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    M of L 2

    なんとか交際を続けることになった夏原夏(かはらなつ)と上野紘一(うえのこういち)。しかし、どうもいちゃラブ展開には程遠い毎日。そんな時、新たな不安材料が二人を襲う。そして幸せになっているはずの久芳連(くぼうれん)は……。偏見とハラスメントに満ちた世界の中で今日も精一杯恋をする、大人っぽさゼロの凸凹ラブコメ。
    キーワード : 社会人、異性愛者視点、夢見娘、ドS系変人、オアシスボーイ、R15
    ※ モラハラ・セクハラ・パワハラなどかなりの偏見とハラスメントを抱えるキャラたちの話なので、その辺りに厳しい方はお読みにならないことをお勧めします。
    ※ 1話(6~8節)につき15000~20000字程度
    ※ 『M of L』未読の方は内容が分かりづらいと思いますので、先に完結している『M of L』の方をお読みください。

    第1話 気になる人

    (1)
     ほんの少しだけ夏原夏(かはらなつ)とサブローこと上野紘一(うえのこういち)のいない毎日に慣れ始めたというのに、日曜日、こんなファミレスで出会ってしまうなんて。俺久芳連(くぼうれん)は運が悪い。
     しかもこっそり店から出てしまえば夏に気付かれることもなかったのに、自分から彼女の前に出てしまった。
     困っている夏たちを放っておけなかったんだ。

     夏と四宮という後輩くんと三人で話をしたけど、なんだか圧倒されたな。
     夏はただただ俺のことを心配してくれてたんだと思う。
     でも四宮くんは、強引な論調で ”夏原夏の幸福論” を展開していた。当の夏には全く相手にされてなかったけど。

     夏とは付き合いが長いから、彼女がコーイチという男にどれくらい恋してそして苦悩して来たか知ってる。
     それを知っていても愚かな俺は夏を目の前にすると高まる想いを抑えきれなくなる。だから死ぬ気でフェードアウトしたのに、こんな場所で、まだ夏が好きだと白状させられるのは本当に辛かった。
     夏に申し訳ない、サブローに申し訳ない、そんな気持ちであふれかえっていた。

     だから四宮くんの『あなたが夏原さんと付き合えばいい』的な提案は呑めない。
     そして勿論、彼が夏を自分の彼女にするという案にも賛成できない。
     俺は夏とサブローのことを大切な親友だと思ってるから、その二人が傷つくことはしたくない。でも四宮くんの言いたい事もわかるんだ。

     俺にできることは何なんだろ。

     四宮くんをフォローすることから始めるのが良さそうかな。
     夏とサブローの邪魔をさせないように見張ると言うと聞こえは悪いけど、彼が隠している失恋の痛みを埋めるようなことができたら考えを変えてくれるかも。
     できるなら四宮くんに新たな出逢いを見つけてあげられたらいいんだけどな。

     夏と四宮くんと俺の三人はファミレスで別れた。
     後日また会う事を前提に、しっかりと連絡先を交換して。


     翌日の月曜日。
     サブローが支社勤務になって一週間が過ぎた。本社で会うことは多分しばらく無い。彼に大嘘をついてた俺は少しホッとしていたけど、その一方で顔が見れない寂しさも募ってた。

     よく一緒にテニスしたり服を買いに出かけたりゲームをしたり、二人で行動することが多かった。
     多分サブローは俺以外の友人はいなかったように思う。
     誰か別の人間がいると極端に喋らなくなる。
     あんなに見た目が良くて頭も良くて仕事もできるのに、他人に心を許すことは難易度が高かったみたい。
     そう言えば、以前サブローが話してた。
    『俺はわざとじゃないが、知らぬ間に相手の欠点を口にしてしまうみたいで、フツーに話していて人に好かれることはほぼ無いな』
    『でも、彼女いるんでしょ?』
     その時、俺はサブローの彼女が夏原夏だと知らなかったけど、恋人がいるらしいとは聞いてた。
    『その子と初めて会った時、俺は殆ど喋ってない』
    『てことは、一目惚れってヤツ? どっち? どっちが惚れたの?』
    『さぁ、忘れた』
     サブローにはその時うやむやにされたけど、長い付き合いの夏からはコーイチという男に一目惚れした時の話を嫌と言うほど聞かされてた。後になってその話がシンクロして、絶望的な気持ちになったんだったな。

     サブロー……いや上野紘一を、多分一番深く理解している女性は夏原夏ただ一人。
     彼は夏じゃないとダメなんだ。
     だから俺は諦めたんだよ。
     友情も、恋愛も。


    (2)
     俺久芳連(くぼうれん)はセキュリティ会社に勤務してる。派遣されていて、毎日サブローの会社の本社の片隅で仕事をしてるんだ。
     主にビル全体の不法侵入なんかを取り締まってる警備チームに所属してるから、社員さんたちからは当たり前のように警備員さんと呼ばれる。名前で呼ばれることなんてめったにない。
     ここは大きな会社だけあって、働いている人たちの服装も高級感に溢れてる。そんな中、ダサい作業服で勤務してる俺たちは、きっと彼らの視界にまともに入ることはないんだろうな。

     俺なんかとまともに付き合ってくれてたのはサブローくらいのもんだよ。
     そのサブローがいなくなった最近は、自分の会社の同じ作業着を着ている人間以外の人とは話す機会なんて無くなってた。

     だからその日は何か不思議な感覚に陥った。
     夏とサブローと四宮くんの事で頭が占領されてた火曜の昼休みのこと。

     休憩中をアピールするために作業着の上にジャケットをひっかけてビルのエントランスを横切った時、受付係に呼び止められた。
    「あの、すみません」
    「はい?」
     仕方なく受付に立ち寄った。
     いつもは三人の女子社員が並んで客の応対をしていたはずだけど、今日は二人しかいなかった。
    「警備の方ですよね、実はお願いがあるんです」
     手の空いている人がコソコソと小声で俺に話しかける。
    「さっきまでここにいた子が体調が悪いからとお手洗いに行ったんですけど、なかなか帰って来ないので心配なんです。警備員さんなら女子トイレにも入れますよね、ちょっと様子を見て来てくれませんか」
    「……いいですけど」
     半分袖を通しかけていたジャケットを脱ぎ、どうして社内の人間に頼まないんだろうと不思議に思ってた。
    「ちょっとこれ預っといてください」
     女子トイレに入るんなら制服でいかなきゃ。
    「うちの社内の人間に見つかると勝手な休憩だとか言われるんです。特にHRSには勘付かれたくないので、慎重にお願いします」
    「……はい、わかりました」
     なるほどなぁ、HR特別部のエグさはこの会社に居れば自然と耳に入る。
    「それじゃ、探す人のお名前を聞いてもいいですか」
    「佐藤といいます。佐藤瑠雨(さとうるう)です。受付の制服を着ているのでわかると思います」


     エントランスから一番近いトイレは来客が使用することが多いから、多分二階に行ったに違いないとその受付の女子社員が言った。
     二階には二か所あるからそのどちらかだろう。
     一つ目のトイレには誰もいなかった。二つ目に入ろうとすると、手洗い台のすぐ傍でしゃがみ込んでいる人を見つけた。
     恐る恐る近づいて、その制服が受付のものだとわかり声をかけた。
    「あの、佐藤瑠雨さん?」
     その人は顔を上げたが何も言わず、じっとこちらを見てた。顔色はあまりよくない。でも、苦痛に喘いでいるような切迫感はなかった。
    「大丈夫?」
     とりあえず、何か喋ってほしい。
    「はい」
     溜息のような返答だった。
    「医務室へ行こう」
    「いえ……」
     手を差し出したけど、彼女はそれを避けるようにしてフラフラと立ちあがる。
     でも下半身に力が入らないのかすぐによろけて倒れそうになった。
     思わず腕で支えると、彼女は自分で立つことができずに寄りかかるように俺に体を預けてきた。そして細い体を震わせて声も無く泣き出したんだ。


