事を切り上げて事務所を出たのは、9時15分ごろだった。
     マスクを外して冷たい空気を思い切り吸うと、開放感でなんとなく食欲が戻ったような気がする。
     駅に向かうまっすぐな道を歩いていると、車道を隔てて向こう側に飲食店がポツポツと見えて来た。

     歩き続けて行くと、その飲食店の並ぶ道に3人の男女がいるのに気付いた。車道を横断すれば距離にして10メートルもない、すぐそこだ。
     小柄な女性が飲食店の外壁に顔を向けて倒れかかっており、それを見つめるように二人の男が立っている。なんだか様子がおかしかった。
     遠藤は歩きながら、それとなくその3人の様子を見ていたが、背中を向けている女性の格好に見覚えがあった。
     あのベージュのコートは確か……店に出勤してくる時や帰り際に見たことがある。栗色の長くてやわらかそうな髪。もしかすると彼女じゃないのか?

    「古川さん?」

     遠藤はさっと道路を渡り、男2人を押しのけるようにして一歩踏み込み貴奈子の肩を掴んだ。彼女は少しだけ顔を動かし青ざめた顔で遠藤を見たものの、そのままその場にしゃがみ込んでしまった。
     すぐに後ろを振り返った。そこにいた男たちは、彼の責めるような視線を受けて困った顔で言った。
    「通りかかったら、何か苦しそうにしてたから……」
     大学生くらいだろうか。態度も表情も暴力的な要素の無い、ごく普通の男子たちだった。彼らが貴奈子に危害を加えたわけではなさそうだった。
    「あのー、救急車とか呼んだ方がいいですか?」
    「……いや、ありがとう。知り合いだから、あとは俺が様子みる」
     遠藤は二人に礼を言って、すぐ貴奈子を振り返った。
    「古川さん大丈夫?」
    「……あの、遠藤さん」
     呼吸も荒く、貴奈子が声を出した。
    「何?」
    「痛い……」
     遠藤は焦り、蹲る彼女のすぐそばに腰を下ろしてその顔を覗き込んだ。
    「どこが痛い?」
    「おなか」
     遠藤の脳裏に腹痛を起こす病気の名が浮かぶ。腹膜炎か? 盲腸か? 胃潰瘍か? まさか腫瘍系か?
     緊張したが、もし何かの炎症を起こしていたらきっと熱があるはずだと思い、貴奈子の額に手を当てた。
     すると、熱はなかったが、べったりと汗がてのひらについた。
     この寒い中のこの汗はいわゆる脂汗というやつだろう。
    「病院行こう、いま救急車を……」
     そういう遠藤を遮るように、貴奈子が大きく首を横に振った。
    「違います……」
    「違う?」
    「おなか痛い……」
     苦しそうに顔をしかめる貴奈子を見て、遠藤は声を大きくした。
    「だから、病院行かないと」
    「違う……」
     貴奈子が、少し目を開けて、遠藤に顔を近づけた。数センチ先にお互いの顔があるが、今はそのことすら何も感じないくらい遠藤は緊張していたし、貴奈子は苦しんでいた。
    「違うって……」
    「……り……です」
    「え?」
     貴奈子は泣きそうな顔で言った。
    「下痢です。漏れそう!」

     遠藤は言葉が出ないくらい驚いた後、安堵のため息をついた。
     しかし、かと言ってホッとしてばかりはいられなかった。緊急事態なのだ。
    「わかったちょっと待ってて。すぐ戻る」
     貴奈子がいる場所から一番近い店は小さなスナックだった。知らない店だが、遠藤はためらうことなく中に入った。


     貴奈子が小さな個室から出て来たのは、遠藤がビールをコップ2杯ほど飲んだ時だった。
     店のママが快くトイレを貸してくれたので、彼はお礼がわりにビールを頼んだのだ。

     店の中は間接照明で薄暗く、ママのいる場所だけは強いスポットライトで照らされて明るかった。席はカウンターしかない小さな店で、客はいなかった。
     遠藤は、貴奈子が戻って来ると、ようやく安堵した。
    「顔色良くなったなあ」
    「あ、ありがとうございました」
     貴奈子は顔色が良くなったというよりは、赤面して俯いていた。
    「間に合ってよかったわねえー」
     見た目50代以上のママも、そう言って笑った。

     貴奈子はためらうような足取りで、カウンターに座る遠藤の隣のスツールに腰かけた。
     遠藤の脚に、コツンと貴奈子のひざが当たった。狭い店なので仕方無いことだが、遠藤はその短いスカートから見える白いひざにドキリとした。
    「何か飲む?」
     ママに訊かれた貴奈子が困ったように遠藤を見た。

    「酒、飲めるの?」
     遠藤は貴奈子に顔を寄せて小声で尋ねた。
    「いえ、ぜんぜんダメです」
     貴奈子も遠藤を見ながら、小さな声で答えた。

     遠藤はママを見て、
    「まだこの子、未成年なんでウーロン茶でもいいですか? あ、ホットで」
    とお願いした。
    「未成年なら、しょうがないわね」
     ママはそう言って2人の前から離れた。

    「未成年じゃないですー」
     貴奈子が小声で不満そうに言った。
     遠藤は「わかってるよ」と言って彼女のふくれた頬を見て笑った。
     カウンターの端からママが「彼女が飲まない分は、遠藤さんが飲んでねー」と言った。
     遠藤は苦笑した。仕方なくビールをコップに注ぐと瓶が空になった。
     そして、貴奈子の耳元で言った。
    「実は俺も飲めないんだよね」
     貴奈子が驚いて遠藤を見た。
    「そうなんですか?」
     その貴奈子のまんまるの大きな目に、遠藤は息をのんだ。
     しまった。俺は何してんだろう。
     自分の方を向いた貴奈子の瞳孔がはっきり見えるくらい、彼女に近づいていた。自分の肩も脚も貴奈子の体にがっつりと当たっている。それに気付かないほど注意力が衰え、距離感が鈍っている。
     空っぽの胃袋に流し込んだビールが、心臓をハイペースで動かしていた。
     やばい、俺、酔ってる。

    #16 泥酔の思考回路

     その後、遠藤はママに勧められてもう一本ビールを空けた。
     久しぶりに飲んで少しぼうっとなっていたせいか、注がれるままに飲んでしまった。
     やばい、やばい。
     そう思いながら、楽しそうにママと話をしている貴奈子を横目で眺めていた。

     俺が通りかからなかったら、あの男子2人に助けられてたのかな。そうだろうな。可愛いからな。男ならほっとかないよな。俺じゃなくても誰かが助けてくれる。それが片岡かもしれないし、デートしてた男かもしれないし。バイト仲間かもしれないし、通りすがりのヤツかもしれない。
     でも、この子はどう思ってるんだろう。こうして傍にいるヤツが俺でよかったんだろうか。

    「遠藤さん」
     ママに呼ばれて視線を戻した。貴奈子が個室にこもっている間に名前を聞かれ、それからずっと名指しだった。
    「彼女の顔ばっかり見て、やーねえ」
    「えっ」
     遠藤はピッと背筋を伸ばした。
    「そんな目でじっと見てたら、彼女、困っちゃうんじゃないー?」
     ママにニヤニヤと笑われて、遠藤は慌ててビールを注文した。
     ビール3本など、彼には未知の世界だった。


     帰り際「また今度来ますね」と貴奈子が言うと、ママが「絶対よー。遠藤さんと一緒にねー」と色っぽい声で送ってくれた。
     貴奈子と二人になって駅の方に歩き出すと、遠藤は時計を見て溜息をついた。
    「ごめん。もう11時だ……家の人心配してるだろうな」
     貴奈子が家に電話すると言い、二人は道の端で立ち止まった。彼女は電話に出た母に、自分が下痢で帰れなかったことを伝えていた。
    「ごはん?……ああ。そだね、忘れてた。コンビニでなんか買って帰るから大丈夫。……うん、じゃねー」
     電話の後、貴奈子は遠藤の顔を見上げた。
    「遠藤さん……」
     急に呼ばれて貴奈子の顔に焦点が定まった。
    「もしかして、ごはん食べそびれたんじゃ?」
    「いや。大丈夫」
     遠藤は笑ってごまかした。ひどく酔いが回っていてそれどころではなかった。

     確か店を出る前に夜の分の咳止め薬飲んだよな、完全に忘れてた……。
     空きっ腹に、薬とアルコールを満たした自分が、前後不覚にならないのが不思議だった。人と一緒にいるという、その一点だけで精神を支えている気がした。

     コンビニに入ると、貴奈子はカゴにおにぎりとダイエット用のシリアルとオレンジの炭酸飲料を入れていた。
     そのカゴの中身を見て、遠藤は、
    「妙な取り合わせだな。痩せたいのか痩せたくないのかわからない」
    と呟いた。
    「痩せたいんですけど……」
    「そう。……そうだな。もう少し痩せた方がいいかな」
     確か片岡は痩せ気味の子が好きだったなと遠藤はぼんやりと考えていた。
     言われた貴奈子は黙って俯いた。

     遠藤がホットドリンクコーナーのお茶を手に取ると、貴奈子は心配そうな顔をした。
    「遠藤さん、それだけですか?」
    「うん」
     遠藤はすべての会計をすませ、コンビニを出た。
     先に立って駅までの道を歩こうとする遠藤の後ろで、貴奈子が言った。
    「遠藤さん、酔ってます?」
    「うん、すげー酔ってる」
     遠藤は振り返りもせず言った。
    「でも、ちゃんと駅まで送るから」
    「いいです。大丈夫です。遠藤さんのマンション反対方向じゃないですか」
    「そうだよ? でも駅すぐそこだし。それに、古川さんに何かあったら片岡に怒られる」
    「遠藤さん」
     貴奈子は立ち止まった。数歩先を歩いていた遠藤は「ん?」と振り返った。
    「どうしたの?」
    「ありがとうございました。ここで大丈夫です。もう帰ってください」
     遠藤は呆然と貴奈子を見ていたが、ふと、
    「俺なんかとは一緒にいたくないってこと?」
    と訊いた。
    「い、一緒にいたくないわけないじゃないですか」
     遠藤は何度かゆっくり瞬きした。“ない”が多すぎて、結局どういう意味かわからなかった。
    「好きだし。遠藤さんのこと」
     そうか、嫌われてないのか。じゃあ、訊いてもいいのかな。
    「なー。片岡のことなんだけど」
     思考能力はどんどん低下し、思いついたままを口にしていた。
    「片岡さん?」
     貴奈子は怪訝そうな顔をした。
    「さっきから片岡さんがどうとか言ってましたけど。なんのことですか? ケータイの話?」
    「ケータイ? 違うよ、古川さん、片岡と結婚したいんだって?」

    「なん……ですか、それ……」
    「でもさ、最近もデートしてる相手いたよね。古川さんがホントに好きなのは誰? もしかして何マタもかけてんの?」

     遠藤は口が勝手に動いているな、と自分で感じていた。
    「あ、ありえないです! 私が好きなのは遠藤さんだけです!」
    「そこに俺も入るの? だめだろ、そういう八方美人なこと言ってたら」
     からかうなよ、マジで受け取るヤツだっているのに。思わせぶりはよくないなあ。好きなのは片岡だろ? はっきりしろっての。

    「私、遠藤さんのこと、マンションまで送ります!」
    「男みたいだなー」
     遠藤は自分でもろれつが回っていないことに気付いた。
    「こんな遠藤さん、放っておくなんて心配です。帰れません」
    「心配する男が多くて大変だねー」
     くすくす笑う遠藤に、貴奈子は体を震わせて言い返した。
    「片岡さんやアツシのことは誤解です! そんな軽蔑した目で責められる理由ないのにっ!」
     遠藤は意味が分からないという顔をした。
    「あれー? 店休んでデートしてたことも、片岡が結婚に前向きなことも、全部、確かに、俺の耳で聞いたんだけどなー」
     貴奈子は大股で歩いて、遠藤の後ろに回ると、いきなり彼の背中を押し始めた。
    「うわ、何すんだよ」
    「早く帰って寝てください!」
     遠藤は貴奈子に押されて、駅とは反対のマンションの方角に向かって歩き出した。
    「待って、待って、古川さんー」
     コケそうになりながら言ったが、貴奈子はずっと押し続けた。
     遠藤はしばらく諦めたようにされるがままになっていたが、急に、
    「わかった」
    と言って、くるりと振り返り、貴奈子の目の前に立った。
    「俺が帰れば納得するんだよな」
     なぜか、ハッキリした声が出た。
    「じゃあ、帰る。古川さんもちゃんと気を付けて帰ってくれよ」
     遠藤はまた貴奈子に背を向けて、歩き出した。今度はまっすぐ自分のマンションに向かっていた。
     後ろにいる貴奈子を振り返ることもしなかった。

    #17 背けたのは心

     遠藤は自室に帰ってくると、床に倒れるように横たわった。頭が重かった。
     薄暗いままの部屋で、服を着替えるため彼はなんとか体を起こした。見ると、時計は11時半を表示していた。買ってきたお茶は既に冷たくなりつつあった。一口飲んでからスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを解いた。
     コートは帰ったとたんに、どこかに放り投げた気がする。よくみると、キッチンの近くに落ちていた。もういいや、明日なんとかしよう。
     ベルトをはずしかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
     誰だ、こんな時間に。
     遠藤は勢いよくドアを開けた。
     ガンという音がしてドアが何かに当った。それでも気にせずズズズと押し開けたが誰もいない。なんだ幻聴か、と遠藤はまたドアを閉めようとした。
     しかしドアが重い。引っ張っても動かない。どうも向こう側でドアノブを握っている人間がいるようだ。遠藤は外へ出てドアの反対側を覗いた。
     そこにはノブを握ってうずくまっている影。女性のようだ。
    「あれ? 古川さん……?」
     遠藤は首を傾げ、相手を見つめた。
     その人影が額を押さえているのを見てようやく自分のしたことに気付き、しまったと慌てて近寄った。
    「ごめん、ドアに当ったよね」
     しかし、相手はすっくと立ち上がり、遠藤の前に立つと、彼の襟首をつかんでぐいぐいと前後に揺すった。その顔を見た時、遠藤は言葉が出なかった。
     相手は時間など気にせず、大声で叫んだ。
    「誰よ、古川さんて!」
     加南子が鬼のような形相をしていた。

