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    M of L

    part 4 : I'll hold you!

    第1話 ホンモノは誰だ

    (1)
     散らかったリビングでゲームを始めた上野紘一(うえのこういち)と、少し離れた床の上でタブレットを見ている久芳連(くぼうれん)。
     そこにテレビはなく、二人とも耳にはイヤホンを挿している。
     とにかく、とても静かな夜。
     何も無い……唯一Wi-fi環境だけがある部屋で、無言でそっぽを向いている。
     私がいる事も、忘れちゃったんじゃないのかと疑う。
     さっきまで、火傷でドタバタしていたのに、もう何事も無かったかのよう。

     私は紘一に言われた通り、奥の鍵のかかる部屋に入り自分のカバンの荷物をぶっちゃけて見た。
     1週間は泊まれる用意をしてきたのに、こんなケガをしてしまったら居づらいなぁ。
     いや、ここは甘えるチャンス!
     せっかく仕事を辞めてまで覚悟の上で来たんだから、夜中にこっそり紘一のところへ忍び込んでみるとか。

    『紘一』
    『な、びっくりした。どうしたんだよ、痛むのか?』
    『うん……、どうしたらいいかな』
    『どうしたら……って』
    『……痛いのを忘れる魔法、かけてほしいの』
    『相変わらず、笑えるコトばっか言うな、夏は』
     顔を寄せた私に、紘一はクスッと笑って、寝ながら軽く私の額にキスをする。
     違うよ、そこじゃない……って、勿論患部でも無いけどさ!
     とか思っているとむくっと起きあがって、あっという間に彼の布団に押し倒されてしまった!
     いや、うそ、あっ、そんな急にっ!
     真上から見下ろす紘一は、いつものように冷たい笑顔で言う。
    『唇にキスしてくださいって言えばちゃんとキスしてやるよ』
    『……ほ、ほんと?』
    『ああ。ほんと?とか白々しいのは、もういい。全部終わらしちまおう。ほら、逃げるのはナシな』
     紘一の体重を軽く胸の上に感じ、彼の手で固定された顔はぐい、と顎から持ち上げられ、彼の唇がすぐそこに迫ってきて……
    「ゴンゴンゴン!!! なああ、起きてるでしょ??」

     あと少しで夢が叶うという瞬間、見事に妄想から目覚めさせた大きなノックの音に、殺意すら感じた。
     が、よく考えてみればその声は連。何か用事があったのに違いない。

     鍵は元からかけていない。
     連はすぐ中に入ってきた。
    「どうしたの?」
    「ん?」
     連はニコニコして言う。
    「片手じゃ何もできないだろうから、ほら、洗顔手伝ってあげる。まずは化粧落とさないとねー」

     なんだかんだ言いながら、手際よく私をスッピンにして、……あれ……、下着姿にして、さっとブラも外して……? あれれパジャマに着替えさせてくれたけど、いいのコレ?
     全然、拒否感が無いんだけど。
     私って貞操観念が低い?
     違う、違うよ、なんかね病院で看護師さんにやってもらってる感じしかしなかったんだよねえ……、嘘じゃない、よ。うん。


     そのまま洗面所で歯磨きや洗顔を半分手伝ってもらって、垂れさがる髪を一つにまとめてくれたりして、なんだか傍にお姉さんがいるみたいな感覚が……。
    「ね、やけど治るまで面倒みてくれる人が必要でしょ? しばらくここに泊まりは決定だね。ちゃんとケアしてあげる」
     そんな風に優しく言われて思わず頷いてしまった。
    「ありがと……む」
     お礼を言い終わる前に、連が唇で口を塞ぐ。
     私が目をギョロつかせて彼を睨むと、連は言った。
    「これくらいの報酬くださーい」

     そ、そんな可愛いこと言ったって、絶対だめ、もうそのキスって感情こもってるじゃんっ!

    「こ、こ、紘一がっ……」
     私はそれだけ小声で必死で言葉を吐き出した。
    「サブロー? あいつ今いないよ。急に上司に呼び出されたみたい。こんな夜中になんでだろね」
     10時。まあ夜中というほどではないけど、確かに遅い呼び出しだなぁ……いや、そんなことより、今、連と二人っきりなのですかああ!!!
    「どう、あっちでもう少しゆっくりキスを楽しまない?」

     ええ???


     そこでイエスとか言えるわけないし!!
     でも右腕引っ張られて、私の部屋に連れて行かれる。
     えっ、えっ、ちょっと待って力で勝てないのに、当たり前のように部屋に入って来て、

     ウソ、内側から鍵しめちゃうの???

    (2)
    『ええーっ! で、彼氏のいない間にそいつとやっちゃったんすか!!』
     四宮現紀(しのみやげんき)の声がカフェに響き渡る。
    『や、やっちゃった……って……。何もしてないってばっ!!! 拒否ったよ、拒否ったけども、……多分もうちょっと連が強引だったら最後まで行っちゃってたかもしれなくて……。てことで、そうなると覚悟決めたかもしれなくて……』
     おもわず小声で答えた。全力で否定できない自分が呪わしい。
    『ダメっすよ! マジで流されやすい子なんだから全く。俺がこの場でキスしても拒否できないんじゃないですか?』
    『はああー?? 四宮くんに? ウケる~~ありえない~~』
    『そんなこと言ってるけど、俺、結構巧いっすよ?』
    『えっ』
     気付くと椅子を寄せ、すぐ傍に四宮の頬が近づいて来た。
     さっき彼が飲んでいた、コーヒーの香りが顔にかかった。
    『し、しのみや……』
    『嫌いじゃないすよ、夏原さんのこと。ね、俺にします?』
    『えっえっでも、いや、でも、じゃなくて、何をバカなことを……!』
    『夏原さんの彼氏に一番合うのは誰かな。俺だってイケてる方だと思うんですけどねえ。夏原さんの知らないコト、全部教えてあげますよ』
     しっ、知らないコトって、どんなコト?
     あんなコトくらいじゃなくて、もっと大胆なスゴイコト……アレとかコレとか使ってあんなカンジでえええ、ちょっと待って、そんな……
    「ご注文の品は以上でよろしかったでしょうか?」

    「は、はいっ!」
     我に返った時、私の目の前にはアイスティーのタンブラーがドンと置かれ、運んで来た店員はもうすでにいなくなっていた。
     当然、見渡してみても四宮はまだ来ていない。待ち合わせ時間にはまだ少しある。


     い、いかん。最近、妄想の状態がよくない。
     相手が四宮だなんて、もう……誰かれ構わず見境なくなってきている……。



     15分遅れでやってきた四宮は、注文もせずに「会社行きましょうか」と私を促した。
     本当に、いつも通りの素っ気ない四宮だ。

     今朝は課長にスマートフォンを返すため、会社の近くのカフェで四宮が来てくれるのを待っていた。
     いきなり辞めた翌朝に顔を出すのはちょっと気が引けるので、四宮が会社の入口まで課長を連れ出してくれることになっていた。

     これが現実、これが現実、これが現実、さっきのは……。

    「夏原さんに惚れてんだなって思いますよ」
    「はっ!???」
     四宮がなんだか妙に甘い顔つきで笑うので、道路の真ん中で立ち止まってしまった。
    「何、何、何を言い出すっ!」
    「気付かなかったんですよ、その時は。でも、惚れてなきゃあなたのこと心配したりしないし……」
     四宮が私に惚れてた……?

     やばい、空想と現実の区別がつかなくなってきてる。
     末期だ。末期症状だ。
     こんなことになってしまった原因は、紘一が……上野紘一があまりにも冷た過ぎるから。
     冷たい態度を真正面から受け入れられない歪んだ私の精神構造が、自分自身を守ろうとして甘い妄想を作り出しているんだ!
     しかもよりによって、相手が四宮にまで及ぶなんてもう、ホント、自分を守ってるんだか崖下に突き落としてんだか、よくわからなくなってきたよ……。

    「心配する、気になるってことは確実に『惚れてる』と……ん、夏原さん、聞いてます? もう、ボケッとした顔してー。ほら目の前、会社ですよ、シッカリしてくださいよー」
     いかにも不安気な顔で、四宮が私を見る。
    「あ、は、は、あ、うん……」
    「大丈夫かなあー」
     四宮の眉間にしわが寄る。
    「課長のスマホ出してください」
     彼が掌を突き出してきたので、私はカバンから八城課長のスマホを取り出して四宮に渡した。

    「多分ねー」
     四宮は独り言を言うかのように、視線を合わせずに呟いた。
    「課長は夏原さんを可愛がってましたから、今なら辞職願取り下げてくれます」
    「そ、そうかな……でも……」
    「そうっすよ、全部夏原さん次第なんですよ。彼氏とうまくやっていけるようになるのも、まずは仕事をちゃんとこなして、元気で頑張ってれば、なんだっていい方向へと向かうはずですから」

     四宮の言葉は意味不明だった。
     だから、私は呆然と聞いていた。

    「夏原さんの彼、上野さんでしたっけ。……夏原さんが会社で頑張ってるか心配してますよ。ここは仕事投げ出して去りゆく彼を追うより、仕事頑張って彼に見直させる方向へ持っていった方がよくないですか?」

    「上野さんて人、絶対夏原さんに惚れてますよ。まだ恋人同士に戻るチャンスはあります。もし夏原さんが課長の機嫌直してくれるなら、俺は夏原さんと彼氏の仲を修復してみせますよ」

    (3)
     彼氏との仲を修復……。
    「四宮くん、紘一を知ってるの?」
    「お会いしました。その上で、ああ、この人は夏原さんが好きなんだなと気付いたから言ってるんです」

     会った?
     そして、紘一が私を好きだと感じた?

    「俺の言う通りしていれば、万事うまくいきますよ」
    「四宮くん、大好き」
     私は恥ずかし気も無く、会社のビルの前で棒立ちになって四宮の顔を見つめ続けた。
    「でしょうね」
     四宮は私の視線など完全にスルーだった。
    「まず条件は復職、つまり課長に正式に謝ってください。でないと課長の機嫌が悪くて課内のムードも最悪なんです。それに正直みんな困惑してるし責任感じてる人多いです」
    「あ……はい」
    「あんな大人げないことする人いませんよ。ちゃんとみんなの気持ち考えて」
    「はい……」
     返す言葉が無い。
     ……でも私は、あんまりみんなと仲良くしてもらえてなかったと思うんだけどなあ。
    「ほら、課長降りてきましたよ」


     八城課長は仏頂面してビルから出て来た。
     狭いエントランスから出て立ち止まると、大袈裟にため息をついて私を睨んだ。

    「これ」
     四宮は八城課長のスマートフォンを、私に突きつけ、渡して来いと目で合図する。
     わかりましたよぅ。

     私はスマホを持って八城課長に近づき頭を下げた。
    「あの、よくわからないんですけど、課長のスマホが間違って私の手元に……」
     八城課長は何も言わない。
     スマホを差し出すと、若干の戸惑いを見せながら受け取ってくれた。
    「あの、課長……」
     沈黙に押されて、なんとか切り出そうとしたけれど、その後また言葉を見失ってしまった。
     背後の四宮が、カツカツと靴音をさせて近寄って来るのがわかった。
    「課長、夏原さん課長に引き留めてもらいたくて、無意識にスマホ持ってでてしまったんですよ、許してやってください。ほら、本人も反省してますから」
     え、そういうことになるの?
    「そうなのか?」
     いえ、違います……。

    「あの、辞めたいと思ったのは嘘じゃな……」
    「嘘っぽいくらい大人げないコトしてすみませんでしたって、さっきも僕に謝ってきたくらいですからねー」
    「そうだったのか」
     いえ、違います……。