    (3)
     佐藤瑠雨(さとうるう)さん自身は拒んでたけど、トイレでまともに立てず泣いてる人をそのままにしておけるはずないよ。だから医務室へと連れて行った。HR特別部に見つかった時サボリだと言わせないためにも、連れていける場所はそこしかなかった。
     産業医の女性が一人いたから、その人に佐藤さんを預けて俺久芳連(くぼうれん)は受付に戻った。
     受付の人に状況を説明して、上着を返してもらい休憩に入った。

     近くのバーガーショップでテイクアウトして職場に戻ったけど、頭の中にはさっきの佐藤さんの様子が繰り返し再生されてた。
     医務室へ行く途中の彼女は、溜息と嗚咽の合間に「ごめんなさい」と謝ったり「もういや」と嘆いたり、ずっと不安定な様子だった。
     体調も悪いんだろうけど、どちらかと言うと心が疲れているように見えた。


     その日、早番だった俺は五時に勤務を終え、エントランスに出た。
     この会社の就業時間は九時から五時までだから、受付も五時に業務を終える。その受付をチラと見たけど、佐藤瑠雨さんらしき人は復帰していなかった。当然か、しんどそうだったもんな。
     なんとなく受付に近づいた。
     佐藤さんのことを俺に依頼した女子社員がその場を去ろうとしていた。
    「あの」
     彼女を呼び止めて「佐藤さん、具合どうだったんですか」と尋ねた。すると彼女は驚いた顔で俺をマジマジと見た。
    「え! あー! 警備員さんでしたか。私服だったので全然誰だかわかりませんでした!」
     ははは。そうだろうね。
    「かっこいい女子かと思っちゃいました!」
     ちょっと顔を赤くして彼女は言う。
     うん、まぁ、そう思われることも多いよ。
    「で、佐藤さんは……?」
    「あぁ、あの子どうなんでしょうね、わからないです。医務室からは何の連絡もないので……多分、気分がよくなったら帰ると思います」
    「そうなんだ……」
     この人、医務室まで様子を見に行くとかしないのかな。そう思っていると、相手は溜息をつきながら言った。
    「佐藤さん、何回か気分悪くなったりしてるけど、私たちには特に何か言ってくることはなかったし、今日も帰っちゃうと思いますよ。周りの心配とかあんまり通じて無いっぽいっていうか」
    「そう……」
     そんな風に軽く言えるのは、佐藤さんの涙を見てないからじゃないのかなと思った。

     受付の人達はそそくさとビル内に消えて行き、俺一人受付の手前で立ち止まっていた。
     エレベーターからはスーツ姿の社員たちが次から次へとエントランスにあふれ出て、出入り口のドアからバラバラと帰っていった。

     なんとなく受付の台にもたれかかり、その人波を眺めていた。
     もし自分が心の不調を抱えていたら、この人波の中をスイスイ泳いで帰ることはないだろうな。多分、ピークが過ぎた三十分から一時間後、人影がまばらになるのを見計らって帰ろうとする。
     休んでいたことをあれこれ言われると困るから、人目に付かないように気配を消して。

     受付から少し離れた所に長い椅子があって、そこで自販機のコーヒーを飲みながら時間をつぶした。
     スーツ姿でもない、Tシャツにジャケットとパンツのラフな格好の人間が座ってても、時間外だとあまり誰も気にしない。警備チームの仲間に見つかって、なにやってんだと不思議がられた程度。

     ちょうど六時になった頃、女性が一人出口に向かって行く後ろ姿を見つけた。
     受付の服を着ているわけじゃない。普通の白いスーツにベージュのカバンと靴。それでも足取りの重さから、その人が佐藤さんじゃないかと感じたんだ。
    「あの」
     意を決して駆け寄り呼び止めた。
     その人はビクッとして動きを止めた後、顔だけで振り返った。

    「おどかしてごめんね」
     俺が謝った相手は緊張気味に会釈した。
     正解だった。佐藤瑠雨さんだ。


    (4)
     その人は俺の顔を見てぎこちない笑顔を見せた。
    「お昼休憩の時はありがとうございました」
     おー感動、顔を覚えてくれていたみたいだ。
    「もう大丈夫なの?」
     聞くと、彼女は小さく二度頷いた。
    「よかったね。でも心配だから一緒に帰るよ」
    「え?」
    「だって歩き方見てると、なんか倒れそうでさぁ」
     彼女が驚いているのを横目に、隣に並んで彼女を促し歩き出した。

     建物から出てバス停へ向かう道をゆっくり歩いていると、佐藤瑠雨(さとうるう)さんが小さな声で尋ねてきた。
    「もしかして……待っててくれた……とか?」
    「うーん、ヒマだっただけ」
     こっちが笑うと彼女も少し明るい顔になった。
     それから、バス停に着くまで何も話をしなかった。
     十分間、ただ並んで歩いていた。

    「それじゃ、気を付けてね」
     駅行きの停留所の前で、軽く手を振って彼女を見送った。
    「え……バスに乗らないの?」
    「うん、こっちなんだ」
     俺が後方を指さすと、彼女は驚き慌てていた。
    「私のためだけに、ここまでついて来てくれたの? うそ、ごめんなさい」
    「気にしないで。それじゃ」
     両手をポケットにつっこみ一歩ずつ後ずさって、元来た道を帰ろうと踵を返した時、佐藤さんの声がした。
    「待って」
     トン、と腕に軽い接触があった。彼女に引き留められていた。
    「名前、聞いても?」
    「え、俺?……ただの警備員だよ」
    「ちがう」
     彼女は首を横に振る。
    「私にとっては、ちがう」

     もう空は暗かった。
     街灯に照らされた彼女の頬のラインが綺麗で、思わずみとれてしまった。
     髪は束ねられ横に流されて、肌の美しさや長いまつげが俺の顔に近づけられた。
    「何もきかずに傍で寄り添ってくれた人は、初めてだから」

     黒く大きな瞳に見つめられて、戸惑った。
    「名前くらい、聞いてもいいでしょ?」
    「あ……え、と」
     ただ名前を聞かれただけなのに、なにかよくわからないためらいがあった。
     俺はふと我に返り、カバンから名刺を取りだした。
     相手は社員さんであって、得意先のようなものだったのを忘れてた。
     名刺を彼女に差し出すと黙って一礼してその場を離れた。


     今住まわせてもらってる友人の部屋は、実はサブローのマンションから近い。つまり本社ビルからそう遠くない。バス停や駅とは反対方向。
     バス停に着くまで彼女を見送ったのは単純に心配だったからであって、そこには見返りを求める気持ちも妙な下心もなかった。でも彼女の表情や反応を見て、出過ぎたことをしたんだと自己嫌悪に陥った。
     速足で帰途に就く。
     胸がざわざわしていた。


    (5)
     その帰り道の途中でスマートフォンの通知音が聞えた。
     確かめてみると夏原夏(かはらなつ)からメッセージが届いていた。

    <紘一からお昼にメールが来て 今夜うちに来るって言われた>
    <よくわからないけど 一旦マンションに戻って荷物を取って来るとか言う>
    <それって うちにしばらく住むってことだよね?>
    <なんで? なんで急にそうなるの?>

     いや、そんなこと聞かれてもわかんないよ。

    <それでね そのことが四宮くんにバレちゃって>
    <なんかヘンな感じなの こわいよ たすけて>

     なんで四宮現紀(しのみやげんき)くんにバレるのさ。
     夏……ホントに脇が甘いっていうか、衝撃でボーゼンとなっちゃって口滑らせたって感じかな。困ったな。
     彼が上野紘一(うえのこういち)っていう人間に反感持ってるの知ってるでしょ。一番言っちゃいけない相手だよ。
    <四宮くんはどうしてるの?>
     そう尋ねてみると、
    <それが 今電車の中なんだけど 部屋までついていくって言ってきかない>
    との返事。
    <マジで?>
     これはサブローと直接対決するつもり? そこまで夏のことを好き……だとも思えないけど……。しいて言うなら正義感?かな。

    <わかった 今から行く>
     これは夏一人でどうにかできるとは思えない。
     六時二十分。
     サブローはマンションに一旦戻って荷物を持って夏の部屋に行くらしいけど、どれくらいかかるんだろう。
     俺が今からバスと電車を乗り継いで夏の部屋に行くとなると一時間半以上かかるから、着くのは八時……。

     ちょっと待てよ。
     夏のマンションに俺がいたら、余計話がややこしくならないかな?
     サブローより早く夏の部屋に着いて、四宮くんを帰して自分も撤退できたら万事オッケーなんだけど、俺と四宮くんがもめてる所にサブローがやって来たら最悪じゃない?