     遠藤が先に部屋に入った。
    「ねえ、誰? 古川さんて」
     加南子は後ろ手にドアを閉め、部屋に上がり込んでそう言った。遠藤はテーブルの近くに座り、ベッドに背中を預けて眠りそうになりながら口を開いた。
    「会社の子だよ」
     遠藤はただ事実を言った。しかし加南子はイライラした様子で彼の前に立った。
    「その子がどうしてここに来るの? どういう関係よ!」
     遠藤はぼんやりとした目で加南子を見つめた。
    「ん……? さっきまで飲んでたから、もしかしてって思っただけ」
     加南子は舌打ちした。
    「飲んでたの? ハルミ、飲めないのに?」
    「うん。仕方なかったんだよ」
    「職場の付き合いだったわけ?」
    「職場の付き合い……?」
     遠藤は首を傾げた。
    「そうじゃないけど」
     簡単な嘘で加南子の怒りを回避できたのに、今の遠藤はそこまで頭が回っていなかった。
    「意味わかんないんだけど。付き合いじゃないのに、なんでその子と飲むの。ほかにも誰かいたってこと?」
    「いや、二人だけ」
     加奈子は体を震わせ、そして声を上ずらせた。
    「その子に言い寄られてたの?」
    「まさか」
     遠藤は笑った。
    「じゃあ、口説いてたの?」
    「へ?」
     意味がわからないと言う顔で加南子を見上げ、ゆっくりと立ち上がった。いい加減、寝させてほしい。
    「加南子、なんで来たの? しかもこんな時間に。こっちから連絡するって言ったのに」
    「だって、もう、治ってるでしょ。お酒飲めるくらいだし」
     遠藤が見下ろすと、相手はプイと横を向いた。
    「ハルミは、私と会わなくても全然平気なんだ」
     言われて遠藤は小さな溜息と共に目を閉じた。
    「会ってないのって、10日くらいじゃなかった? 風邪だったし、仕方ないだろ」
    「仕方ない、仕方ないって……」
     加南子は両の拳を握りしめ、低い声を出した。
    「誠意なさすぎ!」
     そう言ったかと思うと、加南子は握りしめたその手で目の前の男の腹を思い切り殴った。
     ドスッという音と共に、遠藤はうめき声すら上げられず体を折り曲げ、ひざをついた。
     痛みで力が入らず、腹を抱きかかえ、額を床につけた。
     そんな、酒が弱い男と知ってて腹を殴るなんて、悪魔か。吐く。吐くー。
     心で叫んでも声が出ない。
    「ほら、気持ちよーく楽しーく飲んだお酒を、ぜーんぶ吐いちゃいなさいよ」
     遠藤は口をパクパク動かした挙句、ようやく声を絞り出した。
    「……う、う、なんでおまえ、そんな……」
    「こんな遅くまでほかの女と2人きりで飲んでんのに、許されると思うな!」
     遠藤は、そうかもしれないけど、と思いながらもこの仕打ちは無いなと思った。
    「私はね!」
     相変わらず叫ぶような声で、加南子は言う。
    「ずっと、ハルミに会いたかったんだよ!!!」
     それだけ言って、加南子は部屋を出ていった。
     とてもではないがその後を追いかける元気はなかった。


    (3月5日 土曜日 午前6時)

     遠藤は目が覚めると、手洗いへゆきそのままシャワーを浴びた。
     風呂からあがると喉がひどく乾いていて冷蔵庫を開けた。水のペットボトルを取り出し500ミリを一気飲みした。冷蔵庫には前にアルバイトの男子3人組が持って来てくれたゼリー飲料くらいしか入っておらず、昨日コンビニに行って朝食を買っておけばよかったなあとぼんやり考えていた。
     遠藤の記憶は一部がすっぽりと抜けていた。加南子のことは憶えていたが、スナックを出た後あたりから部屋に戻るまでが消えていた。なので、自分がコンビニに行ったという事も思い出せない。
     もともと酒は弱いし普段から飲まないのだが、さすがに昨日の酔い方はいろんな要因が重なって、近年まれにみるほど最悪だったと言える。
     遠藤は、記憶が飛ぶほど飲むなんてありえない、と自己嫌悪した。二日酔いにならなかったのがせめてもの救いだ。
     深夜に帰っていった加南子は、無事に家に着いたんだろうか。
     きっと泊まるつもりで来たんだろう。でも、たとえ酔っていなくてもケンカになっていたような気がする。
     彼女が悪いわけではない。
     彼女をイライラさせているのは、間違いなく自分だから。

    #18 夢も希望も混乱中

    (3月5日 土曜日 午後4時)

     男子アルバイト3人組は就業時刻の1時間前に出勤して来た。
    「キナコは?」
    「さあ、まだじゃねえ?」
     ボーダーは、先に来ていたオザに尋ねてからロッカーに向かった。すぐにコマチもやって来た。
    「なんだよ、キナコまだなの?」
     コマチは不満そうな声を出した。
     皆、着替えた後テーブルについた。
    「被告人はいないが始めるか」
    「今日は裁判かよ」
     オザが言った。コマチは既に紙とペンを用意してスタンバっていた。

     裁判官ボーダーは、特にその言葉に反応することもなく続けた。
    「昨日、キナコは大変な事件を起こしてしまったようだ」
    「なに、なに?」
     回していたペンを止めて、コマチが身を乗り出した。
     2人が期待と不安の目でボーダーを見つめると、裁判官は低い声で話し始めた。
    「王子によると……」
    「おお」
     2人は息をのんだ。なぜなら、王子と呼ばれている西倉は、キナコと同じ部署で働いているからだ。何かを見ていた可能性が高い。さらに王子は軽口だが真実を語る男というのも有名な話だ。貴奈子が起こした様々な事件に対して、客観的に補足しているのは彼なのだ。
    「キナコは片岡氏に誤解させてしまったらしい」
    「何を?」
    「気があるような素振りを見せた」
     ボーダーは王子から聞いた話を説明した。

     王子はたまたま片岡と貴奈子がいる棚の後ろの列にいて、二人の会話の一部始終を聞いていた。
     女性に免疫の無さそうな片岡が、『彼女はいるんですか』と訊かれ、さらに『イケメンですね』と褒められ、その上『かわいい』と言われていた。
     これは、片岡の様子を見ないわけにはいかないと、王子はわくわくした気持ちでそっと棚の横から二人を眺めていた。
     片岡は全身真っ赤だった。笑顔の貴奈子と緊張気味の片岡の様子を見れば、確定だ。
     キナコ、またやっちゃったよ!!
     貴奈子の言葉足らずはどうしようもなく、相手に誤解させることがしばしばだ。それに二人とも思い込みが激しく、貴奈子は完全に遠藤のことを思い描いて片岡に接しているのだろうが、片岡の方はすべて自分に対する気持ちだと勘違いしている。
     言葉足らずで気が回らない貴奈子と、自意識過剰で頭の固いの片岡は、ヘンな空気のまま別れたという。片岡はその場に呆然と立ち尽くしていたらしいが。

     そんな話を聞いたオザとコマチは、溜息すら出ずに視線を落とした。
    「あー……何やってんだろーなー」
    「片岡氏って遠藤さんと仲いいから、そのこと相談してんじゃない?」
    「てことは、遠藤さんは、貴奈子が片岡氏を好きだと思ってるかもしれねーのか」
    「遠藤さん、元カレの件でも誤解してるしね」
    「うーわ。ますます無理だわ」
    「それって、完全にキナコが二股かけてると思ってるよね」
    「まさかそこに自分も絡んでるとは思ってねーだろーし」
    「もういっそ、片岡氏とくっつけちゃう? そっちも案外面白いかも」
     陪審員たちの意見に、ボーダーが溜息をついた。
    「でもキナコは、遠藤さん以外見てない」
     うーん、と皆がうなっている所に、貴奈子が出勤してきた。
     ただその姿は、3人が声をかけるのをためらうくらい憔悴していた。

    「おはよ」
     貴奈子はそれだけ言ってロッカーの方に消えた。そしてなかなか戻って来ない。
    「おーい」
     しびれを切らしてオザが大声で貴奈子を呼んだ。ロッカーの列は部屋の隅にあるので、声を出せば当然聞こえるはずだ。
    「キナコー」
     返事がないので、オザが心配になり腰を浮かすと、ようやくテーブルに向かってくる貴奈子の姿が見えた。
    「みんな、……もういいよ」
     早くから集まっている3人に対して、貴奈子は情けない笑顔を見せた。
    「なんだそれ、もういいって」
     ボーダーが憮然として尋ねた。
    「私もう、昨日最悪で。泣きたいよってゆーか、泣いてたよ……」
     今にもまた泣き出しそうな顔で、貴奈子は呟いた。
     3人のバイトたちは、当然ながら片岡のことを頭に思い描いた。片岡に誤解させてしまったことで落ち込んでいるのか、と考えていた。
     しかしテーブルに突っ伏して顔を伏せたまま、貴奈子は全く違う話を始めた。

    「昨日さ、会社の帰りに遠藤さんと会ったんだけど……」
     皆は話の展開が妙だなと互いに顔を見合わせた。どういうことだ? 遠藤に何か片岡のことで責められたんだろうか。
    「わたしね……」
     皆待っているのに、貴奈子はなかなかスラスラと話してくれない。
    「その溜めはいらないから」
    「さっさと言え」
     催促せずにいられない。深刻な話なのはよくわかった。だから、早く話せ、話してくれ!
    「すごいピーでさ、漏れる!とか叫んじゃったの」
     皆はその告白に気圧(けお)されて、黙り込んだ。

    「その後……、遠藤さんがフツーに、私のことなんか眼中に無いって……嫌っていうほどわかったの……。ていうかわかってたけど、リアルに悲しくて」
     3人は黙り込んだ。
     多分、キナコのこのセリフも、かなり言葉が足りてないはずだ。下痢の話はとりあえず置いておいて、遠藤さんとの間に何があったんだろう。
     溜息をつきながら、オザが口を開いた。
    「今さらだわ。悲しんでてもしょうがなくね? 彼女がいる時点で、おまえがアウトなのはわかってただろ。焦らねーで、ゆっくり攻めていくしかねーって。そのために俺らこうやって集まって作戦会議を……」
     そこまで言って、ああ、今日は裁判だったと思い直した。
     貴奈子はさらに落ち込んだのか、メソメソしだした。
     ボーダーは貴奈子の様子を見ながら、感情を抑えた声で言った。
    「キナコ泣くな。ちゃんと話せ」


     3人は貴奈子に何度も質問をして話を補填させた結果、ようやく昨日の片岡のことや、遠藤とのやりとりについて詳細を知ることができた。
    「遠藤さんの態度とは思えねー」
    「酔っぱらって素が出てる」
    「しかも、男にだらしないヤツだという目でキナコを見てるな」
     時計は5時前を指していた。皆は立ち上がり、事務所へタイムカードを押しに行った。

    #19 記憶に無くとも感情は甦る

     冬場は店内に常時暖房がかかっているため、スタッフは時々水分補給のために店を出る。また立ち仕事なので決まった休憩以外に数分の小休憩を取るのは、常識の範囲内で許されていた。
     それは売り場の責任者である遠藤も同じで、店の外側に設置された自販機で飲み物を買って一息つく。


    (同日 午後8時頃)

     遠藤は名札のついたエプロンを脱いで、スーツ姿で店の外に出た。
     冷たい水を買って飲もうとした時、古川貴奈子が倉庫の出入り口からやって来るのが見えた。
     自販機がある場所は店の脇の路地だったが、ガラス張りの店の灯りのおかげで夜でも随分明るかった。
    「古川さん、体調はどう?」
     遠藤は昨夜のことが気になっていて声をかけた。彼女は驚いていたが、彼の傍までやってきた。
    「大丈夫です。昨日はありがとうございました」
     貴奈子はぎこちなく頭を下げた。
    「倉庫は冷えるから、厚着したほうがいいんだろうけど。でも動くと汗かくし、困るよね」
     遠藤は、彼女の首から肩にかけて大きく開いたセーターを見て、風邪ひかないのかなと心配した。
    「何飲む?」
     遠藤は自販機に金を入れた。
    「あ、いいです、そんな」
    「これくらいで遠慮しなくていいよ」
     遠藤は笑った。
    「でも、昨日、お店でお金出してもらったし……」
     貴奈子はなかなか自販機のボタンを押そうとはしなかった。
     お店でお金、と言われても遠藤はすぐには思い当たらなかった。
    「あ、ああ……。大丈夫、多分そんな高くなかったはず……」
     記憶があやふやなため遠藤はそう言ってごまかした。多分、スナックの支払いのことだろう。金額まで覚えていないが。
     彼は貴奈子を促して購入ボタンを押させた。
     嬉しそうにホットココアの缶を手にしていた彼女だったが、すぐに「あーーーー!!」と大きな声を出した。
    「ど、どうした?」
     遠藤に背中を向け、缶を両手で抱え込むようにして体を曲げる貴奈子に、驚いて一歩近づいた。
    「や、やばっ」
     貴奈子が小さな声でうめいている。
    「古川さん?」
    「やばい、太っちゃうー!」
    「え?」
    「痩せようと思ってたのに、いつものクセでこんなの買っちゃったー!」
     体全身を揺らして残念がる彼女を見て、遠藤は一歩下がり笑った。いつもながら、可愛らしい。
    「そんな、無理して痩せなくても」
    「だって、昨日遠藤さんに痩せた方がいいって言われたし……」
    「え?」

     遠藤は、自分を見つめて泣きそうな顔をしている貴奈子に一抹の不安を感じた。
    「俺が……?」
    「言いました。ほかにももっと傷つくこと」
     遠藤は血の気が引く思いで、彼女を見つめた。
     記憶のない空白の時間、多分遠藤は貴奈子と一緒にいたはずだ。しかし痩せろなんて、その上傷つけたなんて、まさか。彼女に対してそんな思ってもいないことを言うはずはないのに。
    「覚えてないなら、いいです」
     貴奈子が行きかけるので遠藤は焦って彼女を止めた。
     彼女の肩を掴んで強引に振り向かせていた。
    「待って。酷い事言った……んだよね、ほんとにごめん。……ちょっと自分でもびっくりしてる」
     貴奈子は下を向いて言った。
    「すごく辛かったです。悲しかった」
     遠藤はますます苦悶の表情を浮かべた。
    「……謝るよ。だから……俺が何したのか、教えてくれないかな」
     少し屈んで、下から貴奈子の顔を覗き込んだ。
     遠藤は全く意識していなかったが、両手は貴奈子の肩をギュッと掴んで引き寄せていたので、ひどく距離が近かった。彼女はチラと視線をあげて、顔を強張らせていた。
     貴奈子の表情が曇ったことで、さらに遠藤は胸が痛んだ。
     自分は酔った勢いで、一体何をしたんだ。
     ふと、自分がスナックで知らぬ間に彼女の体に触れていたことや、その時に感じたなんとも言えない感情を思い出した。
     まさか、酔った勢いで彼女にセクハラまがいのこと……いや、もしかしてそれ以上のこと言って、きょ、強要したとか……?

