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    M of L

    part 3 : I need you!

    第1話 四月は始まった

    (1)
     プラットホームに立っていると、誰かの服にでも付いて来たのか、桜のはなびらが一枚、足元に落ちていた。
     その花びらをよけて、重い荷物をドサリと置く。後10分、電車は来ない。

     もう午前9時を過ぎている。
     その上、私、夏原夏(かはらなつ)が勤務し住居のあるこの地域は、都心とは離れているせいで乗降客も多くない。静かな駅で、私はぼんやりと考えていた。

     メールに返事が来ないのは今に始まったことじゃないけど、こんな緊急事態でさえ相手をしてくれない事にだんだん腹が立ってきた。
     私は会社まで辞めて逢いに行こうとしているのに、この気持ちは全く通じてないの? ううん、聴く気も無いってこと? それも、上野紘一(うえのこういち)だけじゃなくて久芳恋(くぼうれん)までが。

     紘一の綺麗な横顔に、恋がそっと微笑みながら近づいてくる。
    『夏のこと、気にしてるの?』
    『気にならない。今はおまえだけだから……』
    『ほんと、サブロー……ううん、もう夏はいないから紘一って呼んでいいよね?』
    『いいよ。二人っきりなんだから。もっとこっち来いよ……』

     きゃあああああっ!

     私が頭を抱えうずくまったので、駅員が血相を変えて飛んできた。大丈夫、大丈夫です、ほ、ほんの、いつもの妄想ですから……。
     それでも親切そうな初老の駅員さんが心配そうに私の顔を見る。
     そうだよね、私あんまり嫌な妄想は見ないんだけど、これは妄想っていうより、不安なんだよね。

    「夏原さーん」
     微かに私の名を呼ぶような声が聞えて来た。ゆっくりと立ちあがり、その声を振り返る。スーツ姿の男子が駆け寄って来るのが見えた。それを見て駅員は安心したらしく、離れて行った。
     私の目の前で、軽く呼吸を弾ませながら立つ男子が笑っている。
    「夏原さん、びっくりしましたよ。朝礼前に会社から消えちゃうなんて」
    「あ……うん。ごめん四宮くん」
     軽く汗を拭って、まるで朝練を終えて来たかのような顔の四宮現紀(しのみやげんき)は、爽やかな笑顔と少しの困惑を顔に浮かべている。

    「いきなり会社辞めて、今からどこ行くんすか」
     彼は一つ年下の後輩で、社内では割とよく話をした方かな。でも見送るために、勤務時間中にここまで追いかけて来てくれるほどの関係ではなかったのに、どうしたんだろ。
    「なんていうか、いろいろあって……」
    「仕事で? プライベートで?」
    「ぷ……」
    「わかりました。じゃあ、聞きません。ただ」
     彼は何かにつけてせっかちなので、私の言葉を最後まで聴いてくれたことが無い。でもまあ、そういう先に行ってくれる方が楽な時もある。
    「スマホ、忘れてますよ」

     四宮現紀は私にスマートフォンをすっと差し出した。
     ええっ。ホントだ!
     最新機種に変えたばかりで四宮に自慢していたから彼も気付いてくれたのかな。
    「あ……りがと……」
    「じゃ、また!」
     四宮は颯爽と走って駅のホームから出て行った。

     なんだ引き留めに来てくれたんじゃなかったんだ。
     ちょっとだけ嬉しかったのに。

    (2)
     そしてその事に気付いたのは、残念ながら電車に乗った後だった。

     ……私、朝からずっと紘一とメールしてたよね、駅のホームでも。
     じゃあなんで四宮がスマホを渡してくれた時に、私のじゃないってすぐ気付かないのっ! バカッバカッ私のバカーッ!!

     都心方面へ向かう電車だったので、過疎な地区の駅から乗り込んでも車内は割と混雑していた。私は立ったまま両手に抱えた荷物に困り、とりあえずそのスマホは鞄に仕舞いこんだ。
     仕舞ってしまうと、ケースも飾りもついていない新品状態のままの自分のものと、見た目では全く区別がつかなくなってしまうことも気付かずに。


     終点に着くと、そこは紘一の本社のある駅になる。
     外国かと思うくらい雑多な人種、カラフルな街並みだった。
     なんだか今まで活動していた場所の『モッサリした田舎っぽさ』が『=私』の様で、洗練されたこの街が紘一や恋のような気が…………しない。私も今日から、ここの住人になるんだから!!!! この街の色に……紘一の色に染まって見せるんだからああ!!!

     ふと、駅を出て歩いていると、前に三島光一(みしまこういち)の背中があって驚いた。
     三島さんは笑顔でゆっくりと振り返った。

    「やっぱり夏原さんか。後ろからクウウ、クウウ、と犬が苦しんでるような喘ぎ声がしたからな」
     な、なんていう例え。
     ただの我慢声が漏れただけなのにっ。ていうか、この雑踏の中で私の我慢声を聴き分けられるとは!?
    「三島さん、どうしてこちらに?」
    「自分は単に雑用で本社に呼ばれただけですよ。それより、夏原さんがここにいることの方が不思議だけどね」
     もっともな話。
    「今日は月初でしょ? 仕事はどうされたんです? もしかすると『突撃!本社の上野君!』みたいな話ですか?」
     三島さんがさもおかしそうに笑うので、思わず立ち止まり持っていた荷物を歩道の脇にドスンと置いた。
     私のスネた様子に彼は立ち止まり、ゆっくりと目の前にやってきて言った。
    「上野君を好きなら、これは逆効果じゃないですかねえ」
    「でも……」
     返事がなかったんだもん。来るなって言われなかったんだもん。行くよって、あれほどメールしたのに。
    「夏原さんは、上野君のどこがいいんですか?」
     当たり前のように無表情で訊ねられ、思わず言葉に詰まる。いや、ここは怒って良い場面のはず。
    「どこがって……。全部なんです!」
     三島は「そうですかあ」と言ってから、フッと笑うと目の前のカフェを指さした。
    「荷物重いでしょう。本社まで後で車で送りますから、コーヒーでも飲みませんか」
    「えっ」

     元々柔和な顔つきで、優しい感じだなあとは思っていたが、イメージは間違っていなかった。クマさんのようにニコニコして、ハチミツの代わりにミルクたっぷりのカフェオレを私に勧めてくれた。
    「自分は軽く何か食いたいんですけど、夏原さん、パンケーキ好きですか?」
    「えっ、はっ、はっはい!」
     午前11時近いというこの時間に、こんなものを食べたら、昼抜きになっちゃうよお。でも………………。
     断れない誘惑って、あるよね。

    (3)
     三島光一と言う人はどことなく不思議だった。
     ただのクマさんではないな、そう思ったけれど、どのあたりがどうなのかをハッキリと上手く説明できない。とにかくひょうひょうとしているけれど、それはポーズのような気がした。
    「上野君の全部、って、本当に知ってるんですか?」
     突然、穏やかな笑顔で、三島さんが私に訊く。

     全部……。
     全部好き。性格も、見た目も、優秀な部分も……みんな……。
     私が口ごもったまま三島さんを見ていると、彼はサンドイッチをほおばりながら言った。
    「彼はここの国立大を卒業してうちの会社に入社後、その才能を認められて即、みんなが嫌がるHRSに配属されたんですよ。支社勤務だったから余計虐められたんでしょうけど、メールやラインやSNS上に殺害予告が溢れてましたよ。ま、上野君自体は虐められてるとは思っていないみたいでしたが」
    「えええっ!」
     あの紘一がイジメられてた?
     三島さんは当たり前のように「ほかの支社のHRS職員も、みんなそんなもんですが、上野君は職務に忠実すぎて反感の買い方がハンパ無かったな」と笑った。

     私は確かに、紘一にあれこれ聞こうとはしなかった。
     だから、この時の話が初めて聞く話ばかりだったのは仕方ない。信じていいのか、そんな判断すらつかない、話の連続だった。
    「そういう仕事柄、上野君はネットもあまり見ないしメールもラインも殆どしないはず」


    「大丈夫です、上野君はなんとも思ってないですよ。弱かったらHRSに4年も勤めて無い」
     私が深刻そうな顔をしていたからか、三島さんはわざとらしいくらいに、優しい声で言った。
    「自分の先輩があの街でお巡りさんやってて、近所の学生には目を配ってたようですが、その人が言うには、『上野紘一は子供の頃から、クソまじめ。校則に違反したことなど一度もなく、多分生まれた時からの嫌われ者。ただし、そういう男を、【孤高の人】だなんて美化して惚れちゃう女は山ほどいた。正直、見かけも成績も、周囲を寄せ付けないほどのレベルだった』そうです」
    「そ、そうですか……」
     子供の頃の紘一なんて、想像したこともなかったし、彼が『打たれても打たれても飛び出すくらい強引な杭』だったとは、知らなかった。ということはもしかすると、紘一はあれでもちょっと、大人になったのかもしれない……。

    「それでも、全部好きって、言えますか?」

     ふと、聞こえた三島さんの声に、私は自分がぼんやりしていたことに気付いた。
     そして、やはり即答できずに視線だけを上げた。

    「自分としては、夏原さんと上野君は、合わない気がするんだな。上野君の傍だと委縮してしまう夏原さんと、夏原さんの前ではマイペースを守れない上野君。……ねえ、もっと他にいい男はいますよ。考え直してみてはいかかです? 今なら、間に合いますよ?」

     途中から食べられなくなったパンケーキのシロップが、白いお皿に涙のように流れている。
    「ほかに、……なんて考えられないんです」
    「考えて無いだけですよ。いい男を紹介しましょう。立候補したい所ですが、自分より若くていい男が本社にいるんです」
    「ええ?」
     三島さんの目はキラッと輝いた。どうやらここからが、本題のようだった。


    「久芳連って男、ご存知ないですか。上野君の友人ですよ」

    (4)
     ゴクリと唾を呑み込んだ。
     知らないととぼけた所ですぐにバレる。もう、溜息しかでない。
    「どうして、久芳恋なんですか」
     私が俯いたまま訊くと、三島さんは明快に答えた。
    「さっき言った、自分の先輩のお巡りさんが久芳さんて言うんですが、その10歳程年の離れた弟さん。いい子ですよ。自信もって推薦します」
     どうして推薦するのかな。
     放っておいてくれてもいいのにな。
    「恋のことは、あの……」
     私が説明をしかけると、三島さんはなぜか急にテーブルを立った。そして、突然手を上げて人を呼んだ。
    「五条さん、五条さん? こっちです!」

