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    M of L

    part 1 : Look at me!

    第1話 私の彼は

    (1)
    「……………………」
     無言でゲームをしているこの人は、おそらく私の彼氏と考えて良いはずの人、上野紘一(うえのこういち)。26歳で、某一流企業の社員。
     今日は一応デートをするつもりで会いに来たのに、彼は目の前にいる私、夏原夏(かはらなつ)の姿が見えていないらしい。
     3月になったばかりだから、まだ寒い。どこかへ出かけるのが嫌なら部屋でくつろぐのも悪くない。彼はとても……リラックスしている。ここは彼の実家のリビングだから。
     それはいいよ。デートに場所なんて……多分、関係ない。それが問題なんじゃない。
     彼に話しかけても反応しないので、辛抱強く彼がゲームをやめるのを待っていた。でも、一向にやめる気配がない。私、何をしてるんだろう。


     付き合い始めたのは去年の7月21日。
     昼休みにトンカツ屋さんでたまたま相席になり、私が一目ぼれしてしまった。その時は紘一も優しかったし、付き合わないかと言ってくれたのも彼からだった。
     当然ラブラブな日が始まるんだと思っていたのに、すぐに相手をしてもらえなくなった。
     忙しいからと言う理由で平日は連絡が無い。それだけでなく、こっちからしつこく連絡を入れないと日曜ですら会おうとしてくれない。電話もメールもラインも盗撮も盗聴も、何もない。
     どうしてこんな可愛い彼女を放っておくの。
     もう付き合って7カ月と12日になる。
     確かに付き合ってる期間は長いけど会った回数は少ない。会話もあまりない。それを考えると仕方ないのかなあとも思うけど、もっと進展しててよくない? または、とっくに別れてても不思議じゃないよ。
     なのに中途半端な毎日が続く。お互いのプライバシーには全く触れることなく、いまだ、”実家のお茶の間”どまり。
     愛の言葉はない。
     ボディタッチもない。
     キスもない。
     当然……その先があるわけない。

     泣きそうだ。いや実際、眠る時には涙しているんだよ。

     とにかく、やっと会ってくれた今日、日曜日。2時に来いと言われたからキッカリその時間に来てみると、紘一はまだ寝ていた。そして起きて来て食事もせずにすぐに”実家のお茶の間”でゲームを始めた。
     ご飯も食べずにゲームする気だったなら、なんで私を呼んだのさ。
     でも、私からしつこく会ってほしいと言った手前、紘一に不満をぶつけられない。会いたくてたまらないのはいつも私の方。私の立場は弱い。冷たい態度も強く批判できない。

    「夏ちゃん、来てくれてありがとうー」
     紘一の妹の美羽(みわ)ちゃんが笑顔で紅茶を運んでくれた。もうすぐ大学を卒業する彼女。もう、どこの男だって惚れるでしょうっていうくらい超かわいい。仕草も、話し方も、表情も、何を取ってもアイドル並み。あざといと感じる時もあるけれど、それは胸にしまっておこう。
     そんな美羽ちゃんの兄である紘一も格好良い。うん、ここは強調しておこう。私の周りの男子の中ではダントツに格好良い。
     ただ、なかなか会えないから、その顔を忘れそうになる。
    <きっと疲れてるのに、無理して私のために時間を作って会ってくれたんだ……。今日は、紘一の顔をしっかり見て帰ろう>
     もう、そう考えることでしか自分を救えない。なんとかヘコまないようにするけれど、やっぱり無理。絶対無理。思わず俯いて泣いていると、紘一がスッとティシューの箱を私の前に差し出す。
     なんで、それだけなんだよっ!!!
     言葉くらいかけて。その前に泣かせないでっ。
     でも、でも……。
     今日はウザい顔されなかったから、良しとすべきだよね。

    (2)
     美羽ちゃんが私の顔を見て、申し訳無さそうに尋ねる。
    「お兄ちゃん、優しくしてくれます?」
    「えっと…………。たぶん……優しい……んじゃないかな……」
     会ってくれないし、甘えさせてもくれない。でも、どうしてかな、憎めない。やっぱり格好良いからかなっ。でへへっ。
    「そうですかあ」
     美羽ちゃんが俯いたので、私は紘一には聞こえないように尋ねた。
    「どうかしたの?」
    「……実は、お兄ちゃんね……」


     その日も、リビングで美羽ちゃんや彼の両親と話していただけで終わる。約4時間待っていたがだめだった。
     夕飯時になったので失礼することにした。彼の家族には、ご飯食べていってと誘われたけれど辛い。辛すぎる。だって紘一は顔を上げずにまだゲームをしている。『食って帰れば?』なんて引き留めてくれることを期待しても無理。……なので丁重にお断りして彼の家を出ようとした。
     6時だった。ひとり暮らしをしているので、どこかで食べて帰ろうかなと思っていた。すると部屋の奥から紘一が玄関に出て来た。まさかのお見送り? いや違う。紘一は私の隣で靴を履く。どこかに行くみたい。
     紘一は家族に向かって言う。
    「外でメシ食ってくる」
     彼の家族は驚いていたし、私もなんでだろうと不思議に思った。
     紘一は私の前を通って玄関を出ながら「行くぞ」とだけ言った。
    「え゛」
     思わず口から疑問とも驚きともつかない、蛙のような声がでてしまった。

     どうも、私を車に乗せてどこかで食事をするらしい。らしいというのは、まだ彼に何も言われてないからだ。彼はいつもそんな感じ。
     でも、そんなことどうだっていい。二人で御飯を食べようと思ってくれるなんて! 超うれしいんだけど! どこへだって黙ってついていくから!

    「焼肉な」
     運転席で紘一はそう呟いた。おそらく、焼き肉にするけど文句があるならさっさと降りろ、の略。
     文句なんて言うわけないでしょっ。こんな貴重な時間は逃しませんて。

     でも……そうかあ。紘一って焼肉好きなんだ。知らなかったな。知らなかったよ……。私。こんなことも知らないんだ……。
     また果てしなく落ち込む。

     紘一は焼肉店に入ると、すぐにビールを頼んだ。
     ビール飲むって、つまりそれは……。
    「夏は何飲む?」
     紘一は、メニューを見ながら言う。私の顔を見てくれることも無い。
    「ウーロン茶」
    「ビールは?」
    「……今は飲めないよ」
     私まで飲んだら、誰が運転するのよ。
    「そう言えばそうだな」
     紘一は平然と運ばれてきたビールを飲み始めた。

     ク……。
     私を誘ったのは、単に運転手が必要だったってことかっ!
     そ、そんなことくらい全然へーきなんだからね。
     私は、こんなくらいじゃ負けないのだ。

    (3)
     私と紘一は同い年だ。
     よく言えば執着しない悪く言えば無関心な彼の態度からは、感情が見えなくていつも戸惑う。対人関係も希薄。特に、特に、この一番大切にすべき彼女の気持ちを考えたことがあるのかな。考える所まで期待しないから、私の顔や名前が頭によぎることはないの?

     ふと、美羽ちゃんの言葉を思い出す。
    「実は、お兄ちゃんね、夏ちゃんと付き合う前までは、1カ月くらいですぐ別れちゃってたの」
    「……へえー、……サイクル短いね……」
    「うん。理由知らないし、振ったのか振られたのかわかんないけど」
     間違いなく振られているはず。こんなにマイペースじゃ。
    「だから、夏ちゃんとはずっと続いてほしいな、と思って」
     それは……。
     私に言ったってさあ……。
    「だってお兄ちゃん、今まで女の子を家に上げたこと無いんだよ?」

     それってホントかな。とても好かれているとは思えないんだけど。
     期待せずにじっと我慢する。それが紘一と付き合うコツなんだよなあ……。


     食べ終わって車に戻ると、車内には焼肉の臭いが充満した。
    「くさいな」
     そう言ってから、紘一はガムを口に放り込んでいた。

     8時かあ……。
     紘一と付き合い始めて、急速に運転が上手くなっていく。そんな自分の彼女に対して、罪悪感というものは無いの?
     でも、車内の二人の距離には、わくわくする。かなり近いし、これって紘一もドキドキしてるんじゃない?
     赤信号になったので彼の様子を窺うと、……まっすぐ前しか見ていなかった。

    「紘一、どこか行こうよ」
     まだ8時だよ?
    「こんな臭いさせて、どこ行くんだよ」
     確かにそうなんだけどさ。臭いなんて気にならない場所だってあるでしょ。
    「……私の部屋とか……」
     そう言うと、彼はしばらく黙ってから溜息をついた。
    「なんで」
     思わずぐっと言葉を飲み込む。
     なんで……?
     それをわざわざ説明する必要があるかな。
    「い、……一緒に、いたいから……」
     私は恐る恐る口にした。
    「なんで」
     静かに問う紘一を凝視する。目が暗いよ。全くと言っていいほど顔に感情が浮かんでいないんだけど。

     そんな彼の寂し気な表情を見て思う。
     紘一はどんな時も感情的にならない。一流企業に勤めてる人だから、頭が良くて冷静なだけだと思っていた。
     でも……もしかすると孤独なんじゃ……。彼は冷たいけど、実は寂しがり屋で、わざと突き放して私の気を引こうとして『夏はなんで俺の気持ちに気付かないのかな』なんて言いながら、ちょっと上目遣いで子どものように睨んだりして、私が『だって紘一って何も言ってくれないし……』と言うと『夏と俺はお友達じゃねーよ!』『え、ちょっと待って紘一……』抵抗しても強引に彼に抱きすくめられて……
    「夏、信号、青」
     隣でだるそうな、単語だけの紘一の声がした。
     外国人に道を尋ねられて、なんとか応える日本人の英会話並み。

    (4)
     紘一の何時にも増して冷たい態度に動揺し、運転できず、車を公園の近くの歩道脇に止めた。
     すると紘一は、かなりウザそうな顔をした。
    「なんで停めた」
     さっさと帰れと? このまま紘一の家に彼を送っていって車を返してから、独り電車で帰れって? よくも女の子にそういうことをさせるなといつも思う。
     でももう、それでいいから、すこしくらい寄り道しようよ。それくらいはしたっていいはずだよ!