     ……それに四宮くん、サブローが来るまでどうしてる? マンションの入口とかで仁王立ち?
     ちょっとした不審者だよ。途中で冷静になって、迎え撃つのを諦めてくれたらいいんだけど。

    <一応言っとくけど 四宮くんを部屋に入れちゃだめだよ>
     当たり前なんだけど、ちゃんと釘さしとかないと夏は安易に招き入れちゃうかもしれない人だから。
    <了解>
     ホントにわかったのか心配だなぁ。

    <もう一回言うけど>
     俺は夏に再度メッセージを送った。
    <絶対に四宮くんを 部屋に入れないで トラブルの元!>
     夏から返事はなかった。
     既読にすらならなかった。
     きっと電車を降りて歩き出し、傍に四宮くんの目があるからスマホを見れないって感じ?


     俺は考えられる最善の道を選ぶことにした。
     夏とサブローのために取れる最善の道を。


    (6)
     俺久芳連(くぼうれん)は、サブローこと上野紘一(うえのこういち)のマンションの部屋に向かうことにした。彼が夏原夏(かはらなつ)の所へ出かける前に捕まえるんだ。
     俺の嘘を詫びて正直な気持ちを伝えてから、どんなことがあっても彼女の気持ちを信じてあげて欲しいと言うつもり。

     そしてサブローと一緒に夏の部屋に向かい、着いたら四宮くんを引きつれて退散する。
     サブローは不愉快に思うよね、きっと。不信感が募るかもしれない。
     でも、そこを乗り越えて夏を守っていってもらわないと、これからも夏は問題を起こさないとは限らない。ふわふわしてるし天然だし、実際モテるのが夏って子なんだから。

     サブローに知られないように夏の部屋に行って四宮くんを説き伏せるってことは、サブローを騙し続けることになる。
     四宮くんのような考えの人が夏の身近にいることをサブローは知るべきなんだ。俺の気持ちも知った上で夏の彼氏は自分しかいないと自覚してほしい。
     それができて初めて、俺とサブローは友情を取り戻せるし、俺自身も前に進めるんだ。

     夏の部屋にしばらく居るつもりのサブローは、きっと自分の気持ちにも気付いてるはず。
     もう俺に夏を任せるなんてことは言わせない。


     そんなことを考えながら、サブローのマンションに向かっていた時、後ろから人の気配がした。
     走って来る足音がして「久芳さん」と呼ばれた気がして振り返った。
     はぁはぁと息を切らして速足の俺を呼び止めたのは、さっき別れたばかりの佐藤瑠雨(さとうるう)さんだった。
    「佐藤さん……」
     驚く俺の目の前で立ち止まり、しんどそうに眉根を寄せ、肩で息をする佐藤さん。
    「あのね」
     彼女は呼吸を整え途切れ途切れに話す。
    「ちょっとだけ……お茶しませんか」
    「え?」
     言われた俺はボーゼンだった。
    「久芳さんは……社内の人じゃないし……話を聞いてもらえたら……うれしい」
     体調が悪いのに、走って来るなんて大丈夫なのかなとそればかり気になった。
    「あ、あぁ……」
     そう答えると、佐藤さんはイエスと取ったのか、すごく嬉しそうに微笑んだ。
     えくぼができる可愛らしい笑顔に、なんだかちょっとだけ俺も嬉しくなった。元気になってくれるなら、いくらでも話を聞く。俺なんかでいいなら。

     そう思ったが、時計を見て慌てた。
     六時半。
     サブロー……もう帰宅してるかもしれないんだった。五時で退社してるとすると、既に一時間半過ぎてるし、部屋で荷物をまとめるのもそんなにかからないだろう。だめじゃん、お茶なんかしてる時間ないよ……。

    「ごめん」
     俺は申し訳なくて思わず目を瞑った。
    「今さっき、緊急の用事ができちゃって……」
    「そう……なんだ」
    「でも、でも、明日なら大丈夫……、って、明日でもいい……?」
     恐る恐る尋ねると、佐藤さんはコクリと頷いた。
    「明日でもいいけど、それなら、……名刺じゃなくて久芳さんの連絡先、教えてくれるのかな……」
     名刺なんかを渡してしまったせいで、彼女を拒絶してるように取られたのかもしれなかった。それで慌てて……? そんな意味じゃなかったのに。ただ、イチ警備員が個人的に繋がりを持つのはおこがましいというか、それほどのことをしたとは考えて無かっただけで。

     連絡先を交換して、俺はダッシュでサブローのマンションに向かった。
     体調悪いのにわざわざ俺を追いかけてきてくれた佐藤さんをその場に残して。


    第2話 最良の選択

    (1)
     ハッと目が覚めた。
     俺上野紘一(うえのこういち)は反射的に体を起こして、自分の体にかけられた布団を跳ね飛ばしていた。
     ベッドの上、俺のすぐ傍には木村奏翔(きむらかなと)が……。
     布団を剥ぎ取られた形となった木村は、驚いて目を覚ます。
    「あ、上野さん、起きたんですね」
     カーテンで外の明かりを遮断しているベッドルームは暗くて、朝なのか夜なのかわからず腕時計を見た。が、俺の腕にあるはずのモノがない。
     いや、それよりも布団を飛ばした後の肌寒さに気付き始めた。
     何も着ていない。パンツ一枚という状態。

     隣の木村は普通にパジャマを着ていた。
     どうなってるんだ。
    「何時だ……」
     慌てて辺りを見回し時計を探すと、ベッド脇の棚にあったデジタル時計の文字がうっすら読み取れた。
    「7時……」
     時間を理解しようとしても混乱した頭は動かない。そして俺の服は?

     呆然としている俺の横で、木村が起きあがり、
    「朝ごはん作りますね」
    と、のそのそと動き出す。
    「待て、木村、……説明しろ」
    「何のことですか?」
    「何って……全部だ、全部!」

     どうして俺は小さなシングルベッドで木村と一緒に寝ていたんだ。
     なんで裸なんだ。

    「え? 上野さん何も覚えてないんですか?」
    「覚えてるわけないだろう、おまえ、コーヒーに薬盛ったな」
     酒を飲んで意識を失くすならまだわかるが、俺はコーヒーを飲んだだけだぞ。朝まで気を失ってる状態がおかしすぎるだろうが!

    「やだなぁ。きっとお疲れで眠くなっただけですよ。服がしわになるといけないので、ちゃんと脱がしてかけておきました。僕って気が利くでしょ?」
     ……脱がされても運ばれても目覚めないほどの強い睡眠薬をどこで手に入れた?