     ただ……。
    「私なんか、いてもいなくても一緒かなと思ってたので……」


     課長は数秒してから、溜息をついた。
    「悩みを相談する相手がいなかったのか」

     いえ、そういう深刻なことでもなかったんですけど……と反論しようとしたけれど、四宮が怖い目で私を見て来たので、黙って頷くことにした。
    「なら、私に一言言ってくれれば……。配慮が足りなくて申し訳なかったな」
    「い、い、い、いえ、いえ、そういう……」
    「そうですよ、夏原さんより先に謝る必要ないですよ。さ、課長にちゃんと頭下げて、辞職願取り下げてくださいって言いなさい、ほら」
     四宮に肘でつつかれた。痛い。なんかムカつく。
    「昨日の辞職願は、まだキャンセルできますか……?」
    「うん、まだ私が持ってる。昨日は……夏原は休みにしてある」
    「あ……そうですか……」
    「事情はわかったから、今週は休んで来週から普通に出社して来なさい。みんなには私から伝えておく」
    「す、みませんでした……ありがとうございます」

     深く頭を下げる私の横で、なぜか四宮も頭を下げていた。



    「『休暇願』が通ってよかったすね」
     四宮が笑う。
     彼は私を駅まで送るように課長に言われたと言っていたが、多分、そんなのは嘘で仕事が嫌でブラブラしたいだけのはずだ。

    「あのスマホって、わざと四宮くんが課長から借りて来たとかじゃないよね……」
    「借りて来た?……違う違う。課長はマジで気付いてないよ。全部俺一人の犯行です」
    「もー……」
     私を会社に戻すキッカケにしては、強引すぎる手段だけど、四宮らしいと言えば、らしいかも。
    「なんでそうまでして私を復職させたかったのよ」
     その問いに、四宮はうんざりした表情を浮かべた。
    「職場のあんなギスギスした空気は耐えられないからっすよ。夏原さんほど鈍感なら楽でしょうけどー。ほら、いわゆる軟骨みたいな人でしょ、夏原さんは」
    「ナンコツ?!」
    「ギスギスしたもんのクッションになれる人。彼氏にも、そういうクッションが必要なんじゃないすかねえー」
    「う……」

     褒められてるのかけなされてるのかわからない。
     でも、紘一との仲を修復してくれるって言うなら、それなら、なんだって我慢できる。


    「で、夏原さんには、今から大切な相手と逢ってもらいたいんですよね」

    (4)
    「柳井(やない)まおりさんです」
     そう言って四宮が紹介してくれたのは、50センチ四方のプラスチックの透明な箱に入った、木くずだった。
    「え?」


     私は駅前にあるハムスターカフェ・輪舞曲(ロンド)に居た。
    「これが、柳井……まおりさん……?」
     木くずがかすかにぽこぽこ動いている。どうやら彼女、その下で寝ているようだった。
     じっと見つめていてもどうしようもないので顔を上げると、四宮と仲良さそうに話す店員が私に微笑みかけた。
    「まおりさん今ぁ、お昼寝の時間なので、ごめんなさーい」
    「ええ、眠い時間でしょうね」
     そう応えるしかない。
     四宮はコソコソとその店員の耳元で何か話しては、笑っている。
    「四宮くん、そこでイチャイチャしてないで、これどういうことか説明してよ」
    「トラップですよ。いや、エサかな」
    「トラップ(罠)?」
     四宮はニヤリと笑った。

    「調べたところによると、上野紘一氏には妹がいるでしょう、最愛の妹が」
     ……。
     最愛なのかどうかわからないけど、確かに妹の美羽ちゃんはいますよ。
    「その子をまおりさんでうまく釣るんですよ。こっちに協力してもらえるように情報を流してもらうとか。まおりさんの愛らしさはハムスター界でもトップクラス。誰でも一目で恋に落ちるはずですから、妹がまおりさんに会いたい一心で夏原さんに協力するのは必至です」

     四宮の意識はまおりさんより、この店員さんに釣られているようにしか見えないけれど、大丈夫だろうか。
    「わたくし、まおりさんの通訳の、柳井まりで~す。よろしくお願いしま~す」
    「あ、要するに所有者さんですか」
    「違います。まおりさんはレジェンドなので通訳ナシでも成立するんですけどぉ、一応、『おなかすいたぁ~』とか分かりやすく伝えてあげると、よりグッドなので妹さんのハート射止めるお手伝いをさせて頂きまぁーす」

     なんだろう……不安だ。
     巷に溢れる猫カフェとか動物を扱う店の店員とは全然違う系統のニオイがするけど、大丈夫だろうか。
     いや、その前に美羽ちゃんがまおりさんに夢中になるのか。
     夢中になったとして、聞き出すに値するような、強力な紘一攻略情報を持っているだろうか。

     それにもし、私が久芳連に毎日のように唇を奪われている状況を知っても、協力してくれるだろうか。
     キスだけで終わってなくて、素っ裸も見られているし、下着とか手際よく外されちゃったりしてるし、えっとその先は……あ、ちょっと記憶にモザイクかかって思い出せない……。
     危険なところに行く前に我に返って逃げる私を、連がもし強引に追いかけてくる男だったら、今頃もう連の彼女になっちゃってるよねぇ……。

     これで平気な顔して紘一が好きとか思ってる私って、やっぱり平和ボケした軟骨なんだろうか。

    「あっ、まおりさんが顔をっ」
     上ずったような可愛いアニメキャラ声が、私の頭の上を駆けた。
     客が一斉にこちらを向く。
     この『柳井まり』って子に会いに来てるでしょ、どの人も。みんなハムスターなんか見て無いし。客みんな男だし!

     でも私は、まおりさんにちょっと興味がある。レジェンドらしいから。

     ぽそ、と木くず(正確にはウッドチップと言うらしい)から顔を出したまおりさんの、黒い瞳と小さな顔。


     か、可愛い~~~~。
     なにこのカワイさ。卑怯じゃない? 一瞬で人の身も心も持ってく卑劣極まりない、悪魔の毛玉だわ!
     言葉で的確に描写できないのは作者の不勉強のせいだけじゃないわよきっと。
    「まおりさんは、ロボロフスキーの生後38日目になりますぅ~」
     妖精でしょ? 優しい人にしか見えない森の精霊の間違いでしょ?


     こうして私は四宮にハムスターの可愛らしさを教えてもらった……のではなく、作戦の指揮を取ってもらい、上野紘一攻略への道を歩むことになったのであーる。



     でも、攻略どころの話ではなくなっていた。

     紘一の部屋に帰ってみると、リビングで横たわる紘一の姿を見つけた。
     昨夜敷いた布団にスーツ姿のままで眠っていて、強いタバコの臭いと、女性のつける香水の匂いをまとわせていた。

     どこかで嗅いだことのある香水だった。
     ああ、これは、昨日の朝乗せてもらったロールスロイスの中で吸い続けた空気。

     五条優姫(ごじょうゆき)さんのつけてた香水と一緒だ。

    (5)
     三島光一(みしまこういち)という人だって、五条さんの近くにいたから、同じようにこの香水の匂いを移されていたはずだったけど、こんなに強くは感じなかったなあ。
     それは単に外で会っていたからであって、家の中で異質な香りを感じると、強く匂っているように思えるだけなんだと思う。

     見た所、紘一の顔や首元には口紅の跡とか、……キスマークとか無いし、ちょっとシャツのボタンとネクタイは緩められているけど、ベルトも外さず着衣の乱れってやつはほとんどない。
     間近で見ても、匂い以外に五条さんの痕跡は無く、紘一の呼吸からはアルコールの匂いも無い。
     ただ嫌煙家の紘一の髪や服に染みついたタバコの臭いは、会社とは別の場所へ行っていた証拠だと思う。
     ずっと二人で、夜通し何をしてたんだろう。

    『俺が誰と付き合おうと俺の勝手だろ。それとも何か、俺に彼女ができたら夏に紹介しなくちゃいけないのか?』
    『ち、違うよ……違う……』
    『バカ、また泣くのか』
    『だって……。好きなんだもん、紘一がほかの誰かと付き合うなんて、考えたくない……』
     紘一は私の頭をクシャッとなでると、
    『冗談だよ。ちゃんと夏っていう彼女がいるのに、浮気するほど暇じゃない。ていうより、俺はそういう酷いことを平気でするようなゲスな人間は、立場上許せないんでね』
    と笑った。
    『そうだよね、紘一はまだ私の彼氏だよね?』
    『当たり前だろ。俺は夏の肌の匂いが一番好きなんだ……』
    『えっ、ばかっ、まだそういう関係じゃ……』
    『いつそういう関係になってくれるんだよ、今からでもいいか?』

    「そ、そんな……いいよっ。いいけど……えっと今日の下着が……」
    「下着がどうした?」

     気付くと心の声が外に漏れていて、目の前で眠っていたはずの紘一がパッチリ目を開けて私を見ていた。
     その顔と顔の距離が30センチほど。
     間近でじっと見つめられて思わずこっちも固まってしまった。
    「夏、おまえは事件現場の鑑識か? 何でこんな近くでじっと観察してくれてんだよ」
    「あ、ご、ごめん……」
    「念仏でも唱えてたのか?」
     ね、念仏の中に『下着』って言葉は多分出てこないと思う。


     私は少し体を起こして、ふてくされ気味に呟いた。
    「朝もいなかったよね。香水とタバコの匂いさせて昼帰りですか?」
     う、我ながらイメージ悪い嫉妬の言葉を吐いてしまった。
     嫌だ、自分はこんなことくらいで動じないはずだったのに。
     彼氏の行動をチェックしてイライラするような女にはならないつもりだったのに。
     ていうか、もう細かい計画とかどうでもよくなってきた。
     いい加減、彼氏なのかそうじゃないのか、そこんとこハッキリさ………………

    「夜通し接待だよ」
     ボソッと紘一は言ってから、目を閉じた。
     疲労が表情に浮かんでいた。

    「五条商事との契約で、うちの長谷(はせ)部長がうまく折り合いつけられなくてさ。急きょ呼ばれて、なだめ役っていうか殆ど傍で見てただけ。酒すら一口も口にできない状態。三島もいたから嘘だと思うなら訊けばいいよ」

    「あ、そうなんだ……。……お仕事デスカ……お疲れさまでした……」
    「うん。寝ていい?」
    「は、はい」
    「夏」
    「は、はい」
    「火傷の具合は?」

     急に訊かれて、左の腕をカーディガン越しに触れた。
     ピリッとする感覚と、じんじんする感覚。でも昨夜よりは随分マシになった。脚の方は、腕より火傷の具合が軽かったから殆ど痛みは無い。
    「大丈夫。もう痛くないよ」
    「じゃあ、これ、いらないか?」
     紘一は半分目を開け、スーツの上着のポケットから小さな箱を取り出して、私の目の前に差し出した。その箱から察するに、チューブタイプの軟膏。火傷に効くという文字が外箱に刻まれている。
    「…………ありがとう……」

     私の火傷なんて、ワセリンで十分だって言いながら、気にしてくれてたんだ。
     やっぱり、優しいじゃん。
     付き合えないと突き放してる私のことですら放っておけなかったのか。
     めんどくさいとか思いながら仕事帰りに薬局へ寄ってくれたんだろーな。
     ただ、ただ、優しい人じゃん。

     なんでその優しさを無理に隠すのかな?

     私が紘一をクールだという固定観念で見てるから、照れくさくてできないのかな。
     それとも、私に好かれたくないから?
     これ以上まとわりつかれたくないから?

     教えてほしいよ。

    「紘一、私はどうすれば彼女でいられるの?」

    「嫌いじゃないって言ってくれたよね? 王子様だとか変な妄想とかやめれば、ちゃんと向き合ってくれるの? それとも、彼女になんてもう絶対になれないの?」

     私はもう一度紘一の顔の間近に寄り、その半分閉じかかった目を見つめた。
     彼の唇が薄く開く。
     また冷たい言葉で、私を笑うの?