     貴奈子は俯いたまま、小さな声で言った。
    「私、片岡さんのこと好きだなんて思ってません。それにアツシのことも誤解です。だから、あんな風に責めないでください。軽蔑したような目で笑わないでください」
     それを聞いた遠藤は、自分が想像したことではなかったことに一瞬安堵した。
     しかし問題は解決していない。責めた? 軽蔑した?
     遠藤は全く記憶にないことを言われて呆然とした。
    「そ、そうか。ごめん……」
     彼女の恋愛に口をはさんだり責めたりするなんて、そこまで親しくもないのに、何を考えていたんだろう。
     遠藤が黙り込むと、貴奈子は視線を落としたまま唇を震わせて言った。
    「私、ほかにちゃんと好きな人がいるんです」
     貴奈子は悲しそうな顔をして遠藤に一瞥をくれると、彼に掴まれていた手を振り切って背を向けた。

     眉を寄せ、苦しみと切なさをにじませた瞳だった。
     そして、遠藤の目の前に彼女の細く白い首筋が見えた。
     いつもとなんら変わらず、髪をまとめ上げピンで留めていた。その見慣れたはずの彼女の後ろ姿に、遠藤は呆然と見入っていた。後れ毛に包まれた肌に目を奪われていた。トクトクと心臓の鳴る音がする。
    『好きな人がいるんです』
     そう訴えた彼女の顔が目に焼き付いて離れない。心臓の音が少しずつ強くなった。

     すっと離れていく彼女の背中に、遠藤は、理解したくない後味の悪さを感じた。
     今まで気にならなかったことが、喉の奥でつっかえている。
     そんなに好きな相手がいたのか。それは片岡でもデートの相手でもない別の男だって言うのか。
     遠藤は片岡の言葉を思い出していた。

    『え、ああ、キナコね。結婚したいみたいだよー?』
    『やっぱりキナコ、いい子だよな。一途だと思うわ』

     それはどう考えたって、片岡のノロケだよな。

     胸が詰まり、苦しかった。片岡と貴奈子の関係がよくわからない。だから、悔しいような、腹が立つような、苛立つような。知らないことがもどかしかった。
     彼女があんな顔して好きだっていう相手は、誰?
     一体誰なんだよ。

    #20 責めた理由

     ゲームソフトコーナーで商品整理をしていたコマチは、しばらく姿が見えなかった遠藤が浮かない顔をして店に戻って来たのを見ていた。
     仕事場ではいつも落ち着いていて感情を表に出さない遠藤だけに、コマチは少し気になっていた。
     そのとき、コマチの傍に女性客が一人近づいて来た。
    「お兄さん、探してるものがあるんだけど」
    「あ、はい、何でしょうか」
    「恋愛シミュレーション系かなー」
     えーっと、とコマチは棚を指しながら、改めて客を見た。結構年上だ。美人だが痩せていて色っぽさには欠けるな、と値踏みしていた。
    「ゲーム機の種類によって棚が分かれてるんですが、お客様がお持ちの機械は何でしょう……」
     コマチが言うのを、客は完全に無視して適当にソフトを触っている。
     まあ、若くない客なんてこんなものだ。人に訊いておきながら聞いておらず、また何度も同じ質問をする。そういうのは特に女性客に多い。
     すると急にその客は答え始めた。
    「ハルミんとこにあるのは確か……“Wii U”だったかな」
    「“Wii U”ですか?……“Wii U”にそんなソフトあったかな……ほかのなら……」
    「やっぱ、いいわ」
     急に話を切るのもよくいるタイプだな、とコマチは思った。
    「ね、イケメンのお兄さん、大学生?」
    「え、いえ」
     コマチは首を横に振った。
    「え、じゃあ、高校生?」
    「はあ……」
    「すごい、かわいー」
     コマチは黙って相手を見ていた。こういう反応をする女性には慣れているので、テンションがある程度まで下がるのを待って適当に相手をして退散しようと思った。
    「ふーん。小野くんかあ」
     相手はコマチの名札を見てニヤッと笑った。
    「ソフトの代わりに小野くん買っちゃおうかな」
     客はクスクスっと笑った。コマチもニコニコと愛想笑いを浮かべた。

     その女性客は何を考えていたのか、宙を見上げてから不意に「ね、主任さん呼んでよ」と言った。
    「え?」
     戸惑うコマチに「シュ、ニ、ン、さん。遠藤っていう主任がいるでしょ?」と相手は言った。
    「はあ。……わかりました。少々お待ちください」
     意味が分からなかったが、とりあえずさっき見かけたばかりの遠藤を探すことにした。

     上司はすぐに見つかった。
    「遠藤さん、お客さんが呼んでるんですけど……」
     コマチはそう言って遠藤を連れ、急いでその女性客の待つコーナーへ向かった。
     しかし女性客の姿が見えると遠藤は急に立ち止まった。それからゆっくりと歩きだし女性客の前に立った。
    「小野くんありがとう。知り合いだから」
     彼はコマチの顔も見ずにそれだけ言い、その客を促して店の外へ連れ出した。
     コマチは驚いて、すぐにボーダーとオザに声をかけた。

    「あれ、遠藤さんの彼女じゃね?」
     3人はドキドキしながら、顔を合わせた。
    「3人で見に行くとバレるから、誰か一人偵察に行こう」
     ボーダーが言う。
    「オレ行くわ」
     オザが言って、そっと店の裏側の出口から外へ出た。
     彼はその後、遠藤たちの様子の一部始終を見つめていた。


    「来るなとは言わないけど」
     遠藤は溜息交じりに言った。
    「せめてスタッフの仕事の邪魔しないように頼むよ」
    「私だって店に行く気はなかった」
     加南子はリサイクルショップの脇のガラスの壁にもたれながら彼を見上げて睨みつけた。
    「ずっとそこの喫茶店にいたのよ。ハルミが店から出てこないかなーって思ってさ」
     加南子は目の前を指さして言った。路地を挟んだ向かい側に喫茶店があった。
    「そしたらさ、ちょうど自販機のところにハルミが出て来たわけ」

     遠藤は目線を下げたが、表情を変えずに加南子の話を聞いていた。
    「だから出て行こうと思ったら、女の子が出てきて……」
     加南子はすっと息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
    「なんかイチャつきだしてんの」

     遠藤は姿勢を変えず、反論する気もなかった。
    「あの子、フルカワって子なんでしょ?」
    「そうだよ」と答えた。
     加南子は否定しない遠藤の顔をずっと睨みつけていた。
    「何か言えば? 言い訳しないの?」
     言われてチラと加南子を見たが、また視線を下げた。
    「言い訳って言われても……別に言うことないけど」
     ボソリと言葉を落とした。
     加南子は目を見開いたまま、抑揚のない彼の声を黙って聞いていた。

    「加南子をイライラさせて悪いと思ってる。だけど、何にも言えない。疑うなら疑ってていいよ」
     ようやく瞳を上げて加南子の目を見た。
    「ごめん、正直に言えばもう限界だなって思ってる。一緒にいても楽しいと思えないから……だから……」
     罪悪感を感じ口を開けたまま言葉を続けられないでいると、加南子はゆっくりと壁から背中を離して近づいて来た。
     彼女の右手が後ろへ撓(しな)ったかと思うと、ブンという音がして思い切り遠藤の左頬を平手で打った。
     衝撃とともによろけた。……相変わらず加南子の平手打ちは効く。

    「暴力はふるうし、会えば責めてばかりの嫌な女だから別れたいの? でもね、嫌いだったら責めないよ。わかる? 好きだから責めたの」
     加南子は冷たくて暗い目をしていた。
    「そんなこともわかんない男なんて、こっちから縁切るわ。二度と近づかないで!」
     ズンズンと歩いて去っていく加南子の後姿を、遠藤は呆然と目で追った。

     相撲部屋に響くぶつかり稽古のような音だったな、と苦笑が漏れた。
     まあ、あんな話をしてしまった自分が悪い。
     店に戻る前にズボンのポケットに入れていたマスクをかけ、頬の赤味を隠す。
     パートタイムの女性スタッフが、不思議そうに言った。
    「あれ、主任、また風邪ぶりかえしたんですか?」
    「うん」
     遠藤は反射的に返事をしたが、頭では違うことを考えていた。

     なんで責めたのかな。

     ふと、貴奈子に言われた言葉を思い出す。
    『あんな風に責めないでください。軽蔑したような目で笑わないでください』

     俺はなんで古川貴奈子を責めたんだろう。

    #21 推測は疑念を呼ぶ

    (同日 夜9時過ぎ)

     タイムカードを押した男子アルバイト3人は、急いで休憩室にやってきた。着替えさえもどかしく思い、エプロン姿のままでオザの話をいた。
    「声は聞こえなかったんだけど」
     と、前置きしてオザは状況を説明した。

     二人は向き合って立っていて女性がずっと遠藤の顔をにらんで何か言っていた。
     そして遠藤が何か言ったかと思うと、女性が急に平手打ちをして、よろける彼を見向きもせず立ち去った。

     それがオザの見ていた状況。結構ざっくりした報告だが、彼女の方はかなり怒っていた様子だと伝えた。
     コマチとボーダーは顔を見合わせた。
    「あの優しい遠藤さんがぶっ叩かれるなんて、想像つかねえ」
     しかし、その3人が顔を寄せている所に、仕事を終えてやってきた王子がニヤニヤしながら近づいて来たのだ。

    「なあなあ、知ってる?」
    「ん、王子。またゲスネタ持ってきたの?」
    「そう、あの奥手そうな遠藤さんの! 聞きたくない?」
     19歳のくせに、ワイドショー並みにゲスいなとその場の誰もが思った。
    「遠藤さんの話なら、知ってるよ。オレ見てたもん」
     オザが言うと、王子は驚いていた。
    「へえ、そうなんだ。だからみんなして集まってたんだ。驚くよね、遠藤さんがキナコを好きだったなんて」
    「は? ちょっと待て」
     オザが怪訝そうな顔で言葉を挟む。ボーダーもそれに続く。
    「王子、おまえ、何を見た?」
    「遠藤さんがキナコにキスしたとこ。ようやくキナコの想いが通じたのかねえ。でもまさか、遠藤さんからキスするなんて、しかも仕事中に……」
    「おいおいおいおい……」
     3人は思わず王子の肩を掴んで、テーブルの椅子に座らせた。王子は周りを囲まれ、その圧力に困惑しながら、彼が見たことを話した。

     自販機でジュースを買うため倉庫を出ようとした時のこと。すでに自販機の所にいた遠藤とキナコを見かけた。これは何かあるかもと彼は身を潜めて様子を窺うことにした。
     最初は自販機の前で和やかに話をしていた。しかし、途中から様子がおかしくなり、キナコが遠藤に何か訴え、遠藤は困惑気味にキナコを引き留めた。そして、体を屈めてキナコにキスしたという。

     そんなこと絶対にありえない、と3人組は思った。
     でももしそれが本当だとしたら、遠藤の彼女が激怒したのも頷ける。
     王子の情報は実績からいってガセネタとは思えない。

     3人は王子がいなくなった後、沈黙のまま考え込んでいた。
     ただ、彼らは、王子が貴奈子の後方から見ていたために見間違えたのだとは知る由もなかった。
     そこへ突如、当事者である貴奈子が現れた。
    「あれえ、まだいたの?」
     彼女は自分のロッカーへ行って、嬉しそうにココアの缶を持って戻ってきた。
    「ココアの缶なんてなんで取りに来たの?」
     コマチが訊いた。
    「だって、遠藤さんにおごってもらったんだよー」
     貴奈子は飲まずに冷たくなった缶を愛おしそうに抱いていた。
     3人はその光景を不思議そうに見ていた。
    「貴奈子、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
     ボーダーが眉間に皺を寄せ怖い顔で貴奈子を睨むので、彼女は「またなのー?」と泣きそうな顔をした。


     3人の男子アルバイトたちは、古川貴奈子の話を繰り返し聞いたが、とてもイチャついている状況には思えなかった。
     前の晩に、酔った勢いで彼女の男ぐせの悪さに言及してしまった遠藤が、誤解だと責められてタジタジとなっている姿しか目に浮かばなかった。
     たとえ貴奈子が『好きな人がいるんです』と言ったところで、絶対に自分のことだとは気づかないのが遠藤だ。すぐ自分に置き換えて考える片岡とは全く正反対。その自意識の低さが良いかどうかは別として。
     キスされたくだりはどこにもない。
    「ほんっとうにキスされてないんだな?」
    「そんなのあるわけないよ! そんなことあったら、みんなに自慢するよ!!」
    「それもどうかと思うが」
     難しい顔をする3人に、貴奈子はしみじみと言った。
    「キスまで望んでないよ。私の気持ちはまだ、伝わってさえいないんだよ?」