     私は口を開けたまま、言葉の続きを忘れて三島さんの視線を追った。
     そこには女の人が立っていた。
     立っていたけれど、独りではなく、傍には絵に描いたようなお世話係の品の良いオバサンが控えていた。
    「……、…………」
     多分蚊の鳴くような声というやつだよ。返事でもしてるんだろうけど、こっちまで聞こえない。
     オバサンに手を引かれて、三島さんの目の前までやってきて、彼と私に会釈する。
    「夏原さん、こちらは五条優姫(ごじょうゆき)さんです」
     慌てて立ちあがり頭を下げた。彼女は見た目だけで、とてつもない貴婦人オーラが出ている。30歳前後のお嬢さま……なんだろうけれど、三島さんとはどういう関係なんだろう。全然釣り合ってない気がする。繊細さと無神経さ(ちょっと言いすぎかな)、そんな取り合わせだ。
    「夏原さん、勘違いしないでくださいよ?」
     急に三島さんが私に言う。
    「僕と五条さんとを比べても、何の意味もないよ」
     そんな事を言われても、突然紹介されたら比べちゃうでしょ?
     口には出せないけれど、不満顔になってしまう。
    「彼女は……ね」
     三島さんは何故か私の目をじーっと見て言った。
    「今後本社にちょくちょく顔を出すことになるかもしれないんだよね……長谷(はせ)部長の提案で」
    「はあ……そうですか?」
    「うん、何しろ彼女、得意先のお嬢さんなんだけど、上野君の大ファンでね……」


     そんな時、私の鞄の中でスマートフォンが小さな音を出した。
     画面にデッカく『しのみー』の文字。出てみると、やはり彼の声がした。
    『夏原さん? 俺、四宮です!』
     その声に、思わず目の前の全てを忘れて、スマホダブり事件を思い出した。
    「四宮君、渡してくれたスマホ、絶対誰かのと間違っ……」
    『そう正解、今夏原さんが手に持って俺と喋ってるツールは、八城(やしろ)さんのスマホです』
    「えええっ、これ、八城課長のなの???」
    『はい! だから、絶対に明日には返してほしいんですけど、うちの会社まで持ってきてもらえます?』
    「待って、ケータイ明日まで無くて、課長大丈夫?」
    『その辺りはまだ使いこなせてない人なので、大丈夫です』

     いや、いや、それでもさあああ……。辞めた会社にすぐ翌日、のこのこ顔をだせだとお!
    「ねえ、四宮君が取りに……」
    『いいですか、今すぐこのスマホ、電源を落として、明日まで壊さないように、しっかり厳重に保管しておいてくださいね。壊したら弁償すんの俺ですから。ヨロシク!』
     四宮の電話は一方的に切れた。

     なんなの。
     なんでこーゆー…………みんなして私の邪魔ばっかするのよおーーっ!!!

    (5)
     あたふたしながらスマホを鞄に仕舞う私の背後で三島さんの視線を感じた。振り返ると、彼は笑って言う。
    「そろそろ昼を過ぎるんで、五条さんを本社へお連れしないと行けないんですよ。さ、一緒に車に乗せてあげますから、行きましょうか」
    「えっ、えっ……」
     三島さんは立ちあがり、優姫さんと世話係を促して店の外へと出て行く。
     あああっ、本当だっ!
     店の外には、白銀のロールスロイスがいつの間にか停まっているじゃないかああ!
     いかにもクラッシックなカクカクした形でありながら、白い日光を浴びて銀色に反射する車だ。気品を飛び越えて頑固ささえ伝わって来る。古風なプライドの高さを感じる……んだけど……、確実に、アレに乗れと言われるんだろうな……。……庶民な私は、……寒気がするよ。

     想像通り車の運転手は落ち着いた執事風の男性で、私たち4人を笑顔で車内へ導く。
     私の大荷物にも全く関心を示さずに、淡々と預ってくれた。
     私はそうして、三島さんたちと一緒に、上野紘一の勤めている本社へと向かった。

     最初寒気がしたのは、エアコンのせいだったのか?
     最高の乗り心地で本社までの国道を優雅に進んでいる間、私は少しずつリラックスして、ずっと乗っていたいような気持ちにまでなっていた。もしも隣に紘一がいたら、思わず深い口づけを……。
    『夏……だめだよ……』
    「いや、おねがい、もっとキスして!」
    『止まんなくなるけど、いいのか?』
    「いいの。私、紘一となら、道のど真ん中ででもオッケー!」
     という自分の脳内の、はしたないセリフに青ざめて我に返った。
     欲求が不満している。不満が不満をひきつれて、不満だまりになって妄想から幻覚へ、そのうちファンタジーなパラレルワールドがライトノベルからエロ雑誌へ……と…………
    「夏原さん、あと5分ほどで着くからね」
     前に座っている三島さんが、私に言った。
     顔が思わず真っ赤に染まった。


     それにしても、なぜ自分の隣にいるのが五条家の使用人らしきオバサンなんだろうと不満に思っていた。

     三島さんはあんな風に『何の意味も無い!』とキッパリ言っていたけど、優姫さんの彼への視線は、どことなく怪しいぞ???
     決して触れない、それどころか近寄って来られると、怖いものから逃げるかのようにふわ~と笑顔で移動してゆく優姫さん。男性に対する免疫が無いのかしら。三島さんは決して怖い部類の人じゃないから。

     そして『上野君の大ファン』だと言うのはホントの話かな……。

     私の場合、彼のファンの100人や200人、受けて立つ自信はあるのだっ! 五条さんがその内の一人だとしても大丈夫、覚悟はあるから。

     ただ、どちらかというと彼の事を嫌う人が、そんなにいるなんて信じたくないな。
     私が、これから一生……上野紘一を守る!!


     そう心に決めた矢先、ゆっくりと車は本社前で止まった。
     受付ロビーへと向かう三島さんと五条さんとオバサン。車の前に立つ私と、そんな私を不思議そうに見つめる運転手さん。
     昼過ぎだった。

     本社ビルからは、食事に出かけるサラリーマンがまばらに出て来て、広場を歩いてゆく。なんとなく目で追うと、偶然、そこに上野紘一の姿を見つけた。

     間違いない。
     紘一だ。

    (6)
    「コーイチー!!!!!」
     私は絶叫に近い叫び声を上げて、離れた紘一を振り向かせようと慌てて走り出した。
     気付いて!!! こっちを向いて!!!
     そう思っているのに、全く前に進まない。
     気付けば、運転手のオジサンに、背中の服を掴まれていた。
    「お荷物をお忘れです」

     紘一は? 紘一は?
     ドキドキしながら彼が歩いていた方向を見ると、100メートルほど先に、スーツ姿のまま白い日光の下に立つ上野紘一の姿を確認した。
     じっとこっちを見ているようだ。
     ま、まちがいなく、私に気付いているみたいだった。
     やばい、早く行かなくちゃ逃げられる!! いや、逃げられるって、どういう状況っ! 私は魔物か!

     自分に突っ込みを入れている間も、オジサンはゆっくりと荷物を私の目の前に並べた。
    「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、ありがとうございましたっ!」
    「お気を付けていってらっしゃいませ」
     がばっと重い荷物を抱えて、必死で走った。
     なんと例えようか、『やじろべえが道路走ってるけど、超ノロいよな、転がった方が早くね?』という若者の意見が耳元に届く。すまん、その通りだ。誰か転がしてくれえ。
    『交通安全上、ヤバくね』
    『ていうか引きずってる荷物の音、うるさくね?』
     あんたら、そう思うんなら、手助けしろーーーー!!

     立ち止まって睨みつけると、若者たちはさっさと消えて行った。くそ、私だって若いのに。

     紘一は……。
     いなくなっているんじゃないかと不安で顔を上げると、私が進んだ分だけ彼と距離が近づいていた。
     紘一はずっとその場に立って、私を見ていた。

     表情がはっきりと見える程に近づいた。ハァハァ、ゼェゼェ息を切らして、荷物の重さで腕が棒……、いや、腕がつっぱり棒のようにピキーンと痛んでいるけれど、紘一に近づける喜びで気にならなくなってきた。
    「紘一……」
     声の届く距離だ。
     上野紘一は、少し姿勢を変えて、私へ体の正面を向けた。相変わらずシニカルな微笑をたたえているし、何も言わないが、どうやら私を待ってくれている!!
    「ごう……いぢぃ……」
     口呼吸のせいなのか、喉から枯れた声が出た。
     ようやく紘一の目の前にやってきた私は、ドスンと全ての荷物を下ろしてへたり込み、泣きそうな顔で彼を見上げた。
     紘一もさすがに笑うのをやめた。

    「まさか本当に来るとは思わなかった。…………オツカレ」

     は……。あれだけ、行くよってメールしたでしょ!!
    「ほ、ほかに何か言う言葉は……? 来てくれて嬉しいとか、来られて迷惑だとか、無いの?」

     紘一は普通に困惑した顔で答えた。
    「その前に、その大荷物の意味がわからない」

    第2話 遊園地へGO!

    (1)
    「そんな荷物抱えて人の会社に来るか、フツー?」
     そう言う上野紘一(うえのこういち)の顔は、やや呆れた目つきから、面倒臭そうないつもの表情へと変わっていく。
    「なんなんだよ、中身」
    「そ、そ、そ、それはっ……決心というか」
    「決心?」
     紘一は、苦い苦い顔をした。

    「なんの決心かは後で聞くが、とりあえず、今からどうするつもりだ」
    「ついてく!! 今ついていかないと、紘一と次いつ逢えるかわからない!」
    「ついてくって……午後からの仕事にか? 冗談言うなよ。ちょっとくらい待てるだろ?」
    「待てない、絶対待てない! バカ正直に待ってたら放置される!!」
     私は座り込んだまま自分で抱えた鞄を何度もペシペシ殴って訴えた。
    「夏って、数時間程度が我慢できないやつだったっけ。1週間くらい平気だろ」
     紘一はそんな事を言う。

     ま、ま、前から酷い事してる自覚無いのかな。
     前の付き合い方が異常だったって、分かってないのかなっ!!

    「あ、あのね、今は違うの。別れる理由うやむやにされてる状態で何日も待てない!!!!」

     そこまで言うと、さすがの紘一も黙り込んだ。

     紘一は静かに私の目の前に腰を下ろし、そっと私の頬に手を当てた。
    「夏、今から俺の部屋、来る?」



     えっ。

     驚くというより、恐怖心が体を駆け巡った。

     そうなんだよ。最初からそのつもりで来たんだよ。でもなんでか、紘一に優しく顎を引き上げられて顔を近づけられると、体中の力が抜けて水あめみたいになりそうだあああ。人間に戻して~~~。

    「ここから近いんだ。とりあえず、俺のマンションで待ってろ。それなら安心だろ? 俺は仕事が終わったらちゃんと帰って来るから」
     ほ、ほんとッ? 今から埠頭のコンテナに私を連れ込んで鍵かけて逃げるつもりじゃないでしょうね!
     立ち上がった紘一が、私に手を差し伸べて引っ張り上げてくれた。
    「走るぞ」
    「へぁあ? は?」
    「ほら、ダッシュ!」

     紘一は4つあった私の荷物のうち3つを持ってサッと目の前からいなくなった。
     ど、どこ行くのよ、速すぎるってば!!!