     でも、その時の紘一は違っていた。
     掠れた声で呟いた。

    「訊くけど、本当に俺なんかでいいの?」

    (6)
     上野紘一(うえのこういち)は疲れているせいか、柔らかい笑みを浮かべているように見えた。
     目はとろんと眠そうに垂れて、唇は相変わらず何か言いたげに開いている。
     本当に、ってどうして訊くの?
     私が誰にしようか迷ってると、そう思ってるの?

    「紘一……」
    「ん?」
    「あの……」
     私は横たわる彼の顔に自分の顔を近づけた。
     結構、体勢はキツイけど、今ならキスできるかも。
     そうだよ、キスしてもらうばっかりじゃなくて、こっちから奪っちゃえばいいんだよ!

     でも、キスはできなかった。

     キスする前に、紘一の体の上に倒れ込んでいた。
     だって、
     彼が私の体を引き寄せたから。

     私の体重がドンッと彼の胸の上に落ちて、微かに息を吐く紘一。
    「お、重いな」
    「ご、ごめんっ!!」

     そっちから引き寄せたくせに! 引き寄せたくせにっ!!

     そのくせ、慌てて起きあがろうとする私を、なぜか離してくれない。
    「こ、こういち……」
    「ほら、がんばれ。俺は片腕だし、疲れてるし、眠いし、正直、力が出て無いからすぐ抜けられるはず」

     ジタバタ足掻いてみた。
     でも、口で言うほど軽い力で抑え込まれているようには思えない。

     結構、しっかり抱きしめられている。


     ふと気付いた。
     なんで逃げる必要がある?
     フォールを取られたって、痛くもかゆくもない、いやむしろそのシチュエーション、待ち望んでいたではないか!!!


     動きを止めた私に気付いた紘一は、ゆっくり腕の力を抜いた。
     少し体を浮かせると、そこには紘一の無抵抗な体が横たわっている。
     チャンス!
     大丈夫だよねっ、これは妄想の一部じゃないよね?

     だって、紘一が瞳をゆっくり瞬かせて、じっと私の目を見つめている。いつもは漆黒の物言わぬ瞳が、今は森の深い緑のような優しい色をしているように見える。気のせいかな。
    『待ってるんだけど、するの? しないの?』
     そんな風に問われてる気がした。

     もう火傷の痛みなんて、蚊に刺されたくらいなもんで、感覚が飛んでいる。
     掌の中の薬の箱さえ握りつぶしてしまいそうなくらいに緊張している。
     少しずつ、まるで花の匂いでも嗅ぐように、紘一へと顔を寄せる。

     自分の体重を支える腕が震えている。
     決して怖いからじゃなくて、無理な姿勢で近寄るから。
     ああ、もどかしい。抱き着いてもいいかな。
     火傷をしていない右手は体を支え、左手はおずおずと紘一の髪から頬を撫でてみた。

     何も言わずにただ、私を見ている紘一。
     口の端が少し上がる。
    『キスくらいでビビってんの?』
     そんな風に笑ってる気がする。

    「夏……」
     その唇が、私の名前を呼んだ。
    「紘一……」

     い、い、い、いっただきまーーーーーーす!!!!!


     コォォォォォーー。

     背後で異質な音がした。
     びっくりして振り返ると、洗面の奥から水の流れる音が聞えて来ているのだと知る。

     まさか………………。

     2秒後バタンという音がして、トイレから人が出てくる気配がした。
     思わず跳び上がって姿勢を直し、紘一の隣でトイレ方向に向かって正座。
    「いやー、なんか腹の調子が悪い~」


     く、久芳連(くぼうれん)と同居していることをすっかり忘れていた。


    「あれ? 夏帰って来てたんだ。それにしても火傷した左脚、大丈夫なの? 正座なんかしちゃって……」
     近寄って来る連に不思議そうに言われ、なんだか急にすねから足の甲にかけての痛みがヒリヒリと戻ってきた。
    「だ、だ、大丈夫なんだよ、もう平気なの」
     慌てて返事をすると、傍で寝ていた紘一が私と連に背中を向けるようにして、横を向いた。

     そして、さっきまでの柔らかい雰囲気とは打って変わった冷たい声を出す。

    「そ、だから火傷なんてワセリンで治るんだよ。もう手当の必要無い。全部身の回りのこと自分でやらせろ。いや、それよりもう居座らせずに今すぐ家に帰したらどうだ」


     氷の矢が私の胸をグッサーと刺した。

    「どうする? 夏」

     連までが、そんなことを!

    「き………………」
     私は歯を食いしばって、お腹に力を入れて大きな声を出した。
    「休暇は一週間ありますから、まだここにいます!」



    第2話 君を想うゆゑに

    (1)
     平日の真昼、私、夏原夏(かはらなつ)と、背中を向けて寝ている上野紘一(うえのこういち)と、不思議そうに佇む久芳連(くぼうれん)がそこに居た。
     一週間居座り宣言をした直後、紘一がボソッと呟いた。
    「それじゃ美羽とおんなじだな」

    「え、どうして?」
     驚いて聞き返しても、紘一は勿論、連までもが複雑な顔をして説明をしてくれない。
     私のしていることは、紘一へのストーキングですかっ!
     ちがうよ、違うはず。
     だって。
     さっきは、私のこと、引き寄せたくせに……。


     ちょうどその時、ポロロ、ポロロという電子音が微かに聞こえてきた。
     音に気づいた連が、思い出したように、棚にぽんと載せてあったスマートフォンを取り上げた。
    「はい、もしもしー」
     連は普通にリビングを出て通話を始めた。

     その様子を見ながら、疑問が頭をよぎる。
    「あれ、連のスマホは確か……」
     美羽ちゃんが持ってて、しかも壊れてるはずだけど。

     そんな私の心の問いに答えるように、紘一が背中を向けたまま呟いた。
    「今朝ドアポストに入ってたんだって。盗ったヤツが同じ機械を買ってSIMだけ差し替えたんだろ。本体に保存してる写真なんかのデータはなかったらしいからな」
     そこまで言って、ため息をつく。
    「意味わかんねえし、気持ち悪いし、どんなアプリを仕込まれてるかわからないからいきなり使うのはやめとけって言ったんだ。……否定してるけど、どうせ犯人は美羽ってトコだろ」
    「あ、そ、そうなの?」
     思わずドアの陰にいる連を二度見してしまった。
     連はどこまでも美羽ちゃんを庇ってるんだな……。

    「夏が救わなければ連はこのまま美羽に押し切られるかも知れないな。いいのか? 連を不幸に突き落すことになるかもしれないぞ」
    「ひ、ひどい言い方やめてよ。でも、救うってどうするの?」
    「望み通りに彼女になってやれば?」
    「…………」
     紘一の言葉がまたまた胸に突き刺さり、今度はザックリと割いて行った。


     私が紘一を好きだと知ってて、なんでそういうことが平気で言えるんだろうか。
     いや、それ以前に、私と連を付き合わせたかったら、徹底的に私を自分に寄せ付けなければいいじゃない。なのに中途半端に、思わせぶりな瞳で見たりして、あれ、私のこと好きなのかも、とか、もう私のこと受け入れてるんじゃないの、とか、それ以上に既に私と連のことで嫉妬してて、
    『なんだよ、夏が煮え切らない態度してんのがムカつくんだ。悪いか』
    『だって、紘一って近寄れないから』
    『怯えて近寄って来ないくせに……もっとこっちへ』
    『きゃあっ、紘一っ!…………』

    「ていうか、連との付き合いの方が、俺より長いんだろ? そのまま付き合うのが自然だろ」

     私はボケッとした顔のまま、こちらを見つめる紘一と相対していた。
     いかん、妄想から覚めるまえに何か言われてもすぐ理解できない。

     紘一は言った。
    「俺としては、連が不幸になるのは耐えがたい」

    「じゃ、じゃあ、私なら不幸になっても構わないって言うのっ!」
     思わず反論した。でも更なる正論を受ける。
    「連と付き合っても、不幸にはならないだろ」
    「そ、そ、それは……」
     確かにそうだけど。

    「違うよ。紘一と一緒に居られないことが、不幸なの」


     紘一は黙り込んで目元を顰めると、どこか恨めしそうに私を見つめた。

    (2)
    「ごめーん!」
     急に明るい声がして連が電話を終えて私たちのところへ戻ってきた。
    「兄貴から電話だった。近くまで来たから、ここに寄るってきかなくてさ。顔だけ見たらすぐ追い返すから」
     連の言葉に、紘一がむっくりと起きあがった。
    「いいよ、気にしないでゆっくりしてってもらえよ」
    「だめだめ、あの人、普段ものすごくハイテンションだから、紘一の一番嫌いなタイプだよ」
     連は笑って言った。


     連のお兄さんの久芳賢(くぼうけん)。
     実は私は見かけたことはあるけど、まだお会いしたことはない。
     何を隠そう、昔は巡査、今は地方の署の内勤をやってるという、立派な警察関係者。
     その巡査時代には、紘一との接点もあったと、三島光一(みしまこういち)は言ってたけど……。


     連は、私を見て付け足す。
    「しかも、美人に目が無いから、夏を見たら惚れちゃうかも」
    「えっ」
     私は美人と言われて、ちょっと嬉し気な反応をしてしまった。
     しかし、すぐに紘一と目が合って、笑えなくなった。
    「夏、喜んでるのか。もしかして、好きになってもらえるなら誰でもいいのか」
    「違う違う違うーーーっ」
     弁解しようとしたその時、玄関のチャイムが静かに響いた。



    「やば。もう来ちゃったよー」
     連が苦笑しながら玄関へ行く。
     私もソロソロと立ちあがり彼の後をついていった。
     複雑な表情の紘一も同じく私の隣を歩く。

     ん、この距離。
     紘一の左腕が私の右肩にピッタリ寄せられてるような気が……。
     今まで一緒に歩いてた時より一番近い。そりゃ家の中だからだろうけど。

     もしかして、私、雄ライオンのテリトリー内のメスと化してない?
     ほかの雄から守ろうとされてない???
     か、考えすぎ?
     ……かもしれないけど、思わず顔がにやける。


     連がドアを開けると、そこにはガッチリとした体格の大柄な男性が立っていた。
    「よおお、ひさしぶり~!」
     どうぞおはいり下さいも言ってないのに、扉を開けられた瞬間に両手を上げて中に入ろうとする。
    「ま、待て兄貴!」
     連が必死で兄の体を外へ押し戻そうとするが、兄に連れがいるのを知るとその力がふと抜けたようだった。
    「あ、あれ? 一人で来たんじゃなかったの?」
     心なしか声が震えている。

     私も紘一も連の後ろに立っていたので、デカいお兄さんの隣に誰がいるかまでは確認できなかった。
     連のお兄さんが説明する。
    「うん、さっき電話した時までは一人だったんだけどな、マンションの前でこの人に会って、仲良くなったんだよー!」

     マンションの前で会っただけで、すぐ仲良くなった? この超短時間で?
     私は連の『社交性』や『良い人度合』よりも、さらに上を行くタイプの人間がいるとは考えられなかったが、実際はいた、ということになる。
    「お前の知り合いだろ、連」
    「え、う、うん……」

     連がじりじりと後ずさりして、私と紘一を部屋へと押し戻す。
     あれほど玄関で追い返すと言っていた連が、後退してくるとは思いもよらなかった。
     紘一が一歩連の前に出て「はぁ?!」と声を上げた。
    「美羽、なんでおまえここにいる!」

     賢の隣に立っていたのは、紘一の妹の上野美羽(うえのみわ)だった。

    (3)
    「なんでって言われても、このお兄さんが、上野&久芳の部屋の郵便受けを見てる風だったから、声かけたのよ」
     美羽ちゃんはしれっとした顔で答えた。
     久芳賢は、
    「そ、で、連の友達だって言うから連れて来たんだよ。偶然こんな美人に会えるなんて俺は今日はラッキーだよー」
    と上機嫌だった。