     どこをどう切り取れば、遠藤の彼女の激怒に繋がるのだろう。貴奈子が遠藤にじゃれていたわけでもないらしいし、全く見当がつかない。激怒したのは別の理由か?
     これは、直接遠藤に働きかけて反応を見る方が早そうだ。
     3人は翌日の日曜、また4時に集まって作戦会議を開くことに決めて解散した。


    (同日 夜10時半)

     事務所にいた社員たちはもう殆ど仕事を終え帰宅していた。店長も事務所の鍵を遠藤に預けて早々に退社した。ついに隣の片岡も立ち上がり、コートを着はじめた。
    「遠藤、まだ帰んないのか?」
     片岡に言われ、「いや、もう帰るけど」と遠藤はパソコンを終了させた。
    「大丈夫? おまえ、まだ体調万全じゃないだろうし、あんまり無理すんなよ。もう咳は収まったんじゃないのか、マスクして……」
    「あ、うん、まあ」
     遠藤は、力なく笑った。
    「片岡」
     遠藤は、パソコンのキーボードをぼんやりと見ながら、
    「訊きたいことがあるんだけどさ」
    と声をかけた。

     片岡は動きを止め、持っていたカバンをゆっくりデスクの上に置いた。そして、立ったまま遠藤の方を向き、「なんだよ」と言った。
     遠藤が視線を移ろわせる様子を見て、片岡は少し不安になったのか、もう一度椅子に座りなおした。
    「遠藤?」
    「ん?」
    「俺に訊きたいことって?」
    「あ、ああ……」
     遠藤はまたぼんやりと視線を落とした。
    「ごめん、なんでもない」
    「なんだよ、気になるわー」
     片岡は遠藤の背中をポンと叩いた。
     遠藤は困ったような笑顔を浮かべた。
    「ああ。……野口とうまくいきそう?」
     聞かれて片岡は、照れたように、
    「まあ、昨日帰ってから電話したんだけど、多分、気に入られ……たかな?」
    と、へへっと笑った。
    「そか」
     遠藤は力ない笑顔で頷いた。
     片岡は、そんな遠藤を見て思わず彼の額に手を当てた。
    「熱は、無いな」
    「大丈夫だよ、片岡」
     遠藤が片岡の手を払いのけた。
    「じゃあ、どうしたんだよ」
    「いや……ちょっと気になって」
    「何が」
    「昨日の……」
     遠藤は言いかけて止まった。
    「な、な、何だよ」
     片岡は思い当たることがあるのか、視線を逸らした。

    「昨日、片岡が言ってた、古川さんとの結婚のことなんだけど」

    #22 押さずに引いてみる

     遠藤の言葉が終わらぬうちに、片岡は慌てて謝った。
    「あ、あ、ああ。ごめんな、ごめん。キナコって、思わせぶりだからさー。ほんと恥ずかしい」
     慌てて片岡は言い訳のように説明した。
    「ただの勘違いだから、悪く思わないでくれよな。おまえのこと知らなかったし」
    「え、……俺?」
     遠藤は自分を指さし、戸惑いながら片岡の顔を見た。しかし、片岡は弁解に必死で遠藤の質問には答えなかった。
    「うん、ほんと、ゴメンな。おまえは気にしなくていいから。誤解なんだよ」
    「誤解? そう……。そうなんだ……」
     遠藤はなんとなく引っかかりを感じたが、とりあえず貴奈子が必死で片岡とのことを否定した裏付けは取れた。片岡の昨日の態度に納得が行かず、どうしても確認したかった。
    「あいつは浮気ができるような器用なヤツじゃないよ。まっすぐっていうか、一筋だろ」
    「そう……なのか?」
     そう言いながら遠藤は浮気というワードから、貴奈子は好きな相手ともう既に付き合っているんだなと推測した。
     片岡はその男が誰なのか、知っているんだろうか。
     遠藤は片岡の顔を見て、尋ねようかと口を開いたが、
    「引き留めてごめん」
    という言葉しか出てこなかった。
    「あ、ああ」
     片岡はぎこちなく頷いた。


    (3月6日 日曜日 午後4時)

     男子3人プラス貴奈子は、仕事が始まる1時間も前に休憩室のテーブルに座っていた。ほかのアルバイトたちは、いつも不思議そうに彼らを見ている。
    「何を言えば遠藤さんの心の中がわかるか、だな」
    「うーん」
     知りたいのは、彼女との派手なケンカの理由と、その後どうなったのかということ。
     そして王子が見たキスシーンは一体何だったんだろう。それらを知るためには遠藤側からの視点で状況を聞きたい。
     そういうことを訊き出す、あるいは顔に出させるためには、どういう言葉をかければ有効か。

    「キスなんてしてないよ」
     貴奈子は一貫して否定する。
    「彼女さんに嫉妬されるようなこと、全くしてないもん」
     そう言う貴奈子だったが、やはりしょんぼりして、
    「でも、私のせいで遠藤さんと彼女さんがケンカしちゃったんだよね?」
    とオザに訊く。
    「まだちょっと確かとは言えないけど。王子が見たのを彼女も見ていたとしたら、ケンカの原因はキナコだし。でもほかの原因もあり得るしな。遠藤さんが彼女に何を言ったか、だよ」
     オザはそう答えた。
     すると、コマチが言った。
    「オレらが、キナコの話をわざとらしく遠藤さんに聞かせるっていうのは、どう?」
    「どんな内容?」
    「んー、たとえばー」
     コマチが考えだすと、ボーダーとオザも一緒に考え始めた。
    「キナコって好きなヤツいるみたいだけど、誰なんだろうなあーとか」
    「誰かがキナコに告ったみたいだよ。キナコって結構モテんだなーとか。」
     彼らは一応真剣に意見を出し合っていた。
     しかし貴奈子は、それについていけなかった。
     一生懸命考えてくれるのは嬉しい。でも遠藤をみんなで罠にはめるかのような、まるでからかっているかのような、そんな作戦は嫌だった。
    「あのね、みんな」

     3人は一斉に貴奈子の顔を見た。
     貴奈子は言った。
    「しばらく、なんにもしないっていうのは、どうかな」
    「何にもしない?」
    「うん。遠藤さんの近くに寄り付かないの。私が原因で遠藤さんが嫌な思いしたなら、しつこくすると余計遠藤さんに嫌われるし。だからあえて、遠藤さんの視界から消えるんだよ。遠藤さんどんな反応するかなあ、気にかけてくれるかな……って思ってさ」
    「遠藤さんの態度を見るのかあ……」
    「ずっとキナコの姿が見えないと、普通は気になる」
     ふと気づいたオザが、
    「じゃあ、キナコはバイト休むってこと?」
    と訊いた。
    「あー。そうなるよね」
     貴奈子は考えていた。
     コマチが訊いた。
    「何日くらい休んだら効果あるだろ?」
    「二日も続けて休めば気付くはずだが。1週間なら確実だろう」
    「そんなに遠藤さんに会わずに、……我慢できんの?」
     貴奈子はうなだれていた。
    「でも、私も遠藤さんの考えてる事知りたいから。私のことウザいって思ってるなら、そう思われないような自分にならなきゃいけないし」
    「おまえって……」
     ボーダーが眉間に皺を寄せて言った。
    「たとえウザがられても、諦めるという選択肢はないんだな」
     オザもコマチも同様に感心した目で貴奈子を見つめていた。
     貴奈子は当たり前のように呟いた。
    「ステップがあるでしょ。いきなり好かれるのは難しいから。嫌われないことが第一段階なんだもん」
     3人はうーんと貴奈子の言葉に唸っていたが、
    「いや、それくらいは多分クリアしてると思うんだけどなー」
    と、首を捻った。
    「だって、彼女さんとのことがあって、私にムカついてるかもしれない」
    「なるほど」
    「そういう考え方もあるかー」
     男子たちは頷いた。
    「どうせすぐ遠藤さんは何か言ってくるよ。キナコのことが好きでも嫌いでも、社員なんだから少しは気にするだろ。その時の口ぶりでどう思ってるかはわかるはず」
    「でも片岡氏に訊くかもしれない。長期休暇を取ってると聞けば、普通に納得するんじゃないか?」
    「じゃあさ」
     コマチが提案した。
    「就活ってことにして、片岡氏にもよくわかんないような状況にしとけば?」
    「就活……?」
     貴奈子は唇に指をあて、考えていた。
    「キナコが就活中って聞いたら、詳細聞きたくならない? だってキナコが就職するんだよ?? 笑うじゃん。絶対俺たちに話しかけてくるよー」
    「なんか引っかかる言い方だなー」
     貴奈子は不満げだったが、とりあえずそういう理由の方が休みやすいかもという結論になった。

    #23 瞳はどこを見ている?

    (同日 午後6時)

     その日、貴奈子は片岡にアルバイトを休ませてほしいと申し出た。
    「え、1週間も? どうして」
     片岡は驚いて訊いた。
    「あの……ダメかもしれないんですけど、就職しようかなと思って」
    「え、就職って……まさか主婦か? 結婚するのか? え、ぇん……どぅ……と」
    「違いますよー。主婦じゃないです」
     貴奈子は片岡の最後の方の言葉を聞かずに、苦笑いをした。
    「私、得意な事があるから、それやってみようかなと思って」
    「おーマジでかー」
     片岡は感心して、笑顔になった。
    「そうか。ま、何にしても前向きに仕事しようとするのはいいことだ。で、何の仕事だよ」
     貴奈子は言葉を詰まらせた。
    「就職できたら、いいます」
    「いやいや、それじゃ店長に説明できないし、休みもらえないだろ」
     片岡は言ったが、貴奈子はどうしても言わなかった。
    「困ったな」
    「お願いします。就活してるとか誰にも言わないで、適当に理由作っといてください。だって、うまくいかなかったら恥ずかしいし」
    「いや、それはなあ……」
     片岡は貴奈子の気持ちがわからないでもないので、1週間休める理由が無いか探す事にした。


     片岡は事務所に戻ってきて、店長のいるデスクに直行した。
    「すみません、古川さんが明日から1週間休ませてほしいと言ってまして、許可の方いただけますでしょうか」
     とりあえず理由無しで店長に申請してみた。
    「あー、そう。人手は足りるの?」
    「はあ……。他店へ出庫する日だけ、アルバイト一人回していただければ十分ですが」
    「じゃあ、遠藤んとこのスタッフ回してもらえよ。彼と相談して決めて」
    「は、はい」
     片岡は、あまりにもあっさりと認められたので拍子抜けした。彼はいそいそと自分の席に戻り、隣の遠藤に声をかけた。
    「あー遠藤。ちょっとお願いがあるんだけど」
    「うん、いいよ。シフト調整するよ」
    「聞こえてた?」
    「うん」
    「ていうかー」
     片岡は笑いながら、声を落として言った。
    「説明なんかされなくても、おまえはちゃんとキナコから聞いてるよなー」
     片岡は満面の笑みだった。
     遠藤は真顔で「なんで?」と訊き返した。
    「なんでって、キナコはまず誰よりも先におまえに話すだろ」
    「部署が違う俺に? 片岡より先に? ないよ。普通ないでしょ」
     遠藤は微妙に困惑の表情を浮かべた。片岡はニヤニヤするのを抑えられなかった。遠藤は片岡の表情を見るなりスッと立ち上がり彼の腕を取った。
    「ちょっと来て」
     片岡は遠藤に強引に引っ張られて事務所の外へと連れ出された。
     遠藤は普段アルバイトたちが使っている休憩室に誰もいないのを確認してから中に入り、片岡から手を離した。
    「どした?」
     片岡はその遠藤の態度に驚きながら訊いた。遠藤の顔だけ見ていると、別に怒っているという様子ではない。
    「片岡の言ってることが、よくわからない時がある」
     そう言われても片岡は思い当たらず、難しい顔で遠藤を見つめるだけだった。そんな片岡を見て遠藤は苦い顔をした。
    「なんか誤解してないかな」
    「誤解?」
    「うん……古川さんのことで」
    「え?」
     片岡は遠藤の顔を見つめたまま、
    「おまえの彼女だろ?」
    と訊いた。
     遠藤は、ピクリと眉を動かして目を細めた。
    「やっぱり、そう思ってたんだ。なんか態度も言動もヘンだなと思ってたんだ」
    「違うのか?!」
     片岡は驚いて大きな声を出した。
     遠藤は溜息をついた。
    「違うから」
     静かにそう言って、驚く片岡の目をじっと見た。
    「なんでそういう誤解が生まれたのかな。片岡は誰からそう言われたの?」
    「別に誰からも言われてない。キナコを見てたら、そうなのかなって思っただけだ」
     片岡が言うので、遠藤はさらに目をひそめた。
    「いや、意味わかんないよ。古川さんを見てなんでそういう結論になるのかな。憶測で話す前に、俺に訊けばいいのに」
     遠藤の口調は静かだったが、明らかに怒りを秘めていた。
     片岡はたじろいで目を逸らした。
    「ごめん、また俺の勘違いだったんだな」
     片岡が弱弱しい声をだしたので、遠藤は呆れたような困ったような顔をした。
    「ほかの誰かに言ってないよな? ちゃんと好きな人がいるから誤解しないでくれって、古川さんに釘刺されたばっかなんだよ」
    「誤解? 何の、どういう誤解だ?」
     片岡はボソリと言った。遠藤を少し責めるような目で見た。
    「おまえたちが付き合ってたっていうのはオレの勘違いだったかもしれないけどな。ただ、キナコの言う“好きな人”の意味は、俺でもわかるよ」
     遠藤は、じっと片岡を見つめた。
    「その男が誰か、知ってんの?」
    「わかんないのか? 本当にわかんなかったのか? 目の前で言われたんだろ?」
     片岡が驚いた顔で言う。
    「確かに俺も注意力は足りない。全然気づいていなかった。でもおまえだって見てなさすぎだよ。一緒に反省しろ」
     片岡が言うと遠藤はムッとして言い返した。
    「なんで俺が、おまえんとこのバイトをじっくり見なきゃいけない」
     言葉に棘がある。
    「キナコが販売部出る時、寂しそうだったろ」
     片岡は言った。
    「……なんでいまそういう話がでてくるんだよ」
    「キナコ、おまえに懐いてたから、販売部離れてもずっとおまえに会いに行ってたじゃないか」
     遠藤は下を向いてイライラした口調になった。
    「だから、なんなんだよ」
     彼が表情を隠そうとしていることに片岡は気づいた。それでも、俯いた遠藤の顔を覗くようにして言った。
    「キナコの気持ち、気付いてやれよ」
     遠藤はそのままの姿勢で動かなかった。
    「キナコが好きなのは、おまえなんだよ」
    「だから憶測で話すなよ」
     そう言う遠藤の声は、言葉とは裏腹に戸惑うように弱くなった。
     片岡はかぶりを振った。
    「小沢たちに聞いてみれば、わかるんじゃない?」