    「……シャツまで脱がす必要ないだろ」
    「パジャマを着せようと思ったんですけど難しかったんで途中でやめました。って、何を焦ってるんですか? いいじゃないですか、同僚の部屋で寝泊まりするくらい、普通ですよ」
    「このまま出社しろって言うのか? 昨日と同じシャツとネクタイで」
    「あ、よかったら僕の貸しますよ」

     この時間じゃもうマンションに帰れない。
     かと言って同じ服で出社したら、HR特別部の人間としては仕事に差し障る。社員の生活の乱れを指摘できなくなる。


     仕方無く木村のシャツに袖を通してみたが、……小さい。
     ネクタイを見てみると、ん? ナイフ柄? ティラノサウルス柄? パンダ柄? UFO柄? なんだこれは、まともな柄のタイがないじゃないか。
     これは、無理。
     これなら同じ服で出社した方がマシか。
     いや、昨日と同じ服で出社しようが木村に服を借りて出社しようが、どっちみちアウトだ。
     昨日、俺にしがみついていた木村の姿を見た社員は大勢いるはずだ。それにHR特別部内では木村が俺に告白してることも知られてしまっている。誤解される要素山盛りだ。

    「家に帰る」
     俺は急いで自分の服を着ると、パジャマ姿の木村が呆然とするのを無視してヤツの部屋を出た。
     マンションには戻れないが実家に寄って出社する。実家なら支社に近いのでシャワーを浴びる時間も取れるだろう。
     木村の謀略には絶対にのらないぞ。


    (2)
     それは長い長い一日となる、火曜日の始まりだった。
     俺上野紘一(うえのこういち)は、朝からのっぴきならない事情で実家に駆け込んだ。
    「朝からなにごと?」
     食事の支度をしていた母は、突然の息子の帰宅に驚き慌てていた。
     妹の上野美羽(うえのみわ)は久芳連(くぼうれん)の兄である久芳賢(くぼうけん)と一緒に住むと言って引っ越してしまったため、今実家には父と母がいるだけ。のんびりした夫婦の朝に、息子の帰宅は迷惑でしかない。わかっているが仕方ない。
     両親の詮索には応対せず、勝手にシャワーを浴びて服を着替える。
     父の新品のワイシャツとネクタイを借りて、礼もそこそこに会社に向かうため家を飛び出した。
     今何時だ。
     左腕を見て気が付いた。時計が無い。
     しまった、木村奏翔(きむらかなと)の部屋に忘れて来た……。いや、忘れて来たというよりも、木村に隠されたな。時計を返してほしければ、また部屋に来いとでもいうつもりか。

     スマートフォンで時間を確かめると八時半だった。
     実家から支社までは徒歩で約二十分、ギリだな。だがタクシーで会社に乗りつけるのもアレだし、ここは平静を装って普通に歩いていこう。


     職場に着くと殆どの社員は出社しており、当然木村も何事も無かったような顔をして椅子に座っていた。
     デスクで自販機のコーヒーを飲み一息つく。
     朝食を取りそこねたが、胃がムカついて食べられる気がしない。ゆうべ夏原夏(かはらなつ)と一緒に食べたオムライスがまだ残っているような気さえする。

     始業時間になり一旦頭の中をリセットして業務に集中しようとPCを立ち上げた時、背後で木村の声がした。
    「上野さーん」
     大きな声で俺を呼ぶ。さらにヤツはさほど広くもない部署の中を、走って俺のデスクまで来た。わざと目立つ態度を取っているとしか思えない。
    「上野さーん」
     木村は俺のデスクで更に大声で名を呼ぶ。まさに、『全員、ちゅうもーく!』状態だ。
     何だ。
     何を仕掛けてくるつもりだ、こいつ。

    「上野さん、今朝、僕の部屋に忘れていったでしょ、コレ」
     木村の言葉は一語一語皆によく聞こえるような明瞭な発音だった。
     そして手に握っていた俺の時計をデスクの上にカチャリと置く。
    「腕時計、持ってきましたよ」

     目の前には確かに俺の腕時計があった。

     問題は、 ”今朝” という所を強調して言ったことと、部屋で腕時計を外したという事実から想像できる関係性をアピールしているところだった。
     HR特別部の部員は課長も含めて皆、俺たち二人を凝視していた。

     なるほど。
     告白の次は、公認の関係になるつもりなんだな。
     童顔で純情そうに見えるが、勝手に人の後をつけまわしたり、薬を盛ったり、やることがヤバすぎる。
     ……ホラーだ。


    (3)
     周囲でひそひそと話す声が聞える。
     そして木村奏翔(きむらかなと)はニッコリ微笑んでいる。内心計算通りと思っているんだろう。
     どうやって、この誤解を解けばいい?
     どう言ったら木村の行動のヤバさを伝えられる?
     俺の発言を言い訳と受け取られないで、皆の疑惑を取り除く方法はあるか?

    「上野君、ちょっと」
     いつも殆ど仕事をしない長谷課長が立ちあがって俺を呼ぶ。
     何か言われたら言い返す。俺は潔白なんだ。
     課長のデスクまで行くと背後から木村がゆっくりついて来る気配がした。
    「君は……、HRSの部員だという自覚はあ……」
    「自覚はありますし、私は何も問題を起こしていません」
     間髪入れず言い返したが、傍にいた木村も口を開いた。
    「上野さんだけの責任じゃないんです、叱るなら僕も一緒に……」
     どこまでも俺の反論を無効にするつもりか。
     課長が眉間に皺を寄せる。
    「仲が良いのはいいんだが……もしも、その、恋愛的な何かだとしたら褒められないというか、職務に差し障りが出……」
    「私はただ木村の話を聞いていただけで特別な付き合いでは全く無く、……」
    「許してください課長。僕らはお互いに相手を大切に想ってるだけです!」
     俺が何か言うたびに上書きして、相思相愛の関係を構築していく木村。
     わざと人の興味を掻き立てるような言い方をする。……仕方無い。

    「黙ってろ木村。後輩だと思って甘く見ていたがやり方が汚いぞ。嘘つくのはやめろ」
     課長の前で木村に怒鳴っていた。
     どんな状況でも冷静に対処する上野紘一(うえのこういち)が大声を出すのを見て、周囲の部員たちも驚いたようだった。誰一人動かない。
    「俺を陥れるつもりか、計算通りでさぞ気分がいいだろうな。もう今後木村の面倒をみるのは断る」
    「上野さん……」
    「上野君……」
    「上野……」
     その後、部内が水を打ったように静まり返った。

     静寂を破ったのは木村だった。
    「そんなんじゃないんですぅ、うわぁーん」
     ヤツが俺の腕にしがみついて泣き出すのを、力いっぱい突き放した。
     周りは完全に引いている。これがパワハラだと言われるなら、自分の正当性をどうやって主張しろと?
    「僕は、僕は、上野さんのことが好きなだけでぇー」
     嘘泣きかと思ったら、ちゃんと涙が流れていた。しかし全く同情の余地はない。
    「う、上野君、落ち着いて説明を……」
    「話があると言われて木村の部屋に行ったのは確かです」
     そこで薬を盛られて、朝気付いたら裸にされてて……とまでは言え無かった。恥ずかしすぎる。しかし……。

    「僕は添い寝がしてみたかっただけなんですぅー」
     木村が鼻水を垂らしながら言ったおかげで、よりリアルな ”一緒に布団に入って寝ている図” が、皆の脳裏によぎったであろうことは疑いようがない。