     ただ、その美人がマンションの近くにいるのは決して珍しくはなく、偶然会えたと思うのは間違いなんだけど、そこは訂正すると話がややこしくなる。なにしろ犯罪が絡んでくるわけだから。


    「上野です」
     紘一は賢さんに向き合って、軽く会釈をしてから、
    「こいつ俺の妹ですが、絶縁中なので部屋の中へは入れられません。久芳さんだけどうぞ」
    と真顔で応対していた。
     しかし美羽ちゃんはズカズカと部屋に入って来ようとした。
    「絶縁とかしてないじゃん! 例えお兄ちゃんがどう言おうと、私は連に逢いに来たんだからいいのよ! 嫌ならお兄ちゃんが部屋を出て行けば?」

     一触即発の兄妹の睨み合いの間に入った久芳兄弟は、
    「「まぁ、まぁ、まぁ」」
    と声を揃えて、二人を宥めていた。


    「兄妹と兄弟で、どう、仲良く花見に行かないかな! そこもここも満開だよ! 平日の昼だし、オヤジも少な目で気持ちいいよ!!」
     賢さんが豪快に笑って、連を部屋の外に引きずりだした。

     いやいや一番オヤジのあなたが言うかなと私は思ったが、連と紘一は彼についていくようだった。
    「行くの紘一? 意外……」
    「夏は部屋にいろ。幸い存在に気付かれてない」
     紘一は小声で私に言った。
    「俺は美羽がいる限り、こいつらの動向を監視せざるをえない」
     ものすごい責任感を背負っているみたいだった。

    「でも、紘一が行くなら私も行きたい。一緒にお花見したい!」
    「バッカ、能天気だな」

     こうして私を含めた5人がぞろぞろと春の公園に向かって歩き出した。

    「おお!! そこの彼女は上野くんの奥さん? これまた美人だねええ!」
     賢さんがついに最後尾の私に気付いて大声を上げた。
    「奥さんて!」
     連が慌てて訂正する。
     すると美羽ちゃんが「未来の奥さんよね」とちょっと嬉しい事を言う。にへらにへら。
    「笑うな」
     紘一に一喝され、私は表情を強張らせて黙って後ろをついていくことにした。

    「いやー、それにしても小さい頃は知ってるけど、上野くんはまっすぐイケメンに育ったねえ! 妹さんも美人だし、彼女さんも美人だし、ここ俺たち兄弟も入れて美男美女率高くねえ!?」
    「そ、そんな恥ずかしい事言うなよっ」
     連が小さい声で言い返す。

    「しばらく地方にいてね。もう何年ぶりかでこっちに帰って来れたんで、嬉しくって連にすぐ電話したんだよ! 引っ越し先が前の部屋と近くてわかりやすかったわ!」
     ハイテンションを維持したまま、賢さんは大声で紘一に向かって言った。
    「あはは、上野くんには迷惑でしかないか! 休んでるところいきなり押し掛けて、その上、強引に付き合わせて悪いねえー!」

     紘一は笑いながら、
    「確かにドア開けた瞬間の勢いは、口のきけるゾンビかと思いました」
    と毒づいていた。
     しかしそんな事を言われても気の良い久芳家の長男らしく、賢さんは豪快に笑っていた。
    「上野くんの口の悪さは変わって無いなー」
    「生まれつきは治りませんよ」

     紘一の表情を見ていると、懐かしいとか久しぶりという感じはなく、多分連のお兄さんの事はあまり記憶に無いのだと思う。
     それでもあれだけの悪態をつくことができるということは、悪気は無いのかもしれない。
     とはいえ、まったく対人関係を構築できない理由がわかるってものよ。
     だからこそ、久芳兄弟のようなおおらか系の人としか付き合えないんだわ。


     ん?
     ちょっと待て、それじゃ、私は?
     イチイチ傷ついてちゃだめっていうか、今までの紘一の冷たい言葉も特に気にする必要なかったのかな。

     紘一を攻略する方法が、なんとなく、うっすら…………見えて来た気がする。

    (4)
     久芳兄弟、上野兄妹と私という、5人が辿り着いた桜の公園は、昨日行ったピザマンショーとは反対方向だった。大きな池もあり、展望台もあり、完全に観光用に植樹された桜が見られる場所だった。
     平日の昼間であろうが、人は溢れていた。
     これこそがお花見。酒に酔った奇声も聞えてくる。

    「案外オヤジ多いなあ……」
     久芳連(くぼうれん)の兄、賢(けん)は人の多さにぼやいていた。
     きっと会社を引退したオジサマ方は、昼間はヒマなのだろう。
     むしろ若い世代が、こんなところで遊んでいる方がおかしいのだ。

     そんな賑やかな場所で、どこか空いているスペースを探していた時、上野紘一が「あ」と呟いた。
     私は傍にいたので、その小さな声を聞き洩らさなかった。
    「どうかしたの?」
    「いや、めんどくさい事になったな」
     紘一が視線で指す方向を見てみると、知っている人間がいた。

    「あ! 三島さんと、……えっと、五条さん……五条優姫(ごじょうゆき)さん?」
    「優姫さん知ってるのか? まあいいや。あと五条の社長と、うちの長谷(はせ)部長もいる。まずいな、解散したはずなのに、まだ接待続いてんのか。見つかりたくないな」
     そういう時ほど相手の視線にしっかり捕まってしまうもので、紘一も案の定、女性の上司らしい人に名前を呼ばれた。

     かわいそうに。
     そう思っていたら紘一が私の右手を掴んで引っ張って上司たちの元へと連れて行く。

     えっ、えっ、これは恋人アピールの手つなぎ? それとも連行して晒し者?
     私と紘一は、久芳兄弟と美羽ちゃんの3人とは別行動になってしまった。


     なにかしら上司が赤い顔をしてわめいていると思っていたら、どうやら私の存在に怒り心頭の様子なのだとわかった。
    「手を繋いでるその子は誰! ちょっとは自分の立場を考えなさい!」

     周囲が騒然としているので、少しくらい上司が騒いだところで目立ちはしない。
     傍に居た五条社長らしきシニアの男性は、まだ樹にもたれかかって眠っている。
     そして五条優姫さんも、ビニールシートの上で座って眠っている様子だった。
     なんと、体半分は完全に三島光一(みしまこういち)に預けられ、幸せそうな顔で熟睡している。

     その三島さんは紘一と私を見て、何とも言えない苦い顔をしていた。

     紘一は、桜の樹の下の酔っ払い4人の前で立ち止まると、繋いだ手を離した。
    「お疲れさまです」
    「ちょっとコッチ来なさい!」
     ヒステリックに叫ぶ上司の足元は、お酒のせいでフラフラしている。
     ちょっと太り気味の丸みを帯びた上半身を細い脚が支えているので、パッと見、ラディッシュにつまようじを挿して立たせているように見えた。

     私をそのままにして、紘一は上司の元へと靴を脱いでシートを上がっていった。
     上司になんだかんだ言われている様子を、三島さんが振り返ってじっと見つめていた。しかし、ものの10秒ほどで振り返ると、私の顔を見上げて苦い顔のまま言うのだ。
    「だからね……上野君と一緒に居ても、幸せにはなれませんよ?」
    「ど、どういう意味ですかっ」
    「理由は昨日言ったでしょう。性格が合わないんだから、ここは諦めて久芳連にしておくのがベストです」

     私は悔しかった。
    「そんなの、わからないじゃないですか……」

    (5)
    「そうです。そんなの勝手に決めないでください」

     突如、私の意見に賛成してくれる人の声がした。
    「付き合う人くらい自由にさせてください……」
     三島さんの肩に頭を置いたまま、寝入っているはずの人の口からだった。

     三島さんは、その五条優姫さんの言葉を聞いて思わず彼女の顔を覗き込んでいた。
     優姫さんはゆっくりと目を開けて、そのまま三島さんと至近距離で見つめ合っている。

     やばい、これは、完全の恋人同士のムード。
     私がここにいるのは、超オジャマ状態じゃないかぁぁっ!
     そうだったの? やっぱり三島さんと優姫さんてそういう関係だったの!!!

    「私は、ずっと、ずっと、ずーっと、三島さんに担当しててほしい!」
     あの奥ゆかしい雰囲気の優姫さんらしからぬ大きな声で、はっきり相手に訴えかけた。
     その言葉を受けて、三島さんは眉間に皺を寄せたままだ。
     ただ、具合の悪い事に、その声が紘一や上司や社長の耳にまで届いてしまったから、大問題になってしまったようだった。

     三島さんは優姫さんの体をそっと起こして距離を取り、相対していた。
     そこへ、ラディッシュ上司と社長と紘一がやって来て、二人を問いただす様な目で見つめた。
    「まさかの三島君、業務命令を無視する気? あなたは支社勤務なのよっ!」
     上司は、紘一に向けていた怒りを、今度は三島さんに向けている。
     しかし、それに返答したのは三島さんではなく、優姫さんだった。
    「三島さんは関係ありません! これは私の気持ちです! 陰気で配慮もなく会話にウィットの欠片もない上野さんより、三島さんの方が断然素敵。担当してほしいのは三島さんだけ。結婚するのも三島さんじゃないと嫌です!」

     酔った勢いというのは恐ろしいもの。
     まだ顔の赤い優姫さんは、本当に自分の発言に責任が持てるのかしらと心配するくらいハッキリ意見を言い、ついでに上野紘一をディスっていた。
     しかし言われた紘一より、上司や三島さんの方が顔面蒼白になっていた。

     なんだかわからないけど、これ、なんか仕事と関係のある話だよね。
     ただの恋愛話じゃないみたいだよねっ。
     紘一と優姫さんて、会社がらみで婚約でもさせられそうな感じだったのかな…………。

     もう、なんで、私をこんな場所に連れてくるのよお~~~。


     沈黙が流れる中、紘一が口を開いた。
    「私は帰ります。皆さんで後は宜しく対処をお願いします。何か変更があるようでしたらまたご連絡ください」
     ほかの誰もが返事する間もないうちに、紘一はスタスタとシートを出て来た。
     そして当たり前のように私の右手を取って、もと来た道を帰っていく。



    「わけわかんないだろ、わかんなくていいから」
     歩きながら、紘一がボソリと言った。
    「じゃあ、どうしてあの場に私を連れて行ったの?」
    「それは……」
     一瞬、間があったので私は期待して紘一の言葉を待っていた。

    「溺れる者は藁をも掴むってヤツだな」
    「ええ?」
     意味がわからんぞっ!