     私は運転席の窓を全開にした。もうヤケだ。
     真冬のような冷気が一気に車内に入り込む。
    「何やってんだよ」
     頭のてっぺんをペシッと叩かれた。
    「……だってさぁ……」
     つい不満の声を上げると、紘一はチッと舌打ちした。
     だって……。寒ければ、温かい場所に行きたくなるでしょ?! 冬はもう終わっちゃったんだよ?? いつ肌を寄せ合うっていうのよ。露出の多い季節より、震えながら抱き合う、みたいな、隠してこそ盛り上がる、みたいな、そういう色気がわかんないかな……。でも紘一になら、言ってくれればいつだって全部をさらけ出す覚悟はできてるんだから、なんでそこで遠慮しちゃうかな。『ほら、隠してないで全部脱いじゃえよ』とか言って、強引にセーターを引き上げてくれたら私もこの手を……
    「だってさぁ……?」
     紘一にギロリと睨まれて思わず竦んでしまった。
    「だってさぁって、なんなんだよ。言えよ」
     なん……。そ、そんな怖い顔する?
     私は尖らせた唇を一文字にしてから、ギュッと噛みしめた。
    「だって……」
    「なんだ、ほら、言ってみろ。言えるもんなら言ってみろよ」
     大量にアルコールを摂取している紘一だけど、そのせいで危ないお兄さん風に変貌しているわけではない。あくまでも口調は穏やか。それこそが、底冷えのするような声色になる。
     私が答えないでいると、紘一はまた舌打ちする。
     ……このまま黙っていても状況は良くならない。……仕方がない。
    「ねえ……私、ほんとに紘一の彼女なの?」
     つ、ついに言ってしまった。どうしよう、激怒されるかも!
     ある程度の暴言は予想していたけれど、紘一はもっと恐ろしいことを口にした。
    「彼女に昇格したいのか?」
     紘一は冷ややかに笑う。
    「……はい???」

     どういう意味よ。じゃあ、今の私は何なの? ……疑問に思ったけれど訊けない。怖い。怖すぎる。

    「なーんてな」
     紘一は私から目をそらして、窓の外を向いた。そしてそのまま呟く。
    「夏は、俺の彼女に向いてないな」

     向いてない?
     紘一の彼女になるのには向き不向きがあるの? 紘一に好かれているとかじゃなくて?
     それはこの前、課長に、
    『夏原(かはら)がプロジェクトリーダー? 無理無理。人には向き不向きってやつがあるんだよ。夏原にはそういう指導者的な素質が全くない』
    と笑われた、あの向き不向きですか? 紘一の彼女になる素質が全くないということですか。
     確かに私にはリーダー的素質は無いのかもしれない。マサミはリーダーを任されたことがあるけど、あの子は、ベッドでも私が彼をリードするのよ、とか言ってたな。私だったら紘一が相手だとどうなるんだろうって想像してみて、やっぱり私が紘一の服を脱がせて、なんてありえないて言うか……それもいいけ…………
    「おい、夏、聞いてるか?」

    「えっ……?」
     私が驚いて隣の紘一に顔を向けると、眉根を寄せてこっちを見ていた。
    「やっぱり聞いてなかったのか」
     彼はまた舌打ちした。

    (5)
     紘一はシートベルトを外すと、体を私の方に向けた。そして手を伸ばし、私の顎の左の付け根辺りをぐっと引き上げた。そこはアゴじゃないです。エラです。
    「俺のどこが好きなんだよ」
     普通なら愛の問いかけに聞えるはずのその言葉。でも、これは完全に尋問。睨みつけられてる。エラクイをされて、舌打ちされて、目の前に顔を寄せられた。
     ……でも、怖さより違う感情が先に立つ。
     目を奪われる。キレイ。カッコ良すぎる。紘一の顔はいつ見ても溜息がでる。
    「言えよ。まあ、言わなくても大体わかるけどな」
     そうだよね、私の気持ち……わかるよね、伝わってるよね?
     紘一の全部が好きだよー!!

     彼が話す度、さわやかなミントの香りの息が感じられた。
     紘一の指が喉に当たってくすぐったい。ちょっと待って、ヤバイですっ。

    「夏……」
     目の前にある紘一の顔。そして、ためらいがちに私の名を呼ぶ。彼の視線が私の口元に移り、瞼を一瞬だけ動かした。
     えっ、えっ、そうなの? やっぱりそういう展開なの? 今夜は期待しちゃってもいいのかなっ?!
     紘一は目を細めた。
     そんな悩まし気な顔をする紘一は見たことが無い!
     待ちに待ってたこの瞬間。今日でプラトニックは卒業かもー! 結構時間はかかりましたが、これからは彼と手をつなぎ同じ道を歩いていくこととなりました。二人で力を合わせ、支えてくださる方々に……
    「マジで焼肉くさい。顔で煙を受けてたのか?」

     ……顔が……くさい……。

    「そ、そ、そ、……」
     それは、焼肉食べたんだから、不可避ですよねーーー!!

     紘一はもう何度目かわからない舌打ちをしてから、私のエラにひっかけていた手を引いた。
    「いい加減にしろ。さっさと車を出せ」
    「わ、わ、わ」
     あまりの彼の態度に、言葉にならない言葉、声にならない声が口から漏れた。
     私の顔を見ていた紘一は、すぐに視線を逸らして俯き、そして目を伏せた。
    「運転できないんなら、代わろうか」
    「だ、だ、ダメッ」
     やっぱり私に呆れているんだろう。免停になりたいはずはないし、これは……本気で怒る前触れかもしれない。

     無視されたことはあっても、怒りをぶつけられたことは今まで一度も無い。静かな人が本気で怒ったらどうなるのかわからない。ここは謝っておいたほうがいいかも……。私は……特に悪いことはしてないと思うけど。
    「ごめんね」
     私はチラと紘一を見た。
     すると彼は顔を上げた。睨まれるのかと思ったら、苦い表情をしていた。
    「またか」
     それは、謝って当然なのになんでいつも気付くのが遅いんだ進歩しろバカ、という意味かな。
    「う、うん……。ごめん……」
    「いいから謝ってないで、運転しろ」
    「あ、はい」
     よかった。さほど怒ってない。少しは怒ってるかもしれないけど、そこには触れないで運転しよう。きっとそうすれば機嫌は直るはず。

    (6)
     彼の家に着き、車を駐車場に停めた。エンジンを切ったけれど、紘一はなぜか降りようとしなかった。
    「着いたよ」
    「ああ、着いたな」
     淡々と返すけど、紘一は動かない。え、どうしたらいいの???
     彼は視線を助手席の窓の外に向けていた。
    「夏は、仕事うまくいってんのか」
     意外な質問に戸惑う。そんなこと考えてくれてたの? 冷たいフリして優しさを小出しにするなんて、ハートわしづかみされちゃってますっ! ちょっと卑怯すぎません?!
    「うんうん、順調だよー。今度プロジェクトリーダーにならないかって課長に言われてさー……なんていう日も来るかなって考えたりしてます……」
     化粧品なんて扱ってるから女子社員多いし、なんか意地悪とかあるからストレスたまってちょっと限界に近いけど、でも、そんなことは言えない。だって辞めたいなんて弱音吐いたら、また舌打ちされそう。
    「何の仕事だっけ」
    「え?」
    「会社は知ってるけど、何やってんだっけ」
    「え?」
     何……って。……ニ、三度、言ってますよ。
    「……販売企画の立案とか……」
    「へえ」

     ……紘一の頭は、私との会話のキャッシュを、その日のうちに消去しているようですね。
     それじゃあこの会話は無駄ですよね。 ずっと窓の外を見たままだし、わざわざ時間を取ってまでする必要ありませんよね?
     でも……。
     一秒でも長く一緒にいれるのは嬉しいっていうか、紘一が帰らないのも私と2人きりでこの狭い密室で一緒にいる時間を長引かせたいっていうことかもしれなくて、それって、私の何を求めてるのか訊いてみたいんだけど、そしたら紘一は答えるより先に私の肩を引き寄せたり……
    「で、夏、なんで帰らないんだ?」
     突然振り返って尋ねる紘一に、一気に現実に引き戻された。
     ……今、なんで帰らない、って訊いた?
    「帰れよ」
     促された。
     ……帰れって促されたよ……。