    「気付いたら朝だったというだけです。たまたま時計を忘れました。それだけで恋愛関係だと決めつけるのは辞めて下さい。そんな気持ちは一切ありません」

     全く、こんなしょーもないことを朝っぱらから説明させるHR特別部の体質に怒りがわく。

     しかし俺の反論も空しく、その日の昼にはこの ”HRS上野の初スキャンダル” が社内全体に拡散されてしまっていた。


    (4)
     同僚の部屋にたった一泊しただけで、どうしてこんなに悪い噂が広まるんだ。泊まったというより気を失ってただけだが、尾ひれがついて卑猥で具体的な内容になって社内中を駆け巡っているらしい。
     しかも本社の連中は俺上野紘一(うえのこういち)が久芳連(くぼうれん)と同居していたことも知っていたので、話題としては盛り上がるだろう。とっかえひっかえ付き合っていると思われても仕方無い。
     なぜ本社まで情報が共有されているか。
     俺はSNSを見ないが、会社の裏アカウントに俺の寝顔の写真がアップされているせいだと長谷課長から聞いた。しかも肩口まで写っているので、服を着ていないことがバレバレ。

     写真をアップしたのは木村奏翔(きむらかなと)で確定。ふてぶてしさと計画性が露見している。
     それで課長も少しは木村の言動を疑うようになった。
     見た目や態度が純情そうなせいで俺以外誰もヤツを責めないが、やっていることは名誉棄損だけでは済まないぞ。
     課長は木村を疑いながらも、俺の言うことも全てを信じてくれているわけでは無さそうだ。なぜ裸で寝ているんだという素朴な疑問だろうな。今度そこを追及されたら、一服盛られた事もバラすぞ。なりふり構っていられない。

     とはいえ、必死で本当のことを訴えても、社内中に広がったものを簡単に取り消すことなどできない。むしろスキャンダル隠しと保身のための嘘と捉えられかねない。
     ああ、甘かった。木村のお願いなど無視すればよかった。
     夏原夏(かはらなつ)を無防備だと思っていたが、俺も人の事を言えた義理じゃない。後悔してももう遅いんだが、慎重さが足りなかった。木村のヤバさに気付きながら、異動したての後輩というただその一点だけで簡単に気を許していた自分があった。

     ひとしきり反省しながら、昼休みは食事も取らずデスクでぼうっとしていた。
     すると、長谷課長が昼休憩から戻って来て、俺の傍にやってきた。
    「何も食べないのか? 体に悪いぞ」
     そう言ってコンビニおにぎりとお茶のペットボトルを、俺の目の前に置いた。
    「課長……」
     思わず情けなくなって課長の顔を見上げてから、頭を下げた。
     課長は俺の肩に手を置いて、不思議そうに尋ねる。
    「上野君は付き合っている女性がいるんじゃなかったの?」
    「はい」
     夏の存在があっても、この窮状は逃れられない。
    「とても綺麗なお嬢さんだと噂に聞いてるけれど、まだ結婚は考えないの? 早すぎるのかな?」
    「結婚?」
     考えたことも無い言葉に、俺は一瞬頭が真っ白になった。
    「いずれ本社行きが決まってる君だが、この先転勤もあるし、一緒にいられる時間は限られるだろう……? ……あ、しまったこういうことを聞くのはセクハラになるんだったな。すまん、すまん」
     そんなちっせーハラスメントよりもっと気にすることがありますよね、課長。木村が騒動を起こしてるんですよ? ヤツが騒ぎ立てなければこんな大炎上にはならなかった。まずヤツの口を塞ぐのがHR特別部の課長のすることじゃないですかね?

     俺も挑発に乗ってムキになりすぎた所はあるけど……。
     課長が結婚話を口にした理由が、その時想像できてしまった。要するにあっちこっちで手を出さずに一人の人に落ちついたらどうだと言いたいんだな。
     違う、あっちもこっちも手を出してない!
     夏に対してさえ何にもしてないぞ。手を握ったくらいの、…………ほんと俺何もしてないな。笑えてくる。

     結婚……て。俺には一生ムリな世界だろ。
     気楽な生活に慣れ過ぎている。
     でも、そうか……。そういう気ままな人生を見直すことも、この際、必要なのか……。


    (5)
     いや無理、絶対無理。
     上野紘一(うえのこういち)がケッコン? ありえない。


     HR特別部の部員たちがぞろぞろと食事から帰って来て、部内でなにやら固まって雑談している。
     その姿を横目で見ながら、俺は一人で課長がくれたお茶を飲んでいた。
     あまりにもヒソヒソと話すので、多分話題は俺のことだろうと察する。

     いや、待て、あいつらは……。いつもランキング情報で盛り上がっている面々だ。

     もしかして、夏原夏(かはらなつ)の話をしてるんじゃないだろうな。
     上野紘一はいろんな男と浮気し放題、という社内の認識だとすれば、夏に手を出しても構わないと勝手に思うヤツが出て来ても不思議じゃない。

     まさか……ちょっと考えすぎだよな。
     ただ雑談してる人間の塊を見て、そこまで考えるなんて俺も神経質すぎるな。

     そう思っていた矢先、木村奏翔(きむらかなと)がほかの部員たちと喋りながら帰って来た。
    「えー、それほど親しくないんじゃないですかぁ? 僕が見た感じだとおままごとやってる小学生みたいなカップルですよ、二人は」

     ちょっと待て、誰のことを話してるんだ。

    「全然、体の関係とか無さそうですよ。……え? 半年以上も付き合ってるんですか? そうは見えないなぁ。少なくとも、上野さんは女性に興味があるかどうか……」
    「ちょ、名前出すな」
     部員たちが慌てて木村の口を塞ぎ、俺の方を見る。
     しっかり目が合った。
     おいおいおい。
     木村、どの立場で俺と夏の関係を説明してるんだ。


     社内の裏アカがどんなに盛り上がっていても、事実を否定している限り俺が処分を受けるようなことはないだろう。今回の件はかなり腹が立ったが、それも最終的に俺が我慢してやり過ごすしか方法はない。
     広まった噂は回収できないからな。若干仕事がやりにくくなるのは困るが、この支社を離れる時はHR特別部とも切れる時だし、そうなれば、もう社員の生活態度を取り締まる必要もなくなる。あと三か月、それだけの辛抱だと思えばいい。
     しかしだ、夏の問題はちょっと違う。
     久芳連(くぼうれん)がどう考えているかわからないが、誰かが夏の彼氏でいなければ危険すぎる。
     まるでサバンナで迷子になったトムソンガゼルの赤ちゃんだ。周囲には肉食動物がいっぱいで助かる見込みはない。

     俺は確か ”同僚の犯罪を未然に防ぐ” という使命感で夏と付き合い始めた。
     今となっては、同僚には犯罪者しかいないということが十分わかった。
     木村がいい例だ。
     この部に染まると何をしても許されると錯覚してしまうんだ。

     まずい。夏に危害が及ぶのは時間の問題だ。
     守ってやらなくちゃ。
     誰が? 俺が? 連が?