     職場の人に呼ばれて焦って私の手を掴んじゃったってことかな。
     つまんないなー。私は藁だったのか。

    「でも、女の人は強いね」
     紘一が、自分を扱(こ)き下ろした優姫さんを褒めていた。
    「酔いが醒めた時、大変だろうけど」
     そう言って笑う紘一の横顔を見て、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。
     酷い事を言われても、どんなことがあっても、いつも動じない静かな人。


     体の中の血が全部、この人を好きだと言ってる気がした。
     心臓は、この人のために動いているような気がした。


    「おい、夏」
    「はい」
    「顔が真っ赤だけど倒れんなよ? 一旦座るか?」
    「……大丈夫」
    「酒はまだ飲んで無いよな。またいつものアレか?」


     私は、さっきの優姫さんが三島さんにべったり甘えていたシーンを想い出していた。

    (6)
     そのまま私と紘一は公園を回ったけれど、久芳兄弟プラス美羽ちゃんを見つけることができなかった。
    「どこいったんだ、あいつら。電話も出ないし」
     紘一は立ち止まり、時計を見ながら言った。
    「2時半だな、メシどうする? まだ食ってないだろ。俺は腹減って無いけど」
    「自分の分だけなら、帰って作ろうかな」
    「え、昨日火傷したくせに?」
    「……う、大丈夫だよ」
    「湯を沸かすだけで火傷したくせに?」
     あいかわらず淡々と質問を返すが内容はかなり辛辣。

     じゃあ帰るか、と紘一は言った。
    「これだけ探しても見つからないんだからしょうがない。帰ってさっさと寝たいし」
    「うん」
     頷きながら、私はぼんやりと、
    <部屋に二人きりの状態でも普通に寝れるんだなあ>
    と考えていた。


     帰宅して、リビングに敷いた自分の布団の上であぐらをかいていた紘一は、部屋に散らかったゴミを拾い集めていた私を目で追っていた。
    「掃除しなくていいよ。連がやるだろ、綺麗好きだし」
    「私だって掃除くらい……」
     ていうか、連は紘一の奥さん扱いなのね。

     紘一はふう、とため息をついた。
    「夏はマジで一週間ここにいるのか? 男2人の部屋に」

     私は拾い集めていたものを、ゆっくりと床に置いた。

     男2人の部屋というより、よく考えてみて! 今が二人っきりだという事実を!!
    「帰れないもん。中途半端で納得できないから」
    「『俺と付き合って下さい』以外の答えじゃ、帰る気ないだろ?」
    「う、……」
     うん、まあ。
     それが一番理想かなあ。

     ただ、説得力のある答えを出してくれたら『少し時間を置こう』でも、『もうほかに好きな子がいるから、ごめん』でも、納得できないわけじゃないよ。



    「じゃあ、はっきり言うけどさ」
     紘一は立ち上がり、私の傍へやってきた。思わず、その綺麗な顔を見上げる。
    「本社勤務が決まった時に、その勤務に関する条件が明示されてた。将来、五条商事をうちの傘下にするために婿養子に入ること……って」

     部屋の中は窓の外の光がカーテン越しに漏れ入って来る程度で、うっすら暗い。春の曇り空では、広いリビングを隅々まで照らすほどの明るさはなかったから。
     そんな部屋の中では、紘一の顔も少し寂し気に見える。

    「その頃、夏と付き合ってたけど、俺はその条件に反発はしなかった。今時、社命で人と付き合うなんて信じられないだろうけど、そういうこと考えるの、うちの上司は好きなんだよな。子供っぽいんだ」
    「あの、怒ってた人……」
    「そう、長谷部長ね。会長の孫娘だからやりたい放題さ」

     紘一がなぜか、必要以上に壁際の私に覆いかぶさるように近づいて来た。
    「今日の感じじゃ俺は優姫さんにフラれたみたいで、業務命令遂行できずって感じだな。まあ、俺も業務に嫌気がさしてたから、無意識に夏をあの場に連れて行ったのかもしれない」

     溺れる者は藁をも掴む。
     紘一は本社の仕事……優姫さんと付き合うことから逃れたくて、私の手を掴んだのかな。

    「とはいえ、支社でやってた仕事から解放されたくて、俺はそういう条件付きの本社勤務でも受け入れた。そんな男で、夏はいいのか? これから先も、仕事が1番で彼女の事は2番とか3番とかになる」


     だけどさあ……。
     昨日は連絡のつかない私を心配して探し回ってくれたでしょ? あれは、仕事を放りだして来てくれたんじゃなかったのかな。

     私を見つめる紘一の目に、なんとかわかってもらおうと訴えた。

    「何番でもいいよ。私は紘一のこと1番に考えてるから大丈夫……。我慢だって慣れてるし、っていうか全然平気だし、待ってることだって幸せでね……ほら、妄想癖あるから傍にいてくれなくても、紘一のことはいつも傍に……感じてて……私は……」

     最後まで言おうとしたけれど、勝手に涙が出てきて続けられなくなった。
     なんでだろ、あれ、なんで涙が出るのかな。
     何よりも紘一のことを失くしたくないって必死になってるだけなのに、泣いてしまったら逆効果。

     紘一の事を私は誰よりもわかってるの。すぐに泣くと嫌われてしまうことも知ってるの。
     ただ必死になればなるほど、紘一は私を嫌いになってしまうような不安がいっぱいで……。


     ぼやけた視界の中、紘一の手が近づいてくるのがわかった。

     彼の冷たい指はそっと、この頬にこぼれる涙をぬぐってくれた。

    第3話 恋

    (1)
    「夏、教えてといてやる」
     紘一が呟くように言う。

     頬の涙を拭っていた指は、そっと頬全体を包む掌へとかわり、みみたぶに触れる。
    「疲れてると、俺は気が短くなる」
     怒りを感じることのできない静かな声でそんな事を言われると、かなり怖い。
    「……? お、怒ったの? ご、ごめん……」

    「王子様がお好みかもしれないけど、童話の世界とか妄想の世界じゃなく、実物の俺の方を向けって言いたくなる。失礼過ぎるだろ」
    「そんな、ちゃんと見てるよ……」
     王子様っていうのは……それは『例え』みたいな、『具体例をあげると』みたいな、なんていうか、『イケメンの象徴』みたいな……『アイドル』的な意味合いなわけで……。

    「いつもなら放置してやってる所だが、今日はもう無理だな」

     紘一が「目を瞑れ」と言った。
     いつの間にか私の体は、すっぽりと紘一の腕の中に包み込まれていた。

    「俺は連みたいに寸止めはごめんだからな。嫌なら今すぐ拒否れよ」

     そんな事を低い声で呟く唇が、頬を撫で、どんどん私の唇の方へと伝ってゆく。

     あっ……。

     一瞬、唇の端に彼の唇を感じた、その時だった。


     カチャカチャ。
     という聴き慣れた小さな音がした。




     急に夢から覚めたように色んな情報が感じられた。
     まず、私の体を抱いていた紘一の腕が、スルリと消えた。
     掌も、息遣いも、引き剥がされるようにサッと消えた。

     目を開けると、少し離れた場所に紘一が立っていた。視線は玄関だ。鍵を開ける音がして、すぐにドアは開いた。
    「ただいまー」
     久芳連(くぼうれん)と兄の賢(けん)、そして上野美羽(うえのみわ)のご帰還だった。

     無言のまま、こちらを見ようともしないで立っている紘一。
     ズボンのポケットに手を突っ込んでいるその後ろ姿から、彼の表情は想像できない。

     唇が重なる0.5秒前で止められた私は、完全に脱力してその場にへたり込んでしまった。



     ドアが開くや否や、弾丸のように駆け抜ける声と姿。
    「夏っちゃ~~~~んっ。居る?? 聞いて聞いて聞いてっ!!!」
     紘一の目の前を通り過ぎて、私に飛びつく美羽ちゃんだった。

     白目を向いて力の入らない私のことなど気にも留めず、この体にしがみついて仔犬のようにキャンキャン飛び跳ねて感情を爆発させている。
    「ど、どうしたの?」
    「しおんくんが可愛くてえええ~~~~死にそう~~~~」
    「え? 何???」
     唖然とする私と怪訝な目で妹を見つめる紘一の傍に、ようやく久芳兄弟がやってきた。この状況の解説は彼らに託した方が良さそうだった。

    (2)
     賢さんが言う。
    「花見が退屈だっていうからさあ、駅前まで10分ほどだし、飯でも食いに行くつもりがね、美羽ちゃんがある店のことを思い出してねえ」
     彼は上着のポケットから名刺を取り出して、すっと私に差し出す。

     私はそれを見せてもらって店名を棒読みしてから驚いた。
    「輪舞曲(ロンド)2号店、…………ハ、ハムスターカフェ・ロンドって!!!」

     確かロンドはこの近辺ではなく私の会社のある駅の近くにあったわけで、つまり、そこから電車で1時間以上離れているこの街の駅前にもロンドが……2号店があったってこと??

     四宮現紀(しのみやげんき)に紹介してもらったハムスターカフェ・ロンドには、柳井まおりさんという、超可愛いハムスターがいたけれど、これは多分無関係ではないよねえ??


    「どうしてこの店に行ったんですか?」
     私の問いに、賢さんが、
    「美羽ちゃんの実家に、本店と2号店の案内状が来てたらしいんだ」
    と不可思議なことを言う。
    「それで行ってみたら完全紹介制のカフェらしくて、持ってた案内を見せたら、確かシノミヤさんからのご紹介ですね、とかなんとか言ってすんなり入らせてもらえて……」


     な、なんと!

     四宮、上野家の住所を調べてそこまでやってたのか!


    「そこにね、夏ちゃんっ。ハムスターの柳井しおんくんっていう子がいて~~。もう超かわいくって、年間契約してきたの~~~」
    「ね、年間契約ぅ??」


    「年間契約っていうのはね」
     傍で少しぼんやりしていた久芳連(くぼうれん)が、ようやく口を開いた。

    「しおんくんっていうのは、特別デリケートな、いわゆるレジェンドなハムスターらしくて、一般の人に売ることはできないんだけど、年間税込み15万8400円払えば、オーナーとして営業中はいつでも好きなだけ会うことができるんだって。つまり、そういう権利に対する支払い金なんだって」



     さ、さ、さ、詐欺臭くない?
     見に行くだけでお金取るの?



    「でも1000円のドリンクが毎回タダだから、毎日通えば全然高くないんだよね、これが」
     やはり虚ろな目をしたままの連は、そう説明する。

    「毎日通うの!!!」
     驚く私と同時に、美羽の兄である紘一も黙っていなかった。
    「美羽! おまえ大学出たあと就職もしないでブラブラしてるくせに、それ一体誰が支払うんだよ!」

     そんな兄を振り返り睨みつけた美羽ちゃんは、スッと右手を出して、なんと賢さんを指さしたのだった。

    「ええっ!」
     私も紘一も意外過ぎて言葉が出てこなかった。

    (3)
    「いや~~やっぱり可愛い子にねだられちゃ、男としてはねえ」
     賢さんの顔が雪崩を起こしている。
    「私のためならいくらでも出してくれるって言うからあ~~」
     美羽ちゃんも、どことなく顔が赤いじゃないか。

     えええ、これはもしかして、意外なカップル成立なの?
     お金とハムスターが結んだ縁なの??


     つか、四宮め、お金の事は何にも言わなかったぞ。
     あいつ、ロンド側と手を組んでカワイイカワイイ詐欺やってんじゃないでしょうねえ。
     警察(賢さん)に捕まっても私は知らない! 関係ないからね!


     それにしても気になるのは連の元気のなさ。

     どうしたのかな。

     もしかして、兄の賢さんに美羽ちゃんの気持ち持ってかれた(正確には賢さんとしおんくんにだけど)ことがショックだったりして。
     実はいやよいやよも好きのうちで、美羽ちゃんに気があったとか…………。


    「連、どうかしたの? 大丈夫?」
     私はテンションマックスの美羽ちゃんを引き剥がして、テンション常にマックスの賢さんに渡すと、連の傍に行き尋ねた。
     すると連は首を横に振った。
    「なんでもないよ」

     なんでもないって、一番あぶない答えだわ。
     心配だよ。
     なんといっても、いつも悩みを打ち明けて来た仲間じゃないの。


    「実は俺も……ぴおりさんと契約を……」


     ぴ……?!


    「柳井ぴおりさんと年間契約結んで来た」





     は、ハムスターとか好きだったっけ?
     そりゃ、可愛いけどもっ!
     その柳井ファミリー、どっかおかしいと思うんだけど、そこまでレジェンドなの? 何かドリンクに不審な薬物が混入されてんじゃないの? 大丈夫なの????

    「毎日、会いたいから……」
    「連……」


    「会いたいんだ、柳井まりさんに……」


     柳井まり……。
     柳井といえばハムスター……と間違えてはいけない。柳井まおりはハムスターの名前だけど、柳井まりは、人間だったはず。
     そう、あの胡散臭いカフェの、アニメ声で話す店員の名前だ!!