     遠藤の表情は曇るばかりだった。

    #24 もう届かない

    (3月14日 月曜日 午後5時前)

     貴奈子が休み始めて1週間が過ぎた。
     その日は遠藤の公休日だった。
     ホワイトデーなどまるで縁のない大学生2人と、逆に相手が多すぎてメンドクサイとこぼす高校生は、貴奈子のいない静かな職場に退屈していた。
     3人は勤務の10分前に出社し、一応着替えてテーブルについた。
    「キナコいつ戻ってくんのー?」
     コマチが頭の後ろに手を組んで、椅子からずり落ちそうな姿勢で言った。
    「遠藤さんに何か反応があるまで、来れねーだろ」
    「んー、何日かかるかねー」
     2人はマンガや携帯電話を見たまま返事をする。
    「このままじゃ、キナコ辞めさせられるかもよー」
     コマチの絶叫が空しく休憩室に響いた。
     オザは携帯電話から手を離し、そのコマチの様子をぼんやりと見つめた。

     3人はこの1週間、遠藤の様子をじっと見つめて来た。
     しかし、遠藤は黙々と仕事をしており、古川のフの字も口にしなかった。雑談をふってみても、普通に雑談で終わってしまい、彼から「そういえば、古川さん、いつまで休むのかな」というような類の言葉は全く出てこなかった。
     貴奈子の話をあえて遠藤の前でしてみたが、そのたびに彼はスッとその場から立ち去った。3人の傍から離れ、店の奥の棚の整理を始めたりする。
     数回同じようなことがあり、これは偶然ではなく意図的に聞こえないように移動しているとわかった。話題をふられるのを嫌がって避けているようだ。
     その不自然な様子は、貴奈子の気持ちを知っている、店のバイトスタッフ全員が疑問に思っていた。
     ただ、一つだけ分かったことがあった。
     数日前コマチが遠藤に話しかけた時のことだ。
    「遠藤さん、オレ今10歳上のOLと付き合ってるんですけど、誕生日近くて。何をプレゼントしたらいいですかねー。遠藤さんの彼女とか、何もらったら喜ぶのかなと思って」
     そんな風に、遠藤から彼女情報を得るために訊いてみた。
     遠藤はにこっと笑って、
    「27の女の子かあ。予算は?」
    と普通に相談に乗る感じで訊いて来た。
    「ま、まあ、3万くらいでー」
    「んー」
     遠藤が真剣に考えだしたので、コマチは慌てて言った。
    「ほら、遠藤さんだったら今年、彼女にどんなプレゼント計画してます?」
     コマチが食い下がると、遠藤はまた笑った。
    「今年はあげないな」
    「え、マジで?」
    「うん。いないから」
    「いな……い……って、え、彼女いるって言ってませんでした?」
     遠藤は「あー」と思い出したように小さく言って、また笑った。
    「そう言えばこの前訊かれたね。でも、最近別れたんだ」
    「ど、どうして……って、聞いちゃマズい、すか……?」
     しかし、遠藤は緊張するコマチに小さく首を振り、少し俯いた。
    「嫌われたんだよ。それだけ」
     そう答えた。
     コマチはその遠藤の答えに驚きながら、
    「す、すいません、ヘンなこと訊いて!」
    とその場を逃げ出した。遠藤には悪いと思いながらも、彼に今彼女がいないことは貴奈子にとっては喜ばしいことだ。
     オザたちはコマチからその話を聞き、障害がなくなったことを貴奈子にも知らせた。
     しかし貴奈子はあまり喜んだ様子はなく、それどころか自分のせいで別れたんじゃないかと落ち込んでしまった。
     もし貴奈子が原因で別れたのだとしたら、最近の遠藤の態度は納得がいく。
     彼が貴奈子に対して怒っているかもしれないという最悪の予想に辿り着いた3人は、もう浮かれていられなくなった。


    (同日 午後6時半)

     片岡は事務所にいた。
     今日は隣の席の遠藤は公休で休んでいる。その空席を眺めながら、深い溜息をついた。
     あの日、遠藤に貴奈子の気持ちに気付いてやれと言ってからというもの、遠藤は片岡とほとんど口を利かなくなった。必要最小限の業務的な話以外は、さっと席を外される。
     なんなんだろう、あの、全身に張り巡らされた強いシールドは。自身を外部から遮断している。その『話しかけるな』という強いオーラに戸惑う。表情は変わらず、仕事もいつも通りこなす。しかし、この1週間職場の空気は重い。
    「おい、片岡」
     片岡は呼ばれ、急いで店長席に向かった。
    「古川さんはどうなってる?」

     片岡は自分の席に戻った。貴奈子に電話すると、
    『今日ぐらい分かるので、もう少し待っててください』
    と言う答えが返って来た。
    「そうか。わかった」
     なんだかんだ言っても片岡は、存在するだけで人を楽しませてくれる貴奈子にはずっとスタッフでいてほしいと思っていた。しかし彼女の人生を考えてみれば、天職が見つかるかもしれないチャンスだ。縁あって一緒に仕事をした仲間だから応援したい。頑張ってほしいと思った。
     遠藤が彼女をどう思っているのかわからない今、主婦という職業に就くのは難しいかもしれないし。


     その頃、店内ではオザの携帯電話が鳴っていた。
     仕事中だったので携帯の画面をチラと見ると、メッセージアプリが起動していた。見ると貴奈子からだった。これは、オザだけでなく、ボーダー、コマチにも、メッセージが投げかけられていることになる。
    <やったー!>
     そんな一言を送って来るなんて、皆、何事かと顔を見合わせ、代表してオザが職場を離れてメッセージを送信することになった。
     店の外の、例の自販機の傍に立って、彼は携帯電話にメッセ―ジを入力する。
    <どうした?>
     オザの問いに、貴奈子は
    <あのね、就職決まった!>

    「なにー!?」
     思わず叫んだオザは、驚く間も惜しんで、問いただした。
    <おまえ、マジで就職活動してたの?>
    <それ店休む言い訳じゃなかったの??>
    <だいたい、最初は1週間休んだらすぐ復帰するはずだったぞ>
    <辞めるつもりなんてなかっただろーが>

    <うん、そうだけど>
     貴奈子は一体何を考えているのか、淡々と返事をよこす。
    <就職っていうかさ、家でピアノ教えることにした>
    <募集したら、結構集まってくれちゃって。好きなピアノ弾いてるだけで、今までと同じ金額ぐらいは稼げるっぽいー>
    <私なんでもっと早くそうしなかったのかなー?>
     オザは愕然としながら、入力する。
    <そりゃ、ラクかもしれないけど……遠藤さんに会えなくなっていいのかよ>
    <……それは、さ>
     貴奈子がふうと溜息をつく様子が、オザの脳裏に浮かんだ。
    <第一段階が、クリアできなかったから……>

     第一段階。それは遠藤に嫌われないということ。最低限の、社交辞令のような言葉でいいから、かけてもらうということ。
     そんなこと、社会人ならたとえ嫌いな相手でも、すべき付き合いなのに。
     オザは貴奈子の文字を見ながら、眉間に皺をよせアプリを終了させた。
     遠藤に対する失望が、彼の心を占めていた。

    #25 サヨナラは突然

    (同日 午後7時)

     3人組がメッセージアプリの内容を確認した後の事だった。
     事務所にも貴奈子から報告の電話が入ってきた。
    「おめでとう、よかったな!」
     電話を受けた片岡は、素直に貴奈子の就職を喜んだ。
     バイトを辞めるのはいつ、と片岡が訊くと、
    『もうすぐにでも教えてほしいっていう人がいるんで、迷惑かけて申し訳ないんですけど、今日で……。今からご挨拶に伺います……』
    と、小さな声で言った。
     就活で休むと言われた日から想定はしていたが、急だな。お別れ会すら開けない。
     まあ、今日一応皆に声はかけてみよう。集まれる人間だけで、とりあえずということで。
     ちょうど3月も半ば、別れと旅立ちの季節だなあと、片岡は感傷にひたっていた。


    (同日 午後9時前)

     貴奈子は事務所にやってきた。
    「いつかは辞めるんだと聴かされていたからバイトの増員も手配済みだが……、実際いなくなると思うと寂しいもんだな。また遊びに来いよ」
     店長が珍しく気落ちした顔で貴奈子に握手を求めた。好き勝手に辞めていくバイトには厳しい態度だったはずが、貴奈子はどうもほかのバイトたちとは印象が違ったらしい。
    「はい、ありがとうございます!」
     貴奈子は相変わらず元気に笑っている。

     店長や社員たちと一通り別れを惜しんだ後、閉店後に業務を終えたアルバイトたちが事務所にやってきて、彼女を取り囲んだ。
     この場所に、遠藤はいない。
     遠藤はこのことを知らずにいる。
     片岡は、自分が知らせるべきなのか、彼女が知らせるつもりなのか、それとも明日以降に誰かの口から聞くのか、どれが正解なのかわからなかった。
     片岡は、そばにいたボーダーに訊いた。
    「なあ、このこと、遠藤に知らせるべきだと思う?」
     ボーダーは言った。
    「必要ない」
     素っ気なかった。
     その答えに面食らいながらも、片岡は笑って見せた。
    「えっと、またちゃんとみんなでお別れ会やろうな」
     今度はコマチが答える。
    「ええ、遠藤さん抜きで」
     片岡はその発言に愕然とした。
     その時、オザが言った。
    「オレ、キナコいねえんならつまんないし、もっと時給のいいバイトに変える」
     皆がえー、と驚きの声を上げていると、コマチも、
    「オレも3年だし、受験あるから今月で辞める」
    と言い出した。
     ボーダーが最後に、
    「オレも就活があるから辞める」
    と言い出した。
     販売部のスタッフ3人が急に辞めると言い出して、その場は騒然となった。
    「お、おまえらが辞めるのはダメだぞ! 聞いてないぞ!」
     店長が声を荒らげたのは言うまでもない。
     貴奈子は困ったように3人を見つめた。社員やバイト仲間たちは3人を引き留めたが、それでも3人の意志は固いようだった。


     その頃、公休日だった遠藤はベッドに仰向けに横たわっていた。
     古川貴奈子と飲んで酔っ払った日、彼女を責めたという事実が頭から離れなかった。
    『好きだから責めたの』
     そんな風に加南子が言ったこと、教えてくれたこと、を思い出す。

     遠藤は一人っ子で、たっぷり愛情を注がれて育った。
     だから急にそれを失くした時は、灯りの消えた部屋にいるように何も見えなくなった。
     ずっと手さぐりで生きてきたような気がする。
     遠藤の視界に無理やり入り込んでくる、古川貴奈子に出会うまで。

     楽しそうだったり、凹んだり、悔しそうだったり、慌てたり、どんな感情も隠さずに出す彼女を羨ましいと思っている。ほほえましくもあって、可愛いと思って、遠くから見ている。
     それは“灯り”だと、心が、早くから訴えていた。ずっと、ろうそくの火のように大切に見守る毎日。
     手元に引き寄せて、その灯りを消してしまうのが怖かった。

     彼女は自分にとって、ずっとそういう存在だったんだと、今になって気付く。

     だから彼女の傍にいる人間、愛情を独り占めする人間に、嫉妬したんだ。
     その感情が屈折して、あの時、彼女を責めたんだ。
     俺は酔っていて隠していた本音が出してしまった。

     ただ、好きなんだ。
     複雑な理由なんかつける必要はない。そうとしか表現できないから。
     一緒にいたい。とても心地よくて。頑なな感情が解けて自然でいられる。

     最近彼女の顔を見ていなくて、感情が溢れそうだ。


     そんな時、部屋のチャイムが鳴った。
     玄関に向かいながら時計を見る。9時半すぎ。時間的に考えると、またあの3人組の可能性が高い。
     遠藤はあまり深く考えずにドアを開けた。
     そこで彼は思わず「あ」と声を出した。
     立っていたのは、古川貴奈子だったから。


    「ど、……うしたの?」
     思わず声が上ずる。
     貴奈子はいつものはちきれそうな笑顔ではなく、窺うような微笑みを見せた。
    「私、あの店、今日で辞めるから、遠藤さんに挨拶したくて。突然、ごめんなさい」
    「辞める? 今日?」
    「はい。遠藤さんに挨拶に行くって言ったら、みんなにやめとけって言われたけど、やっぱり最後に顔見たくて」
     彼女は寂しそうに言った。
    「嫌われてるのに、押しかけて……私最後まで遠藤さんに迷惑かけっぱなしだなあって、……わかってるんですけど」
    「なにを……」
     何を言ってるんだろう、と遠藤は心の中で呟いた。
    「部屋に……あ、嫌じゃなければ、入ってよ。できたらもう少し話がしたいから」
     ためらいながら、遠藤は言った。
     貴奈子は彼の顔をじっと見ていたがすぐ俯いた。
    「あがってもいい……んですか?」
    「うん、辞める理由、俺は知らないから。それに、最後なら話したいこともあるし。部屋が嫌なら、どっかの店でもいいから」
    「みんながいるかも知れないし、外はちょっと……」
    「ああ……」
     そうか、と遠藤は視線を落とした。
     遠藤は、別に今日じゃなくてもいいんだ、電話でだっていい、そう頭で考えるが、焦る気持ちを抑えられなかった。

     彼女を目の前にすれば、自分の気持ちがはっきりとわかった。
     こんなに会いたかったんだなと。
     少しでも長く、少しでも近くにいたい。屈折した表現ではなく、素直に自分の気持ちを伝えておきたい。