     夏の笑顔が脳裏をよぎる。


    (6)
     俺上野紘一(うえのこういち)は立ちあがり、HR特別部のデスクから移動して支社の屋上に出た。
     そこには社員はいなかったが、清掃作業員が数名食事をしていた。
     それらの人たちから離れた場所でスマートフォンを取りだすと、連絡先から久芳連(くぼうれん)の名前を探し出した。
     しかし、そこで指は止まる。

     連になんて言うんだ。
     夏原夏(かはらなつ)を助けると思って一緒にいてやってくれ……と、敢えて身を引いた相手に頼むのか。
     いきなりそんなことを言われてあいつはどう思うだろう。優しい連のことだから、夏のためなら、そして俺の頼みなら考えてくれるのかもしれない。

     俺はどうするんだ。
     夏と別れてしまうことで、噂は本当だったと社員たちに思われるだろう。それでいいのか。大勢の社員たちがどう思うかは変えられないとして、木村の思い通りの展開になるのは耐えられない。
     それもこれも、本社に戻るまでの三か月の辛抱だが……。
     本当に三か月で戻してもらえるのか。それだって、確証はない。

     そして夏はどうなんだ。
     夏の嬉しそうな顔を見て……いや、ずっと前から彼女は俺だけしか見てないとわかっていた。
     再び別れを切りだせば、またあの大きな目を泣き腫らすことになるんだろうな。

     最近初めて危機感を持ったが、それは俺の中で夏の存在が必要になってきたという証じゃないのか。
     自分で気付いていなかっただけで、赤ちゃんガゼルに癒されていたんだろう。


     俺は夏にメールを打った。
    <突然で悪いが、今日、夏の部屋に行ってもいいか>
     昼休み時間も終わろうとしているが、夏からは即返事が届いた。
     俺が言うのもなんだが、メッセージならともかくメールにすぐに反応できるのは凄いと思う。
    <いいけど、何かあったの? 会社の帰りに来る? あんまり部屋片付いてないんだけど・・・>
     不安がっている様子が目に浮かぶ。
    <仕事が終わったら一旦マンションに帰って荷物を持ってからそっちへ行く。しばらく泊めてくれ>

     夏の部屋から会社へ通う。
     朝夕の出勤時も、部屋にいる時も、彼女の傍にいる。これで誰も手が出せないだろう。
     絶対に肉食獣たちを近寄らせない。

    <わかった>
     彼女からの返事は妙に短くて、それが逆に困惑しているせいだろうと推測できた。


     俺は定時の五時キッカリに仕事を終えると、すぐタクシーを捕まえ大急ぎで実家に向かった。朝とは事情が違うので歩いている余裕なんかない。
     家に着くと食事を勧める母にありがとうとだけ伝え、シャツとネクタイを返し、代わりに自分の部屋に残してあったTシャツをスーツの中に着た。
     急がないと。
     夏と離れている時間が怖くて仕方がない。
     ひどく焦っていた。

     親の車を借りようかと思ったが、俺と夏のマンション間を車で行き帰したとして、何時間かかるかわからないと思った。
     電車なら一時間ちょっとで最寄り駅到着。駅からバスで三十分ほどかかるがタクシーを使えば十分から十五分で部屋まで帰れる。実家に寄っていた分時間がかかっているが、トータル三時間くらいで夏の部屋に行ける。
     荷物といってもバッグ一つ分ほどだ。ここは確実な電車を使おう。

     六時半過ぎ、実家経由で自宅マンションに帰り着いた俺は、ドアに鍵を突っ込んだ瞬間、背後から声を掛けられた。

     久しぶりに聴いた声。
     久芳連だった。


    第3話 彼という人

    (1)
     火曜の昼休み、私夏原夏(かはらなつ)は昨日の帰り道の事を思い出してニヤニヤしていた。

     一応彼氏なんだけど、実際は何を考えているか全く読めない上野紘一(うえのこういち)が、感情をあらわにした瞬間が思い出される。
    『俺は夏と二人だけで食べたいんだ!』
     木村くんという、なんかやたら紘一にスキスキ光線を発している後輩に向かって言った言葉。
     それだけじゃなく、四宮現紀(しのみやげんき)と一緒に飲んでいたことがなぜかバレていて、その事を追及された後の紘一の発言が……
    『ただし、これからは男と二人で会うなら、俺に言ってからにしろ』
     コレコレコレ!
     すごくない?
     ほかの男に絶対私を取られたくない的な!

     こんなこと口にする人だとは正直思ってなかったです、ハイ。
     まぁ確かに最近妙に優しかったというか、彼女扱いしてくれてる雰囲気だけはあったけど、紘一って本心では何か別のことを考えてることが多いから、その態度を素直に受け取っていいのかどうかわかんない所があるでしょ?
     えへへへー、紘一、実は私のことちゃんと彼女として大事にしてくれてるじゃーん。
     ツンなとこは、彼の性格だから仕方無いけど、これからはもしかするとデレることもあるんじゃないかと想像しちゃう私です~うふふふー。

     そんなニヤケ顔を抑えられない私に、四宮が声をかけてきた。
    「なんかいい事でもあったんですか、夏原さん」
    「あったもあった、最高の気分なの~」
     私はもう、この幸せを人に言いたくて言いたくて仕方無かった。
    「あ、四宮くん、もう私と紘一のことは全然心配いらないからね」
    「すっごく順調だと?」
    「そう、すっごく順調なの~~」
     四宮くんが失恋したてだということも忘れて、私は液体になりそうなほどデスクで体をよじらせていた。
    「へぇー」
     彼の反応は当然ながら冷たい。
    「セックスでもしましたか」
    「セッ……」
     私は突如現実世界に引き戻されて、背筋がぞわっとなった。
    「そそそそそそそんな話してないもん。私と紘一はもっと精神的な繋がりを大切にしてて……」
    「なんだ、してないのか」
    「職場で、そそそそそんなセッ……セッ……みたいなスゴイ言葉使うの、や、やめてくれるかな」
    「相変わらず、赤ちゃんですね、夏原さんは」
    「赤ちゃんじゃないもん、私だって今までの彼氏とは何回もやってるもん!」

     四宮が黙って真顔で私の顔を見つめていた。
     彼だけじゃなく、その場にいた社員たちの強い視線も一斉に浴びた。誰もが無言……。

    「夏原さん、大胆発言はあまり大声で言わない方がいいですよ」
     確かに四宮の言うことは正しい。
     私は恥ずかしくなって、スマートフォンを握りしめ課の隅へ避難。


     もうすぐ休憩時間も終わるけど、ちょっと窓から紘一のいるビルを拝見。
     今日の帰りも、紘一、私が仕事を終える時間まで待っててくれるかな。一緒に帰れるかな。今ちょっとだけメールしても怒られないかな。
     スマートフォンの画面を見ながらメールを打とうかどうか悩んでいると、後ろから四宮の声がした。
    「まだメールとかやってるんですか?」
     ちょっと離れて立つその姿は、どこか私を監視してるよう。
    「う……だって、紘一ラインしないんだもん。突然電話とかすると絶対怒るし……」
    「そんな些細なことで怒るような人と、精神的な繋がりがどうとか言えるんですかねえ」
    「それは……」
     些細な事っていうけど、人には許せる事と許せない事があるじゃん。
     紘一は許せない事が人より少し多いっていうだけだよ。


    (2)
     そんな時、私のスマートフォンの画面に<メールが届いています>の文字が。
     やたらと広告メールが届くから、あまり期待しないで受信ボックスを開いてみると、上野紘一(うえのこういち)からのメールだった。
     えええ? 何、突然メール来るなんて、怖いんですけど。
     いーや、怖くない。最近優しいじゃん。
     でも、でもこっちが送ってないのに、紘一からメールがくる? やっぱ、怖くない?

     無題のメールには内容が数文字続いて見えていて、 <突然で悪いが、今日、夏の部屋……>  となっていた。  思わず開く前に深呼吸……。
     そんな私の緊張した態度は、当然四宮現紀(しのみやげんき)にも伝わっていた。
    「スマホガン見して、なに硬直してるんですか」
    「うるさい、黙ってて!」
     指が震える。

     紘一のメールは短い文章だった。
    <突然で悪いが、今日、夏の部屋に行ってもいいか>

     ガガーーン。
     何? 何の抜き打ち検査ですか?
     家宅捜索? 捜査令状はお持ちですか?
     私、怪しい植物は栽培してませんよ。違法薬物も隠してませんし、見たことも触ったこともないし、売買には無関係ですよ!!
     混乱の極致にありながら、指はさも自然な言葉を選んで返信する。
     するとすぐにまた彼からメールが届いた。
    <仕事が終わったら一旦マンションに帰って荷物を持ってからそっちへ行く。しばらく泊めてくれ>

     に、荷物を持って……しばらく泊まる?