    (4)
    「柳井まりに会いたいって、連、それ……」
     呆然と問い返す私に、連はふにゃふにゃの笑顔を浮かべて言う。
    「実は、その……。ハムスターカフェにね、柳井まりっていう店員さんがいてね……」

     知ってる。
     そいつのことなら既に見てるよ!!
     一号店の店員のはずだけど、二号店にも顔を出すわけね?!

     彼女は体の全てのパーツがちっちゃくって、顔も声も人形みたいに可愛くて、その上接客業だから愛想は良いし頭の回転も速そうだった。おバカな笑顔で隙を見せてるのも、実は計算のうちって感じ。
     そんな、アイドルみたいな子に連が惚れるなんて、マサカのナナメ上をゆくマサカだよっ!
     これも四宮の策略のうちなのかな……。

     私はハッとしてキャンキャン状態の美羽ちゃんを振り返る。
     連のコトには全く関心が無い様子。
     それほどまでにハムスターマジックにやられたのか、それとも、もう賢さんがいるから連には興味がなくなってしまったのか。……顔が似ていて、同じ逞しさ、同じ優しさなら、経済力を持ってる方を選ぶって?? うそだよ~~信じたくないけど、分かる気もするーーー。

     それにしても、美羽ちゃんの躁状態と連のぼんやり状態……まるで地球外生命体にアブダクト(誘拐)された後のような異常状態(実際見たことないけど)……を放っておいていいのか……。
     いいと言えばいいのかな、美羽ちゃんはストーカー行為をこれ以上する気はなさそうだし……。
     …………このままでもいいはずなんだけど、なんかちょっと急展開でどうしていいかわかんない。
     紘一はどう思う? ねえ、コウイ……チ……。

     振り返って探す私の目に映ったのは、こともあろうにリビングの端に自分の布団を寄せて、アイマスクを付けゴロリと横になっている上野紘一の姿だった。
     そう、ごちゃごちゃワイワイを全く無視して、彼は寝ることができるらしい。
     オロオロしている私を気にかける様子はカケラもない。

     再び脱力……。


     とりあえず、話がアッチコッチに飛躍しそうなテンションの美羽ちゃんと賢さんには、これ以上付き合っていられないのでなんとかお帰り頂こう。
    『ほら見て、あそこにマイペースで寝ているこの部屋の主人がいるでしょう?』
     ……という視線を送り、お休みの邪魔になるから遠慮しなさいと念を送って追い出したのだった。

     勿論、美羽ちゃんは兄のことなどどうでもよかったに違いないけど、賢さんが帰るとなるとやはりついていった。
     なんと、玄関から出て行く時には、二人手をつないでいたじゃないの!!!!
     この数時間で驚くべき変わり身の早さだ。

     まあこの際美羽ちゃんの事は置いておいて、問題はこの腑抜けヅラした連だよ!

    「悪いことは言わないから、連、彼女は……」
     連みたいな良い人タイプは、スッカラカンになるまでイロンナモンを絞り取られて捨てられるのが目に見えてるしっ。

     私が連の腕を引っ張りながら、大きく首を左右に振っていると、彼は心細げに視線を漂わせた。
    「だめ? やっぱり高望み? 相手にしてもらえないのかなあ……」
    「えっ、あ、いや……」
    「でも、毎日通って顔覚えてもらって、じっくり時間かけて……」
    「………………あ、うん……」
    「なんとか一緒にお茶するくらいに、なれないもんかなあ……」
    「………………なれない……こともないかもしれないけど……」

     私はしどろもどろになって、うまく説得できなかった。
     それくらい、軽率なことを言えば簡単に傷ついてしまいそうな表情をしていた。

     連ったら……。惚れてるよ、ホンキで。

    (5)
     その夜は、リビングで独りぐーすか寝ている紘一を放置して、私専用に使わせてもらっている部屋で連と飲み続けた。

     思えば、過去、自分が恋に悩んで辛い時はいつもこうして連に付き合ってもらって飲み潰れるまで飲んだものだ。
    「夏のこともちゃんと好きだったんだよ、だったんだけどさぁー……まりさんを見た瞬間に、カミナリが落ちて来て……動けないくらいの衝撃でー……」
    「そう、カミナリがねえ……」

     缶ビールの空き缶が、5、10……。
     私も結構飲んではいるけど、連のピッチは相当速い。
     彼が浴びるように飲み続けて無意識に喋っている状態を見たのは初めてだった。
    「その、まりさんの、顔に惚れたワケ?」
     何を言われても、どんなに酒を呑んでも、連は顔色を変えない。ただ、視点が定まらず、返事には普段の彼の反応の3倍くらい時間がかかる。
     用心しながら連の顔を見て、彼のコンディションを伺ってみるが、どうやらこれ以上飲ませるのは危険な領域だろうと思う。
    「顔? ……顔は……」
     連は私の顔を見てゆっくりと首をひねる。
    「夏とそっくりだよね……」
    「いや、似てない似てない、全然似てない」
     やはり危ない。私は彼女のように派手ではない。
     彼女は、というと…………大きな大きな瞳にグリーンのカラコン、ぽってりした垂れ目にアイライン増し増しでパンダのような可愛らしさを持つ。そのくせ、ゆで卵のようにスベスベ白肌で小顔なのだ。
     四捨五入すれば三十になってしまう私とは……、疲れが顔に浮き出ている私とは……似ても似つかない。

    「まりさん……」
     連が私の顔を見て呟く。
    「……連、もうそろそろ寝ない? きっと夢でまりさんに会えるからさぁ……あ?」
    「まりさん、好きになってもいい?」
    「どうぞどうぞ、まりさん喜ぶと思うよお」
     目が虚ろな連に何か言っても通じているのか不安だった。
    「ありがとう、まりさん、この気持ちわかってくれたんだね」
    「え? うん、え? え? え?」


     ずで、という音と共に、私は連に押し倒された。
     私が手にしていた空き缶が吹っ飛んでカッツンと壁に当たって音をたてた。

     横たわる私に覆いかぶさって来る連は、私の顔を見ることもなくしっかり目を閉じて自分の世界に入っている。
    「連、私、夏だよっ、夏! まりさんじゃないって!!」
    「まりさん……夏?」
    「そう、夏! 重いっ、重いから、どきなさい!」
    「え、でもよくこういうの、今までもあったじゃん。この状態でもう戻れないよ、今夜はまりさんの代わりになってよ」

     えええええー!
     なんてことを言うんだ!
     好きで押し倒されるならまだしも(いや、よくないけど)、誰かの代わりで押し倒されるなんて許せん、アホかっ!
     アホか、アホか、アホかぁぁぁぁー!

    (6)
     アルコール臭い息が、一瞬鼻にかかったと思った次の瞬間には、連の唇が私の唇を塞いでいた。

     もがいて、両手で連の体を押し返そうとしたが、がっちり床に体を押さえつけられていて逃げ場がない。顔を左右に振ることでなんとかキスを躱す。
    「キスくらいいいじゃん」
     傍で連が言う。
     確かに、今まではなんとなく流されてキスくらいいいか、と思っていたけど、今は嫌。

     柳井まりさんの代わりに……、なんてフザケんなって!
     そしてそれ以上に、昼間の紘一とのことを思い出すから、体が自然に、完全に、絶対的に抵抗する。

     そりゃあ……。
     紘一は多分、私の事を愛しいと思ってキスしようとしてくれたわけじゃない。
     疲れに任せて、泣いてる女がめんどくさくなって、キスしたらおとなしくなるんじゃないか程度の気持ちだったかもしれない。
     それでも。

     それでも、私。

     嬉しかったんだよ。

     嬉しくて、紘一の気持ちが私に向くまで、いつまでも待つって決めたんだよーーーー!




     ペチ。

     そんなお餅をついたような音が響いた。

     私は無意識に、連の頬を叩いていた。
     頬を抑えて唖然として私を見つめる連と、初めて他人の顔面を叩いた手のひらの痺れに動揺する私。

    「……や、やめてよ」
     私の出した声は震えていた。
    「あ、うん。ごめん」
     連の声は小さかった。
     急に我に返ったような連に、私は何故か恐縮して慌てて言葉をつなぐ。
    「う、あの、こっちこそ、ごめん……。いつも自分の恋愛相談の時は親身になってもらってたのに、連の時にアドバイスとかうまくできなくて……」
     連は体を起こし、その場に座り込んで、ふうとため息をついた。
    「なんか、酔いが醒めた……」

     私は起きあがり、連の真向かいに座っていた。
     二人とも呆然としている時、部屋のドアノブがガチャと音を立てた。

     それは、繊細になっている私たちの心臓を見事に射抜いて、ビクッと体を強張らせた。


     ただ飲むだけでいかがわしい行為なんてする気がなかった私と連は、当然部屋の鍵なんてかけていない。
     そして、ドアノブを握っているのが紘一であるのは明白だ。

     彼が部屋に入って来て何を言うのか、その時の私は身を縮めて構えるしかなかった。

    第4話 彼の気持ち

    (1)
     ドアノブが音を立てて半回転した瞬間、そのまま派手に押し開けられるものだと覚悟していた。

     しかし、人が入って来るほどの勢いはなく、僅か数センチドアを動かされただけ。
     ドアに鍵がかかっていなかったことに、驚いたんだろうか。ためらっているような雰囲気が伝わってきた。

     そして、リビングの冷たい空気が、上気した私たちのいる室内の空気とするどく混じり合うのが感じられる。
     この沈黙をどうすればいいの。
     誰かが何か言ってよ、私が言うの? 今、私、声を出せる状態じゃないんだけどっ!!

    「夏」
     ようやく、ドア越しに紘一の声が聞えた。
    「は、はい、なに?」
     反射的に返答するが、声が上ずる。
     紘一の声はいつも通り、静かだった。

    「明日、ここを出てってくれ」



     えっ。


     あまりの言葉に、何も言えずに硬直してしまった。
     すると、私の代わりに連が慌てて「ちょっと待って」と取りなす。
    「入って来て。話そうよ。ちょっと散らかしたから片付けて……」
    「いい。言いたかったのは、このマンションで3人過ごすのは窮屈だから、夏に出てってもらいたいってことだけだ」
     取り付く島もない紘一は、それだけ言うとパタンとドアを閉めた。
     顔すら見せなかった。

     頭の中は真っ白だ。
     言われても当然かもしれない言葉だけど、反論させてくれない冷たい態度を見せつけられ、そこに猶予はないんだと知る。
     頭上には重い岩がガツンと載せられたままボケッとしている私とは違い、連は急いで立ちあがり部屋を出て行った。

     ドアの隙間から、リビングにいる二人の声が聞える。
    「ねえ、狭いってことなら、俺が出て行くから」
    「いや、夏には帰るマンションがあるし、職場だって待ってる。連は新たに引っ越し先を見つけなきゃならない。それなら出てくのは夏でよくないか?」
    「え、その、なんでそんな急に? ……夏は、サブロー……いや上野紘一のことは裏切ったりしてないんだよ? 悪いのは俺で、だから怒るなら俺に怒りをぶつけるのが筋だろ?」
     連の問いに、数秒、間が有ってから紘一の声がした。
    「裏切ってるかどうかを判断するのは、連じゃなく夏でもなく、俺だ」

     冷たく響いた声を聞いたとき、私は思った。
     紘一はどんな表情をしていたんだろう。
     連が何も言い返せないくらい、冷たい目をしていたのかな。

     しばらく沈黙が流れた後、紘一が声色になんの感情も混ぜずに言った。
    「いや……裏切りとか、そういう大袈裟な話じゃない。愉快か不愉快かで言うと不愉快ってコトだ」