     街中を大荷物持って全力疾走。それも見え隠れする彼氏の後姿を確認しつつ、よれよれと走る。全力だけど疾走でも追走でもなく、別行動の人っぽい。
     たまに舌打ちでもしてそうな目で、紘一が振り返る。
     四月だというのに、汗だらだらな私に対して、紘一は息一つ切らしているようすもなくクールだった。
    「仕事に遅刻させるつもりか。もっと早く走れ!」
     いや、クールというよりは、非情だった。

    (2)
    「ゼー……ハー…………」
     マンションに到着、部屋の入口にようやく辿り着き蹲りそうになるところを、上野紘一(うえのこういち、……嘘のようだが同い年)に拷問の続きとばかりに立ちあがらされる。
     腕を引っ張られ、荷物を引き剥がされ、ああ……このまま裸にされて私は売り飛ばされる……んならせめてその前に一度くらい紘一とエッチ……
    「おい、夏」
    「え?」
     急に立ちあがらされフラッと体が揺れた。
     頭から倒れそうになり、傍にいた紘一が掴み寄せてくれなかったら、後頭部壁でバッチーンという所を助かっ……………………。
     助かった……んだけど。
     紘一に壁際、全力で抱き寄せられていた。

     あ、紘一、今なら壁ドンからのー深~いチュウのチャンスだよー。
     鼻先が触れる程の距離で、見つめ合って0.5秒。

     パッと飛びのくようにして私から数歩下がる紘一は、その目にまるで妖怪でも映しているかのように、恐怖の色を掲げていた。
    「あ、あ、あの、紘一……」
    「な、なんだよ、しっかり立てよ」
    「う、うん、ごめん。ありがとうね。あの、あの……?? どうした……の……?」
    「ど、ど、……」
     いつも冷静な紘一が硬直している。
     私の質問の答えに、スラスラ答えないなんて、不思議な光景だった。
     紘一はゴクリと聞こえるほど、喉をならして唾を呑み込み、ネクタイを締め直して言った。
    「夏にお知らせがある」
    「お知らせ?」

     その時、目の前の部屋の扉が開いて、「じゃー~~~ん」とばかりに見たことのあるコが飛び出してきた。
    「れ、恋……」
     久芳恋(くぼうれん)はその場で、控えめに笑った。
     いつもは人前でも、飛びついて抱き着いてキスくらいするのは抵抗ないヤツなのに、この遠慮はなんだろう。あ、そか、友達だから……そういう約束したから、気にしてるんだ。そっか。

    「俺は……”夏の友人の”連と同居してる。ここ数日、こいつは事情により病欠扱いで休んでる」
     紘一の『お知らせ』は一部力を込めて声高に告げられた。
    「あ、そ、そうなんだ」
     一体、いつから紘一と連は同居するまでの仲になってたんだろう。ていうかどこまでの仲なのよ。そこをはっきり言いなさ……
    「入りなよ、夏」
     恋は私の手を引っ張って、部屋の中へと引きずり込む。その手が少し弱弱しい。

     私たちの後から荷物全部を持って入ってきた紘一は、スーツをパンパンと叩いて、汚れを飛ばしながら言った。
    「連は重度のストーキングに遭ってる……俺たちの同居の理由はそれなんだけど、俺が守ってやらなくちゃならない。連は俺がいない間は、家に閉じこもっているのが一番だ。いつストーカーの襲撃があるかわからないからな」
     結構、深刻な話だったので、思わず恋の顔を見た。あの元気な恋が病欠するくらいだから相当な被害に遭ってるんだろうな。
     でも恋は、どこか嬉しそうな顔をしていた。

    「夏が来たということは、俺がいなくなった後、ここで二人っきりになると思うけど……」
     紘一はわざとらしく私と連を見てから視線を逸らした。
    「サ、サブロー。大丈夫だよ、人の女に手を出したりとかしないから」
    「違う。夏は俺の彼女じゃない」
     紘一の言葉に、連も私も呆然とした。そこまで断言する? やっぱりアンタたちどういう関係っ……!!
    「サブロー、違う……って、そんな……」
     !!……まだ別れる事、合意してないんだけどっ!!!
     紘一はイライラした表情で髪を上げ、腕時計を確認した。
    「だからまあ……わかってるな連、おまえのために夏を部屋に入れたんだからな」
    「いや、それって、サブロー!!!!」
     今まで見たことの無いくらい必死の形相の恋に、私も必死でフォローする。
    「私と恋は友達だから、何も無いしありえないから、ね、紘一」
    「ありえない、ねえ……」
     紘一は横を向いて溜息をついた。
    「別に俺に遠慮はいらない。俺は連と夏がうまくいけばいいと思ってる」

     紘一の言葉が響くと、部屋の中はまるでお化け屋敷のように温度が下がっていった。

    (3)
     紘一は、それだけ言い残してさっさと仕事へ行ってしまった。
     普段、恋と部屋で二人きりでもさほど緊張はしないけれど、今日は、恋も私も少し態度が違った。
     微妙な雰囲気の中、恋がおずおずと切り出した。
    「ねー、夏。あのさあ、ちょっと見てほしいもんがあるんだ」
     恋がリビングのテーブルに紙と鉛筆を持ってきて、『久芳連』と書いた。私はただ、それをじっと見ていた。
    「れんっていう名前だけど、完全に男。これからも男、懇願されても女にはならない予定」
    「この字だったんだね……」
    「うん。別にどう思われててもいいんだ名前くらい。でもね、一つだけこのことで言いたいことがあって」
     私たちはテーブルの上に置かれた紙の上で顔を寄せていたが、連からあえて距離を取り体をひいた。
    「夏の好きな『コーイチ』が、自分の友人のサブローだって知ったのはつい最近で、まだ消化できて無いけど、でも、それ以前に夏とは友達でいるって約束したし、コーイチとの恋愛を応援するとも約束したよね……」
     沈黙がふ……と二人の間を駆け抜けていく。
    「だけど、もしサブローにホントにその気が無いなら、……コーイチじゃなくて、恋でもなくて、……連を見てほしいんだ」

     あ、え、あ、えっと……。
     私はどう答えていいのか分からず、口をパクパクさせていた。

     すると連は緊張気味だった表情を崩し、にやーと笑い、
    「だめだー。夏の顔見てたら、自制できないよおー」
    と言って、一瞬でテーブル越しに、私の上半身を引き寄せた。
     必死ですぼめた口も、連の柔らかな唇が押し付けられると自然に受け入れるように開いてしまう。

     ウソだ。約束が違うっ! 違うけど、この味、なつかしい~~。いや、そんな事考えててどうするっっ。わ、わ、わ、私は、紘一の部屋で何をしてるのっ。

     紘一は、こうなることを望んでるの?

    「夏ってさー」
     いつの間に目を閉じていたのか、連の声に瞳が開く。呼吸が楽になる。
    「そんなにコーイチが好き? 連も好きでしょ?」
     連はそう言って、じっと私の目を見つめた。
    「……も、もちろん恋は嫌いじゃないけど、それは……」
    「このまま、続きでエッチしたいって思うでしょ?」
    「いや、うそ、それは妄想もしたことないっていうか、せ、性別が……」

    「じゃあ、教えて。なんでキスもしてくれないコーイチを、そこまで好きなの?」
     単純な疑問を、幼い子が口にしている。そんな表情の連だった。
    「なにが、コーイチに負けてるのかな? どこがダメなの?」

    「もし、夏に嫌われてないんなら、……将来的に彼氏になる希望は捨てたくないよ。いいでしょ?」



     私は連の言葉に対して、この前のように勢いよく拒絶できなかった。
     少し揺らいでる。
     唇の繋がる感覚は、なつかしさと心の底の愛情をじわっと湧き出して、理性とは違う部分を反応させてしまうから。
     こんな、こんなんじゃ、インランって思われるぅーーー。


    「あ、あ、あ、あたし、、この辺りに桜の綺麗な遊園地があるって調べてわかったから、だから、み、観てくる……」
     しどろもどろに呟く私を前に、連は私の頬にまたキスをしてみみたぶをペロリと舐めた。
    「逃げないでよ」
    「ニ、ニ、ニニゲルトカ……」
     ああ、ダメ、このまま逃げずに体を任せたい~~~。

    (4)
     その時、ジーーーーというヘンな機械音が聞えた。
     途端にビクッとして立ち上がった連は、辺りを速足で歩きまわっていた。目を皿のように、とはこのことで、棚の奥やスタンドライトの内側や、窓の縁など、いろんな場所を見て探していた。
     あのおおらかな連が、かなり怖い顔をして神経質そうに指を震わせていた。

     ご、ごめん、連。
     私は今のうち、とばかりに、カバン一つを持って部屋を飛び出した。


     桜が満開で賑わう、美しい公園……を想像して来てみたものの、そこはさびれた空き地のような場所だった。
     紘一の部屋から歩いて……いや私の足で走って10分あまり。
     休日なら『そこだ!ピザマンショー』があったんじゃないか、と思われる立て札と、舞台。桜の木が二本。一応広場なので、ベビーカーを押す親子の姿がちらほら。
     チラチラ舞い散る、若い桜のはなびら。


     ……。


     ジャンクフード専門の小さな屋台の中から、オジさんがにこにこしてこっちを見ている。何か買えということらしい。
     昼ごはんは抜きにする予定なのに、私はチーズとローストビーフのサンドイッチを買ってしまい、錆びた白いテーブルにトレーを乗せた。
     やはり錆びた、重い鉄製の椅子に腰かけた。テーブルも椅子も、白いペンキが3割くらい剥げている。
     ああ、見晴らしがいい。
     人がいない。

     アイスティーを飲んでいると寒くなってきて、ふと周りを見渡すと、背後に人影があった。
    「きゃああっ!!」
     びっくりして椅子からずり落ちそうになっていると、その人影は私の体をしっかり引き上げた。
    「もう。鈍感なんだからー」
    「ど、鈍感……て、お、脅かさないでよぅ。いつからそこにいたの?」
     私は助けられた手を取って、ほっとしながら訊いた。
    「そうね、15分くらい前からかな」
     上野美羽(うえのみわ)は肩をすくめ、天使のような笑顔で言った。

     美羽ちゃんは、私の目の前の位置の椅子に改めて腰かけてから、笑顔で言った。
    「なんで連は、私より夏ちゃんの事が好きなのかな?」
    「えっ……」

     その時の美羽ちゃんの瞳が、薄く灰色に光ったように見えた。
     まさか、連のストーカーって、み、み、み、み……。
    「連が言うには、私と出逢うより前に夏ちゃんと出逢ってたから、なんだって。時間の問題なんだって。私が連をどれだけ思ってるかとか、夏ちゃんがお兄ちゃんを好きだとか、そういうこと、全然関係無いみたい。不思議よね。連って子供過ぎよね?」
     美羽ちゃんは平然とそう呟く。
     そして、テーブルの上にゴトンと何か硬いものを放り出した。
     連のスマートフォンだ。
     しっかり画面が割れている。破壊されている。
    「これ連に返さないといけないから、今からマンションに行こうよ。場所は探りだしたんだけど、私が行っても開けてくれないのー。だから、夏ちゃんも一緒に!」