     ハッ!
     私がイケナイ夢を見ているのがバレたのかな!!
     紘一の声が脳内で冷たく言い放つ。
    『夢ならバレないと思ったのか、あさはかだな』
     な、なんでもお見通しの神様ですか、あなたは!

     とりあえず、<わかった>とだけ返信して、呼吸を整えた。
     もう一度紘一のメールを読み返す。
    <仕事が終わったら一旦マンションに帰って荷物を持ってからそっちへ行く。しばらく泊めてくれ>
     目をぎゅっと閉じる。ヤバい、白衣を着てドアの前に立つ紘一の姿が瞼の裏に浮かんだ。
     きっと夜寝る時に頭にいっぱいコードを付けられて、脳波を調べられるに違いない。
     ど、どうしよう!

    「夏原さん、大丈夫ですか、なんか顔面蒼白ですけど」
     四宮の声も頭の上を素通りしていた。
    「何かあったんですか?」

     気付いた時には、四宮が傍にいて、メールの中身をしっかり読まれてしまっていた。
    「上野さんから?」
    「そ、そう、私、大丈夫かな。脳の中身を調べる器具って通販とかで買えるもんなの?」
    「何を言ってるんですか、落ち着いてください」
     冷や汗を垂らしている私を見て、四宮は呆れていた。


    (3)
    「メールって前後の言葉がないから、読んでも意味が分かりづれぇ」
     四宮現紀(しのみやげんき)はそう呟いて私のスマートフォンを取り上げ、遡ってメールを読み始めた。
    「すげーな、これならメッセージでよくないですか? こんな言葉数少ないならメールにする意味ないでしょ」
    「ちょ、ちょっと勝手に読まないでよ」
     確かに過去のメールは私に対して拒絶気味だったからしょうがないっていうか……。
    「しかも、日付かなりとんでる。やりとり少なっ! てか、夏原さんの送信履歴見たら、一方的にメール送りつけてるのがよくわかる」
    「いいの! ほっといてよ」
    「夏原さん、ほんとに上野さんと付き合ってるんですか?」
    「付き合ってるよ!」
     四宮は首をひねっていた。
    「このメールの印象から言うと、夏原さんが上野さんに勝手につきまとってるって感じ……」
    「ち、違う……っていうか、過去からすごく前進してるから今!」
     私はやっとのことで四宮からスマートフォンを奪い返した。

     四宮はうーんと唸って、不思議そうに呟いた。
    「今までのメールと、今日来たメール、全然中身が違いますよね。なんで急に部屋に来ることになったんですか?」
     それ、私が一番聞きたい。
    「さっき来たメールの『しばらく泊めてくれ』っていう言葉、変ですよね」
    「え?」
    「普通ならこういう書き方しませんよ。特に、”しばらく” っていうのが変。何かほとぼりがさめるまでっていうニュアンスが読み取れるなぁ……」
    「深く考えすぎじゃない? 紘一はなんていうか言葉がカタイっていうか……ちょっと泊めてって言いたいだけだと思うけど」
    「そうかなぁ」
     そんな会話をしているうちに昼休みは終わり、私たちは自分のデスクに戻った。


     脳波の検査に来るわけじゃないとしたら、紘一は一体何をしに私の部屋に泊まり込みに来るんだろう。
     春のお部屋キャンプ?
     なんて、そーゆー遊びをしようっていう人じゃないのは重々承知。
     普通に考えて……今のマンションは通勤が大変だから、支社にいる間は私の部屋から通うってことにしたとか?
     でも、それなら実家の方が会社に近いよね。実家でいいよね。なんで私の部屋?

     最近の紘一はやたら普通の彼氏っぽく普通に優しい。
     もしかして、もしかすると、こ、恋人としての絆を、ふ、深めるために、さらに一歩前進する関係っていうか、え、と、え、と、……ベッドでそっと抱き寄せ……
     だめだだめだ、夏、妄想しないって紘一と約束したじゃない!
     違う、紘一がそういうこと目当てで突然来るとか言うわけない。今まで八カ月と二十八日、好きと言われたこともないのに、キス通り越してセッ、セッ……クゥゥゥ……バカバカ、夏のバカ。なんで私妄想癖治らないの!?

     せめて好きって言ってくれてたら……こーゆーことも素直に喜べるのに……。

     四宮の言う通り、私の一方的な片想いみたいな恋愛だった。
     それに三月末には決定的に別れを切り出されたし、その後マンションまでおしかけて見事に追い返されたっていう、二度の拒絶があった後で急に優しくされても、その心変わりが私にはわからない。
     ただただ、冷たく接しても諦めない私を憐れんでいるのかもしれない。
     でも、どうして部屋に泊まるっていうことになるの?
     私鈍感だから、勘違いしてるだけなの?
     昨日の『ただし、これからは男と二人で会うなら、俺に言ってからにしろ』っていう言葉に浮かれてたけど、一応彼女だから節操をわきまえろっていうだけの言葉だったりして……。

     わからない、わからない。低反発クッションのように気分が凹んで元に戻らない。
     すごくいい気分だったちょっと前の私を返して!


    (4)
     時計を見れば、午後六時。お仕事も終わりの時間。
     窓から外を見て、昨日までのように上野紘一(うえのこういち)が横断歩道の脇で待っていてくれてるかどうかを確認したけど、今日は先に帰ったらしく彼の姿はない。
     マンションまで行ってうちまで来るとしたら結構時間かかるもんね。勤務時間は確か五時までらしいから、仕事終わってすぐ帰ったんだろう。
     理由はよくわからないけど、本気でうちに来るつもりなんだ。
     私もソッコー帰って部屋片付けないと……。

     タイムカードを押してカバンとジャケットを持ち、課を出てエレベーターの前に並んでいた。
     うちは残業する人はあまりいないから、この時間のエレベーターは混み合う。
     人の波に紛れ込んで、なんとなく緊張しながら帰る。

     ビルを出た所で、四宮現紀(しのみやげんき)に声を掛けられた。
    「夏原さん、ちょっと」
     四宮も同じ群に紛れてたか……。
     私は横断歩道の前で立ち止まってゆっくり振り返る。
     彼は私の隣に来て、当たり前のように言った。
    「上野さんいませんね、一緒に帰りましょう」
    「え?」

     私は「一緒に帰る?」と聞き返した。
    「そうです」
     四宮は無表情で答える。
    「あ……うん」
     今まで一緒に帰るなんてことはしなかったけど、まぁ同じ課なんだし、駅まで話しながら帰ることも無くはないか。今まで紘一に遠慮して声を掛けなかっただけなのかも。でもなんかやっぱり、不吉な予感。

     四宮はうちの会社の紙袋を持っていた。
    「ちょっと帰りにアライグマ薬局に寄りたいんですけど、ついてきてくれません?」
    「私が?」
    「そう、いかにも彼女っぽく」
     その設定、続いてたんだ。
    「嫌だなー」
    「そう言わずに、お願いしますよ」
     今日は早く帰りたいのになぁ。
     でもまぁ……藍田陽葵(あいだひなた)店長との関係が修復されたのか心配でもあるし同行するか。

    「でもさー、私と付き合ってるんじゃなくて、相手にされないっていう設定だったんじゃなかったっけ?」
    「ここは発展して、ちょっと後輩が気になってきた感じで、いいんじゃないですか」
    「無理……」
    「なんか、藍田店長に対抗意識剥き出しみたいなの、やってくれたら面白いですね」
    「やんないよ!」

     考えてみれば四宮現紀は、失恋したてな上に得意先とトラブル中という同情すべき立場だったなぁ。まぁ全部自業自得っちゃ自業自得なんだけど。
     私も自分のことばっかり考えてないで、ちょっとは同僚に優しくしてあげないと。