    「なんでっ……て」
     思わず口をついて言葉が出た。
    「そんな当たり前なこと訊く?……私は、紘一が好きで一緒にいるんだよ……?」
     わからないなんておかしいよ。
     紘一はその問いに間髪を入れずに言い返してきた。
    「だから、さっき訊いただろ。俺のどこが好きなんだって。夏は、答えなかったよな?」
    「訊く方がおかしい!!」
    「なんで」
    「だから!!」
     なんでって訊かないでってば!!
    「全部好きなんだよ!」

     いくら私が熱くなっても、紘一は冷めた目をしていた。

    「へえ。それは知らなかったな」

     またそんなことを言う……。
     ガン無視してやろうかなっ! できないけど。

    第2話 俺の彼女は

    (1)
     リビングで悶々としてるのは、夏原夏(かはらなつ)、某有名化粧品メーカーの社員。
     俺がゲームをしている間、ボケッとした顔で紅茶を飲んでいる。
     寒いから外に出たくない……なんて一言も言ってないのに、実家でゲームに没頭する男を相手に何を考えてんだろう。
     かれこれ 4時間 だ。
     普通なら帰ると思うけどな。いい加減にしてくれないと、こっちの方が辛くなる。ゲーム漬けにさせるなよ。

     夏は自己認識ができない。現状認識能力も低い。その上、妄想癖がある。
     印象としては控えめでおとなしいタイプだと思っていた。
     全然違う。
     結構な頻度で理性を失うし自己嫌悪に陥ったり自虐的になる。それだけでもイラッとくるのに、些細なことで舞い上がって手が付けられない。
     もう、疲れた。

     夏のレベルを把握できなかった俺が悪いと言われればそうだ。今となっては、最初に気付きませんでした、では済まない。
     半年付き合っているが、この激しい起伏には悩まされ続けている。ん? 半年……かな? よく覚えて無い。とりあえず最近の俺にしてみれば長い。
     夏は自分の彼氏の上野紘一(うえのこういち)がどういう人間かよく知らない。それなのに、無邪気に二次元にのめり込むような目で俺を見ている。
     なぜ彼氏が、こんな、ほぼ無視状態を続けているのか、理由を知りたくないのか。まあ、訊かれても答えないけど。


     俺は入社してすぐ、ある部署に配属された。
     4年経った今もそこで淡々と与えられた仕事をこなしている。
     この部署にいる誰もが、遅かれ早かれ『休暇届』『異動願』『休職願』『退職願』を順番に書くことになる。

     業務内容を一言で言えば、学生時代に誰もがウザいと思っていた、クラス委員長や風紀委員、生活指導の教師ようなものだ。
     とにかく一流でありたがるこの会社は、社員に高い理想を押し付ける。
     美男美女が、爽やかに、にこやかに、スマートに、業務に従事する職場……。そんな、どこの世界にも存在するわけがない空間を作り上げようとしている。
     社訓だかなんだか知らないが、そんなのはたまに社内報で呼びかける程度でいいはずだ。なのに、なぜか社長直轄部門として各支店に専任の社員を数名配置している。その部署では入社したての平社員が、管理職並みの権限を持つ。
     なんでこんな無意味な部署を作り上げるんだ。
     もっとほかに予算を回せよ。

    「田中君、徹マンで酒飲んで課長の悪口言う元気があるなら、課の雰囲気のために笑うくらいしなさい。そんなだから、40近くなっても課長代理なんだよ?」
     田中サンが『死ね!』という視線を向けてくる。
     そりゃそうだろう。
     俺が何か言うたび、大抵の人間が『ウエノ、コロス』と呟いているらしい。俺はラインなどしないので見たことは無いが、社内メールで脅迫めいた文が届くのは日常茶飯事だ。

     入社試験の最後で何かおかしな問題を解かされるなと思っていたら、どうやらこの部署の適性試験だったらしい。
     社員全員の生活状況を把握して改善させるために、記憶力と忍耐力、社員を統制できる右寄り思想、分析力、冷徹さを併せ持った、どう考えても人に好かれない人間を選抜する試験。
     入社後、自分の配属された部署の業務内容を知ってから、所属長の長谷(はせ)課長に、
    「まさに君のような人材を探してたんだよ!」
    と言われた。
     今後どうやって生きて行こうかと思った。

    (2)
     当時、配属されることが決まった途端” 島流し ” だの ” 流刑 ” だのと言われ、クソ扱いされた。
     そして俺は、現在既に4年も服役している。

     要するに、嫌われ者の溜まり場、それがHR(ヒューマン・リソース)特別部だった。
     なんでも特別とつければいいもんじゃない。


     それは去年の夏頃のことだった。
     同僚の二人とストレス解消によく飲みに行くが、やつらはかなり荒(すさ)んだ考え方をするようになっていた。
     HR特別部に配属されて数か月で目が座っている。そして常時、半笑いになっていった。
     かなり危ない。そんな精神状態でどうする。4年いてもさほど変わらない俺の立場はどうなる。

    「美人限定、一番落としやすい子は誰だと思う?」
     そんなことを言い出すなんて、かなり追い詰められている証拠だ。どこかで発散させないとレイプ事件でも起こすんじゃないか? マズいな。共犯者として新聞に載りたくない。

     ある日、やつらは ” カハラナツ ” という名前を口にした。

     ” カハラナツ ” の会社は俺の会社の真向かいのビルにあるらしい。
     男たちは、車道を挟んで見えるその景色をいつもチェックする。自分が通う高校は共学なのに、校内の女子より、隣の女子高の制服を着ている子が気になるような感覚なんだろう。
     綺麗な子、可愛い子、着飾ったお嬢様風の子たちが次々とそのビルへと入って行く。やつらはその中の一人を指して噂をしていた。

     同僚たちは、” 比較的簡単に仲良くなれそうな女子ベスト10 ” というランキングをつくって俺に見せてきた。
    「どう思う? 夏原夏が、ちょうどイイだろ?」
     ちょうどイイ、なんてことをゲスい顔で言う。そしてその理由をいちいち説明する。
     男がいないに違いない。根拠……見た感じ。
     欲求不満に違いない。根拠……見た感じ。
     騙しやすいに違いない。根拠……直感。

     限りなく短絡的な犯罪を起こしやすい視点。その根拠は幼稚園児以下。


     そのランキングを目にした当日、夏とトンカツ屋で相席になってしまった。昼休みのことだった。

     なんとなく嫌な予感がした。
     普段社食を利用している俺が、外に食べに出るのは珍しい。しかも混んだ店内でたまたま相席になるなんて……。まさか、同僚の犯罪を未然に防げ、ということじゃないだろうな。

     それまで夏に全く興味が無かった俺は、これが例の仲良くなれそうランキング1位か、くらいにしか思っていなかった。
     その程度だったのに。

    (3)
     暑苦しい真夏にひとりトンカツ。色気ゼロ。その綺麗な顔に庶民的な生活臭は似合わないのに、自覚が無いのか? もったいないな。
     同僚たちの直感も、もしかすると間違っていないのかもしれない。ひねくれたHR特別部の才能は、こういう所で発揮されるってことだな。

     何歳なんだろう、二十歳くらいか?
     近くで見ると、化粧品メーカーの社員とは思えない。メイクは薄いし綺麗な肌をしている。食事が不味くなるような、けだるい香水をまとわせていることもない。
     薄い半袖のセーターがほわっと体を包んでいるが、かなりの立体感。ロリ系美人顔でスタイルが良いとなれば、好きなやつにはたまらないだろうな。
     ただ、……雰囲気的に、どこか残念な感じが漂っている。気のせいか?
     そんなことをぼんやりと考えていた。

     すると、どうも彼女の様子がおかしいことに気付いた。
     黙ったまま箸を止め、赤い顔でじっと俺を見つめている。
    「お昼休憩、ですか?」
     訊かれたので「はい」と答えた。
    「会社がこの近く……ってことですよね?」
    「?……そうだけど」
     訊かなくても分かりそうなことを口にしたあと、彼女はボソボソと呟いた。
    「えっと……っ、あのぉ…………」
    「……え?」
     まだ半分も食べていないが、彼女の態度に俺も思わず箸を止めていた。
    「つき……あっている人……いま……すか……」
    「…………は?」

     心臓の音が聞こえてきそうなほど首筋まで真っ赤だった。
     この数分でそこまで血行を良くして大丈夫かと、体のことが心配になる。今ここで倒れられると困る。午後からの勤務に遅刻してしまう。
     もう顔を見ないようにして食事をした。黙って食べていると、彼女は元気の無い声を出す。
    「あの……やっぱり、あれですよね。こんなこと突然訊かれても、困りますよね……あは」
     確かに困るし、かなり変なやつだ。
     性格や考えていることなんて何も分からない男を相手に、いきなりそんな事を訊く神経がわからない。それとも、何か裏があるのか。別に俺を誘ってもなんら得にはならないと思うけどな。

     この不自然すぎるやつは、もしかすると俺を前から知っていたのか? と考えてから、それは無いなと思い直した。
     店に入って近くを通った時も、俺に気付いて態度を変えるなんて様子はなかったし、相席になってもリアクションが無いというか、夢中で飯を掻き込んでいた。
     騙そうとしているようには見えない。この態度をそのままの意味で受け取っていいということになる。
     その時ふと、頭の中をよぎるメッセージがあった。