     間違いない。
     美羽ちゃんがストーカーだったんだ。
     私がここにいることも、さっきの盗聴で推測したのか……。

    (5)
    「ね、夏ちゃん。お兄ちゃんのこと、まだ好き?」
     姿形だけはとろけそうに可愛らしい美羽ちゃんが、甘いまなざしで私に問う。
    「う、うん。勿論」
    「そうよね、だからここまで来たんだもんね。最初夏ちゃんがお兄ちゃんを振ったんだと思ってたけど、この現状を見る限り違うみたいね。どれだけ避けられても諦めないで追い続けるって、ちょっと見直した。本質的に仲良くなれそう」
     美羽ちゃんは満足そうに笑って、私のアイスティーを手に取って、ストローに口をつけた。
    「ここはさ、二人で作戦立てようよ。夏ちゃんはお兄ちゃん、私は連と付き合えるように」
    「え?!」
     私にストーカーの片棒を担げと言うの??
    「でもムリかな。あのお兄ちゃんが夏ちゃんを受け入れるなんて、違和感しかない」
    「違和感しかないって、それはナイんじゃない?」
    「だって感情が液体窒素並みに低温の上野紘一だよ? 追いかけて来た彼女を優しく包み込むなんて心の広さは持ち合わせてないんだから。もー、しょうがないから、最悪のケース私と夏ちゃんで連をシェアする?」

     シェア……。
     美羽ちゃんの提案を呑めるはずもなく、私は困って溜息をついた。
     鞄の中で何かが震えている。
     ああ、スマホだ。それも、八城課長分として預かっている方のだ。あれ、電源切ったはずなのに。
     私は八城課長のスマホの電源を切り、それから自分のを取り出したら電源が切れていた。どうしてこんなミスをするんだろ、私。
     スマホの電源を入れようとしている私を尻目に、美羽ちゃんは立ちあがった。
    「もー、夏ちゃん、スマホで遊んでるヒマ無いの。行くよ、……あっ!!!!」
     私は思わず顔を上げた。

     美羽ちゃんが叫んだのも無理はなかった。
     私たち二人の視線の先には、久芳連(くぼうれん)が立っていたからだ。

    「夏が心配で探しに来た……んだけど、美羽ちゃんもいたんだ……」
     引き攣ったような、困ったような笑いを浮かべて、連が言った。
     美羽ちゃんは一分の隙も見せず、テーブルの上の壊れた連のスマホをサッと隠し、笑顔に戻っていた。
    「ねえ、連、夏ちゃんと三人で遊びに行かない? 三人ならいいでしょ?」
     その堂々とした口ぶり。
     まるでそこに悪魔がいるのかと思った。

     着々とシェアする準備を整えようとする美羽ちゃんに、逆らえない子羊連と、とりあえず第三者を装う私。ここに介入するのは命がけだ。
     でも、連だって男なんだから、本気を出せば美羽ちゃんなんかに負けるはずがない。その時に私がいたら足枷になるのか、手助けになるのかよく自分でもわからないから、だまって二人についていくしかなかった。

    「どこに行くの?」
     まだ昼の3時だ。
    「本物の遊園地」
     美羽が言う。私は連の顔を見たが、連はわからないと言わんばかりに首を横に振る。


     まりりりーんらんど。
     私と連はぎょっとしてその建物の前で立ち止まり、ぽかんと口を開けた。
     まりーん、つまり、海洋か。
     りりー、つまり、ユリか。
     その二つがかけあわさると、どうしてこの複合施設になるんだろう。

     まりりりーんらんど。
    <混浴プライベートタイム。午後0時~夕方4時まで30%オフ!>
     すんごい古いラブホを改造した感じのスーパー銭湯?。
     どっちがメインなんだ、この建物。ピンクと白とラメが舞う派手な外壁は、とてもじゃないが、銭湯目的ではなさそうだった。

    (6)
     バシャバシャという水音。
    「大丈夫だって言ったじゃない」
     美羽ちゃんは浅いプールに体を見せるかのように横たわって浸っている。もちろん、水着は着ている。
     そう、プライベートで貸し切りの、小さなプールと温泉と休憩所の集まっている場所、それがまりりりーんらんどだった。
     水着を借りて、浅くやや温いプールに体を伸ばすと、どこかのビーチの波打ち際で寝転んでいる気分になる。カップルで来ると、若干エッチな気分になることは否めない開放感だ。だからこその、すぐ隣の休憩ルームということか。
     要するにメインは……どっちだろう。

     連も水着に着替えてプールの近くまで来ていたが、中に入ろうとはしなかった。
    「もう5時だよ?」
     彼は困ったように時刻を告げる。
     散々彼の言葉をスルーしてきた美羽なのに、5時という声には慌てだした。
    「えっ、マジで? もう5時なんだ。ゴメーン。私友達と約束があるんだー。ご飯食べに行くのっ。急いでるから、お二人はごゆっくりね! あ。連、夏ちゃんに手をだしたら、お兄ちゃんに言いつけるからね!」

     もう、美羽ちゃんの態度は、シェアしたいのか、独り占めしたいのか、連を虐めているのか、よくわからない。
     私と連は呆然と美羽ちゃんの走っていく後ろ姿を見ていた。濡れた水着があたりにしぶきを撒き散らしていた。
     私はプールを出て連の傍に行った。
    「私たちも帰ろう」
    「帰る?」
     連の疑問形のセリフに、思わず顔を上げた。
    「……帰るよお」
    「帰るのお?」
     連の顔に『こんなチャンス逃すのは勿体ない』と書かれてある。

     本気でヤバいと思った。


     しかし、連は自分が着ていた薄いシャツを水着姿の私の体に掛けてくれただけで、にっこりと笑った。
    「大丈夫。襲わないよ」


     着替え終わって建物の外へ出た時は、もううっすらと暗く、水に浸かった分だけ体もだるかった。眠い。これでアルコールがあったら、即眠れる。今日は朝からハードだった。
     傍に連がいなかったら、私はどこかの店に入って、紅茶を飲む間もなく、いびきを掻いて寝てしまったかもしれない。
     のろのろと疲れた足取りで元来た道を歩いていると、『そこだ!ピザマンショー』の立て看板のある、最初の桜の公園に出た。
     そこで、私と連は恐ろしいものを見た。

    「おかえり」
     静かに言う上野紘一が、そこに立っていた。
    「えっ、えっ」
     私も連も慌てて言葉を失った。
    「なんで、俺がここにいるか知りたいのか。それなら、夏のスマホの留守電を今すぐ聴いてみろ」
     留守……。そうか、プールに入っていた間、スマホはずっと鞄に入れて放っていた。プールを出た後もだるくてチェックしてなかった。
    「電源切ってたよな」
    「え?」
     切ってない切ってない切ってない……え、あ、? そう言えば、まだ電源入れる前だった? 入れそびれたっけ???
    「デートだから、邪魔されたくなくて電源切ったか」
     紘一の口調はいつも静かだ。しかし、視線は、私の顔を射たあと、連の顔へも移った。

     連はボソリと言った。
    「夏のことなんて別にどうでも良かったんだろ、サブローは」

     連に言われても、紘一はすこし視線を落としただけで何も言わなかった。
     私は連に急に手を引っ張られ、紘一の前を横切る。
    「行こう、夏。俺もう、サブローに遠慮すんの、やめた」

    第3話 六人の思惑

    (1)
     俺は四宮現紀(しのみやげんき)。

     あーあ、夏原(かはら)さんが八城(やしろ)課長に辞職願突きつけて朝イチで帰っちゃったもんだから、課長カンカンで困ったよ。『こんなもん受け付けられない!』の一点張りで、課員はとっても迷惑してる。頭に血が上り過ぎて血管切れんじゃないの? もう昼だっていうのに、俺にスマホ盗られたことにもまだ気付いて無いって、ソートーなもんさ。
     夏原さんには、さっさと課長にワビ入れて、会社に戻って来てもらいたいよ。


     実は、先日、三月の末近くのこと。
     どこかで見たことのある男に会社の前で声をかけられた。ちょっとムカつくくらい立ち居姿のカッコイイそいつは、丁寧な口調で、こう訊いて来た。
    「こちらの化粧品会社の社員の方ですよね?」
    「そうです……が」
     何かの勧誘にしてはギラギラ感が無い、それにこの顔……。
     ああ、そうだ、思い出した。向かいのビルに勤務してる人だ。
     多分営業マンてトコなんだろうけどピッと背を伸ばして歩いてて、卑屈感がまるでない。他人なんて眼中に無い自信家タイプに見えたけど。
    「失礼しました。私は向かいのビルの会社の社員で、時々あなたをお見かけしていたので間違いないとは思ったんですが……夏原夏さんとお知り合いですよね」
    「ええ。……あの人の後輩です、一応」
     どう考えても夏原さんより俺の方がしっかりしてるけど、後輩は後輩だ。結構一緒にいてフォローしてやることが多い。てか、こいつ夏原さんの何? ファン? 紹介してくれとかマジカンベンしてくれよな。
     俺が困惑の目を向けると、相手はそれを見切っていたんだろう。特に慌てもせず少し微笑んで言う。
    「私は彼女の知り合いですが、あの人、仕事ちゃんとやってますか。サボってませんか」
    「うーん……」
     その質問にはなかなか答えづらい。かなり頻繁に……一日の大半サボってるんで。
    「そういう個人情報的なことはあまり……」
     って答えてみた。でも、コレ、個人情報かな?
     いやいや、そんなことより、何調べてんだよこいつ。でも目の前の会社に勤めてるのは間違いないし、…………んあぁッ! これはもしかして社内でウワサの、夏原さんのエリート彼氏か?!

     鈍い、俺、鈍かった。そうだよな、フツーそうだわ。他人は突然、意味ないこと聞いてこねえよ。
     相手は名乗る事なく尋ねてくる。
    「彼女、楽しくやってますか」
    「ええ、まあ……でも、どうしてそんな事僕に訊くんです? 直接聞けばいいんじゃ?」
     遠慮がちに訊いてみた。あくまで事情は知らぬ様子で。
    「いや……私はもうすぐ転勤でここを離れるので、……ちょっと人様の口から、彼女の様子を伺ってみたかっただけです」
     相手はすっと頭を下げてから、背筋を伸ばして俺を見た。

     な、何だ、このやりとり! 名乗らないくせに、すっげー彼氏ヅラしてんじゃん。あからさまじゃん。不愉快だなあ。夏原さんの保護者のつもりか?

     でも、俺を見たその目に安堵のような色が一瞬浮かんで見えた。あれは、どういう意味なんだろう。
     俺、あの人に夏原さんを託されたのかな。え、別れたの? そういうこと?