     黙り込んだ遠藤に、貴奈子が言った。
    「あの、いいですか? 入っても」
     貴奈子はめずらしく遠慮気味に、視線で部屋の中を指した。

    #26 告白の後

     貴奈子を部屋の奥まで入れるのは初めてだ。
     遠藤は落ち着かなくて、なかなか話し出せなかった。
     貴奈子は、以前3人組がくつろいでいた場所で正座した。ベッドの近くの小さなテーブルのそばだった。
    「あのね、私、ほかの仕事するんです。ピアノ教えるだけなんですけど」
    「ああ。そうなんだ……」
    「片岡さんから、聞いてないですか?」
     言われて遠藤はうなずいた。片岡だけでなく、誰からの情報も遮断していたことを恥ずかしく思った。
    「片岡は知ってたんだ……」
    「仕事見つけたいって言って、休みもらいました」
     そうか、そうだよな。理由があるから休んでたんだ。当たり前のことなのに、貴奈子の上司である片岡に訊こうとはしなかった。『気になるのか?』と訊き返されそうで避けていた。

    「来てくれて、教えてくれて、ありがとう。明日いきなり店で知らされたらって思うと、結構辛いし……」
     遠藤が苦笑いするのを、貴奈子は戸惑った目つきで見つめた。
    「あの……いままでほんとうにありがとうございました。それに、いっぱいごめんなさい」
    「なんで謝るの」
    「だって……」
     貴奈子が俯いた。少しの間沈黙が流れた。
    「俺、古川さんのこと好きだよ」
     遠藤が穏やかに言ったせいか、貴奈子は明るい笑顔を見せた。
    「ほんとですか。嫌われたかと思ってて。よかったー」
    「いや、そうじゃなくて」
     遠藤は貴奈子の笑顔を見ていられなくて、視線を下げた。
    「好きなんだよ」
     また沈黙が流れ、しばらくしてから、貴奈子の「遠藤さん?」という声が耳に入った。
     遠藤は視線を上げた。そこにある貴奈子の顔は困惑に満ちていた。
    「もっと早く自分の気持ちに気付いてたら、ちゃんと優しくできたのに。ごめんね」
    「え? え?」
     貴奈子の瞳が射るように遠藤を見つめる。
    「あの、えっと、あの、えっとお……」
     予想以上に緊張を走らせ動揺する貴奈子に、遠藤はこらえきれず笑みを漏らした。
    「なんで笑うんですか?」
    「そこまで驚くかなあって思って」
    「え、だって、意味がよくわからないから……」
    「わからない、か……。なんて言えばわかるんだろ」
     説明しなくちゃいけないのか、と遠藤は溜息をついた。

    「……職場が離れても一緒にいれたらいいなって思う、そういう“好き”だよ」
    「仕事以外で?」
    「うん」
     貴奈子は遠藤の言葉に息をのんで彼を見つめている。その仕草が素直すぎて、遠藤はまた笑いがこみ上げて来た。多分自分は、彼女のそういう部分がたまらなく好きなんだろうなと思った。
    「えっと、どういう……」
    「まだ言わせる?」
    「え、わかんないし……」
     遠藤はさすがに困って額に手を当てた。
     そのままうなだれて、観念したように言った。
    「付き合ってほしい。彼女にしたい。独り占めしたい。そう言う気持ちだよ、わかる?」
     目を閉じていたので、遠藤には貴奈子の表情はわからない。しかし、かすかに、「わかりました……」という声が聞こえた。
     わかってくれたか、と彼は顔を上げた。
     目に入ってきたのは、呆然とした貴奈子の姿だった。床の一点を見つめている。
    「あのさ」
     遠藤はその様子に思わず付け足した。
    「それは俺の勝手な希望だから、気にしなくていいんだよ? 気を遣わなくていいし……」
     そう言いながら、胸が詰まった。言わない方がよかったのかな。仕事仲間というだけで終わっていた方が、ラクだったのかな。
     貴奈子はふと思い出したように遠藤を見た。
    「あの、それ……連絡していいですか?」
    「え、連絡?」
     遠藤は意味が分からず尋ねた。
     貴奈子は急に嬉しそうな笑顔を見せた。
    「はい! オザたちが一生懸命応援してくれたから、このこと、報告したくて!」
    「え、ええ?」
     遠藤は必死に首を横に振った。
    「ダメダメ、そんなのダメだよ」
     しかし、貴奈子はもう携帯電話を取り出してメッセージアプリを起動させようとしていた。
    「ちょっ、古川さん!」
     遠藤は貴奈子の手を掴んで止めようとした。
    「恥ずかしいから、それ、今はやめて……」
     操作をやめさせるつもりが貴奈子の体を押していた。正座していた貴奈子はバランスを崩して倒れ、遠藤の腕の下になった。

     遠藤は両手を床についていた。真下にいる貴奈子と目が合う。
     何も言えなくなった。
     貴奈子の赤くなった顔を見ると呼吸が止まりそうになる。
    「遠藤さ……」
     ……そんな声、出すなよ。
     怯えるような小さな声。これが、あの、いつもはしゃいでいた古川貴奈子の声?
    「ご、ごめん」
     遠藤が体を退こうとすると、貴奈子にギュッと両腕を掴まれた。
     動けない遠藤に彼女は言った。
    「もう一度、言ってください」
    「え?」
     今、この状態で、何を?
    「好きって、言ってください」
     今、この、状態で???
     それは……酷だよ。

    「無理……」
     遠藤は心臓の音が体中に響くのを自覚しながら言った。
     貴奈子は上目遣いで睨んでいる。
    「言ってほしい」
    「言えない」
    「ケチ」
    「け、けち?」
     貴奈子が頬を膨らませるのを、遠藤は唖然として見ていた。

    #27 sweetな夜

     なんと言われようと、これ以上はカンベンしてほしい。
     このまま好きだと言い続けたら、部屋に入れてしまったことを後悔しかねない。
    「ごめんなさい。ホントはー」
     古川貴奈子は遠藤への表情を緩めると同時に、視線を彼の顔から外した。
    「私には気持ちを訊いてくれなんだなって思って悲しかった。……私は、何回だって遠藤さんの気持ち確かめたいのになあって」
     ほんの少し顔を横に向けて「ホントに私のこと、好きですか?」とぼんやりと訊く。
     そんな顔されたら、あんなに説明したのに、なんて軽く言い返せない。彼女の両手から力が抜け、遠藤の腕を自由にしてくれたのに、彼は動けなかった。

     今までの君の態度が、自分だけに向けてくれているものなのか確証がなくて。
     気持ちを知りたくて告白したようなもんなのに。
     訊けないから告白したんだよ?
     訊かないのは、関心がないってことじゃないよ。

     遠藤は一度ゆっくり瞬きした。意識とは無関係に溜息が出た。
    「気持ち、教えて」
     そんなふうに彼が言うと、貴奈子は一瞬黙り込んだ。
     彼女の言いたいことは分かる。『私が言ったから、そう訊いてくれただけですよね?』って言いたいんだろう。
     そうだよ。
     自信がなくちゃ訊けないから。君に催促されなければ、きっといつまでも訊けずにいたかもしれない。
    「俺のこと、好き?」
    「……はい」
    「ホントに?」
    「はい。好きです」
     貴奈子はとても嬉しそうな顔をしていた。
    「ずっとずっとずっと好きでした。いつになったら……どうしたら……私の気持ちわかってもらえるんだろうって思ってました」

     ああ、そういうことなんだ。
     確かに、訊かれなくちゃ言えないこともある。訊かれないのに言うと押し付けがましいと思われたり、愚痴っぽくなってウザがられたらどうしようって考えるのは、分かる気がする。
    「ありがとう。俺も不安だったから、嬉しいよ」
     彼女の表情に安堵の色が浮かんでいた。

     貴奈子は急に体を起こした。
     遠藤が慌てて体を浮かせ退こうとした時、急に彼女は彼の首元に抱き着きついた。
     遠藤は中腰のまま引っ張られ、バランスを崩しかけた。体勢が無理過ぎて、思わずまた片手を床につき、もう一方の手を彼女の背に回して引っ張られないように支える。
    「遠藤さん」
     彼女の声はするが、遠藤にその顔は見えない。肩や後頭部の方から彼女の声がする。倒れそうな遠藤は返事などする余裕がなかった。
     気付けば完全に彼女に抱きしめられ、自分も片手で彼女の背を抱いている状態だった。
    「遠藤さん」
     また呼ばれた。
    「……うん、聞こえてる……よ」
     普通に会話できる状態じゃないんだけど、と遠藤は思った。これ以上の力で引っ張られたら、彼女の上に倒れ込んでしまう。
    「ありがとう。私ね、気持ちをずっとわかってほしかったから……」
     彼女のふわりとした羽のように軽い髪が、遠藤の耳に押し付けられる。そして遠藤の感情をゆさぶるように、やわらかな体温も心地よい重みと共に彼の全身に伝わってくる。

     彼女の気持ちが、伝わりすぎるほど伝わってくる。
     こんな中途半端な状態じゃなく、もっとしっかりとこの両手で抱きしめたい。
     強くしがみついてくるのは、まだ俺の気持ちに不安を持っているせい? こんなに、たまらく好きなのに。
     それとも、ただ俺を試しているだけなの? ただ、刺激して楽しんでるの?
     それは俺の被害妄想? わからない。何が正解?

     遠藤は腰を落として彼女を持ち上げるように引き寄せた。貴奈子の体重を自分の体全体で受け止めると、両手は自由になり、もどかしい状態から解放された。やっと彼女を抱きしめることができた。

    「まだ、訊きたいことがあるんだけど」
     お互いの顔が見えないのは、さっきと変わらない。
     遠藤の声に、彼女が頷いている様子が目の端に見えた。わずかな振動も伝わる。引っ張られて逆に不安定な体勢で、遠藤にもたれかかっている貴奈子は、体を少し緊張させていた。
     その僅かな震えを愛しく思いながら口を開いた。
    「俺は“彼氏”にしてもらえるの?」
     彼女は「え?」と訊き返した。
    「このままじゃ、感情のコントロールができないよ」
    「あ……そうですよね……」
     小さな声で答える。
    「今から“俺の彼女”って、思っていい?」
    「はい」
     遠藤が強く抱きしめていた腕を解いた。
     彼女は解放されて、背をただして遠藤の前に座り込んだ。それでもお互いの太ももが交互に入り組み、触れ合うくらいの近さにいる。
     貴奈子は遠藤の目の前で、悪戯っぽく笑った。
    「だから、もう一回、好きって……」
     貴奈子が言いかける前に、遠藤はすっと顔を近づけた。
     彼女が息を止めるのを見て、ゆっくりと口づけた。

     心拍数上がりっぱなしだっていうのに、何回好きって言わされるんだろう。
     “君の彼氏”になれたんなら、もう言葉じゃなくても、いいよな。



    (3月15日 火曜日 夜10時頃)

     遠藤は事務所で溜息をついていた。
     誰のせいとは言わないが、販売部から3人も一気に辞めるらしいので、仕事が終わらない。隣の片岡が「なんか手伝おうか?」と気遣ってくれるほどだった。
    「そう言えば、片岡」
     手を止め、片岡を横目で見た。
    「なんだ?」
     ずっと態度が硬化していただけに、片岡は何を言われるのかと身構えた。
    「最近ずっと、愛想悪くてごめん」
    「ああ、いや……」
     少し視線を逸らして俯く暗い表情の遠藤を見て、片岡は自分の方が悪いことをしていたような錯覚に陥った。
    「気にすんな。俺も気にしてない」
     遠藤は少しだけ片岡の方を向いて、笑顔を見せた。
    「なんか、いろんなことが自分の中で消化できなくてさ。今も混乱してて、俺、どう受け止めればいいのか……。どう言えばいいのか……」
     疲れた口調でそう言った。
    「ああ、同情するよ」
     片岡はそう言いながら、深くつっこむことができずに勝手に想像していた。
     バイトが辞めて店長に叱られて、元気がなくなってしまったのか。それとも、貴奈子が店を辞めたと知らされて、ショックを受けているのか。
    「で、消化、できそうか?」
     片岡は尋ねた。
    「ん……」
     遠藤の表情は、消化できていないとはっきり語っていた。

    #28 sourな一日

     翌朝遠藤はシャワーを浴びた後、言い知れないけだるさに襲われた。バスタオルを頭から被り、床に座ったままベッドに上半身を凭(もた)せ掛けた。
     一昨日、古川貴奈子が部屋に来た夜、幸福な気持ちで別れるはずだった。
     しかし、別れ際の会話が遠藤を奈落の底に突き落とした。
    『ピアノ教えるの平日の夕方だけだから、週末に旅行の計画たててるんです。アツシは大学生で、土日ヒマそうだし』
     遠藤は訊き返さずにいられなかった。自分の耳を疑った。
    『土日って……一泊旅行?』
    『はい。やっぱ温泉宿で泊まりたいしー』
    『アツシ……と2人?』
    『ううん、もう一人います』
    『それ、男? 女?』
     彼女は平然と、『男です』と答えた。
     多分、彼女は悪気も無いし、他意も無い。意図的に遠藤の様子を見ようとしているのとは違うはず。
     だからこそ、怖かった。わざとの方がよっぽどいい。付き合ってもいない男と旅行を心底楽しめる貴奈子の神経が怖いのだ。

     友達なんだよな。友達なんだ。
     そう言い聞かせるが、胸のざわつきは収まらない。
     俺の気持ち、ホントにわかってないみたいだ。あんなに頑張って説明したのに!!
     マジでもう許してほしい……。

     職場で彼女を見る事はもうできない。仕事は夜遅い。土日はほぼ出勤。そんな環境で、どうやって貴奈子の天真爛漫すぎる行動を把握できるというんだろう。
     だいたい、小沢ら3人組だって貴奈子と仲が良すぎる。多分仕事を辞めても友人関係は続くんだろう。それには本当に下心が無いと言えるんだろうか。
     男女の間に友情は成立するのか、みたいなテーマにまで問題は波及する。
    「ああ、もう……」
     遠藤は閉じた目を開けることができなかった。考え出すと夜もろくに眠れない。疲労困憊(こんぱい)のまま一日が始まる。