    「不愉快なんだよ、夏の存在が」

    (2)
     わあああっと、私は声を上げて泣いた。
     それはリビングの二人にも聞こえただろう。
     連が呟いた。
    「口でどうこう言っても、本当は上野紘一(うえのこういち)は夏原夏(かはらなつ)のことを好きなんだと思ってたよ。夏だってそれを感じてたからこそ、今まで……」
     その呟きに対する紘一の答えは、簡単な言葉だった。
    「そうか。知らなかったな」


     何を知らないととぼけているのか、どこかチグハグな応え。
     前にも聞いたことのある言葉だ。
     あれは、紘一に『俺のどこが好きなんだ?』と訊かれ『全部』と答えた時のことだ。
    『それは知らなかったな』
     その一言で終わらされた。答えになって無い応え。


     連は居心地が悪かったのか、それとも紘一に呆れ果てたのか、
    「今夜は友達のとこに泊まるよ」
    と言い残して、部屋を出て行った。
     部屋を出る間際、彼は泣いている私のところに戻って来て言った。
    「帰ったらダメだよ。帰ったらそれで終わっちゃうよ」
     そして、頑張れと励ましの言葉を置いていった。


     泣きながら夜を明かした。
     眠りたくても涙が溢れて眠れなかった。
     幸せな妄想すら湧いてこない。
     だめだ、このままだと明日はヒドイ顔になる。わかっているのに、どうせ紘一に愛されない顔、愛されない存在なら、どんなだって構うもんかという投げやりな気持ちになった。

     めめしいなあ。一晩中泣くなんて。
     不愉快な存在だと彼の口から聴かされるほど、自分が彼のストレスの原因になっていたのだと思うと、泣いて汚くなっている自分を可哀そうだとは思えなかった。
     自業自得なのか。
     私のしてたことはやっぱりストーカーと同じだったんだ。

     

     朝方、一瞬だけ気を失うように眠った。
     体温を感じるほどリアリティのある夢が私を襲う。

     紘一に抱きしめられて眠っている。
     彼は甘い言葉は何も言ってくれず、ただ、私の首元に唇を押し付けて呼吸している。
     ああ、まるで赤ちゃんのよう。
     紘一に抱きしめられているのではなく、私が紘一を抱きしめている。

     もっと素直に感情を出していいのよ。
     泣いていいのよ、笑っていいのよ。
     私は、絶対に嫌いになったりしないから。

     心臓の音。

     呼吸の音。

     心の音。

     耳を澄ませて聴いているのに、紘一の気持ちは、私に向かって開いてはくれない。


     そして目を覚まして思い出す。
     私は出て行けと言われたんだったなあ……。

    (3)
     ぼんやりしていた朝の6時頃だった。
     小さく部屋のドアがノックされた。
     私は立ちあがり、鍵のかかっていないドアを開けると、そこにはスーツ姿の紘一が立っていた。
    「おはよう」
     私の顔を見た彼は、らしくなく一瞬視線を逸らした。
    「泣き過ぎだろ」
    「だって」
     私が俯くと、頭の上から彼の淡々とした声が聞えた。
    「荷物は後で運んでやるから、とりあえず……」
     紘一は腕時計を見てから「8時までに出られるように用意しろ」と告げた。

     非情な宣告だ。
     夢は夢、妄想は妄想。現実は……といえば、出勤時刻に間に合うように、邪魔な女を追い出そうとする男がいるだけだ。
    「わかった。すぐ用意する」


     そうして、私は紘一のマンションの前で彼が鍵をかけるのを見届けた後、
    「それじゃ」
    の一言で、彼と別れ自分のマンションに戻った。

     実際、紘一の部屋に突撃したのが月曜で、今日が水曜だから、たった二日間の滞在。二泊三日の小旅行じゃないの。
     紘一と一緒に住むとまで覚悟して、飛び出した自分の部屋に、こんなに早く戻るなんて予定外すぎて気が抜けるわ。


    『帰ったらダメだよ』と言ってくれた連だけど、帰って来てしまいましたよ。
     だって、紘一に逆らえるわけないんだから。
     ていうか、嫌われてるっていうことがショックで、なんとかして居座る方法を考える力も無くなっちゃったよ。
     好かれてないのかもしれないけど、『存在が不愉快』とまで言われるほど嫌われてたなんてさ。


     そして、翌日の木曜午後、大きな私の旅行鞄が宅配便で送られてきた。
     その荷物を見た時、私は本当に紘一に拒絶されたんだな、としみじみ実感した。せめて車を持ってるんだから、車で運んで紘一自身が持ってきてくれるとかあるかな、なんてことを心のどこかで期待していたんだけど、往生際が悪いってやつみたい。

     心配して連が電話してきてくれたけど、連は連で恋の悩みの真っ最中だから、あんまり頼るわけにはいかない。
    「大丈夫だよ~、新しい恋見つけるから! 結構私ってモテるんだよお~ん」
    『それはわかってるけど、うーんホントにコーイチのこと諦めちゃうの?』

     
     翌金曜日には、四宮現紀(しのみやげんき)が、来週からちゃんと出社できるのかと問い合わせの電話をよこしてきたので、ついでに事の顛末をぶっちゃけた。
    『結局、男友達が柳井まりに惚れちゃって、……って、障害サッパリ無くなっちゃったじゃないですか。好都合~。なんでそんな老け込んだ声でヘコんでんですか』
    「だって、存在が不愉快って……」
    『聞こえない聞こえない、努力不足ー。恋愛は食うか食われるか、勝ち取る勇気を持たないものには、決して手に入れられないモノなんすよ!』

     そんな紘一の冷たさを知らない四宮に言われたって、実感わかないよ。
     ……て、そう言えば四宮は一度、紘一に逢ってるんだなぁ……。

    (4)
     悶々としながら荒れた部屋の真ん中で、スマホだけをお腹に載せて、一日を過ごす日々。
     当然、期待しているのは紘一からの連絡。でも、そんなもんがあるものならば、こうして放り出されているはずがない。
     昔も今も変わらず、連絡するのは一方的に私からだけ。会ってくれるのも、彼の気が向いた時だけ。
     そしてもう、不愉快と言わしめたのだから、その気が向くことはなくなってしまったに等しい。

     土曜日、日曜日と過ぎて行き、とうとうこの最低な気分で、休暇明けの月曜の朝となった。
     しかもただの休暇じゃない。問題アリアリの、辞表叩きつけた後の出社であり、社内でその事件を知らぬ者はいないという状況だった。憂鬱以外の何物でもない……。

     ただ、社内の人は妙にみんな優しくて、同期も先輩も『今までゴメン』『冗談も度が過ぎたらダメだったよね』と、過去の些細なトラブルを詫びてくる。
    「なんか、夏原さんて何言っても許してくれそうな雰囲気持ってるからさー」
    「つい、言いすぎちゃうんだよねえ。メンタル強そうっていうか」
     などなどの言い訳も聴いた結果、社内で特に許せないヤツ、みたいな人がいなくなってしまった。

     あれだけ女の職場の意地悪がめんどくさーいと思っていたのは、ヘラヘラ対応していた私の方に問題があったのかもと思えた。
     そりゃ、誰に対しても適当に返事するやつなんて、心証悪いよね。
     相手と真面目に相対さなきゃいけない時もある。
     職場でフワフワしてた以前の自分には、もう戻らないようにしよう。うん。


     居場所があるっていいなあ。
     私は自分の席に座って、なんだかホッとしていた。
     安易にその場所を捨てて、不透明な未来しかない紘一の下へ走ったのは、馬鹿だったな。

     一度も求められていないのに、会いに行くなんて。
     強引に押し掛けて一緒に住むだなんて、紘一の身になって考えてみれば迷惑でしかない。
     嫌われに行ったようなもんだなあ。
     
     そんな事を考えていると、なんだかまたイジイジと泣けてきそうだったので、仕事に集中、と気合いを入れ直した。
     と、その時急に四宮が私を呼んだ。
     彼は会社の窓際の観葉植物の隣で手招きしている。
     意味が分からないまま四宮の傍までゆくと、腕時計を指さされた。
    「仕事熱心ですねえ、もう6時過ぎてるのに」
     言われて、あ、と思ったと同時に、私は四宮が背にしている硝子越しの外の景色に目が釘づけになった。

     かつて上野紘一が勤めていた支社の社員通用口が眼下に見える。
     見慣れた光景に、見慣れた影が二つ、通用口から出て来て駅へと向かってゆくところだった。
    「あ、あれは……」
     呟く私に四宮がニヤリと笑った。
    「あの手前の男が、前に、夏原夏の動向を探ってきたヤツ。『ちゃんと仕事してますか』って……。どう、あれが上野紘一(うえのこういち)でしょ?」

    「う、……うん」


     なんで、紘一が、今日支社に来てたんだろう。
     紘一の隣を並んで歩いているのは、三島光一(みしまこういち)だ。

    (5)
     四宮現紀(しのみやげんき)が、ほらほらと促す。
    「追いかけないと」
     いやいや、でも、今更どんな顔して会えばいいの。会った途端、嫌そうな顔をされるよ。絶対そうだよ。
     躊躇している私に、四宮がさらにけしかけた。
    「いいじゃん、偶然を装っちゃえば。隣に同僚もいるわけで、彼氏サンもそこまで露骨に嫌な態度はしないって」
    「で、でも……」
    「え、迷うの? 会いたいんじゃなかったの? ほんの何日かで諦めきれるモンなわけ?」
     諦めきれないよ、諦めきれないけど、諦めなきゃいけないっていうかああ……。
    「ほらもう角を曲がって姿見えなくなっちゃうけど、あああ、もう間に合わないかも……」

     私はええいっ!と自分を奮い立たせ、上着と鞄をひっつかんで、オフィスを出た。
    「お疲れさまー。タイムカードは押しとくから」
     背後で四宮の茶化す様な声が聞えて来た。


     どうしよう、超はや足で追いかけてみると案外簡単に追いついてしまった。
     そう、もう目の前に二人の男性の後ろ姿がある。
    「……おつかれさまです……」
     恐る恐る小さい声で呟いてみると、2人が気付いて立ち止まり、振り返った。
    「あ」
     二人そろって声に出し私を凝視するので、思わず俯いて小さく礼をして通り過ぎようとした。
    「お疲れさま。元気そうで何より」
     三島の声が追い越しざまの私にかけられたが、もう立ち止まったり会釈したりする余裕はなく、そのまま駅へと向かった。

     あー、結局なんだったんだか。
     話かけるとかできるわけないし、まだ心臓バクバク言ってるし。
     改札を通って少し歩いて立ち止まった。
     そっと後ろを振り返ると、すぐ後ろを例の二人が歩いていた! 跳び上がらんばかりに驚いて急いで走りだそうとする私の肩をむんずと捕まえられた。
    「そんなコソコソしなくても」
     その手はどうやら三島さんのものだったようで、柔らかい声を掛けられて、おもわず力が抜けてへたり込みそうになった。
     紘一は、紘一は……。
     虚ろなまま紘一の方に視線をやると、彼は足元をじっと見つめて顔を上げない。不機嫌さを押し殺したような感じが漂っている。
     そして、そのままの態度で顔も上げずにこう言った。
    「夏原さん残念だけど、三島さんにはもう会えないかもしれないよ。本社勤務になるんだって。五条商事に呼び戻されたらしい。全く会社は異動する方の苦労なんか考えて無いんだからな」
    「1週間で再度異動っていうより、前の異動の取り消しっていわれた方がわかるよねえ」
     紘一の不機嫌さをフォローするかのように、三島さんはにっこり笑っている。
    「そんなことより夏原さんには朗報です。上野紘一が支社に戻って来ますから」

     え、と声に出して聞き返したが、三島さんはニヤニヤと笑っているだけだった。

    「じゃ、自分は急いでるんでお先に失礼します。上野君、ちゃんと説明してあげた方がいいよ」
     終始ご機嫌な三島さんに比べると、未だに俯いて視線を上げない紘一に、私は何と声をかければよいのか本当に困った。

     嫌だった支社勤務から本社勤務になれるのならと無理難題も受け入れていたというだけに、元の支社に戻されるという人事は相当やり切れないに違いない。

     多分、五条商事が三島さんを選んだ結果の、特例の異動なんだろう。
     選ばれなかった紘一は、紘一にも問題があるわけで……。というか、あの花見の席で部長の元に私を連れて行ったことからして、五条優姫さんと付き合わないと宣言してるようなものだったわけだから、この人事異動もある意味納得している部分があるのかな?