     そんなことがあった数日後に、突然退社されちゃったらさー、困るよホント。俺にはちゃんと彼女がいるんだし、夏原さんの面倒まで見きれないんだよ。
     とりあえずは、仕事に戻ってもらわないと。課長だって怒ってるけどホントは夏原さんのポヨーンとしたテンポが好きだったと思うんだよな。叱っても叱ってもマイペースで……。いつだったか『あいつはハートに衝撃吸収シートでも貼ってるのか』って笑ってたしなー。

     もし夏原さんが彼氏と別れたとしたら、会社辞めて傷心旅行に出たのかなあ。そんなことしたって何にも解決しないのにねえ。
     彼氏にしたって自分のせいで付き合ってた相手が会社まで辞めちゃったら、後味悪いよなあ。そりゃーわかるんだけど、それなら別れなきゃいいんじゃん。嫌いな女のことでここまで心配しないっしょ、フツー。ご自分でなんとかしてもらいたいけどねえ。なんか理由があんのかなあ。

     しょうがない。
     俺が一肌脱いでやるか。
     要するに、課長の機嫌を直して、彼氏サンの心配を解消できたらいい。これを両方満たす必要十分条件は……夏原さんに仕事を続けさせること。
     ということは、失恋相手の事を綺麗サッパリ忘れさせるか、または復活愛させちゃえばいい。
     任せてよ。会社一の知恵者だよ、俺は。これからの状況次第で、なんとでもなりますよ。

    (2)
     自分は三島光一(みしまこういち)。

     入社して以来ずっと本社勤務だった自分が、支社へ飛ばされ、しかも配属先がHRSときたもんだ。何かしでかしたかなと数日考え込んだ。
     その答えは自分ではなく、数年後輩の上野紘一(うえのこういち)にあるということを知ったのは、ひと月前の三月頭だ。


     上野は社内で変人だと有名だったが、長谷(はせ)部長がその変人を気に入ってしまったのは皆の想定外だった。四月から正式に本社勤務にさせるらしい、しかもポジションは同期の椅子ではなく、営業部の係長らしい。え、係長ってまさか自分と並ぶのか? 嫌な話だなあ……。
     そんな風に思っていると、並ぶどころか、自分はトレードとして本社から押し出されてしまった。一応課長代理に昇格していたが気分はただの左遷。
     なんでなのか、納得いかないねえ。勿論長谷さんに直訴したさ。すると彼女はこう答えた。
    「あなたの取引先の五条商事の社長のお嬢さん、知ってるわね?」
    「ええ、気の弱そうな人ですよね。訪問する度お会いしてますよ」
    「彼女なら、なんとかなると思うのよ」
    「何がです?」

     長谷さんは子供のような人だ。
     会長の孫だかなんだか知らないが、会社をオモチャと勘違いしている所がある。まあこちらとしては、自身の未来さえなんとかなれば、会社の未来なんてどうだっていいんだけどね。
    「上野君を彼女のパートナーにして、将来は五条商事をウチの傘下に入れようと思うんだけどどう? 彼ならイケメンだし、その気にさせることくらい、社命となればやるでしょ。しかも上品に。そういう子よ、あの上野君は」
    「なるほど」

     女相手となれば自分より上野の方がポテンシャルは上か。反論はしない。
     プライベートまで切り売りする社畜にはなりたくないが、もし本当にそうなるなら、上野は次期五条商事社長か。支社へ左遷される立場とは雲泥の差だな。
     うちの会社で頑張ったとしても所詮は同族経営。どんなに頑張ったとしても、自分が上れる場所は限られてるから、まあ、負けっちゃ負けだな。

    「引き継ぎ、まだ終わって無いのかしら。ちゃんと上野君を五条優姫(ごじょうゆき)さんに紹介しといてね」
    「承知しました」
    「三島君、あなたのことも……」

     別に長谷さんの言葉は信じちゃいない。ただ、『思い付き』でも『空約束』でも、何も無いよりマシだ。『適当な嘘』があった方がモチベーションは上がる。
    「あなたのこともちゃんと考えてるのよ。事業の進み具合によってはすぐに支社から本社に戻すわ。別の会社と提携を結びたいから、そこを任せたいの。若手で即トップと接触できそうなのは、上野君か三島君くらいだもの」
     まあ、ふてぶてしい所が共通してるって事だな。


     今、自分のすべき職務は、五条優姫さんと上野紘一をうまく結びつけること。まあ、上野が勝手にやってくれりゃあ楽だけど、サポートも大切。

     上野にひっついてる彼女をなんとかしないと。
     夏原夏(かはらなつ)。
     彼女、可愛いがなかなか鈍い上にしぶとい。上野と無理に引き剥がそうとすれば、現状を理解できず激しく抵抗されそうだ。
     ここは抵抗させない方向へ仕向けて行かないと。身を引くなんて言葉、これっぽっちも頭に浮かばないだろうからな。

     とりあえず社内で上野クラスのイケメンとなると、……警備会社から派遣で来てる久芳連(くぼうれん)くらいか。あいつなら上野の代わりとしても見劣りしない。夏原夏とはお似合いじゃないかな。
     問題は、上野と久芳が友人関係にあることだな。しかも、本社勤務を契機に同居すると聞いた。
     なんにしろ、強引にはできない。
     あくまで見守る形で進めて、最終的には社命なんだから上野本人がうまくやるだろう。


     十年二十年先の事を考えてみれば、取り分の多い方に賭けるのが常識。
     自分の未来も上野の仕事ぶり次第になってくるわけだから、ここは私情はひとまず置いておいて、ヤツの任務をお手伝いしつつ監視するのが正解だろう?

    (3)
     私は五条優姫(ごじょうゆき)。

     社長令嬢だなんていう、重い荷物を背負わされて、いつも見張られてます。
     でもしょうがないです。
     お父さんの子に生まれたんだから、逃げようがないわ。

     今まで何度かお見合いみたいなことはしたけれど、どれも破談になりました。
     私や、相手の人の問題ではなくて、会社の問題みたい。
     そんな感じで、私は戦国時代のお姫様みたいに、うまく使われてしまうんだろうな。
     それももう、諦めてたの。
     あの人に出逢うまで。


     あんなに見え透いた褒め言葉で笑ってる、ふてぶてしい人は初めてだった。
     バカにされてるんだな、私。……そう思った。

     その人は傍で見ていると優しそうだしのんびりとしていたけど、どこか心の中にぽっかり穴が開いているような、空虚な雰囲気も持ってた。
     そして、お嬢さんの相手なんてやってられない、ていうような卑下するような表情が、時々うっすらと走るの。
     悔しかったけど、その通り、私は社長の娘でないなら何の価値も無い人間だわ。

     その人がお父さんの会社に来る度に、なぜ私が同席させられるのか、意味がわからなかった。
     嫌い。その、人を見下すような笑いが。


     でも、ある時彼は言ったの。
    「社長令嬢と言う仕事も大変ですねぇ。ツライって言えないんでしょ?」
    「べ……べつに」
    「あなたのお父さんの会社のためですよ。そう思えば頑張れるでしょう、いや、頑張れないか」
     そしてまた、ニヤニヤと笑う。
    「自分のためじゃなきゃ人間頑張れないですねえ。ほら、恋愛するのは楽しいでしょう? 政略結婚だとしても、相手を王子様だと思って恋愛の夢をぶつけてみれば、楽しいんじゃないですか?」
     そんな事を言う三島光一(みしまこういち)さんは、なんでもかんでも簡単に割り切って考えられる人なんだなと思う。でも、それって、寂しいことだと私は思うわ。

     どうして三島さんは、人を、物を見るような目で見るのかしら。
     まるで整理整頓するかのように、物事を、人との関係を、淡々と片付けているの。
     辛い目に遭った事が無い人間なんていないはずなのに、揚足を取ってやろうとしても、隙を見つけられない。
     私は三島さんより一つ年上。でも、まるで大人と子供のように違う。話は冗談で流され、適当にあしらわれてしまう。

     なんでこんなに屈辱的なのに、許せないのに、三島さんの発する言葉を待ってしまうんだろう。
    「今度、うちの社の王子様に会わせますよ」
    「王子様……」
    「そうです、社で一番の良い男です。会うのが楽しみになるような」
    「……担当が変わるんですか?」
    「そうです」


     そうです。
     その一言で、私は気付いたの。
     私は、この人から、どんな言葉を待っていたのか。
     ひとかけらの、私への想い遣りの言葉を、優しい言葉を。

     でももう手に入らないと知った時、私は苦痛で胸が張り裂けそうでした。

    (4)
     私は上野美羽(うえのみわ)。

     はあ、もう溜息の連続。
     久芳連(くぼうれん)のことを好きだと思うと、いろんな行動が止められなくなる。
     ストーカーだなんて家族からも非難されて、特に兄貴からは犯罪者並みに毛嫌いされて、サイテーな毎日。ただただ気持ちを伝える手段を探してるだけなのに。
     もう何年? 大学に入った年に連に逢ったから、丸三年になるのか。この春卒業して四年目に突入してる片想い。純粋な想いが、どうして伝わらないのかなあ。

     連の言い訳。夏ちゃんに先に出逢ったからとか、そんなの後付けでしょ。わかるわよそれくらい。
     でもいくら連が夏ちゃんを好きでも、夏ちゃん自身は『堅物冷徹無感情兄貴』一筋だよ。一体どこがいいんだろ。
     だけどそんな兄貴でも、頑張って夏ちゃんを引きつけておいてもらわないと、ふとした時に、
    『あ、連の方がいい男だわ』
    って気付かれちゃうかもしれないんだよなあー。だから、頑張れ兄貴!