     同僚の犯罪を未然に防げ……。

    (4)
     いやいやいや。
     俺にそこまでの義務はない。知らんふりをしてやり過ごそう。誰に責められることでも無いだろ。
     それなのに、やつらの荒んで病んだ状態を考えると、なんとなく落ち着かなかった。
     きっとこんなにのぼせやすい人間だとわかれば、その気にさせるのは簡単だ。腐り切っているやつらは手段を択ばず嬉々として落としにかかるだろう。そして多分、この無防備な美人は、落とそうと思えば簡単に落ちそうだ。

     隙だらけのターゲットを、このままにしていていいのか……。
     俺には全く関係なかったのに、目の前でこんな顔をされると嫌な気持ちになる。何かあった時、俺にも責任の一端があるような気がしてきた。
     どうなんだ? いや、本当に犯罪が起こる可能性なんて低い。考えすぎだろ、多分。
     仕事柄、嫌われるのには慣れていて誰にどう思われても気にならない。恨まれたって別に構わない。
     そう結論を出してから、食事を終えて立ちあがった。
     彼女は途中から食事ができなかったらしく、残したまま無言で俺を見上げていた。
     泣きそうな、恨めしそうな目で見つめてくる。

    「……何?」
     訊いてみたが何も言わない。

     まるで捨て猫のように視線だけで訴えてくる。
     見捨てられたら死んでしまうと言わんばかりだ。
     なんなんだよ。ほんのひとかけらしか無い良心を、ピンポイントで責めてくるなよ。

     その時俺は、夏に対して何の感情も持っていなかったわけだから、当然、彼女に関する予備知識なんて持っていなかった。どんな人間か知らなかった。
     なのに。

     夏の見知らぬ人間への無警戒を、もう責められなくなった。
     突然湧いた同情と後ろめたさだけで、深い考えも無いまま無責任な言葉を吐くなんて……。自分でも信じられない。
    「店の前のスタバにいるから、話があるならそこで聞くけど」
     ……あの異常な部署の業務でも過酷だとは思わないのに、そんな自分のセリフで、ストレス性じんましんが出そうだった。

     声を掛けてしまった限りは、もう引き返せない。犯罪を犯しそうな男たちが近づいて来たら身を守れと忠告したところで、どうせこんな性格じゃ……無理だな。
     ああ、めんどくさい。



    「はあ? 夏原夏と付き合うことになった? ありえねえし!」
     同僚二人は、深海にいる、まだ未知の毒魚のような目をしていた。想定できた反応だ。軽く流す。

     ここまですればもう十分だろうと思っていた。
     夏との付き合いを長引かせる必要なんてない。1、2カ月の間、付き合っている状態を続ければそれでいい。
     俺が夏と別れたとしても、もう二人は彼女に手を出さない。先を越されたとなれば触手は動かないはずだ。ほかにも可愛い子は山ほどいる。

     プライドではなくコンプレックスの問題だな。普通の男なら、知り合いと関係があったと推測できる女は避ける。自分の身近なやつと比較されていることを想像すると、何かと複雑だからな。
     それでも、その女を好きで好きでたまらないという男は行動に出るかもしれない。あと比べられることで屈辱を期待するマゾ、恋人の過去にこだわらない変人、そしてあっち方面に揺るがない自信を持っているやつ。
     でも二人はどれにも当てはまらない。
     これで、人並みの防衛本能を持ち合わせていない夏も、犯罪被害者にならずに済んだ。そして俺の部署から犯罪者は出なかった。
     めでたしめでたし。


     半年前、夏と付き合い始めたのは、そういう状況、そういう理由からだ。
     もう盾としての俺の役目は終わっている。

     予定では、とっくに彼女から解放されているはずだった。

    (5)
     見事なまでに計算が外れた。予定が狂いまくっている。
     あれから何カ月だ? どんなに冷たくしても夏は必死でついてくる。
     自分の彼女に対して、こんな、

    ” 強い作物を作るため、水や肥料を少ししか与えずに栽培するという手法を生み出した、前衛的農業経営者 ”

    のような態度で接する男と、よく我慢して付き合っていられるもんだなと不思議に思う。
     俺が付き合ってきた相手は、ほっとくと大抵ひと月ほどで怒って別れると言い出す。顔だけで彼氏を選んだ子なんて、結局そんなもんだと思っていた。
     でも夏はどうやら抵抗が無いらしい。というより、それを望んでいる傾向がある。” 水を少ししか与えられずに育てられる ” という状態に。

     たまに与えられる水で幸せになれる系の人間だ。

     要するに、冷たくしたのは逆効果だったわけだ。


     金曜の夜、仕事が終わったから食事しようよと、いつにもまして、しつこくメールがあった。
     付き合い出したのが夏頃だから……もう春だし……。あ、半年過ぎてるな。そして最後に会ってから……どれくらい経つ? ちょっと放置しすぎか。
     まずいな。こんなこと、いつまでも続けられない。
     今夜こそ、キッチリ話をしておかないと。3月もそろそろ終わる。
     逃げてられない。もうリミットだ。

    「ね、ね、ラーメン食べに行こうよ!! 行列ができるんだよ!」
     会った途端、満面の笑みで夏は言う。ラーメンが食いたいのか、行列が見たいのか、デートを長引かせたいのか。
     とりあえず夏は今日も必死。そのパワーは尽きることが無さそうだ。
     夏の提案に「いいよ」と同意すると、それだけで嬉しかったらしくベタベタと甘えて来た。決して優しいと取れる言葉じゃ無いのに、なんでそこまで喜ぶのか。そのメカニズムがよくわからない。
     めんどくさいのでそれ以上考えるのはやめた。

     ラーメンを食べ終わったのは7時。大して行列はできていなかったので思ったより早い。
    「ねー。うちに来ない?」
     今日は俺の機嫌がいいと思ったのか、簡単にそういう言葉を口にする。これで何度目だろう。ずっと断り続けているのに、まだ分かってくれない。

     そういえば焼肉食った後にも部屋に誘われたな。
     あの全くムードの無い状態で、……立派だとしか言いようがない。今日も”ギョウザ”と”とんこつラーメン”の後だが、夏は恥ずかしくないらしい。
     それ以前に、俺が誘いにのるはずがないとのんびり構えている所がある。
     夏の余裕の表情を見ると、なんとなくイラッとする。

     前頭葉あたりで、カチャと、何か外れたような音がした。

    「今から行くってことは、泊まっていいのか?」
     散々誘っておきながら、彼女は俺の言葉に驚愕の表情を浮かべた。
     まあ、そうなるだろうな。
    「……マジに取るな。行くわけないだろ」
    「ううん、来てよっ!! 来てよぅー」
     そう言いながらも、夏は緊張気味に唇を震わせている。
     ……どうして欲しいんだ。表情と言葉が真逆だ。
    「なんで?」
     わざわざ行く必要はない。話をする場所はどこだっていい。
    「なんでって! また言う!!」
    「理由を言え」
    「そ、そんなっ……」
     今度は頬まで震わせ始めた。見ていられない。
    「だって、い、い、一緒にいた……」
    「わかった。じゃあ」
     俺は時計を見た。
     まあ、まだ早いから……。

     考えていると、夏が小さな声を出した。
    「……泊まっていって、ほしいな……」
     そう言う夏の顔を見る。
     単にビビって様子を見ているだけの上目遣い。
     それを誘惑に使う術を早く身に付けろ。

    (6)
     夏の部屋は、お世辞にも片付いているとは言えなかった。
    「ごめんっ……今、片付けるから」
    「気にしなくていいよ」
     そう言うと、彼女はロボットのように動きを止め、顔を強張らせて俺を見つめる。
     なんだその態度は。
     普通の口調で応えただけで、そこまで極端に不安になるもんか? イヤミか?

    「ハンガーは? 皺になるから、脱ぎたい」
    「ぬ、脱ぐの?」
     眉をひそめて俺を見る夏に、何か変なことを言ったのかとじっと彼女を見返した。
     すると、顔を赤くして夏が呟く。
    「……ズボンも……?」
    「脱ぐかっ」
     アホか。なんでいきなりズボン脱ぐんだよ。
    「でも、ズボンが皺になるとお母さんが大変っていうか、アイロンとかクリーニング屋さんとか、えっとよくわからないけど、シワシワになったら、えと……」
    「わかった」
     俺は上着を脱ぎながら言った。
    「着替えがあるんなら借りる」
     部屋を片付けてもいないのに、着替えが用意してあったら怖い。
    「うん」
     夏はニコニコしていた。
     そして、本当に男物のパジャマを出してきたので、その感覚におどろく。
     しかも使われた感がハンパじゃない。
     困惑しながらそれを受け取り、手に持ったまま見つめていると、夏が「気にしないでね。わざわざ買ったわけじゃないから」と笑う。
     信じられない。


    「……前の男のか」
     さすがに動揺して声が上ずった。
     夏はそう言われて初めて、自分のしていることに気付いたらしい。
    「あ……」
     今頃顔色を変えたって遅いんだよ。
    「ま、別にいいけど」
     平気そうに言ってやると、夏は『がーん』という字が頭の上に見えるくらいに、ショックを受けていた。
     やっと自分で自分の首を絞めていた事に気付いたらしい。
    「ちょっとは気にして欲しい……な……」
     わかりやすくヘコんでいる。

     もしこのパジャマが……この態度が……演出だとしたら進歩したなと思う。でも、夏は嘘がつけない。本当の気持ちしか顔に出さない。
     そういう素直過ぎる部分が、逆に残酷だと思うのは俺だけか?