    (同日 午後7時頃)

    「なんか、遠藤さんの視線が痛いんだけど」
     仕事の手が空いた時、オザがコマチに言った。
    「あ、オレもそう思ってた。もしかしてオレらが辞めることで怒ってんのかなあ。遠藤さん、怒ったりしない人なんだけどなあ……」
     コマチも不思議がった。
    「結構疲れた顔してるからイラついてんのかな」
     そんな風に2人が話しているところへ、ボーダーがやって来た。
    「遠藤さんに、飲みに行こうって誘われた」
     コマチは「へえー」と驚いていた。
    「いや、へえーじゃねえよ。おまえらも行くんだよ」
    「え、オレらも?」
     コマチとオザは目を丸くした。
    「オレ高校生なんだけど」
    「それに遠藤さんだって、飲めないし」
    「あの人オレらのせいで遅くまで仕事してるらしい。そんな忙しい時に話があるっていうんだから、何か重大な用件があるのかもしれん」
    「やっぱ、オレらのことで怒ってんの?」
    「そんな感じではなかったが……」
     3人は遠藤の思惑など想像できていなかった。


    (同日 午後11時)

     遠藤が3人の待つ居酒屋に顔を出した。
    「悪いね、遅い時間に」
     遠藤が3人に謝った。
    「オレら明日休みですから、構いませんけど」
     コマチが言うと遠藤は承知していたようで、
    「うん、だから今日しかないなあって思ったんだけど」
    と笑った。
     その力ない笑顔に3人は危機感を持った。彼の目が笑っていないことに気付いてしまった。
    「小野くん、アルコールはだめだからね」
    「わかってますけど。じゃ、なんで……」
     遠藤はコマチの話を最後まで聞かず、生ビールを頼んでから3人を見渡した。
     その視線を受けて何か言われる前にオザが訊いた。
    「遠藤さん、飲んで大丈夫っすか?」
    「ん? うん。飲んだら眠れるかなと思って」
     相変わらず遠藤は緩い笑みを浮かべている。
    「疲れてそうだな」
     ボーダーが気遣って言うと、
    「うん、おかげさまで」
    と返ってきた。
    「い、嫌味だな……」
     コマチが顔を引きつらせた。言ってることが、“らしく”ない。
     オザはたまらず訊いた。
    「迷惑かけたから、怒ってんですか?」
     遠藤は運ばれてきたビールをぐいぐい飲んだ後、オザに言った。
    「迷惑? あ、辞める件? 今日言いたいことはそれじゃないんだ」
     3人は視線を交錯させた。
     じゃあ、一体何なんだ。

    「オレね、最近付き合い出した子がいてさ」
     遠藤の口から出て来たのは思いもよらない言葉だった。3人とも思わず動きを止めた。
    「その子があまりにも自由奔放なんで、ちょっといろいろと神経使っちゃってね」
    「そ、ですか……」
     まさか遠藤から貴奈子のことを話題にするとは信じられなかった。
    「わかるよね、君らなら、彼女の性格……」
     3人はしっかりと頷いた。
    「念のため訊いておきたいんだけど」
    「はい」
    「君ら、彼女のことどう思ってるの?」
    「え?」
     3人は、遠藤の質問に絶句した。
     遠藤はあっという間にビールを飲み干して、2杯目を頼んでいた。その様子に3人は尋常じゃないなと気付き始めた。
    「遠藤さん、飲み方おかしいっすよ。なんか食べないと」
    「いや、酔いたいし」
     どう考えても遠藤が、いや大人の男が言う言葉では無い。
    「どうしたんだ……」
     ボーダーですら溜息を吐いた。見てられないという顔をした。
     遠藤は相変わらず笑っていた。
     これは、体と精神を壊す一歩手前だなと3人は思った。

    #29 SWEETな朝

    (3月17日 木曜日 午前1時半)

     3人は遠藤を介抱しながら、居酒屋を後にした。酔いつぶれている遠藤をマンションまで送らねばならない。もう電車もないことだし、3人とも遠藤の部屋に泊めてもらうつもりだった。

    「こんなになるまでのめり込むほど、キナコっていい女だっけ?」
     コマチが首を傾げた。
     ボーダーがふっと笑った。
    「ま、そりゃ、相性だろ。遠藤さんにはキナコがちょうどいいんだよ」
     それでもコマチはやはり首を傾げていた。
     オザも、
    「オレらまで疑われるなんて思ってもみなかったわ。宣戦布告されるかと思った」
    と、納得がいかない顔で呟いた。
    「恋愛感情なんて持ってたら、遠藤さんとキナコの応援なんかしねーっつんだよ」
    「でも、遠藤さんも一応確認して、不安解消したかったんじゃないか?」
    「なんかボーダー、やけに遠藤さんの肩持つなあ」
    「だってオレらにも責任あるだろ。遠藤さんがキナコのせいで体壊したらどうすんだ」
     ああ、と2人は頷いた。
    「今度は遠藤さんの応援かあ。忙しいなあ。バイトやめるんだけどなあ」
     コマチは笑って言った。
    「キナコは矯正しようがないけど、少しは遠藤さんのけなげな気持ちを教えてやらねーと」
     3人はそんな話をしながら、殆ど意識の無い遠藤をマンションに連れ帰った。
     そこで思わぬものを見た。
     貴奈子が遠藤の部屋のドアの前で座り込んでいた。

    「遠藤さん!」
     貴奈子は、目を閉じてボーダーの背中に体を預けている遠藤に気付いて、走り寄った。彼女は3人のことなどまるで眼中にないようで、遠藤に抱き着いた。
     遠藤はうっすら目を開けたが「あれ?」と言ったきり、また目を閉じた。
    「遠藤さん」
     貴奈子は泣きそうな顔で遠藤を見つめていた。
     ボーダーはコマチに遠藤のカバンの中を探るように言った。すぐにコマチは部屋の鍵らしいものを見つけ、貴奈子に渡した。
     貴奈子は渡された鍵でドアを開け、固定してから3人を見た。彼女の表情は緊張で強張っている。
    「大丈夫だって。ちょっと飲み過ぎただけだし」
     オザが言っても不安そうに頷くだけだった。
     ボーダーは遠藤を背負ったまま部屋に入ると、ベッドまで連れて行った。
     貴奈子はそのベッドの元で、泣き出しそうな顔のまま遠藤を見つめていた。
     少し戸惑っていた3人だったが、「あとはよろしく」とだけ言い、連れだって部屋を出た。

    「タクシーで帰るかあ」
    「俺んち来る? 親今日いないし」
    「おー、じゃ、そうしよう」
     3人はそう言った後、少し沈黙した。
     そして、とうとうコマチが言った。
    「遠藤さんの気持ちがわかったような気がする。付き合い出すと女って変わるな」
     オザも溜息をついた。
    「うん、あそこまで愛情注がれたらなあ……。俺、もうアイツのこと、ガキとか言えなくなるわ」
     ボーダーも笑って、
    「なんていうか、不可抗力ってやつだな」
    と言った。


     ベッドに横たわり服を着たまま眠る遠藤を、貴奈子はじっと見つめていた。
    「このままで寝るの? 遠藤さん」
     呟いて遠藤の髪を撫でた。
    「お願いだから、あんまり飲まないでください。心配……」
     ふと、遠藤が少しだけ目を開け、貴奈子を見た。一瞬笑ったように見えたが、すぐ苦い顔をして、体を起こした。
    「はあ……苦し……」
     そう言ってベッドから足を下ろし、貴奈子の前で俯いて座っていた。
    「遠藤さん?」
     そのまま彼は服を脱ぎ始めた。
     下着以外すべてを脱いだ遠藤は、ぼんやりと目の前の貴奈子の顔を見上げた。


    (同日 午前6時)

     遠藤は柔らかな香りに包まれていることをずっとどこかで意識していた。朝目覚めた時にその香りに気付き、そして体のしびれに気付いた。
     酒を飲んだ翌朝は目覚めるのが早い。尿意もあるし、多分眠りが浅いのだと思われた。
     何時だろうなと遠藤は起きようとしたが、体が動かなかった。
     重い。
     しびれている左腕にずっしりと重みを感じる。いや、感じる前にもう見つけてしまっていた。その重みの正体を。
     遠藤の隣で貴奈子が寝ている。彼の腕枕で、その体をぴたりと彼に寄せていた。腕の中で眠るその安らかな顔を見て呆然自失する。思わず右手で自分の体を確かめた。
     いつもはシャツとジャージで寝るのに、何も着ていない。下着だけだ。どうして?
     そして、部屋に帰りついたことも、ベッドに寝ていることも記憶にない。なぜ貴奈子がここにいるのかも全く憶えていない。
     遠藤は緊張しながら、自由な右手で、布団を少しだけ上げて中を覗いた。貴奈子はシャツを着ていた。
     ほっと胸をなでおろす。よかった。酔って無意識に、なんてことがあったら言い訳できない。
     それにしてもトイレに行きたいのに、貴奈子を抱いている左手をどうしよう。

     貴奈子の寝顔を見ていた。安心しきっている。
     しかし、尿意と共にちょっとした衝動があって困っていた。だからこそ、早くトイレに行きたいのに。起こすしかないのか。貴奈子の顔に掛かる長い髪をそっと右手ですくった。
     柔らかい頬に触れて、息をのんだ。目覚めぬまま小さく伸びをする彼女の首筋を見て、目を逸らした。
     しかし、ますます貴奈子は遠藤の首元に顔を寄せ、密着してくる。
     ダメだ。起こす! もうそれしかない。
    「貴奈子……」
     そう呼び掛けて、思わずうめきそうになった。
     なんで俺、今彼女のことを下の名前で呼んだ? しかも呼び捨て。ありえないんだけど。
    「あ、おはよ、陽己」
     な、なんでそう呼ぶ?
     サアーッと血の気が引いて行く。しかも、かすかに彼女にそう呼ばれた憶えがあるような……。勘違いであってほしい。もう尿意なんてどこかに吹き飛んでいた。
     何も言えずにじっと彼女の顔を見つめていると、ふと慣れたかんじで首の後ろに手を回され、笑顔でキスされた。
     この、とんでもなく自然な優しいキスは、何を意味する?
     でも、訊けない。絶対訊けない。
    「ごめん、トイレ……」
    「うん」
     貴奈子は遠藤が腕を抜く時、体を起こしてくれた。そして気付いた。そのシャツ、俺のシャツだよね。
     ドギマギしながらベッドから降りようとした時、床に散乱する自分の服と貴奈子の服が目に入った。

     そ、そうか。そうなんだな、そういうことだったんだよな……。

     あー、もう。
     なんで俺、そんな大事な記憶失くすんだろう。

    #30 君との時間

     付き合って二日で。
     記憶もなく。
     そんなこと許されるはずがない。
     もう一生、酒は飲まない。

     用を足した後、シャワーを浴びる元気もなく洗面で呆然と鏡を見ていた。力の入らない手で歯ブラシを握り、口にくわえたとき、遠藤の後ろを貴奈子が通った。
    「シャワー借りていい?」
    「う、ん」
     思わず、彼女がバスルームへと向かう後ろ姿を見ていた。長く引きずって歩いているのは、いつも寝る時に着ている自分のジャージ。シャツも自分が持っているものの中でも気に入ってるもの。
     俺が手渡したとしか考えられない。
     もういまさら戸惑っていても始まらない。わかってはいるが自分の酒癖の悪さに辟易する。申し訳なくて謝りたい所だが、そんなことすれば傷つけるだけだ。
     洗顔を終えて、遠藤は床に散らばった自分の服を見た。情けない気持ちで上着を拾ってハンガーにかけた。貴奈子の服も拾い、ベッドの上に乗せた。
     それにしても。
     遠藤はなんとなく気になってベッドの傍のゴミ箱を覗いた。それらしい形跡がない。ティシューボックスも、普通にテーブルの上に置いてあり、ベッドから手が届くとは思えない。
     んん? わからなくなってきた。でも訊くことができないことに変わりはない。
     ふとシャワーの音がやんで、少ししてから貴奈子が部屋に戻ってきた。
    「バスタオル勝手に使った」
    「いいよ」
     素肌にバスタオルを巻いただけの状態で、目の前に立たれ、遠藤は思わず目を背けた。しかし、わざわざその視界に入ってきて、彼女が訊く。
    「ねえ、陽己、きのうのこと憶えてる? どうせまた忘れてるよねえ?」
     無邪気に笑う。忘れられてもよかったのかと訊きたくなる。
    「わ、忘れてたら怒るだろ」
    「怒らないよ。白状しちゃいなー」
     なんて軽いノリなんだ。こっちは真剣に悩んでいるのに。それにしても、さっきからなんか、彼女の口調に違和感を感じる。
    「忘れて……ないって」
    「ふうーん」
     貴奈子はベッドの上に置かれた自分の服を見ながら言った。
    「ウソツキ」
     言われて、遠藤はその違和感が、敬語が消えたせいだと気づいた。タメ口だ。しかも彼女だけじゃない。自分も、気づかぬうちにぞんざいな口調になってる。
     貴奈子は服を持ってまたバスルームの方へと戻っていった。彼女が部屋に帰ってくるまで、遠藤は床に座ったままぼんやりしていた。もうカノジョなんだし、タメ口でもいいんだよ。いいんだけどさ。なぜ今朝、急に?
     服を着た彼女が傍にやって来て目の前に座った。
     濡れた髪からは遠藤のシャンプーの匂いがする。
    「きのうね、陽己、ボーダーに背負われて帰って来たんだよ」
     貴奈子は困っている遠藤を見透かすように優しく笑った。
    「あ、ああ……」
    「スーツのまま寝ちゃったから、どうしようかって思ってたら、急に起きてね、寝苦しいって服脱いで、シャツとジャージを持ってきたの」
     何も言えず、彼女の顔を見ていた。
    「古川さんも早く服脱いで、もう寝ようって言われた。そのとき、私にシャツとジャージ貸してくれたんだよ」