     夏ちゃんに、連を二人でシェアする? なんて言ってみたけど、そんなことやっぱりできない。連には私だけを見てほしいもん。
     だからやっぱり上野紘一(うえのこういち)を嗾(けしか)けてなんとかしなくちゃいけないのよ。
     

     私が夏ちゃんと『そこだ!ピザマンショー』の広場で話をしていると、思いがけなく連がやってきた。夏ちゃんを探しに来たんだって。私は邪魔なのね、でも、だからって私がここでおとなしく帰るわけないよね。
     私は三人で遊びに行くことを提案した。連は優しいから無下に断るようなことはできない性格。夏ちゃんは優柔不断だし上野紘一の妹に反論はできない。
     ここはチャンスかもしれない。正念場だわ。

     まりりりーんらんどに着いてすぐ、3時半頃だったけど、連と夏ちゃんに隠れて兄貴に電話をかけた。二人には先に温泉とプールに入っててもらう。

    『なんだよ、仕事中に電話してくるな』
    「違うの! 確認したかったの。お兄ちゃんのマンションから少し離れた場所に、夏ちゃんに似た人がいるの。遠目でよくわかんないんだけど、なんか二、三人の男に絡まれてるみたいでさ……まさか夏ちゃんがこんなところに居ないよね?」
    『……え?』
     思った通りちょっとした動揺が伝わって来る。イイ感じ。
    『そんなの、近くにいる誰かを呼んで……』
    「あ、見失っちゃった」
     兄貴は珍しく焦って私の言葉を聞き返してきた。
    『見失った? どっちだよ、どっち方面に行ったんだ』
    「えと、ピザマンショーとかやる公園みたいなトコあるでしょ、あっち方向へ行った。でも、見間違えかもしれないし……お兄ちゃん今どこ? 一度見に来てよぉ……」
     兄貴は途中で電話を切った。

     さて、兄貴はどういう行動をするのか、それで夏ちゃんへの気持ちがはっきりするんじゃない。
     すぐ連絡を取れないように、こうしてスマホを携帯できない水遊びへ夏ちゃんを連れて来たんだけど、うまくいくかなあ。……と思ったら、連は水に入るつもりが無いのか、夏ちゃんのスマホ持たされてるじゃん。マズいなあ。
     その後、結局兄貴から電話はかかって来なかった。どうした、紘一よ。心配じゃないのかな。
     まあ、低温動物の兄貴でも気の良い夏ちゃんを危険な目に遭わせたくはないはずだから、電話するのも忘れて心配で探しに来てるのかもね。仕事放り出して。
     うっわー私、悪い妹だなあ。


     帰りは連と夏ちゃん、二人で帰ってね。バッタリ兄貴と会ったらヤバいから、私はお先に失礼します。
     でも、これで何かは進展あるでしょ。
     夏ちゃんと連が2人で一緒にいる所を見て、ヤツはどういう反応をするでしょう。
     自分より先に夏ちゃんを助けたのが連だった。いいところは全部連に持っていかれた。……さらに、その連が夏ちゃんを好きなのは周知の事実。夏ちゃんと連は必然的に近くなってるはず……という所まで想像した上で、
    『あーよかった。連、夏を助けてくれたんだな』
    と平然と言えるなら、全然夏ちゃんへの愛情は無しと見る。
    『……連、なんでおまえがここに?』
     複雑な表情をして喧嘩にでもなるなら、夏ちゃんに気がある証拠。

     ふふ。明日くらいまた様子を見に来よう~っと。
     あ、そう言えば部屋に仕掛けてあるやつ、今日連に見つかっちゃったみたいだなあ……。また新たに仕掛けないと。

    (5)
     俺は久芳連(くぼうれん)。

     サブローこと上野紘一(うえのこういち)の部屋に引っ越してきたのは、三月下旬頃。末からはサブローも越してきて、一緒に住み始めた。そろそろ同居して一週間だな。
     前の部屋で体験した怪奇現象が、サブローの妹の美羽ちゃんのせいだったと知って、罪悪感を感じた。彼女は悪い子じゃない。俺がきっと隙を見せ過ぎたんだ。だから、この新しい部屋で今もなお続くメモとか盗聴器なんかを、サブローには言えないでいる。
     いつか、素敵な彼氏ができたら、俺のことなんて執着しなくなると思うんだ。

     それよりも今一番の悩みはサブローの彼女というのが、夏原夏(かはらなつ)だったことだ。確かに夏は彼氏のことをコーイチと呼んでたけど、身近な男だとは思いもしなかった。
     どういう顔してこれからサブローと付き合えばいいのか、ひとしきり考えて、胃が痛くなって会社を病欠したら、サブローは、
    「病欠、そうか、そうだな。しばらくそうして姿を外に出さない方が、美羽に住所がバレないな」
    と納得してた。でも違う。もうその時にはバレてたよ……。


     俺は夏に、友達でいることを約束した。コーイチとの仲を応援するとも言った。
     それなのに、サブローは俺たちの部屋に夏を連れて来ただけじゃなく『俺の彼女じゃない』とか『連と夏がうまく行けばいいと思う』とか、心にもないことを言う。

     サブローは性格が冷たいと人に言われてるけど、俺から見れば正しいだけ。正解を相手に躊躇なく突き出すから、うしろめたい人間はサブローを嫌う。
     そんなサブローが、あんな、人を傷つける嘘をついてどうするんだよ。嘘をつくようなサブローは、好きじゃないよ。


     でも、部屋で夏と2人きりになると、サブローへの友情より夏への気持ちが大きくなってしまう。それって、どうしようもないでしょ? 手で触れることのできる所に好きな人がいたら、抱きしめたくなるじゃん。
     夏は上野紘一を諦めてくれないかなあ。
     サブローもほかに彼女を作ってくれないかなあ。
     ……どっちも無理そうだよな。


     俺が変な物音に気を取られているうちに、夏が部屋を出て行った。むやみに迫り過ぎた自分を反省して、彼女が戻って来るのを待っていたけど、一向に戻って来ない。
     仕方なく探しに出かけると、ようやく広場で夏を見つけたけど、なぜか美羽ちゃんと話をしていた。
     美羽ちゃんと顔を合わせたのはいつぶりだろう。どんな顔をしたらいいのかわからない。

     美羽ちゃんの提案で行った『まりりりーんらんど』で、水着を借りて楽しそうに水浴びしている二人の女子の姿を見ていた。
     なんとなく、みんな仲良くなれないのかなと悲しくなった。
     俺が夏を好きじゃなければ、全部うまくいくんだよな。
     そんなことを考えていたのに、夏と2人になるとつい、自分のものにしたい欲求が余計なことを口走る。自制できない自分が恥ずかしい。

     まりりりーんらんどからの帰り道、例の広場にサブローがいるのを見つけた。
     ヤバい、誤解される、と思った時にはもう既に誤解されまくった状況だった。

     俺が悪いよ。
     だって、夏のコーイチへの気持ちを知ってるのに妨害してる。そんな俺の存在が悪いのはわかってる。
     でも、俺の中の夏の存在だって、悪いよ。五年以上、ずっとこの頭の中にいるんだよ。

     サブローの、昼から続く素直じゃない言葉に、俺はムカつきを覚え、つい本音が出てしまった。
    「サブローがそんな態度なら、遠慮するのはやめた」

     そう言い切って夏の手を取ったその瞬間から、実はもう後悔していた。
     俺が我を通したところで、夏の心の中には誰がいるのか、わかっていたから。

    (6)
     俺は上野紘一(うえのこういち)。

     最後に会った三月下旬の夜以降も、夏原夏(かはらなつ)からはメールや電話が定期的にあった。
     俺の転勤を嗅ぎつけた後の彼女からのメールは、今までにないほどの頻度で送られてきた。
     でも返事はしなかった。ずっと連絡もしないつもりだった。
     なぜか。
     俺は夏の彼氏だと、皆に公言してしまったから。
     だから彼女のことを拒否するようなことは言葉にして返すことができない。
     相手にしないことで、いつか諦めてくれると信じていた。

     夏はあの街で、仕事をしながら楽しく誰かと生きてゆくだろう、そう確信していたんだ。

     そして同時期、とんでもない事実を知った。久芳連(くぼうれん)が5年以上も思い続けている彼女というのが、夏だということだ。
     あのパジャマ……。思い出しただけで胃液が上がって来る。
     夏の部屋に連が5年も前から度々泊まり、専用のパジャマまであるという事実に困惑した。それで友達だと言われたとしても、いやいや、それは二股だろうとしか言えないと思った。きっと会えば悪態をついてしまいそうだ。
     ただ、連がずっと片想いだと言い続けていたことを考えると、そうなのかもしれないとも思う。
     複雑すぎて、どう対応していいかわからなくなってきた。自分の事となるとどうしていつもこんなに感覚が鈍るんだろう。元HR特別部の名が廃る。


     夏の前からフェードアウトしたつもりだったが、彼女は俺の本社勤務を探り当て、大荷物と共に現れた。どうすればいい、そう考えた時に一番先に頭に浮かんだのは、同居している連のことだ。
     あの部屋を二人に明け渡すことはできないが、とりあえず連に逢わせよう。
     大荷物を持ってきたということは、泊まる気マンマンのはずだ。連とうまくいくのなら、二三日は俺が外泊しても構わない。そう思って部屋へ夏を連れ帰った。

     連れ帰ったものの、玄関先でふらふらする夏を支えた時、自分の体の意外な反応に自分自身が驚いた。
     匂い。
     夏の匂いを間近で嗅いだ時、なんとも言えない妙な気分になった。
     去年の7月から、たまに近くで感じていただけの香りに、胸の奥が反応する。これは、懐かしい香りと表現するべきなのか。
     確かに会ったのは十日ぶりだが、それまで半月ぶりに会う事などざらにあった。そして、その時に匂いが気になるなど無かった。

     この懐かしい感覚こそが、無関係になったという証拠なのかもしれないな。


     連に夏を押し付けて急いで昼飯を掻き込み、得意先へと向かった。仕事中、今晩どこに泊まるか、そればかりを考えていた。
     すると、美羽からさらに困惑する連絡があった。


     夏に電話してみたがスマホの電源が入ってない。連はスマホを失くしていたので部屋に掛けてみたが、部屋の電話に出る者もいない。
     夏にも連にも連絡が取れなかった。

     仕方がないので訪問を予定していた得意先にキャンセルを入れ、社には早退の許可をもらう。そして、急いで自宅近くの広場へと向かった。
     美羽の見間違いで、ただの夏に似た子のいた男女グループかもしれない、そう思うと通報するのは大袈裟だが、もしも本当に夏だったら……。
     葛藤とイライラは15分のタクシーの中でずっと続いた。

     美羽が目撃したという場所で店の人などに話を聞いてみたが、そんな揉めている男女を見かけたという話は聞けなかった。
     ついに広場まで来て、店じまいを始めていたジャンクフードの屋台のオヤジに尋ねた。
    「どんな子? 写真とか持ってないの?」
     俺は途方に暮れた。
     そんなもの一枚も持っていない。


     揉めていた男女が夏ではなかったとしても、じゃあ夏はどこへ行ったんだ。何度電話しても電源を切られていてつながらない。連は、夏と一緒にいてくれてるのか。それならいいのに。それなら心配はしないのに。でも、なぜ電源を切る必要が……。

     そんな時に二人が、広い車道を渡って、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。あの道の先はカラオケやボーリングなどの遊興施設が多数林立している。
     治安の安定しない場所で、二人で遊んでいたってことか。そりゃ、昼間でも絡まれることもあるかも知れないな。
     大人なんだから、放っておけばよかった。

     俺は最低の気分を持て余し、顔や言葉に出していた。
     知らん顔していればいいものを、それができないくらい、二人が並んでいる姿を見ると混乱した。自分の感情がよくわからなかった。


    第4話 痛み止めのキス

    (1)
    「行こう、夏。俺もう、サブローに遠慮すんの、やめた」
     久芳連(くぼうれん)に手を引かれ、目では上野紘一(うえのこういち)の表情を見つめながらも、自分の足はその場を離れようとしている。
    「ま、待ってよ連……」
     やっと出た一言は小さい声だったのに、連はすぐに立ち止まってくれた。

     私は解放された手で鞄の中からスマートフォンを取り出した。
     間違いなく、私のスマホだと思うけど、やっぱり電源は切ったままのようだった。ああ、美羽ちゃんとのやりとりの間に電源入れそびれていたんだ。
     スマホが起動する何秒かを待たず「もういい」と紘一は言った。
     自分の勘違いで走り回っただけだ、と説明してくれたけれど、感情を封印したような、暗い目をして斜め前を向いたまま私を見てくれない。
    「それ、私を探してたってことだよね。……ごめんね」
     私は頭を下げ、そのまま顔を上げずに訊いた。
    「今晩、泊めてくれないかな……」
     紘一の動く気配は感じられなかったが、声だけが聞えた。
    「その気で来たんだろ。俺は会社に泊まるから、そっちは連と二人で……」
    「それじゃ、意味がないよ!」
     思わず顔を上げ、一歩紘一に近づいた。
    「紘一と連のことは昼間にパッと聴かされただけで、……連からもなんとなく聴いたけど、もっと詳しく聴きたいよ。美羽ちゃんの事とか、みんな様子変だし、それに一番の目的は紘一と別れなくちゃいけないはっきりした理由を聴きたくて押し掛けて来たんだから。それを紘一の口から聴くまでは何日だって泊まるから!」

     はっきりと主張したことで、紘一もようやく視線を上げ私の方へと顔を向けてくれた。
    「何泊もされると困るな」

     紘一の冷たい顔は見慣れているけど、いつもどこか苦笑に似た笑顔を隠していた。今、その表情には疲れと不機嫌さしか見つけられなかった。
     最上級の【しょうがないな】顔をしてる。一応話をしてくれるんだよね?
     