     ズボンのベルトに手をかけると、夏にガン見された。その様子だと後ろを向くつもりはないらしい。ここでは脱げない。
    「紘一……」
     俺が手を止めたのを見て、夏が言う。
    「それパジャマだよ? 着る前に、お風呂入ってきたらいいのに」
     彼女の目が若干笑っているように見えて、ゾッとした。

     本当に泊めるつもりなんだな……。

    「そうだな」
    「うん……」

     俺は夏に促され、狭いバスルームにパジャマを持って入って気が付いた。
     替えの下着がない。

     でも我慢するしかないか。
     夏に買って来いとは言えない。
     きっとまた部屋に残っている、誰のかわからない物を渡されるのがオチだ。

    第3話 彼のセリフ

    (1)
     まさか突然うちに来ると言い出すなんて、思わないでしょ。……絶対、思わないって。
     紘一は何考えてるんだろう。今日は割と優しいし、咄嗟に来てって言っちゃったけど、どうしよう。これからどういう展開……?
     だけど、さっきのパジャマのこと、もう最悪だよー。ホントになんとも思われてないのかな。紘一がここに来たのも、そんな気全然ないのかもしれない、と思い始めると悲しすぎる。困ったな、紘一が何考えてるのか、誰か教えてよ……。
     私がうろたえている間に、彼はお風呂から出て来た。

     うを……! こ、これはっ……
     !!!!!!
     パジャマを着てるけど……前のボタンは開けてるって……。なに、その見せつけ方っ!!
     問題なく、上半身、引き締まってます! あれは……服着てると全然わからない、抱きしめられて初めて分かる感じの……。
     それにめちゃくちゃ灼けているわけでもないけど、決して白くはない肌。鍛えてるかスポーツやってるか、そんな感じ……ってことは、ゲームばっかりやってたわけじゃ……ないん……だ……。
     そういうの、8カ月と3日付き合ってたけど全然知らなかった。それくらい、会ってた回数が少なかったってことか。こんなに紘一のこと知らなかったなんてショックだ……。私は何を見てたんだろ。

     髪をタオルで拭いていた紘一は、私の視線に気付いたようで、なんとなくムッとしていた。……恥ずかしいのかな。
     そして何を思ったのか、そのままホカホカの体で私の前にやってきた。座っていた私の目線に合わせるように屈む。
     風呂上がりの体温が伝わるほどに接近された。車の中どころの距離じゃない。思わず彼との距離を取ろうと体を退く。……怖いわけじゃないんだけど。
     紘一は私の態度を気にする様子も無く、不機嫌そうにつぶやいた。
    「俺のどこが好きなんだよ」
     ちょ、ちょっと待って。今、この距離で、またその質問っ!?
     近い、近い、近いってば……。

     彼は私が横座りしている太股の傍に膝をつく。のけ反ってみても体の距離が殆ど無くて、髪のしずくが私のひざにぽたぽた落ちて服を濡らしていく。
     私に、……ど、どうしろと!
     紘一は私の口元に視線を向けている。まさかまた、臭いじゃ……無いよね? さっきちゃんとハミガキしたし。
     それに、完全にそういうんじゃない目をしてる。いつもの厳しい視線じゃなくて……。
     ……こんなの……ウソでしょ? 紘一らしくない……。
     焦っていると、紘一の右手が目の前をよぎった。
     そのまま高い体温を保った手が、私の耳の後ろから後頭部までを包んでいた。
     紘一の視線が私の唇から目へと移る。じっと漆黒の瞳で見つめられた。
     次の瞬間いきなり頭を引き寄せられ、その綺麗な顔が間近に迫ってきた。
     くぅ、く、唇がッ!!……。

     咄嗟に私はそれを避けてしまった。ほぼ無意識。向き合っていた顔を少し横にずらしていた。
     すると、紘一はスッと手を離す。
     曲げていた背中を伸ばして体を起こし、私の少し上の高さからニヤッと笑った。
    「夏も風呂入って来いよ」
     あまりのことに、しばらく答えられず目を見開いてしまっていた私は、やっと我に返ってガクガクと頷いた。
    「う、うん。入って来る」
     慌てて立ちあがり、下着やパジャマを取りに行く。

    (2)
     タオルにボディシャンプーをつけて泡立てながら、ぼんやり考え込んでいた。
     私はこういうの初めてじゃないし、それどころか多分同じ年代の子よりは経験が多いと思っている。付き合った人数だって……。
     なのに、どうしてこんなにドキドキして戸惑っているんだろう。
     だって、だって、紘一、全然いつもと違くない? さっきも、私が逃げなかったら、キスするつもりだったのかな。風呂入って来いって、どういう意味……。
     ……やっぱり、そのつもりで私の部屋に来たって考えていいよね……。

     そーだよねーっ!! 絶対あるよねー!!

     こ、これは覚悟しないとダメだ。多分最低でもキスくらいはあるはず。ううん、そんなんじゃ終わるわけないよね、大人の男と女なんだし。どうしよう、どうしよう。ますますドキドキして、お風呂から出たら、うそ、どうしよう、ええっ、何言おう、うわあ、どんな顔しよう……。

    『夏、今まで冷たくしてごめん。好きだからつい、虐めたくなるんだよ……。ほんとはずっと、抱きしめたくて……』
    『そんな、だって、私好かれてるって実感がなくて』
    『何言ってんだよ、俺がどれほど夏のこと大切にしてきたと思ってんだよ。わかんないのかよ』
    『大切……?』
    『当たり前だろ。じゃなきゃ、こんなに待ったりしないよ。夏が本当に俺を見てくれるまで待ってたのに……』
    『紘一……』
    『夏……』
     そして、私たちはぎゅっとお互いを抱きしめ合って熱いキスをし……
    「おい、夏」
     風呂場の扉の向こうで紘一の声がした。
    「2時間近く経ってるぞ」
    「あっ、そうなんだっ! ごめん……。お風呂好きだから、気付かなかったー……」
     ……いえ、お風呂とは別の世界に行ってました。


     お風呂から上がると、思った通り彼はテーブルの前でスマートフォンを触っていた。2時間あったら、さぞかしゲームに集中できただろうな。
     紘一の髪は良い感じに乾いて、彼の顔にかかっている。
     ほとんど少年。こんな、こんなナチュラルな紘一見たことないし! しっとりした髪、そしてほわっとした雰囲気。一緒に暮らしたら、きっとこういう顔を毎晩見れることになって……。
     紘一は私が出て来たことに気付いて、顔を上げた。
    「待たせんなよ」

     …………なんで、なんで言った後にうつむくのぉっ……?! ほんとに、この人紘一??
     そんな、少女漫画に出てくるツンデレの男の子みたいな赤面しちゃうセリフ、ますます、らしくないんだけどー!! 嬉しい!! こんないいムード初めて! 待たせんなって、もう、何を待ってたのよ! それなら、

     待ってないでお風呂に入って来てよーーー!!

     もしかして私が考えた筋書きもまんざら空想ではないってこと? 幸せすぎて天国に直行しちゃうかもぉぉ……。

    (3)
     そんなデレデレ状態の私を見ていた紘一は、スマートフォンをテーブルに置いて言った。
    「ビールもらったから」
     ああ、紘一ほろ酔いなんだ。ちょっとエッチな気分になってるかも。……どこまでも期待が消えないっていうか、溢れてる。
     紘一に見つめられた。
    「おい、突っ立ってないで髪拭かないと、風邪ひくぞ」

     じーん。感動中ですー。
     今日は言葉がぜんっぜん優しい。
     私の体を気遣ってくれるなんて、今まで一度もなかったのに……。

     私がドライヤーで髪を乾かしてから部屋に戻ると、紘一はテーブルに伏せていた。どうやら眠っているようだった。11時を過ぎていた。
     仕事帰りだし眠くなるのは仕方ない。さっきまで待っていてくれたんだから、それだけでもうれしいし。
     やっぱり今日は何もないんだろうな。


     ずっと期待してたことなのに、いざとなると、なんだかちょっとホッとしている自分がいる。まともに愛の言葉を囁かれたこそも無いのに、いきなりキスや……それ以上なんて急展開すぎるよね。
     明日から、少し優しくなってくれる紘一がいれば、それでいい。そして、だんだんと近くなって行く方が自然だから。


     私が近づくと気配に気付いた紘一が目を覚ました。スマートフォンを手に取り、そこに表示される時計を見ている。
    「ごめんね、もう寝るでしょ?」
    「いや、話、したいから」
     紘一は体を起こしてテーブルに肘をついた。
    「話?」
     彼は軽く頷いた。あまり視線を合わせない。
    「なに?」
     私はテーブルを挟んで紘一の前に座ると、笑顔で彼に尋ねた。
     紘一も少し微笑んでいる。
     え、なになに……。待って、やっぱり心の準備が……。
     私が焦っていると、紘一は笑うのをやめた。
     そして彼はサラッと言った。
    「別れようか」

     え? 今、なんて?