     駅の近くにあるアライグマ薬局与野川店に入っていく四宮。私は後に続くのをちょっとためらいながら、少し離れて中に入った。
    「店長、お疲れさまです」
     頭を下げて挨拶しながら、藍田に近づいていく四宮。棚の傍で商品を見ていた彼女は、その声に驚いて同じように頭を下げたけど、なんかちょっとギクシャクしてる。
     そして、彼女は私の事が視界に入ったようで、急に眉間にしわを寄せてムッとした表情になった。
    「こんな時間にご苦労さまです」
     冷たい言葉で四宮を迎える藍田。
     まさか店内で喧嘩はしないだろうけど……、やっぱり私がついてくるの良く無かったんじゃ……。


    (5)
     販促グッズ持ってきましたという四宮現紀(しのみやげんき)に、藍田陽葵(あいだひなた)店長は、
    「わかりました。ちょっと中で話しましょう。あ、夏原さんもご一緒に」
    と、店の奥の事務所に私夏原夏(かはらなつ)も一緒に招き入れた。
     そこでバトルか? 緊張気味に彼女を見てみたけど、なんとなくスルーされた。
     狭い部屋の応接セットに四宮と並んで座る。
     四宮は何を考えてるんだろう。トラブル抱えてる割には余裕の表情なんだけど。

    「いろいろすみませんでした」
     そう言ったのは藍田店長の方だった。

     彼女は私たちの前に座ると、目も合わさずに頭を下げた。
    「四宮さんには失礼な態度を取ってしまったと思ってます。今後は前の事は水に流して普通に対応してくださると嬉しいです」
    「勿論ですよ、気になさらないでください」
     四宮が上から目線で言う。もっと恐縮しなさい。藍田さんが一方的に悪いわけじゃないんだから。
     絶対今まで四宮が思わせぶりな態度を取ってたに違いないし、今日も私を連れて来たりして藍田さんにプレッシャーかけてるし、それで謝罪を勝ち取っても人としてどうなの?
     そして藍田店長は私を見て言った。
    「夏原さんという人がいるなら、もう私はでしゃばりません」
    「え、いえ、あの……」
     否定したい。したいけどできないというか、四宮はコレを狙っていたに違いないから。
    「幸せになってくださいね」
    「し、幸せに?」
     言葉が大袈裟すぎるんだけど、どうなってるの。
     すると四宮が満足気に笑いながら、私を見た。
    「夏原さんとは結婚前提でお付き合いするようになったと、店長にはお伝えしてあります」

     な、なに~~~。
     この大ウソつき! サイコパス! 保身の為なら何を言ってもいいと思ってるのかぁー!

     私はぎゅうっと手を握りしめ、四宮をタコ殴りにしたい気持ちを抑えるのに必死だった。
     だいたい日曜から火曜の間でそこまで急に交際が発展するかっ。
     そして、社内で変な噂が流れたらどうしてくれんの。
     私には大事な恋しい人がいるんだからね!


     アライグマ薬局を出て、駅へ向かう。
    「夏原さん、顔がものすごく不機嫌ですよ」
     押し黙っていた私に向かって四宮は平然とそう言った。
    「当たり前でしょ。こんなこと勝手にされたら誰だってムカつくわ」
    「そうですか、それは申し訳なかったですね」
     全然誠意が感じられない。
    「さて」
     四宮は難問クリアで心晴れ晴れという気分なのか、明るい顔で笑顔さえ浮かべている。
    「次は夏原さんの番ですね」
    「ハァ?」
     私は不機嫌さをそのままに、四宮を睨みつけた。
    「そんな怒んない、怒んない。これから夏原さんの幸せのために尽力しますよ」
    「何のこと? 何の話?」
     駅の改札を通り抜けてホームに向かっていたが、私は思わず足を止めた。
     四宮が少し前で立ち止まり、私を振り返って言う。
    「これから夏原さんの部屋について行きます」
    「え?! やめてよ、なんでついてくるの」
    「勿論、夏原さんの不幸せの元凶となってる上野さんとやり合うためです」
    「え」
     え。
     えええ。
     えええええーー!!!


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    「来なくていい、来なくていい!」
    「いや、俺もうスイッチ入っちゃってるんで」
     四宮現紀(しのみやげんき)、何のスイッチ入れてんのよ!

     私夏原夏(かはらなつ)は電車を待ちながら、ずっと傍を離れない四宮に不安以外の何物でもない感情を抱きながら、それでも周囲の人波を気にして反発できずにいた。
    「なんなのよ、紘一に何を言うつもり?」
     問いかけても四宮はニヤリと笑うだけ。
     怖い、怖すぎる、この後の展開……。
     ええーい、後をついてこないように女性専用車両に乗ってやる。……て、それは朝のラッシュ時しか運行してなかったなぁ。

     それでも私は電車に乗る時には、できるだけ四宮と離れる位置に進んだ。どうにかして彼を巻くことができないか考えていた。電車を降りたらダッシュするしかないな、とか。
     四宮と離れて運よく座席に座ることができた私は、ふと久芳連(くぼうれん)のことを思い出した。
     そうだ連にSOS送ろう!

     メッセージで上野紘一(うえのこういち)が部屋に来ることになったと、そして四宮に絡まれていると伝えた。
     そしたら連が返事をくれて、助けに来てくれるって!
     やった! 連、頼りになる~。優しい~。さすが親友~。

     でも待って。
     連も私を好きと言ってくれてるのに、紘一と顔を合わせたらどうなるんだろう。なんか気まずくなるんじゃない? 私、間違った方向に助けを求めてない? え、これどうしたらよかったの?
     そんな時、連から念押しのようなメッセージが届いた。
    <一応言っとくけど 四宮くんを部屋に入れちゃだめだよ>
     部屋までついてこられないようにしようとは思ってるけど、で、できるかな……。
     とりあえず<了解>と返事をして、スマートフォンをカバンにしまった。
     私の最寄り駅まで四駅で着いてしまうからもうそろそろ降りる用意をしないと。そして降りたらダッシュだ!


     ダッシュの甲斐も無く、すぐ四宮に見つけられ追い付かれた。
    「ついてこないで!」
     四宮は私に言われて諦めたのか、後をついてくるのをやめたようだった。
     少し離れてから後ろを見たがその姿は見えない。
     よかった、紘一と衝突とかされたら最悪だった……。

     しかし……。
     マンションに着いた私は愕然とした。
     すでに四宮がマンションの入口で私を待っていた。
    「タクシーでワンメーター。金曜に送り届けたんですから、マンションの場所くらい覚えてますよ」
    「何それ、待ち伏せとか。ス、ストーカーじゃん」
    「待ち伏せじゃなく、先回りです」
     同じ意味~~~!

    「さて、上野さんが来るの何時ですか」
    「知らないよ、遠いから遅くなるよ。紘一と何話すのか知らないけど、もう帰ってよ!」
    「ここまで来て帰るわけないじゃないですか」
     マンションの出入り口で話しながら、これは私、どうやって部屋に入ったらいいの? 入れないの?……と思い始めた。
     私が一人で入る、っていうのが難しい。後からついてくるに違いないし。彼を中にいれずに部屋の玄関であーだこーだと言い争いしたら近所迷惑というか、超恥さらし。でもなんとか早く部屋に帰って片付けをしたい~!

     四宮を追い払うのは、連が来てくれないと無理そう。
     早く来て、連。
     それまで、マンションの入口で……っていうのも住人や通行人に不審がられそうで困る。
     どうしたらいいんだぁ! 結局、四宮を部屋に入れないと収拾つかないんじゃ?
     それ、大丈夫?


    第4話 一同顔を合わせる

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