     その時、私の後ろから連が言った。
    「サブロー、俺メシの買い出し行ってくる。あと布団も一組配達してもらわないと……」
    「布団?……そんなの適当に何かあるんじゃないのか」
     紘一が苦い顔をすると、連は平然と言った。
    「そう? いつも通り、俺と夏が一緒の布団で寝てもいいしね」
    「ちょっ!!! 連!!!」
     私は驚いて飛び跳ねんばかりに体を使って否定した。
    「ち、近くで寝てただけで、そ、そ、そういう、そういう誤解のある、こ、言葉って……」
    「誤解? エッチはまだしてないけど、していいなら、俺はいつでも……」
    「まっ、まっ、まっ……!待って!!!」

     私が慌てふためく様子を、男2人が平然と見守っている、この図は何?!

    「わかった」
     紘一は私の顔を穴が開くほど見つめてから「連、布団頼むよ」と許可を出した。
     連はニヤと笑うと、私に耳打ちした。
    「これで何泊でもできそうじゃん」


    「じゃあ夏、とりあえず部屋に帰るぞ」
    「う、うん。ごはんくらいなら作るし。家事のお手伝いします」
    「ああ。お好きなように」
     紘一が歩き出そうとすると、連が彼の腕を掴んでいた。
    「なあ、サブロー」
     紘一は立ち止まり、連の顔をゆっくりと見上げた。

     連はその可愛い顔に、普段は見せない真面目な色を漂わせていた。
    「俺、1時間後に帰るから、俺がいない方が都合の良い話は、先に終わらせといてよ」
     そう言った後、私の顔も見つめて確認する。
    「わかった?」
     私はゆっくり、二度頷いた。

    (2)
     部屋の中央に立ったまま、なんとなく見回していた。
     上野紘一(うえのこういち)と二人きりとなると、なんだか落ち着かない。
     リビングダイニングにあるのはテーブルと椅子とテレビだけ。必需品ぽいもの以外は、あまり配置されていない。
    「全部の荷物はまだ……?」
    「大した量じゃないんだけど、まだ奥の部屋に放り込んだままで整理できて無い。だから寝る時はこのリビングで連と二人で寝てる……。そろそろなんとかしなくちゃとは思ってた」
     掃除とか整理整頓とか料理とか、あんまり得意じゃないけど、できるかぎりお手伝いする覚悟はある。
     ……ていうか、じゃあ、今日はこのリビングで川の字で寝るのかな……。
    「紅茶でも飲むか?」
     紘一に言われ、私はようやく元気を取り戻した。
    「あ、うん! 私がするから。私、自分でブレンドした茶葉持ってきてるから!」
    「そうか、じゃ勝手にどうぞ。ポットはキッチンに置いてある」
    「紘一も紅茶飲む?」
    「俺が紅茶飲んでる所見たことあるか? 淹れてくれるならコーヒーで。……いつも目の前で飲んでたろ?」
    「あ、そーだね……ブラック……でよかったよね?」
     紘一は不機嫌そうな目を向けて、頷いた。

     キッチンには電気ポットが置いてあった。が、なんとなくおかしいなと感じたのは、表面が冷たかったからだ。思った通り、電源が抜けていた。フタを開けて覗いてみたが、完全に水だった。
     仕方ない、鍋でお湯を沸かそう。
     私はカーディガンの袖をまくり、ミルクパンらしい小さな鍋に水を入れた。
     水音に気付いた紘一が顔を上げた。
    「……お湯沸かすのか?」
    「うん、ポットの電源切れてたから」
    「夏にお湯沸かす技術あるのか?」
    「あ、あるよ!」
     どこまで失礼なことを言うんだああ!!!
    「火傷すんなよ?」
     紘一がいぶかし気な顔をして、リビングからキッチンへと入ってきた。
    「だ、大丈夫です! たかがお湯沸かすのを、20代半ばの女ができないはずないでしょ?」
    「20代後半な」
     キィィィィ……!
     どこまで私をバカにするんだよ! でも、今、笑ってる。
     無表情が多い紘一が、こんなに普通に笑うなんて、ちょっと信じられない感じ。
     やっぱり自宅って、なんか心を開く効果があるよね。あるある~。だから、きっとうまくいけば、このまま連が帰って来る前にキスくらいは終わっちゃって、連に見られて恥ずかしい~~みたいなことになっちゃうんだけど、でも今日の紘一は『やっぱり連には悪いが夏は渡せない』とかなんとか言って連も『そんなに仲が良いのに、俺の入る隙間なんてないよ』とか言って遠慮してくれちゃって、また散歩行ってきます~とか言ってくれてる間に、もう私は紘一にキッチンのカウンターに押し倒されてて、服にぐっと手をかけてまくり上げられ、そのまま紘一の掌が私の素肌に……
    「おい、沸騰してるぞ、ちゃんと見てろ」
     紘一の呆れ声が聞え、我に返った。
    「ええ?」
     私は驚いてミルクパンの取手をバコンと叩いてしまっていた。


    「夏っ!!」
     紘一の声が聞えた時、私の左半身の腕から脚に、煮えた湯が全部かかっていた。
    「あっ……!!」
     もう言葉にもならない。反射的に悲鳴を上げて跳ね上がった後、よろよろと崩れそうになる。すると傍にいた紘一が、しっかり抱き留めてくれた!! えええーっウソみたいっ!
     抱きしめられたの、今日はこれで2回目だ。
     倒れそうになった玄関先で、そしてお湯を被ってよろけた今……。
     なんて考えている間に、私の体はふわと床から浮かび上がった。紘一にお姫様抱っこされていた。
    「えっ? えっ?」
    「冷やすんだよ、風呂場で。脚までかかってるからキッチンじゃ無理だ」

     そして私は紘一に、服のまま風呂場へ放り込まれた。

    (3)
     風呂場で上野紘一(うえのこういち)がスーツ姿のままシャワーを持って目の前に立っていた。
     ヒリヒリする左腕は、剥き出しの肌に熱湯が当たったため既に真っ赤になっている。左脚は、ミモレ丈のスカートを穿いていたせいで、太腿や膝は無事だが脛から下が痛む。特に靴下を穿いている足の甲の痛みは腕よりひどいかもしれない。気が遠くなりそうなギンギンする痛みに、涙がこぼれた。
    「手と足を揃えて、俺の前に出せ」
     何か聞きようによっては留置場に入れられそうな感じだけど、「痛い痛い」と泣いて取り乱す私とは正反対に、紘一はいつも通り静かなものだった。
     シャワーで水を掛けられるんだと思っていたら、紘一はなぜか寸前でその手を引っ込めた。
    「ダメか」
     紘一はそう呟いてシャワーのヘッドを外しホース状にした。
     そして手と足に上から水を流し掛けてくれた。

     柔らかな水流だった。左の二の腕からひざ下足首へと流れ落ち続けた。私は座り込んだ姿勢だったので、ほぼ体中水に濡れていた。同じように屈んで目の前で水を掛けている紘一の服も、濡れてしまっていた。
    「まだ、靴下脱ぐなよ。肌に貼り付いてたら、ふやけた皮が剥けるぞ」
    「えええっ!」
    「だから、動かずにじっとしてろ」

     私は紘一に言われるまま動かずに、彼のかける水を見ていた。
     ヒリヒリした痛みが次第に水のおかげでマシになると、私は黙っていることができずに、すぐ目の前の紘一に話しかけた。
    「朝、三島さんに会ったの。紘一が小さい頃どんな子だったかとか、教えてもらった」
     そう言うと、紘一は顔を上げて私を睨みつけた。
    「そんなの鵜呑みにすんなよ」
    「そうだけど……でも、私何も知らないから、できたら話せるところだけでいいから紘一の口から教えてほしいな。私たちってお互い何も知らなくて、それでうまくかみ合わないんじゃないかな。私のこと知らないでしょ? 知らないのに嫌われるのは、納得できないなーって……」
    「そりゃ、過去の事まで知らないけど……」
     紘一は溜息をついて、また、私の赤い肌へと視線を落とした。
    「……俺が知ってるのは、食事の好き嫌いが激しいクセに俺の前では絶対涙ぐんででも残さないで食べてる夏とか、花が好きっていいながら、かすみ草とカサブランカの匂いが苦手で渋い顔してる夏とか……」
     紘一は特に考える風でもなく、スラスラと話続ける。
    「体温低くて低血圧かと思えば、あっという間に血行が良くなるとか、優柔不断すぎてセンス悪くて服は雑誌に頼り切りだとか……。あと会社での仕事が好きで、俺と違ってみんなとうまくやってて、プロジェクトリーダーを任されたことがあ……」
    「も、もういいよ!!」
     私は耐えられなくなって彼の言葉を遮った。

     私は、自分が盛った話まで覚えられていることに愕然としていた。
     紘一は、フッと笑ってそれ以上は言わなかった。
    「体が濡れて寒いだろ。今タオル持ってくるから、右手でホース持って、水かけとけ」

     紘一がいなくなった風呂場で、私は火傷もしていない胸の奥が痛んで、さらに涙が出た。
     私の事を見ていなかった訳じゃ無くて、しっかり見た結果、嫌われたんだ。これじゃ、理由を聴く必要なんて無い。私自身、そのものが、紘一に気に入ってもらえなかった、そういうことになるんだから。