     紘一は私のベッドから勝手に布団を取り体に巻き付け、そのままポテンと床に寝転がって目を閉じた。

     その、……その言葉だけで寝ちゃうの……?!

    (4)
     ありえーる?
     いえいえ、アリエナーイでしょ。
     私は、眠ろうとしている紘一の体を布団の上から揺さぶった。
    「紘一、紘一!!!」
     彼は目を開けると、私を睨んだ。
    「なんだよ」
    「な、な、な」
     なんだよじゃないでしょー!!
    「寝ないでよ、寝ないで、ちゃんと説明してよ!」
     紘一はめんどくさそうに体を起こした。
    「何? 何を言えばいい」
    「理由、理由、理由」
    「一度でわかる」
     無意識に彼の手を引っ張って、必死で彼に訴えかけた。
     彼は私の手を引き離してから布団を掴んで、それを私の体に巻きつけた。まるで遊びに行く子どもに上着を着させる親のように、しっかりと包み込まれた。
    「冷たすぎる」
     紘一は私の手を見ている。
     恋愛感情とは違う気遣いを向けられて、泣きそうになった。

    「その話、明日でよくないか」
    「ええっ!」
     私はぶるぶると顔を左右に振り続けた。
    「無理、このまま眠れるわけないしっ」
    「んー……」
     紘一は初めて思い至ったかのように私の顔を見た。
    「まだ寒いのか?」
    「ちがっ! そういう意味で言ってるんじゃないの!」
     跳ねそうになるくらい悔しくて大きな声を上げた。とぼけてるのは分かってるんだから!
     しかし、紘一は立ち上がる。
    「布団どこ? 取って来る」
    「まっ……待って、寒いんじゃないって。だいたい布団これしか無いし!」
     思わず止めようと前に立つと、行く手を塞がれた彼は小さくため息をついた。
    「布団無いなら、人を泊めんなよ」
     紘一に舌打ちされて、絶句した。
    「そんなことなら、話だけしてさっさと帰ったのに」
     そして、彼は「まだ電車あるな」と呟いた。

     布団があるとか、無いとか、そんな……。
     ぽろぽろ涙がこぼれる。
    「布団、あるよ……あるから……」
     自分の服を取ろうと手を伸ばす紘一の、そのパジャマの袖をぎゅっと引っ張った。すると、ようやく彼は手を止めて振り返ってくれた。
     私の肩からは布団が滑り落ちていた。紘一は、泣いている私を黙って見ていた。
     泣くなバカ。きっと、そんな類の事を言われるだろうと思っていた。
     女の涙にオロオロするような人じゃない。実際に、私は彼の前でなんども泣いているけれど、優しい言葉なんてかけてもらったことが無い。むしろ、いつもウザそうな顔をする。

     無表情のまま、紘一は口を開いた。
    「理由は、夏が好きなように考えろ」
     そんな事を平気で言う紘一に驚く。
    「……好きなようにって……」
     さらにその後の彼の言葉にもっと驚いた。
    「適当でいいんだよ」

    (5)
     適当……。
    「……適当ってどういうこと?」
    「まんまだよ」
     彼の表情は変わらない。
    「どうしても尤もらしい理由が必要なら、仕事が忙しいから、にするか?」
     尤もらしいって何? それじゃ、本当の理由じゃないでしょ?
     私は何も考えられなくてやっぱり顔を横に振る。
    「だから……夏の好きな理由でいいんだよ」
     意味がわからない。
    「私が理由を考える、って……。おかしいでしょ……」
    「そう言われてもな……」
     紘一は視線を落としてしまった。困っているみたいだった。
     でもでも、私の方が困るよ!
    「隠さないでよっ!! 私の悪いとこ、ちゃんと言ってよ! すぐ、直すから!!」
     必死で訴える私を見て、彼は「またか」と呟き、呆れたような顔をした。

     そして彼はすぐに俯き、あろうことか声を殺して笑い始めた。

     !!!
     このシリアスな場面で、なに、それ!
    「なんで笑うの!」
     ぜったい考えられないっ!
    「いや、なんでもない」
    「なんでもないのに笑う人いないっ! バカだと思ってるんでしょ!」
     紘一は肯定も否定もしなかった。ニヤッと笑っているだけだ。勿論、謝ることも無い。
    「ホントの理由、言おうか?」
     彼はまだニヤニヤと笑っていた。
    「う、う、うん……」
     なんで笑いながらなのかはわからないが、それでも本当の理由を話してくれるという。かなり緊張する。というか、やっぱりちゃんとした理由があるってことじゃないかあー……。
     笑顔の消えた後の緩い瞳で、紘一は言う。
    「俺は夏の彼氏に向いてないんだよ」

     愕然としてその言葉を聞いていた。

     紘一は前にも似たような言葉を口にした。
    『夏は、俺の彼女に向いてないな』
     確かそう言われた。
     でも今のは主語が……立場が入れ替わってるよね。同じ意味じゃないよ。前に言われた言葉の方が、まだ納得できるよ。
     紘一は言った後、ようやくその場に腰を下ろした。帰るのをやめてくれたようだった。
     彼は立ったままの私を見上げたかと思うと、この腕を引っ張って強引に隣に座らせる。
    「で、どうすればいい?  一緒に眠るか? 一緒に朝まで話すか?」
     そんなことを、すぐ傍で尋ねられた。
    「ちょ、ちょっと待って……。その前に、向いてないって……私は、私は……」
     すると、彼はまた笑い出した。
    「ホントの理由言えって言ったのは夏だろ」

     ……フツーに笑ってるよ……。
     なんでなのよ……。
     その穏やかな表情は、これから別れようとしている相手に向けるものかな。

    (6)
     紘一は、ベッドの縁に背を持たせかけていた。私は彼の隣に座ってはいるものの、やっぱり悲しくなってきた。
    「向いてないなんていう理由は理由にならない。ちゃんと話をして、ちゃんと……」
     まだ話している途中なのに、彼は「わかった」と言った。言葉を遮られた。
    「じゃあ、” 朝まで話す ” 方でいいな?」

    「……うん……」
     それで、いいよ。
     こんな気持ちのまま隣で眠るなんて……切なすぎる。

     

     傍に座っていると、手が触れてドキドキした。
     ちがう、ドキドキしている場合じゃない! 別れようって言われてるのに……。
     混乱しているさなか、急に、彼の手が私の手を持ち上げた。
     ええっ! このタイミングで、紘一が私の手を、手を……。
    「やっぱり冷たいな。冷え性なのか?」
     …………冷え性って……。

     呆然とする私を気にすることも無く、彼は軽くこの手を握った。

     それは、ただ、温められてるの?
     ……かわいそうだから、……なのかな。


     紘一のセリフも行動も謎だらけだ。
     だから、その全ての意味を知るまで諦められない。
     好かれているとは思えないけど、憎まれているとも思えないから。

     ちゃんと話し合えば、うまくいくんじゃないのかな。
     分かり合えると思うよ。

     ヨシ!

     朝までに気持ちを変えさせてみせる。
     絶対寝させないんだから。

     この紘一の温かい手が勇気をくれる。きっと上手くいく。

     別れ話を撤回させるのはどうしたらいい?
     どう言うのが、効果的かな……。

     紘一の腕に触れる。
     やっぱりあったかい。

     今はもたれ掛かっても、振り払われないみたい……。
     やさしい……。

     あったかい……。

     寝させない……。

     寝ない……。


     寝……。




     


     目を開けると朝だった。

     お約束どおり、そこに紘一の姿はなかった。


    第4話 彼女の妄想

    (1)
     風呂から上がってふと気付けば、夏に体をじっと見られていた。
     感情の全てを素直に顔に出すから、どうしていいかわからなくなる。俺を見る目が、まさに肉食動物だ。
     その表情……。
     やっぱり安易に部屋に来たのはマズかったな。
     冗談なんて言わず、最後まで無視すればよかった。別れ話なんてどこでだってできる。部屋まで来る必要はなかったし、風呂に入る必要も無い。全然、無い。
     冷静に対処していたはずが、いつのまにかペースを乱されている。そして、それをうまく修復できない自分が情けない。

     そもそも夏の視点で考えてみれば、俺にこだわる必要はない。
     彼女はこの見た目と冷たさだけに惹かれて喜んでいた。俺の全部が好きだなんて、よく言えたもんだなと思う。半年も付き合ったんだから、ちょっとくらい中身にも興味を持っていいはずなのに……決して入って来ようとはせずに表面だけで満足している。
     この視線を見れば明らかだ。
     その正直さが許せない。ほら、ヨダレふけ……。ムカつく……。

     俺のどこが好きなんだ?
     見た目です、って正直に言え。それしか興味ありません、って白状しろ。
     偶像化できないように、強引にキスでも……。

     しかし、怯えた顔で見事に拒否られた。
     ……意味がわからない。
     なんで俺を部屋に入れようと思ったんだ。


     夏が長い風呂に入っている間、ずっと考えていた。
     どうしてこういう状況になったのか。
     付き合い始めてからずっと、彼女の様子を見ながら適当な対応を探していた。しかし、とうとう見つからなかった。
    『まともに相手をしてくれない彼氏なら、いつか向こうが関心を示さなくなるだろう』
     そう高を括っていたのがそもそもの間違いだった。