     そうか、そうか。じゃあ、何もなかったんだ。

     多分、俺は急に表情を変えてしまったのに違いない。貴奈子がクスクス笑いだした。
    「おいでって手を引っ張られて、服脱がされたから、ちょっと期待しちゃった」
    「え……あ……」
     なんて言っていいかわからず、彼女の笑顔をチラチラと見た。
    「安心した?」
     完全にバレている。

     遠藤はシャワーを浴びながら、ホッとすると同時に小さな疑問を持った。
     それじゃあなんで彼女の名前が、当たり前のように俺の口から出たんだろう。彼女も俺のことを陽己と呼んだ。そして起きたときのあの超自然なキスは、突然のタメ口は、一体……。
     バスルームを出てタオルを腰に巻き、そのまま部屋に戻った。
     貴奈子は服を着たままベッドで横になり、天井を見つめていた。
     遠藤はタオルで髪を拭きながら、横目で彼女の姿を見ていた。今は8時前。あと3時間ほどで彼女と一緒にいる時間は終わるんだなと考えていた。
     次はいつ会えるんだろう。
     なんとなく足がベッドへと向かう。彼女が遠藤の方を見た。
    「服は?」
     彼女に訊かれた。服どころか、タオル1枚だけ。下着すらつけていない。そのままの姿でベッドの上にのぼると、彼女は驚いた目で彼を見つめた。
    「キスしにきた」

     彼女の上にかぶさり、体重をかけないようにして顔を近づけた。
     恥ずかしそうに笑う彼女の表情に少しだけ満たされないものを感じた。
     微笑む場面じゃないんだけど。
     唇を軽く触れ合わせ「貴奈子」と呼ぶと、彼女は閉じかけた目を開いた。すぐにまた瞳を伏せたが、見覚えのある表情で、彼女はキスの合間に吐息を漏らした。

     記憶の糸口が見つかると、少しずつ思い出していった。


     酔った俺は、ベッドの上にのせた彼女と向かい合って座っていた。
    『みんながみんな、貴奈子って呼び捨てにするの、ちょっとムカつくな』
     そんな事を言ったような気がする。多分バイト3人組のことが頭にあったんだろう。
    『私は遠藤さんだけが名字で呼んでくれてたの嬉しかったです。なんかちょっと、特別な感じがしたから』
    『じゃあ、ずっと古川さんでいい?」
     そんな子どもっぽい質問をした。そしたら彼女は笑ったんだ。
    『全然いいですよ。私もずっと、遠藤さんって呼びたい。そういうの、なんか逆に新鮮ですよね』
     どこまでも、予想できないことを言う子だなと嘆息する。
     でも、キスして、服を脱がせていくうちに、遠藤さんと呼ばれるとため息だけでは済まなくなってきた。
     ひどく萎えた。
     俺、この子のなんなんだろう、と思い始めて、どんどんヘコんでいく。
     名字を呼ばれるたびに職場を思い出し、集中できないだけでなく罪悪感も湧き上がる。
     押し倒したのに続きができなくて、貴奈子の顔をずっと見つめていた。
    『遠藤さん……?』
    『ごめん』
     気持ちが落ち込むと、酔いと疲れと眠気で、体から力が抜けた。バタンと倒れるように彼女の隣に横たわった。
     そんな俺を見て、彼女なりに気を遣ったのか、この耳元に唇を寄せて言った。
    『陽己って呼ばれても、嫌じゃないですか?』
     その後は自分達がどんな話をしたか思い出せない。半分寝てたのかもしれない。
     でも、きっと嬉しかったから、彼女を抱きしめて眠ったんだと思う。


     キスをやめて、彼女のまだしっとりとしている髪に触れた。
    「きのうの続き、してもいい?」
     貴奈子は大きな目をさらに大きくして遠藤を見つめた。すぐに「ダメ」と拒まれた。せつない顔で首を横に振る。
    「嫌?」
    「そうじゃ、なくて」
    「付き合ってまだ浅いから?」
     まだ三日目。不謹慎すぎて呆れてるかな。
     そう思われてもいいと思ってしまう。
    「そんな理由じゃ、ないよ……」
    「じゃ、なんで?」
     俺の気持ち、何度でも確かめたいって言ったのは君だろ。
    「だって、キスしに来ただけかと思って……心の……準備が……」
    「いつ準備できるの。俺、もう準備できてるんだけど」
    「でも……」
     そう言う彼女の首筋をキスで撫でていく。多分もう、抑えがきかない。

     それでも、もう一度だけ訊いた。
    「いいよね?」

    「……待って……陽己……」
     そんな甘い声で名を呼ばれて、素直に引き下がる男なんていない。

    「無理、待てない」


     だって、本当に嫌なら、やめさせる方法は知ってるはず。

     “遠藤さん”って呼べばいいんだよ。

    #31 新たな日常

     男とは浅はかな生き物である。
     好きな人の反応すべてに一喜一憂する。素直に、顔には出せないけれど。
     愛を注いだ分だけ相手を独り占めできている気になり、同じように自分にも強い想いを抱いてくれると疑いもしない。
     

     遠藤も貴奈子の肌のぬくもりで安心しきっていた。
     最初に拒んでいたのはポーズだったのか、それとも本当に気持ちが傾斜したのか、それははっきりとはわからないけれど、確かに彼女は今、遠藤を強く求めてくれているはずだ。
     ピンク色の体を隠すことも無く、とろんとした瞳で見つめる。
     え、もう一回? と訊きたくなるほど、色っぽい姿態で遠藤にすり寄る。
     それは勿論嬉しいし応えたいけれど、残念ながら遠藤はこれから仕事だった。

     貴奈子は名残惜しそうにベッドから這い出ると、服を着てキッチンに立った。
    「おなかすいたね」
     彼女が笑うので、遠藤はぎこちなく頷いた。
    「昨日ね、買い物しておいたんだよ。ごはん作ってあげたくて」
     そんなことを言う貴奈子の横顔を、遠藤は魂を吸い取られたような表情で見ていた。ただ、見惚れていた。
     料理ができるという技能的なことではなく、こんなけだるい状態でも料理を作ってあげようという気持ちでいてくれることに感動していた。
     貴奈子は、調理器具も調味料も殆ど無いキッチンで、オムレツと、ほうれん草とベーコンのソテーとパンケーキをササッと作った。
    「すごい」
     遠藤はテーブルに並んだ食事に驚いていたが、貴奈子は逆に戸惑っていた。
    「そんな、驚かなくてもいいのに」
     貴奈子は笑いながら「ね、また作るから、とりあえず炊飯器が欲しい」と言った。

     職場の貴奈子の姿とはまるで違う部分ばかりを見せつけられた。
     期待していなかった分だけ、衝撃が大きい。
     この時点で、非常に不利な立場に追い込まれていた。
     恋愛は惚れた方が負け、とよく言うけれど、確かにシーソーが傾き過ぎると、もう地に足つかない。相手が手加減して腰を浮かしてくれるのを、ただ待つだけ。
     ベッドの上でぼんやりとしていた貴奈子の姿を真似たつもりは無いが、テーブルの前でぼんやりする遠藤だった。

     だから、貴奈子の口から、そんな言葉が出てくるとは想像もしていなかった。
     こんなに幸せな場面なのに。

    「あのね、土日の旅行、箱根に決めたよー」
    「え……」
     遠藤は思わず体を硬直させ、フォークを持っていた手もピタリと止めた。おかげでテーブルにオムレツがペチャと音を立てて落ちた。
    「あー、もう……」
     貴奈子はまるで子どもでも相手にしているかのように優しく笑った。そっとペーパーで汚れたテーブルを拭く。
    「それは、この前に言ってた……」
     遠藤は無理に笑おうとして、顔を引きつらせた。
    「アツシと、かな……?」
    「ううん。今週はアツシ用事があるんだって」
     遠藤は真顔になって、貴奈子を見つめた。
     それは“用事がなければアツシと行くはずだったけど残念ながら今回は無理だった”と聞こえるんだけど。
    「じゃあ、誰と行くの」
     遠藤は訊くのが怖かったが、訊かないわけにはいかなかった。
    「マサト」
    「マサト?」
    「うん。マサト」
     それは、誰でしょうか。女性の名前でないことだけは確かだ。アツシ以外に一緒に行くと言ってた、もう1人の男か?
    「2人で?」
    「うん。ほかの子あたってみたけど、行けないらしくて」
     遠藤は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
     胸の辺りがカッと熱くなった。これは怒り? 嫉妬? なんの感情かわからないが、体が震える。
     言葉が出てこない。

    「楽しみだなー。陽己にお土産買ってくるね。あ、土曜の夜、11時くらいなら電話かけていい? やっぱり声聴きたいし」
     遠藤はまた呆然とさせられていた。
     言ってることとやってる事が真逆なんだけど。それは君の中では矛盾しないで並立するの?
     深い溜息をついた。
     そして、低い声を出した。
    「ダメ」
    「え? やっぱり電話は無理?」
     残念そうな貴奈子に、遠藤は半笑いになって言った。
    「違う、電話の話じゃなくて、リョ、コ、ウ。旅行がダメ」
    「えー? なんでよお。必死で宿とったのにー」
    「絶対にダメ」
     遠藤の態度に、貴奈子は不満そうに頬を膨らませた。
    「なんで? 一緒に行くのが男だから? でも悪いヤツじゃないよ? 友達のカレだし」
    「じゃあ、その友達も一緒でもいいのに、なんで2人なんだよ。大体友達に悪いとか思わないの?」
    「別にあの子は気にしてないと思うけど」
    「それは貴奈子が勝手に思ってるだけ!」
    「うー」
     彼女は取り付く島の無い遠藤を見て、溜息をついた。
    「女の子と行ったらいいだろ」
     遠藤はコーヒーを一気に飲んで立ち上がった。
    「女同士だって安心するのおかしいよ。旅先でナンパとかされたりしたら……てゆーか、恋を探しに行くっていうかんじもあるしー」
     遠藤はそう言う貴奈子の口を指で抑えた。
    「よし、わかった。男でも女でも旅行はダメ。泊まりも日帰りも全部ダメ」
    「ええー! ウソでしょー!」
     彼の指を払いのけて怒る貴奈子は、職場でよく見た姿だ。つい可愛いと思ってしまう自分を恨めしく思う。ここは断固不許可の姿勢を貫かないと、また仕事が手につかない、眠れないということになる。
    「家族と行けよ」
     彼女はブンブンと首を横に振る。
    「……だからー」
     出勤する時間が迫る。ネクタイを締めながら、彼女を見た。
    「旅行は俺が土日休める時だけ、な。それで我慢して」
    「そんなのほとんどないくせにー」
    「じゃあ聞くけど、貴奈子は俺が元カノと一泊旅行しても平気なのか?」
    「い、嫌……」
    「ほらな」
     遠藤が勝ったように笑うと、貴奈子は苦い顔をした。
    「だって陽己、飲んだら何するかわかんない」
    「人をケダモノみたいに……」
     でも、前科があるため、強くは言えない。

     遠藤は貴奈子には背中を向けたまま、上着に袖を通して溜息をついた。
    「行ってほしくない」
     そうボソリと言った。
     遠藤は斜めに振り返り、貴奈子を見つめた。
    「土曜の夜も、日曜の夜も、一緒にいたい。声だけなんて嫌だ」
     言っていることが大人げない。恥ずかしいとは思いながらも、言わなければ貴奈子を止める手立てはない。
    「週末だけじゃなくて、毎日毎晩一緒にいたい」
     遠藤はそう言ってカバンを持つと、玄関に向かった。
     貴奈子が慌ててついてくる。
    「行ってくる」
     遠藤は貴奈子に言い、そっと頭を引き寄せて5秒間、唇を重ねるだけのキスをした。
     そして黙ったままの彼女の髪を撫でた。
    「旅行、行ってもいいよ。気を付けて」
     遠藤はそれだけ言って、部屋を出た。

     貴奈子をしばりつけることなんてできないから、自分が貴奈子に寄せてくしかないんだなと遠藤は諦めた。
     それは降参ということかな。勝てないと認めたことになるのかな。
     彼女が毎週末、男とデートするのを黙って見送る。
     そんなの、ただのバカだな。

     遠藤はぼんやりと考えながら、店への道を歩いていた。

     ふと声が聞こえた。
     名を呼ばれたような気がして立ち止まり、振り返ろうとすると、背中にドンと何かがぶつかった。
     貴奈子だった。
     背中に突進してきた彼女は、両手で遠藤にしがみつくように抱きついていた。
    「貴奈子……」
     驚く遠藤に、彼女は言った。
    「私、前は台車でぶつかったり、脚立にぶつかったりして、遠藤さんに迷惑かけてた。わざとじゃないし、ヘコんだけど、それって遠藤さんの近くにいたかっただけなんだよ」
     背中の様子は見えないが、腹に回された手には力がこもっている。
     遠藤は安心させるように言った。
    「迷惑だとか、わざとだとか、そんなこと一度も思った事ないよ」

     貴奈子が少しだけ首を振ったのが感じられた。
    「でも今、ぶつかって、こうしてるのはわざとだよ。わざと引き留めてるの……仕事に行っちゃうのも寂しい。離れたくないって思ってる。ほんとに」

    「やっぱり旅行より遠藤さんの傍がいい。だってあんなに近くにいたいと思ってた夢が叶ったんだもん。わがまま言って、ごめんなさい」


     彼女が必死に伝えようと気持ちを口にしているのがわかる。
     だからかな。”遠藤さん”と連呼する。

     彼女が好きなのは、”遠藤さん”なのか。
     そんなに純粋に”遠藤さん”は愛されてたのか。
     思わず、苦笑した。
     気を遣わせてごめん。
     もう、そう呼ばれたとしても、落ち込んだりしない気がする。
     
    「じゃあ、一緒にいられるんだ」
     貴奈子は遠藤の背中で「うん」と言った。
     まだ背中から離れようとしないのは、不安なのかな。
     だから遠藤は、声をかけた。
    「一日の中では少しの時間しか作れないかもしれないけど、一緒にいられる日はこれからも続いてくから」


    「ずっと前から、ずっと先まで、”古川さん”を大切に想ってるよ」


     こんなことを言える自分に驚く。
     でもいろんな日があるから、
     甘い事言いたい日だってあるよな。



    <END>

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