     すぐに戻ってきた紘一は私の背中に分厚いタオルを何枚かかけて包んでくれた。
     そして私の右手からまたホースを取り上げ、左手足に水を掛け始めた。
    「独りでできるよ。紘一が風邪ひくからもう、戻って着替えていいよ」
    「ああ。それじゃ」
     彼はそう言ったものの、ホースを渡す気があるのかどうかわからない、ぼんやりとした顔つきで視線を下げた。
    「何も知らない相手を意味なく嫌いにはならないし……、知ってる部分の夏を嫌いだと言ってる訳でもない」


    「別れの理由はちゃんと言った。俺は夏に似合わない。なぜなら、夏が俺を知らないまま好きになったからだ」


    「夏の思い描いている俺はただの妄想の男だ。俺はそんな風にはなれない。だから付き合ってゆけない。わかったか?」

    (4)
     私は言うに言えない文句を、心の中で繰り返す。

     だからさ、隠してる本当の紘一を教えてって言ってるじゃん。
     何を聴かされたって、嫌うことなんて絶対無いのに。もう、どんな人かわかってるのに。

     最初、見た目に惹かれたのは事実だよ。
     でもイケメンにしては残念すぎる、対人的に不器用な性格が、紘一らしくて愛しくて好きなんだよ。
     器用で温和な人だったら、好きになって無かったかもしれない。真逆の、不器用で表現が下手な人だと知ってるから、他人の悪意から守ってあげたいと思うんだよ。


    「人と深くなるのは苦手だ。自分を晒すのは嫌だ。まとわりつかれるのは辛い。これでも、相手の理想に近づこうと無理するクセがあるからな」

     それが自己紹介なの?
     あんまり紘一が否定的なことばかり言うので、私はつい思っていた事を口にした。
    「じゃあ無理してない自然体の優しい部分を見せてよ。見せてくれないから勝手に妄想がエスカレートしちゃうんだよ。キスしてくれたら痛みだって止まる……そんなおとぎ話の王子様じゃないかな、みたいな妄想までされちゃうんだよ……」


     紘一は私の言葉を聞きおわると、急に手に持っていたホースを床に置き、私の前で片膝立ちした。
     ああっ、まさに王女に傅(かしず)く異国の王子様のよう!!
    「わかった。今キスしてやる。それで現実をちゃんと見ろ」
     足元でホースから水が流れ続ける中、紘一は私の頬を冷えた指で触れた。
    「1秒でも水をかけてないと傷が痛んで来るだろ。何秒我慢できるかな」

     その時私は思った!
     痛みは止まらなくていい! 何秒でも我慢できる。紘一のキスがあれば幸福できっと全てが耐えられる……!


     紘一は私の顔には近づかず、なぜか頭を下げた。
    「紘一?」
     謝ってる姿勢かと思えば、私の赤く腫れた腕を手に取り、そこに温かい唇を当てた。

     ええっ、ソコ???

    「いっ! イタイっ!!!」

     微かな接触でも、僅かな温度でも、今は痛いんだってば!!!!!
     キスで痛みを消すどころか、増してどうするっ!!!


    「俺はキスで痛みを消せる魔法は持ってない。そんなキャラを背負わすな」
     紘一はそう言って、また黙って床のホースを拾い、腫れた手足にそっと水を流し掛ける。



     も、も、もう……ぅぅぅううう……

     なんなの、この、シチュエーション!!! 優しいのかイジメなのかっ!!!
     どっちかにして!!!!

    (5)
     そこへちょうど久芳連(くぼうれん)が帰って来た。
     わーわー叫ぶ私の声を聞きつけたのか、真っ青な顔で飛び込んできた。
    「ど、どうしたの?」
     連の声を聞いて、紘一がパッと顔を上げた。待ってましたと言わんばかりに立ちあがり、さっさと連を風呂場へ呼び込む。そしてホースを渡すと、
    「後頼む。見ての通りの火傷だから痛み止めの薬を荷物の中から探して来る。おまえは今すぐ痛みを止めてやれ」
    と言って、風呂場から交代で出た。
    「痛みを止める……!?」
     連は当然水の流れ出るホースを見つめた。
    「連、水ぅぅぅっ!!!」
     私が泣きながら懇願すると、連は慌てて、私の手足に水を掛け始めた。

     それを風呂場の外から覗いていた紘一が一言。
    「連、水じゃない。王子様の魔法がご所望だ」

    「ちがうぅーーー! 水で……いいぃーーー!」

     私の絶叫を聞くと、腹を抱えてと表現していい笑いを見せながら、紘一が姿を消した。
     あいつ、あいつ、もう、大っ嫌い!!!

     ……に、なれたら、どんなにか良いのに。




     モワモワとした感触のくせにヒリヒリ痛む。
     わかるだろうか、この火傷の広い傷口を、ワセリンで塗りたくられているという状態が。
     この連の節のある細い指が、できるだけそっと塗ってくれるのだが、くすぐったい上に痛いという、声にならない苦痛の連続。
    「ワセリンなんかで大丈夫なの? ちゃんとした薬をドラッグストアで買ってきた方が良くない?」
     連が上野紘一(うえのこういち)に訊く。すると相手は答えた。
    「しっかり冷やしてるし病院いくほどの火傷でもない。ラップして、冷えピタ貼ってタオル巻いとけばいい」
     どうやら紘一は軽い火傷ならその程度の処置で良いと育てられてきたようだ。

     上野紘一……。
     彼は引っ越しの荷物の中から小さなワセリンの入ったボトルを探しあてるまでの30分、部屋中を散らかし続けた。ようやく見つけて足元を見た彼は言った。
    「今日は3人とも、テーブルの上で寝ることになるかもな」
     そんなことを言った後で、彼はなんと風呂に入れない私を尻目にサッサとシャワーを浴びて着替え、連に私を任せた後、今こうして、風呂上がりの涼しい顔でビールを飲んでいる。
    「ソファー買おう。誰か来た時、ソファーで十分寝れるな」
     PCは接続や設定をしている暇がなかったらしく、スマホでネットショップやニュースを読んでいる。元々ネットが好きでは無い紘一だから、スマホだけで十分なようだった。

     日常の紘一がろくな態度じゃないとはわかっていた。昼過ぎてから起きて来ていきなりゲームをやり始めるようなやつだ。こうして親すらいない環境となると、さらに状況は悪化するに違いない。
     ここしばらく忘れていたが、紘一は冷たいだけじゃなく、私に対してだけは、かなりのマイペース男だったのだ。

    (6)
     この態度、どう見ても私の痛みなど気にかけてはくれていない。心配する言葉もない。
     いいさ。わかってたさ。この非情な王子様は、現実世界にしか生息してない希少種なんだ。

     ただ、窓の外に見えないように干されているスーツの存在に気付くと、少しだけ、紘一の優しさを感じる。
     私に水をかけてくれている間に、結構濡れてしまっていた。私の体はタオルで温めてくれたけど、紘一自身は寒くなかったのかな。それを考えると、真っ先に風呂とビール……でも、しょうがないか。
     うう。
     私ってなんて理解ある、我慢強い女なんだろう。
     こういう女は滅多にいないんだよ。逃すともったいないのに、紘一はなんでわかんないのかなー。

     連はというと、1時間ほど水で冷やすことに付き合ってくれ、その後、私の腕に薬を塗ってくれている。
     ラップを手際よく巻き体温を下げる冷却材を数枚貼りつけた。
     時折「痛くない?」と尋ねてくれるところが連らしい。その度に上目遣いで見つめられるので、ちょっと恥ずかしくなってしまう。それくらい、うっとりする可愛い顔立ちだから。
    「フェイスタオルとか包帯だと手足を動かしづらいよね、ネット状の包帯を……」
     言いかける連に、紘一が呟く。
    「寝る時に動いてすぐずれるぞ」
     私は寝相をバカにされたと思って「痛いのに、そんなに動かしたりしませんっ」と言い返したが、二人の男は全く聞いておらず、何故か穏やかならぬ空気を漂わせていた。

    「ずれるかなあああ。俺ならうまくできるけど」
     連が言う。すると紘一も返す。
    「ああ、そうか。脱がし慣れてるからな、連は」
    「腕とひざ下だよ? 触れないようにやろうと思えばできるでしょ」
    「できるのかあ。さすがだなあ。拝見したいもんだな」

     なんなんだ、この会話は。
     私は急に、ライオン2匹がいる檻の中に放り込まれた気がした。

    「だって、全部脱がせる必要も無いわけだし」
    「片足だけ脱がすって? 色気がないな」
    「えっ、えっ、えっ……!!」
     私が2人の顔を見比べていると、二人は急に私の顔を見た。

     瞬きが止まらない。
     この、流れはなんだろう。仕組まれているのかっ。

     連は無言のまま、買ってきたカラアゲと、買ってきた白ご飯と、漬物と、フリーズドライの味噌汁をテーブルに並べた。
    「こ、これが晩御飯?」
     私が訊くと、紘一は冷たい目で私を見た。
    「ご不満ですか、王女。我々は疲れてて、面倒なんですよ」
    「明日からは夏が作ってくれるから、大丈夫だし……あ、やけどしてるからできないかあ……」
     怖い顔の紘一と、黙り込む連。
     所在の無い私は、何も言わず頭を下げ、右手だけで『頂きます』をした。

    「そうそう何日も居られてたまるか」
     紘一の冷たい声が、頭の上を通り過ぎた。


    「さて、どこで寝る?」
     食事が終わり、紘一に問われた。
    「奥の部屋は散らかってるが鍵がかかる。布団くらいは敷いてやる。それとも、このリビングで俺たち二人と一晩中楽しい話でもしたいか?」
     私は大きく頭(かぶり)を振った。
    「いえ、今夜は奥で寝させていただきますっ」


     脅されなくても分かってるよ。
     さっさと私を隔離して、リラックスしたいんでしょ。
     この牽制し合っている二人が、同時に私を襲うわけないじゃん。
     芝居が下手くそなんだから。

     信じらんない。まだ、9時だよ。



    目次

    • part 1 : Look at me!
      第1話 私の彼は(#1~6)
      第2話 俺の彼女は(#1~6)
      第3話 彼のセリフ(#1~6)
      第4話 彼女の妄想(#1~6)

    • part 2 : I miss you...
      第1話 彼の行方は(#1~6)
      第2話 私の彼女は(#1~8)
      第3話 彼女の彼は(#1~6)
      第4話 俺の周りの人間は(#1~8)

    • part 3 : I need you!
      第1話 四月は始まった(#1~6)
      第2話 遊園地へGO!(#1~6)
      第3話 六人の思惑(#1~6)
      第4話 痛み止めのキス(#1~6)

    • part 4 : I'll hold you!
      第1話 ホンモノは誰だ(#1~6)
      第2話 君を想うゆゑに(#1~6)
      第3話 恋(#1~6)
      第4話 彼の気持ち(#1~8)

    • 番外編
      バレンタイン・トラップ(#1~7)

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