     夏は今も風呂の中で確実に妄想中だ。
     そんな妄想にイチイチ反応するのもめんどくさかったので放置していたが、さすがにこのままでは終われない。彼女が自分から別れたいと思うような良い方法は無いもんかな。

     強引に突き放すことで酷い男だと罵られるのが怖いわけじゃない。むしろ最初から最後まで冷たいフリをしていたけれど、実は良い人だったんじゃないか……なんて妄想されることを恐れる。美化されて未練を残されてはたまったもんじゃない。
     ちゃんと現実を見れば上野紘一がどこまで最低な男かわかりそうなものなのに。
     遠すぎて見失っているのか、それとも近すぎてぼやけて実体が見えていないのか、彼女の巨大な妄想が合わないレンズとなって視界を妨げている。

     気が重い。
     同僚たちから守るために付き合い始めたのに、自分が傷つけては元も子もない。多少は嫌な気持ちにさせたとしても、ひどい傷痕は残さずにすむような、そんな方法を探してみたが……。
     ついに見つからなかった。
     この戦況で勝利するためのストラテジーが全く思い浮かばなかった。
     今更ながら逃げてきた自分を嫌悪する。これじゃ新学期前に大量の宿題がのしかかって呆然とする小学生並みだろ。
     そんなことを考えビールを口にする。不味い。

    (2)
     2時間ほど経ったので、そろそろ妄想から覚めてもらおうと思い入浴中の夏に声をかけた。すると夏からの返答は呆れたものだった。” 風呂 ” が好きだと言い訳している。
     あのな。
     それは、” 部屋で待たせている彼氏 ” なんかより ” 風呂 ” の方が好き、という意味に取られてしまうんだぞ? ちゃんと考えてから話せよ。パジャマの事といい……。
     ダメ出ししたいことが山ほどある。もう少し上手く応対しないと、この先困るぞ。


     そうして夏は、のぼせ気味の顔で風呂からあがってきた。
     なんだその、ぽわんとした表情は。どこまで別世界を彷徨って来たんだ。
     ほんっとうにめんどくさい。
     こんな気持ちにさせるな。
     ただきちんとパジャマを着て立っているだけの夏に、立ち直れないほど萎えたこの状態。
     なんで俺が俯かなくちゃいけないんだ。


     この詰まるような息苦しさは後悔以外の何物でもない。あの時どうして、” 付き合う ” なんていう解決策しか頭に浮かばなかったのか。
     行動の根っこに使命感みたいなくだらないもんがあったせいで、うまく先が読めずにミスってしまった。慣れない親切なんてするもんじゃないな。
     立ち直れないほどヘコんでいるのに、全く気付く様子のない夏。
     ふて寝してやる。


     ぼんやりと耳だけで夏の気配を窺う。
     静かだな。何事も無くてホッとしている、そんな所か。
     顔をあげて時間を確認した。そろそろ腹を決めよう。
    「話、したいから」
     そう言うと夏の顔がパッと赤くなった。何か甘いものを期待しているらしい。
     やっぱり言うしかないんだな。ほかに手は無いんだな。

    「別れようか」
     言った後で体から力が抜けた。

     その最終的な一言で、自分自身が回復できそうにないダメージを受けていた。
     こんな簡単な言葉を伝えるだけなのに、なんで言った後もサッパリしないのか。疲れは溜まる一方だ。
     頼むから眠らせてくれ。そう思っても彼女は事細かに事情を説明されたいらしい。誰か助けてくれ。

     冷たい手で引っ張り起こされた。
     やっぱりこのまま寝させてくれというのは無理らしい。適当に理由をつけて帰ってしまおうと思った。
     もう言うべきことは言ってしまったし、それ以上の補足説明はできない。
     それなのに夏が泣く。めんどくさい……。なんで泣く? そこまでして俺に執着する意味が分からない。

     でも、それを言うなら、俺も意味の分からないことをしている。
     俺は夏に執着はしていなかったが、無関係だと思っていたわけでも無かった。
     だから、彼女に押し切られるという形でなんとなく会ってしまう。そしてその度にイライラしていた。
     もしかすると俺は、彼女を上手くコントロールする方法を探していたのかもしれない。
     そしてそれができないことが負けだと思っていたんだ。
     まったく意味がわからない。
     そんな自分に嫌気がさした。いつからこんな人間になったんだろう。
    「理由は夏が好きなように考えろ」
     情けなさ過ぎて説明できない。もう、どうとでも取ってくれ。

    (3)
     俺の言い方がマズかったのは分かっている。
     別れるのに明確な理由を言わないなんて不自然だ。
     でもここまで別れずに長引かせた後で、一体どんな理由を言えば信じてもらえる? 何を言っても『じゃあどうして今まで?』と言われるに決まっている。

     そんな微妙に沈鬱な雰囲気をぶち破る勢いで、夏が例の自虐を繰り出してきた。
    「隠さないでよっ!! 私の悪いとこ、ちゃんと言ってよ! すぐ、直すから!!」
     またか。
     いつも自分が悪いと勝手に決めて謝ってくる。もう呆れるを通り越して笑えて来た。
     夏はプンプン怒っている。
     顔も首筋も真っ赤だ。
     この眼前の光景はいつかと同じ。血行を良くしすぎて倒れないか心配になる。

     夏と一緒にいるのも今夜で最後なんだなと思うと、少しは優しくした方がいいのかと考える。それとも夏なら冷たくされる方を望むのか。
     どちらが正解なのか複雑すぎてよくわからない。今夜は考えすぎて疲れた。

     一応別れることを伝えたせいで肩の荷が下りた。
    「で、どうすればいい? 一緒に眠るか? 一緒に朝まで話すか?」
     一晩一緒にいたとしても大したことは起こらないと分かっていたから軽く訊いてしまったが、考えてみればキスを迫った程度で怯えられたんだったな。
     肉食系の妄想をしたり、お姫様のような態度を取ったり、夏の脳内は不思議だな。
     不思議というか客観的に見れば退屈しない。あくまで距離があればそういう風に見ることもできる、という話だけどな。

     夏の手を握り締める。
     冷たい。
     しばらく掌で包んでいても冷たいままだ。俺の体温は伝わらない。そんなところまで夏らしく、人に影響されることがない。
     夏が、くたっと体を寄せて来たのでその顔を覗き込んだ。唖然として見つめてしまう。彼女は既に熟睡していた。
     朝まで話すことを選択したんじゃなかったのか。まだその手も温まらないうちに、もう寝るのか。

     夏は気持ちよさそうに寝息をたてている。
     こんなに近くにいても俺は緊張すらしてもらえないらしい。もしくは3D認識されていないのかもしれない。
     いや単に眠いという生理的欲求が強いだけか? 自己防衛本能欠落の究極の形か?

     夏の感情、夏の脳内、夏の生態、その全てが熱帯雨林のようにうっそうとしている。
     改めて思う。
     分析という形でしか相手と対峙できない俺は、絶対に夏の彼氏には向いてない。

     それにしても……。これじゃまるで電車の中だな。
     肩にかなりの重みを感じる。
     無下に押し返せないまま時間が過ぎて行く。


    「おい、夏」
     名前を呼んでも起きない。
    「朝だし起きろ。もう帰るからな?」
     頬を軽く叩いても起きない。
     仕方がないので座席ゴッコはやめて、彼女の重い体をベッドの縁へと預ける。その快眠を横目で見て舌打ちした。
     今は彼女は眠っているんだから舌打ちなんてする必要が無いのに、もう癖になっている。

     その時、夏は何を夢見ていたのか俺の手を振りほどこうとした。
     おかげで初めて気付いた。
     俺はずっと夏の手を握ったままだった。
     結構強い力で。


     正直、今までの事を全て納得いくように説明しろと言われても何を伝えていいかわからなかった。だから夏が眠ってしまったこの状況は、まさに好都合だった。
    「悪いな、夏」
     色々とハッキリしなくて申し訳ないとは思うが、話をする間もなく眠った夏も悪いんだからな。
     今こうしてぼんやり夏の顔を見てるのは、なんとなく情が移ったってやつ。
     化粧していないから、まるで子どもが寝てるみたいだ。いつもはパッチリ開いているまぶたを閉じていると睫の長さがはっきり分かるな。
     そうか、こういう顔して眠るのか……。


     さて、放置して帰ろう。
     夏はきっと無意識にそれを望んでるだろうからな。

    (4)
     その後の土日、つまり昨日、一昨日に、夏から何度かメールが来ていた。ただ俺が返信しないのはいつものことだ。
     メールの内容からすると別れたくないようだが、寝てしまったのは夏の方なので、あまり強い態度に出られないらしい。絵文字も控えめでどことなく遠慮気味だった。
     夏の場合、返事がなくても不安にならないように鍛えておいただけあって、むやみに電話してくることはない。あんな別れ方にしては、なかなか静かな状況だ。
     そして今日は3月最終週の月曜。

     この会社はHR特別部(通称HRS)なる妙な部署があるだけでなく、月曜には奇妙な朝会を行う。
     ” 美男美女が、爽やかに、にこやかに、スマートに、業務に従事する職場 ” を実現させるためには、そこに ” ストレス ” をのさばらせてはならないという発想の下に生まれたらしい。
    『新しい週を気持ちよくスタートさせよう。自由参加の30分の会で気分をリフレッシュ!』
     そんな耳ざわりの良いフレーズで飾られている朝会だが、内容もノリも小学校の学級会とほぼ同じ。学校教育の延長線上に社員育成の機軸を見出そうとする、この会社の幼稚さにはほとほと呆れる。