    「夏」

     三島さんがいなくなると、紘一はふと私の手を取って言った。

    「ちょっと話しようか」

    (6)
    「俺が支社勤務になるのは、三島の代わりが見つかるまでの間だけだ。そういう条件でこっちへ戻された。長谷部長は俺の希望を無視できる立場にないんでね」
     上野紘一(うえのこういち)は駅のホームのベンチを見つけると座り、私の腕から手を離した。
     躊躇いながら、私はその隣に座る。
    「三カ月以内に本社勤務に戻すと約束させたから、今のところ本社近くのマンションから引っ越す予定はない」
     じゃあ、紘一はあのマンションからここまで通うことになってるんだ。
    「少しの間だけでも実家に住めば、支社は近いのに。でも身の回りの品を移動させるのは、確かにめんどくさいか。それに、連だっているしね……」
     私が言うと、紘一は首を横に振った。
    「連はもうあのマンションにはいない」
    「え?」
     初耳だった。そう言えば、ここ二三日は連とラインとかしてないな……。
    「好きな子ができたらしくて、その子と同棲してる」
    「えええっ!!」
     れ、連て、そんなに行動の早い男だったの!?
     じゃ何、私への好きは、やっぱりその程度の好きだったわけねっ! って怒っても仕方ないけど。
     まあ、連が幸せなら良かったよ。

     紘一が私を見ていた。その困惑したような表情が気になった。
    「ん、何?」
    「いや。笑ってるから」
     え??
     紘一は視線を前に戻してから言う。
    「連のこと、勿体ないと思わないのか。あんないいやついないぞ。せっかく何年も待っててくれたのに、ほかの女に取られて……しかも連の一目惚れだろ。ありえねーし」
     紘一の論理がよくわからなかった。
    「勿体ないとか思わないよ。友達じゃなくなったわけじゃないし。それに、一目惚れはありえないの?」
    「ありえないな」

     私が紘一に一目惚れをしたことも、ありえないことで、つまり、愛情を信じて無いってことだ。
     俺のどこが好き、の問いに、『見た目』だとか『全部』だとか言う言葉は、紘一にとっては全く響かない言葉だったわけだよね。なんとなくは気付いてたけど。
    「私が紘一を好きだったこと、まだ届いてなかったのかな」
    「いや、ちゃんと届いてる」
     紘一は即答した。

     なんか意地悪されてる気分だ。
     その後私はなんて言えばいいのよ。
     好きになってしまって、すみませんでした。これが正解かな。だって、迷惑だったんでしょ……?
     でも紘一は、私が拗ねた言葉を吐く前に、ブツブツと呟くような口調で途切れることなく話し続けた。

    「ネガティブな言葉をぶつけられることには慣れてて、どんなことを言われてもなんとも感じなかった。自分がそうじゃないという自信があったから。そして自分自身がネガティブだと感じることも無いと思っていた。それなのに、夏に対してなんとなく不愉快だという気持ちが、最初から最後まで抜けなかった。俺はずっと夏に対してネガティブな気持ちを持ち続けていた、ということだ……」

     紘一は何度ネガティブという言葉を口にしただろう。
     ちょっと待って。
     不愉快な存在だと言ったのは、あの時だけじゃなくて、付き合い始めた頃からずっとそう思ってたってことなの?!

    (7)
    「ずっと、ずっと最初からそう思ってたの? 私のことを不愉快なヤツだって……」
     紘一は前を向いたまま、こくりと頷いた。
    「悪かったと思う」

     衝撃的すぎて、言葉にならなかった。
     じゃあどうして付き合ってたのよっ! 
    「付き合いながら……ずっとイライラしてたとか……?」
    「そう」
    「そうって……!」


     紘一は押し黙った。反省の態度なのかもしれないが、こっちからフォローしてやる言葉は見つからない。
    「嫌いなら、突き放してくれたらよかったのに、ひどいよ!」
    「嫌いじゃ……なかった。不愉快だったんだ」
    「それ意味同じでしょ!」
    「違う」

    「チガウ……?」
     いやいや、いつまで続けるの、このよくわからない残酷な告白を。
     紘一の横顔は、いつも通りの冷めた表情を浮かべていた。
    「不愉快っていう感情を自分なりに分析したら、最近、正しい答えに辿り着いた」

    「答えってなんですか」
     半分喧嘩を買ってる気分で言い返した。
     すると、紘一は苦い顔をして答えた。
    「不愉快っていうのは、よく考えた結果、不安と同じだとわかった」
    「不安……?」

     紘一は視線を下げていたが、やっと私の方に顔を向けた。
    「一から百まで、夏のすることが不安だった。ずっと俺がついてないと何するかわからなくて、誰についてくかわからなくて、誰かに何かされそうな気がして、……安心できなかった」
     それは、つまり……。
    「フワフワして、純粋で、俺の一言一句に動揺して……。そんな人間には免疫がないし、責任持てないし……でも突き放せなくて、……イライラ」
    「……イライラ……」

     私はがっくりとうなだれた。
     なんとなく紘一の言いたいことがわかってしまったからだ。
     私って頼りなさすぎて人を不安にさせる所があるんだわ。
     確かに連にもあぶなっかしいと言われてたし。

     それが、対人関係に難の無い人なら簡単に注意することで不安は解消できたでしょうに、この上野紘一というヒトは相手に対する感情すらはっきり掴めずにイライラしていたというわけ。

     悔しいけど納得。
     でも、それが理由なら、なんとか活路を見出すことができる! ここは、もっと話を単純化するべきなのよ。

    「不安ってことは心配だったんでしょ?」
    「ああ」
    「じゃあ、それは私のことが『好き』だか……」
    「だから、連みたいないいヤツが夏の傍についててくれたら、俺は安心できるのにってずっと思ってて……」
    「え」
    「今からでも遅くないから、連に匹敵するくらいのいい男を探してくれ」
    「えええっ!」
    「それしか手段が無い。俺が安心するために。頼む」
    「頼まないで頼まないで、自分で処理してよおっ!!」

    (8)
     私の叫びも空しく、上野紘一は晴れ晴れとした顔で立ちあがった。
    「よかった。ようやく整理できた気持ちだから、ちゃんと伝えておかないとな」
    「ちょ、ちょ、ちょ、……」
     ちょっと待って、勝手に解決しないでーーーっ。
    「俺は上りのホームだから、夏とは逆だな。それじゃ、元気で」
     そんなことを言って、紘一はホームから地下通路へと降りて、姿を消してしまった。

     こんなことって、こんなことってあるぅ??
     思わずあっけにとられていたが、だんだんじんわりと悲しみがやってきた。
     紘一は最初から私のことなんか女として見てなかったってことなんだ。あぶなっかしい子のおもりをしている気分で付き合って、それでイライラして、心配させやがってーーみたいな感じだった……のかな?
     もう、どうでもいいけど、情けなさ過ぎるーー。

     ほんとに、紘一のどこが良かったんだろ、もうわけわかんないよお。
     それでも、憎めないっていうか、まだ好きでいる自分が……ほんと愛おしい。
    『ばっかだな、今までのはぜーんぶウソ。夏の気を引く作戦に決まってるだろ』
    『そうなの? やっぱりそうだよね。私、それほどヒドイ子じゃないでしょ? かわいいでしょ? あ、自分で言うのナシか』
    『いいよ、夏は自分で言っても誰も怒らないくらい、可愛くてエロくていい女だと思うし、俺は絶対誰にも譲らない』
    『うんっ、紘一だけのエロ可愛い子になる!』
    「夏、こっち向け」
     そして紘一が私の髪を掻き上げて背中のファスナーをスーッと下ろす。
    『夏、おまえは俺だけの女だからな。 ……危ないって」
     素肌に何も付けていない私の姿を見て、紘一は冷静でいられなくなって、私をぎゅううっと抱きしめる。
    「なにやってんだよ。頼むからこれ以上俺を困らせないでくれ」
    『好きなの、全部受け止めてほしいのっ!』
    『わかってる。 夏……いい加減にしろ」
     強引に抱き寄せられて、私は閉じていた目を開いた。

     パシ。

     私をしっかりと抱きしめて顔を突き合わせている紘一に、頭のてっぺんを平手で叩かれた。
    「紘一……」
    「危ないってんだろーが」
     紘一らしからぬ怒りモードに、さっきまで見ていた夢のような世界が瞬時に消えうせた。



     私はホームの端ギリギリに立っていた。
     もう少しで線路へ落下……。

    「もう、ほんっとに……ちょっと目を離すとコレか!」
     唾がかかるほど顔面を近づけられて、紘一に怒鳴られた。
    「妄想禁止だ、いいか、妄想は現実逃避だ。現実でいい男を捕まえたらそれで解決す……」

     私は紘一の言葉を最後まで聴かず、しっかりと彼の体に抱き着いて、その胸に顔を埋めた。
     もう化粧で彼の服を汚そうが気にせずに言葉を発した。
    「紘一以外、無理!!!」

    「絶対離れない!」

    「…………」

     紘一が何も言わないまま数秒が過ぎた。
     私は恐る恐る顔を上げ、上目遣いで彼を見る。下から見上げているせいか、非情な笑みを浮かべているように見える。
     いや、やっぱり見間違いではなさそうだった。

    「じゃあ訊くが、妄想せずに現実を直視して俺と付き合えるのか」
    「直視できる!……けど……」
     けどけど、それって冷たい紘一を肯定しろってこと?
     放置され放題なんじゃないの??
     付き合っても付き合わなくても、大して違いが無いってことじゃないかあ……。

     紘一は静かに笑う。
    「夏の我慢強い所は結構気に入ってる」
    「そ、そんなあ!」
     紘一にしがみついていた手の力が抜けて、私はホームにくずおれた。

     やっぱり紘一の口から優しい言葉は出てこない。
     線路に落ちそうになった私を助けてくれたということは、心配して様子を見ていてくれたんだと思うんだけど……。
     心配でイライラするって、好きってことじゃないの?
     素直に言ってよ!
     ……て、紘一には無理な要求か……。



    「仕方ないな」


    「妄想しないよう、しばらく傍で様子を見てやるしかない……かな」



     遙か頭上で紘一が何か呟いていたが、
     絶望の泥沼にはまっていた私には、よく聞こえていなかった。



    <END> (修正・改稿:2022年11月13日)

    目次

    • part 1 : Look at me!
      第1話 私の彼は(#1~6)
      第2話 俺の彼女は(#1~6)
      第3話 彼のセリフ(#1~6)
      第4話 彼女の妄想(#1~6)

    • part 2 : I miss you...
      第1話 彼の行方は(#1~6)
      第2話 私の彼女は(#1~8)
      第3話 彼女の彼は(#1~6)
      第4話 俺の周りの人間は(#1~8)

    • part 3 : I need you!
      第1話 四月は始まった(#1~6)
      第2話 遊園地へGO!(#1~6)
      第3話 六人の思惑(#1~6)
      第4話 痛み止めのキス(#1~6)

    • part 4 : I'll hold you!
      第1話 ホンモノは誰だ(#1~6)
      第2話 君を想うゆゑに(#1~6)
      第3話 恋(#1~6)
      第4話 彼の気持ち(#1~8)

    • 番外編
      バレンタイン・トラップ(#1~7)

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