    「HRSの、特に上野君の指摘する範囲は余りにもプライベートに踏み込み過ぎていると思います。僕は交際相手のことまでとやかく言われたくありません……」
    「上野君の言動は個人の名誉を著しく傷つけています。私は元々太りやすい体質なんです。決して毎晩飲み歩いているわけではないんです」
     ありとあらゆる部署の連中が顔を出し、ここぞとばかりに文句を並べたてる。とても自由参加の朝会とは思えぬほどの活況ぶり。
     この朝会に中立的立場の進行係はいない。言いたい人間が言いたいことを言う。まさにストレス解消にうってつけだ。
     しかし普段から一番ストレスをため込んでいるHR特別部の人間にとっては、ここは発散の場所ではない。それどころか糾弾され弾劾され続ける、いたたまれないステージになっている。
     おかげでHR特別部からこの朝会に参加する人間は、いつも俺を除いてほかにいない。

     何度も同じことを訴えられ、そのたび同じ返答をする。
    「プライベートな内容も、結果的にパブリックな部分に影響しているから指摘せざるを得ないんだよ」
     その返答に対し、十倍の異議が返って来る。
    「それなら人前で言わなくて良いでしょう!」
    「悪意しか感じませんけど!」
    「わざとムカつく言い方してますよね?!」

     会議室の中、集中砲火を浴びて黙り込んだ俺を、皆が固唾を呑んで見守っている。何か言えばすぐに叩き潰すと言わんばかりに目を剥いている。
    「率直に言ってるだけ。『わざと』なんて言うのは性格に被害妄想的な歪みを感じる」

    「はああ~??」
    「私たちが悪いって言いたいのー!」
    「一番性格が悪いのは誰だよ!」
    「今すぐ消えろ!」

     今週は決算月の締めくくりだからだと思うが苛立ち具合が見事だ。数分間怒号が鳴りやまなかった。
    「ご不満はよくわかるんだけど」
     俺が言うと、嘘つくな、とか、真摯に反省しろ、だとかいうヤジが飛び交う。
    「まあまあ、お静かに。今日は皆さんに吉報を持って来たので聴いてくださいよ」
     言いながら笑いをかみ殺した。俺がふだん無表情なせいか、微かに笑っただけなのに面白いように辺りが静まり返る。
    「私は四月から本社勤務になります」
     俺は異動の希望が通ったことを報告した。

    (5)
     数秒の沈黙の後がっくりと項垂れる姿が多数あった。幾つもの溜息が続く。その後にようやく呟きが聞えて来た。
    「そうか……」
    「とりあえず、上野さえいなくなれば平和だ……」
    「永い永い戦いが終わったな……」
     会議室がお通夜のようにしんみりとする。それは当然俺の転出を悲しんでいるんじゃない。人間は真の喜びに直面すると体の力が抜けるもんだ。

     その心境は俺だって同じ。
     巨大なストレスだった夏から先週ついに解放された。そしてこの職場の雰囲気からも今週で解放される。数日後の四月が待ち遠しい。

     朝からそういう気分だったせいで、いつもなら何も考えずに参加するこの朝会に、今日はかなり前向きな気分で参加した。
     そんな有頂天具合が思わぬ不運を呼びよせたのかもしれない。

     先輩の男子社員が俺の目の前で不意に呟いた。
    「転勤か……。それが理由で上野君は彼女と別れるのか」

     一瞬、意味が分からず呆然とその人の顔を見つめた。その人は俺の視線が痛かったらしく困惑気味に付け足す。
    「さっき……始業前、うちのビルの前で夏原さんから聞いたんだよ。君たち別れるんだろ?」

     ちょっと待て。
     会社が近いし、会って話をするくらいはまあ……ありえないわけじゃないか。え、あるのか……? あったのか……? 俺が知らないだけで? 今まで何度も??
     そうだ……。そうだよ、ずっと、あの事が引っかかってたんだ。
     なんで夏は俺の彼女なのに、例のランキングの女王の座にいまだに君臨してるんだ。
     同僚二人の遊びで作られたはずのランキングが更新されつつ社内を独り歩きしているだけでなく、この支社の男子社員の指標になっているだろう。違うのか?

    「なんでそういう話題になるんだろうな」
     俺の強い口調に、相手は明らかに動揺し慌てて訴える。
    「話し掛けてきたのは夏原さんの方からだからな! 僕はほぼほぼ初対面だし……」
    「夏原さんがそんなことを突然話し出した、とでも言いたいのかな」
    「その通りだよ。夏原さんは君に振られる理由がよく分からないとかなんとか……。上野君、そういうことはちゃんと伝えた方がいいんじゃないかな……」
     視線を逸らされ、早口で言い訳された。
     この男は俺の彼女だと知ってて夏に近づけるほどメンタルは強く無いな。それに、わざわざ俺に言う必要もないしな。たまたま会って話しただけか。
     ということは、だ。
     親しくもない人間にそういうことを平気で相談できるのか、夏は。……フザケんなよ。

     その話を適当に終わらせようとした時、周囲の変化に気付いた。

    (6)
     そうだったのか?……
     夏原夏と上野は今、何の関係も無いってよ。
     じゃあ、彼氏いないんだな……。
     へえぇぇ……いないんだ……。
     へえぇぇぇぇ…………。

     そんな風にひそひそと囁く声が聞こえてきた。

     この状態は……。

     いや……冷静になってよく考えてみろ。
     別に、今日からは誰が夏と付き合おうと構わないはずだ。夏にとって、今までのホログラムのような男を忘れて新しい恋をスタートさせるいい機会だ。どうぞご自由に、と言いたい。
     ご自由にどころか、できるだけ早く新しい彼氏を作ってほしいと願う。ランキングなんかに飛びつく野獣どもが犯罪を起こさないための抑止力として、俺の去った後しっかりした彼氏が必要のようだ。HR特別部の二人だけでなく、情報が社内全体で共有されている現在、俺の彼女だったという歴史だけでは十分に守れない。下劣な男ども……犯罪者的な目で見る外道から守ってくれる男が必要なんだ。

     どの男だ。夏を守れるだけの器量のあるやつはどこにいる?

     会議室の男子社員の顔を見渡した。
     ニヤニヤと野卑な笑みを浮かべている。口元はだらしなく目つきもいやらしい。

     普通の男が、……まともな男がいない。
     いない……。


     どいつもこいつも……犯罪者予備軍に見える。



     俺はその時、やっと状況を悟った。
     夏の周囲にまともな男がいない。
     それを知っていて、俺はこのまま無視し夏を放置し去ることができるのか。
     いやできない。もしできていたら最初から付き合ってなんかいない。

     敵だと認識すらしていなかった雑兵に囲まれて、俺は身動きできずにいた。
     生態を見定めることに長けたHR特別部職員の特質が完全に仇となっている。
     ゲスな男どもが、まさか結果的に夏の援軍になってしまうとは……。



     おどおどしている先輩をもう一度見て、すぐに姿勢を正した。
    「夏原さんがそんな事を? じゃあ、彼氏になれるんじゃないかと期待する人が出てくると可哀そうだし、はっきり言っておかないとな」

     男たちの強い視線を感じた。会議室は不気味な静けさに包まれている。
     最低さで言えば、この中では俺が一番マシだろう。

    「そもそもレベルが違うんだよ。ここにいる男性社員レベルじゃ夏原さんに話し掛ける資格も無いな」
     何のレベルかは各自勝手に想像すればいい。
     この暴言で、社内メールの殺害予告が二倍や三倍になったところで痛くも痒くもない。


    「とにかく……」
     腹を決めて視線を上げた。
    「振ったとか振られたとかいう話は誤解なので……軽々しく夏原さんに近寄らないようにお願いします」

     その場に戦慄が走っていた。
     俺が頭を下げる姿は、そうそう見られるものじゃないだろうからな。
     まあ置き土産みたいなもんだ。

    「彼女には、私がいるので」

     言ってしまった。
     こんな方法しかなかった。
     これは、自爆に等しい。



    目次

    • part 1 : Look at me!
      第1話 私の彼は(#1~6)
      第2話 俺の彼女は(#1~6)
      第3話 彼のセリフ(#1~6)
      第4話 彼女の妄想(#1~6)

    • part 2 : I miss you...
      第1話 彼の行方は(#1~6)
      第2話 私の彼女は(#1~8)
      第3話 彼女の彼は(#1~6)
      第4話 俺の周りの人間は(#1~8)

    • part 3 : I need you!
      第1話 四月は始まった(#1~6)
      第2話 遊園地へGO!(#1~6)
      第3話 六人の思惑(#1~6)
      第4話 痛み止めのキス(#1~6)

    • part 4 : I'll hold you!
      第1話 ホンモノは誰だ(#1~6)
      第2話 君を想うゆゑに(#1~6)
      第3話 恋(#1~6)
      第4話 彼の気持ち(#1~8)

    • 番外編
      バレンタイン・トラップ(#1~7)

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